金カムを観て血が滾り、野田洋次郎と戦う話

生まれ変わったら山崎賢人の顔に生まれたい!!!!!!!!!(心の叫び)


愉快な後輩さん、素晴らしき先輩方と映画実写ゴールデンカムイを観てきました。まじでよかった。実写普段あんまり観ないけど違和感なく世界観が再現されていて、レベル高かったです。皆さんもぜひ。

映画中ずっとタイトルのことを考えてたので、ここで文字に起こしておこうと思う。

このゴールデンカムイという映画、時代背景は明治末期のようなのだが、(すみません軽く映画の内容にこのあと触れます)



映画自体は戦争のシーンから始まる。

(内容終)


映画が始まってまず思ったのは、「もし時代が違ったら自分も戦争に行ってたんだろうな」ということだった。

自分は、これから起こる戦争はともかく、過去に起きた戦争やそれらの事象に対して格別「間違い」だったり「恥ずべきこと」だという意識を持っているわけではない(怒られそう、ごめんなさい)。というのは、人生が自分自身の選択の結果であるように歴史とは全人類の選択の結果だと思っているからだ。どこかでボタンを掛け違えれば、必ず別の部分で綻びが見つかる。自分がまだ戦争に巻き込まれている可能性だってあったわけだが、過去の結果として今はなんとかそうなっていない、というだけの話だ。

ではなぜ今僕らは戦争をしていないのか?

歴史を学んだからに他ならない。想像を絶する悲劇の数々は少しだけ僕らを利口にしたし、ヒトには理性というものが備わっている。

そもそも戦争がどうして過ちなのか、個人の意見を言わせて貰えば勿論人がたくさん死んでしまうからだと思っている。しかし本当に怖いのは、当時は死ぬことすら誉になっていたということだ。

少し話が逸れるが、時代によって崇拝される正義というのは当然異なる。今歴史を学んだ僕らからすれば、「天皇様万歳」といって飛行機に乗り込み、また僕らより遥かに幼い子供たちが「白虎」などと呼ばれて英雄視されていたことには疑問符をつけざるを得ない。

しかし例えば自殺。日本では令和5年、20000人以上の人々が自殺している。これに対し日露戦争における戦死者数は約80000人。こんなもんかと言うこともできるし、こんなにかと言うこともできる。

以前電通のニュースで話題になったが、過労死だって日常茶飯事のように取り扱われる。100年後の僕らはもしかしたら会社に行って働くことに対し疑問を抱くのかもしれない。「死」は見方によってこれほど色を変えてしまうものなんだろう。

今の「当然」は未来にとっては「異常」と判断されるのかもしれない。

では現代の歪さはどうしたらいいのか。

過去と比較して是正を試みるしか自分には思いつかない。少なくとも過去を礎に人類は新しい生活を手にしてきた。そのためのツールとしての歴史であり、歴史とは言葉である。言葉とはすなわち国語であり、言葉を学ばなければそれは歴史を学べないことに繋がる。

以前RADWIMPSの野田洋次郎が、「漢文って教科ほんとに要る?」みたいなことを言っていた。正直この記事と話しているベクトルが少し違うので一概に反対賛成では分けられないところもあるが、僕はここまで言っているように漢文も歴史の一部だと思っている。だから学ぶことが0の成果とは思わない。戦うとか書いてて日和ったことしか言えてないぜ。情けねえ。

でもつまんないよね。分かります。覚えてらんないですあんなの。正直あんまり役に立ってない。だけれどこれは結果論だ。未来を見た気になった大人のエゴで簡単に変えていい問題ではない。以前の記事かまだ公開してない下書きか忘れちゃったけど、人生の成果というのは結果論でしかない、みたいなことを書いたと思う。あらゆる選択は確率の問題で、失敗する確率が高いからやめよう、と言ってやめた先の未来は大成功かもしれない。そういう意味で選んだ道を成功と捉えていく他ないと思っている。

でもこの論でいくと、「あるがままを受け入れよ」みたいな結論に落ちついちゃいそう。そうじゃない。正解に対してアプローチをし続けることが前提になっていなきゃいけない。

だから少なくとも戦争は起こしたくないし、死んでしまえばそこで正誤判決を出さざるを得ない。物理的な戦闘の中で息絶えることが本望であるかのような、そんな魂は残念ながら持ち合わせていない。歴史を学んできた自分はそう考えるようになった。だから漢文、あってもいいよね。でも入試には出さないでほしいな♡

こんな偉そうなことを言っていますが先輩方に寿司を奢ってもらいました。大変美味しゅうございました。

あんまりバンドと関係ない話をしたけど、息抜きということで、ばいなら。

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