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「運」との捉え方

 何を「運」と捉えるのだろうか。今回はそれを探っていこうと思う。
 私たち中学生、いや、小学生でも同じだが、始業式に分かるもの、いわゆる「クラス分け」がある。
 私たちに、誰と一緒のクラスになるか、とか、そういうものを決められる権利はない。だから、私たちにとっては「運」と言ってもいいのかもしれない。しかし、そのクラス分けを行っているのは、運命じゃない。人なのである。
 人には「思い」がある。その思いで決めているということは、つまり、「この人とこの人は同じにしよう」とか、「この生徒とこの先生はくっつけよう」とか、そういうのを考えている、ということになる。
 実際、クラス分けをどうやって行っているかなんて、生徒である私が知るわけがない。もしかしたら、「人」が決めているわけじゃないのかもしれないし、私の中で勘違いが生じているかもしれない。でも、もし本当に「この人は一緒にしよう」、「この先生と一緒にしよう」というのを考えながら、人の「思い」によって決めているとしたら、それは本当に、「運」と言っていいのだろうか。
 くじ引きは「運」である。あれは、自分が何をひくかわからない状況で引いたものが答えだからだ。しかし、私が考えるクラス分けの仕方は、考えている誰かがいる。
 つまり、「運」のとらえ方は、立場によって違うということである。先生が考えて決めるタイプの席替えの場合は、生徒からしたら「運」。でも、先生からしたら「運ではない」。その違いが「運」には生じているのかもしれない。そして、その違いに気づくと、今まで「運」と思っていたことも、「運ではない?」と思ってしまうのである。本当に運なのかどうかという点では、「運」と捉えるかどうかというのは、いろいろである。
 

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