見出し画像

“親殺し”と“自己改革における王子様論”と名詞としてのwantの使い方が分からない話

一応使えるらしい。辞書によれば。
でもI don't know my favorite.でfavoriteを名詞に用いることで[私は私の欲しいものがわからない]になるのかな。
でもあえてこのイディオムにしたいとかあるよね。



1.ハイエナとか亡霊としての“のんちゃん”とかの話

じゃなくて、私は“のんちゃん”という母がまた明くる日と同じように私のものを奪いに来るのではないかと怖いのだ。未だに私のフリをして子供に成りすましているように。数年間の苦労の報いを掻っ攫ったように。嗚呼きっと今更になったって私の数年間は戻らないから、許せないままそうである現実を受け入れなくてはいけない。或いは、男に好かれたかった男が私を悪く言ったように。面識のない“あーりん”という幻想が私のフリをして私のものを奪い自分の汚点を押し付けるのではないかという嫌な幻想。だから私は下の名前が苦手だ、苦手だから普段は自分の名前を捨てている。彼女たちが救われているとき私はいつも闇の中だった、自分と同じとされているものが幸せならば幸せだろう?という事にしたいのが世の常だ。住民票からして別の人間なのに誰かのフリをさせられては私を剥奪される、サンドバッグにされるのを回避し続けた人生だった。それを無責任と呼ぶなら勝手にすればいい。“という嘘をついている”だなんて言って、世間が私を洗脳出来ると思っているんじゃないか。(もしかしたらかつて精神障害とされた人の中にもまともな人が居たのかもしれない、都合が悪いから、きっとそうだ私みたいに。)

私はあくる幼少期、親の出会い系メールの代筆をし、履歴書の代筆をし、褒められていたのは親だった。そんな事はありえないという、そういえば御前のような人間にこれが書けるわけないという印象が私の自信を奪っていったのを思い出す。
そうして親と子供の立場は入れ替わっていたのに私は毒親を毒親として扱えないんだろうか。
親に女として育てられた後、彼氏のふりをさせられた。別の日は養育費を引き出すために私ではない私になった。小さい頃から認められずに働いている、れっきとした経歴がある子役が羨ましい時代もあった。私は社会に埋もれるような黒い話しか持ち合わせていない。そうして、私の自己認識はおかしくなっている。
そう、自分を覆い隠すかのように……として扱われなかったのなら、いっそ   だったほうが幸せなんじゃないかと思えば、そうじゃない。
向こうも私も気を遣うなら居ないほうがマシだと思えた。男にも女にもなれなかった。どのみち漠然と許せないような感情が湧いた。

ミラーリング的なコミュニケーションは苦手だった、定型発達とは何かかつて問うた、「そんなんだから友達も彼氏もいないんだよ」そういった親は今頃何処かで幸せそうにしている。
そういう天真爛漫さは悲観的な誰かを犠牲にしているのにきっと、気付いてない。無邪気であることの猛毒性も。


2.アーキタイプ父性への憧憬と儀礼的親殺し

身内ではない父性に育てられたかった憧憬がある。私は親としてのアーキタイプを探していたのかもしれない。
それなのに親は親であるからこそ“のんちゃん”としての親の姿に自分の苦労を見出して庇わずには居られない。それが私を苦しめた。
私は“のんちゃん”を庇う人間をどうしても許すことが出来なかった。それこそが私を見捨てた証拠にすら思えてならなかった。
私は歳下が嫌いだ、私に甘えてきた親の姿を見出してしまうからだった。でももう、誰かに理想の父性すら見出だせなかった。
他者が私に望むことが後進の育成でもあることは分かっていて私はまだ私の望みの一つ拾えてもらえないのに他人の面倒を見ることなんかできないと思った。親殺しを果たした後に残るのは他の人と違って私だけそうせねば、誰にも望まれなかったという失望でもある。それをどうしたら納得させられるのだろう。

だから私はこれから不特定多数をもし食い物に出来たら乗り越えられるんじゃないかという嫌な幻想に囚われてしまうのだ。
でもそれは親のように成り果てることと同一にも思える。親殺しのように見えて親殺しではないのだ。それでも、誰か一人に好かれたくらいでは何かを奪いに来るような亡霊を振り切れないような気がしてならなかった。
それ自身が世間からしてみればはしたなく、なんの解決にもならないことは知っているのに、そうすることで剥奪された自信を取り戻せるんじゃないかという苦手なことに対する印象を抱かずにはいられなくて。

それだけではない、若い頃遊んでばかりで苦労しなかったから自分を不幸にした親を見ていた。でも私が何もかもを振り切ってやったことは他人からみれば恵まれてるらしい。恵まれてるように見えるから踏み躙られた。拾う人も居たけれど漠然と物足りなかった。そして、私からすればそうじゃない、何かを選んで失敗した私より何も選ばず苦労したかのように振る舞う“のんちゃん“のほうがよっぽど親戚から愛玩されお金に恵まれ豪遊していた。その親が“アヤカチャン”として苦労した分の幸せを享受するために60過ぎの親の負債を私に背負わされようとしている。だから私に“恵まれていたんだね”なんて誰かが言うのだ。
祖父の遺産を若い頃に散々食い散らかして自分を納得出来ない状況に追いやったのは自分なのだから自業自得としか思えなかった。
失敗したけど後悔はしていない、そういう意味で自分を選んだのだから半分だけ親殺しには成功している。

でもね、親殺しに成功したら今度は殺される側に回ってしまう。まだ何一つ自分に納得してないまま殺される側として戦わなければいけなくなる。
やり遂げたとは言い難くても、自分を少しでも納得させてから自分を楽にするためにそのうち殺してやろうと思った。
本当はすぐにでも死にたいくらい辛いけど。


2.5   真綿で首を絞めるみたいに苦しんでくれ頼むから

そして、こういう特別な不幸に泣けるみたいなお涙頂戴性を見出す人間がずっっっと大嫌いだった。嫌いだった。
多分自分がいかに幸せか自覚したくて他人の不幸で安心しているだけなのだ。

誰かを悪く言えば自分たちは幸せになる、そういうのと変わらない。


3.自己改革としての内在型王子様論

私は私の欲しいものがわからない。
私は私の王子様になりそこねた。

いつしかそれは誰かのために使われるようにもなった。私を自分の王子様代わりにした彼女は私を用済みにして別の男と幸せになった。
全部自分でやろうとすることが間違っている、そうと分かりながら自己救済としての何もかもを破壊する術を模索していた。
私は酷いやつらしいけれど、私は私のためでしかなかったことを見抜けなかったことを呪えばいいとすら思った。

かろうじて迎えに行き、辺鄙な場所に連れ出すことだけに成功した。

私の欲しいものが分からないから、馬鹿そうな女の好みを参考にしたところでまるでなんにもならない空虚さだけが残る。
ものを一つ選ぶことですら苦労する、苦労するから自らのキャラクター性を作り上げることでそれらしいものを選んだりする。昔はとりとめなくあったように思う。
いいや、本当は知っている。
そして、わからないというのも自己欺瞞で未だ誰にどう思われるかなんて他者から見る理想像に縛られて自分の望みを拾えずにいるからだ。
ただものとして残らないそれを私に買い与えることが出来なかったそれだけだった。女が欲しがるものだけで満足しきれない私を知っていて私は代替品だけで機嫌を取ってあげることしか出来ないなりそこないなのだ。(なりそこないスノーホワイトだんて予測変換候補に出たスマホにすらそう言われているようで、周囲が私に望むのはやはり失敗作なのかもしれないと思うと、望まれた成功例が嫌いだ。)

自分を知ることで認めてもらうことで誰かを認められるようになりたかった、でも千切り取られた自分の残骸を見ながら、自分を認めないやつのものを賛辞しなければならない認めなければならない現実が広がる。
まだ、私は私以外のものを認めることができないでいる、凄いとすら思えずに褒めることも出来ない。

それに、そのうち、私が男として自信を持てないから女としての自分も立ててあげられないことに気が付いた。私は私の3歩後ろを歩く女など御免だ。それだけでなく、そのうちホモソーシャル社会ですら自分が優れていると欠落を補うために自分を誇示したくなるような願望すらあった。多分認めてもらえたところでなりそこなったような劣等感は一生拭いきれないのだと思う。そうなれば獲得獲得獲得に固執してしまうような毎日だ、どれだけ自分が他人より優れているか。それでも足りない気がした。
誰かに迷惑をかけそうなことは内在で補った。
何処にでもいる女みたいに、見抜いてほしいなんて感情も拾えずにいるのは私が私として無理が祟っているせいであるのは明白だった。私という女がそんな待っているだけの浅ましさを持ち得ない事も分かっていて恐らく内在としての私に打ち勝たんと殺そうともしてくるんだろう。

或いは自身の王子様としての自分に、自己救済を望む女の奴隷に成り下がるものかという利己性すら芽生えていた。

多分かつて、本当は誰かが全てを破壊して連れ出してくれる幻想を抱いていたそういうのを待ちたかった、誰も来ない事なんて分かっていた。
分かっていて少し哀しかった。
そんなものはないから私自身が私をどうにかする他ないのだった。むしろそんなものに頼るなと私は自分を戒めた。

社会はお前のために回らないという、そうであるなら私とて社会のためには回らない。
それでも上手くいかなくてだからそれをどう私は許せないまま納得させるのだろう。


……誰かの問題に手を差し伸べたがる人も、私をかつて批判した人も単に自分の問題から目を背けたくてそうしているだけだ。
そうやって私を批判しながら、勝手にみんな幸せになっていく、だからこれで満足なんだろ。
周りに悪を作らなければ自己を救済出来ないだけだ、そのうちにあぶれた悪がより強固になれば社会は盤石だったからだ。
そうしてどちらにもなれず孤独に陥った私のために私は他者への望みを捨て、私に自己救済としての王子様論を求めたのだった。


4.〜結 雌男と男らしさとは 論?〜〜

余り男として振る舞う研究をしたところでそうは見えにくい体型でありながら、地味に女にも見えないという昔の言葉に傷付いている。

男になりそこなったけど女らしく見えるのは女ですか?多分まだ女だと言われることに嫌悪を覚えているのに、女の面を被った時に女に見えないと言われるのは、見た目の話なのか内在に見る男らしさの話なのか分からないでいる。
そういう意味では女として自信のある男には負けている。(なんだか矛盾をはらむ文章だ)(否定されずに済んだなんて羨ましいけど、物珍しいので昔お世辞で褒めたなぁと思い返せば私は敵に塩を送ったのだ、自分はこのザマなので世知辛い苦笑を禁じ得ない)(認められたいと思っていることは周りを気にしてないか?)

じゃなくて、

結果として男らしさに拘る事ほど女々しいことはないのだ。男らしさに固執して周りの目を気にするのはなんだか悪い意味での雌女に似ている。
男としてダサいという価値観は自分の女々しさを自覚している証拠なんじゃないのか?
どうあろうとするかを気にしない人間性に男らしさを私は見出しているのだと思う。

三島由紀夫が男らしさに固執したのも、幼少期の生い立ちのせいだったのだと思う。太宰が嫌いなのもきっと同族嫌悪にほかならなかった。
私もまた他人を通して自分を知る。


だから、もう気にするのはやめたいのに周りが私に追いつくとは思えないから、
自分がどう見えるかなんて考えるのはやめたいのに、

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?