「男もすなる」と言うけれど…

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」
紀貫之が著した『土佐日記』の有名な第一文である。

受験をつい数年前に経験した身としては、終止形に接続する伝聞・推定の助動詞「なり」(すなる)と連体形に接続する断定の助動詞「なり」(するなり)を識別する格好の例なんて覚え方をしていたりもするのだけれど、今思うと味気ない事この上ない。

それはさておき、貫之はどういった気持ちでこの日記を書いていたのだろう。この文の大意は「男がしているという日記ってものを、女の私もしてみようと思ってするのよ」といった具合。貫之は男性なので、女性を装ってこの日記を書いたことになる。

”女性のふり”である

貫之は心身の性が一致しなかったのか?そうだったのかもしれないが、文字史料による裏付けはない。
一般的に、男性は漢字を、女性はひらがなを用いるのが普通だという時代だったことから、男性としては吐露できない自分の内面や感情をさらけ出すのに女性を装ったと言われている。(間違っても日本最古のネカマなんて言ってはいけません)

しかし、『土佐日記』が貫之によって書かれたのは割合早くから周囲の知るところとなった様子…。優れた和歌の詠み手だった貫之、その文才が知らず知らずのうちに文章ににじみ出ていたのだろうか。
いずれにせよ、素性を隠す試みは失敗であった。

そもそも、貫之は本当に人目を忍ぶ意図があったのか。単に自分の内面を吐き出す場を設ける程度の意識だったとしたら…

私がnoteを始めた理由と同じ!

なんて畏れ多くて言えないけれど、気持ちや経験を整理する場を設けるのは重要だと最近考えた。なればこそ、多くの人がすなるnoteといふものを、してみむとてするなり。



…長すぎたかな?

〈参考文献〉
Antonin Ferré「女性仮託」の再検討 : 『土佐日記』におけるパロディーの精神に注目して(東京大学文学部国文学研究室『東京大学国文学論集』第14巻, p.21-35, 2019)

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