見出し画像

【第一回】 じっくり古都古都 鬱旅行記 京都〜伊勢 4日目

謝って楽になろうとする人、自分が楽になるために謝る人そういうものを受け流しながら許せる日は来ないだろうなって思う。




1.案の定長すぎる前置き、私はくどいんだフンスフンス💨

lgbtqの問題もそうだけど誰かのために動ける人だからその人の趣味思考を許容できたのに、自分たちの幸せのために他人に危害を加えるなら私は……と思うのはあぶれた側にカウントしたからなんだろうな。なんだかんだ普通の人側にも、新勢力にも旧来のコミュニティにも馴染めない人生であった。

自分が有利な立場で誰かに好かれたかったというのは一生叶わない、自分が辛かった時期に楽しそうな人は全員許せない。漫画やアニメのバディ物が羨ましかった、或いは誰々のプロデュースで何かをしたものだとか、だから自分が欲しかったものをしている人間のする事は時々辛くて見れない。売り込むのが下手なだけで私は私で自分を確立出来る人間だからそういうものからは遠い。でも他の人から見てみれば何でも一人でそこそここなせることが羨ましく見えたりもするんだろう。隣の芝生は青くみえるそれだけだ。そのくせ二人組であるような人と戦わされるような事も多いわけだからなんだかそれがジワジワと私を蝕んでいく。かといって、私は自分と違うものを持つものと一緒にいると劣等感に苛まれて上手くいかないから孤独のうちに絶望から死に至るような未来しか思い付かない。

途端に何処にいればいいのか分からなくなる。

そうであるならそういうもの(=誰かの善性)のために自分なんか幾らでも汚れていいと思えたけど、そうじゃなくなった。というより疲れたのもあったのかそう思えなくなった。そして、はなから自分のことですらもどうにも出来なかったのに世間や家のしがらみに囚われてそういう自己欺瞞的な生き方に縛り付けていたのも私自身である。

だから自分も誰かのための道具や生きる事や色んな事から自由にしてあげてもいいんじゃないかと思える。
何も残らなくなってからそう思うならとっくに自由であることも同然なのに、今度は何もないことに囚われている気すらする。

自分の顔を立てろと言うくせに私の顔は立ててはくれない、私にとって男はいつもそうだった。でも女も女で自分が一番じゃないときに食わない。男にも女にもそういうやつがいるってだけだ。……譲ってばかりいれば今度は自分が擦り減る、そんなこと分かっていながら自分に何が残ってるんだろうとすら、自分が何者であるのかすら既に曖昧なのに。

また自分だけ幸せになれないような気すらして、何も持たない無知であるほど都合がいいから世間とやらが何も与えないなんて事実に気が付かないふりをする、蓋をする。
せめてすこしくらい世間とやらに悪戯が出来たらいいのに、いいな。

今度はガンダタじゃなくて糸を切る前の釈迦みたいな心境になる。


2.なんだかノスタルジックな匂いのする道を歩くこと数十分〜炎天下伊勢神宮外宮〜


向こう側に見えるのが休憩所


実はこの時財布をホテルに忘れた事に気づき少し焦る
お賽銭は諦めてそのまま参拝することにする
晴れてる
普段はそこまできっちりしないけども
鳥居の前で礼をする
質素といえば質素なんですが
古来からの伝統が残っているような気もして
物珍しい
何十年かに一度建て替えてるそうなので
技術の継承という視点から見れば
凄く現実的で理に適っている
自然豊か
左上変な写真とかじゃなくて普通に太陽光です
木陰から差し込む光というのは結構好き
直射日光が眩しいので
何処まで写真に写していいのか分からないので
自然ばかり写している
神聖かどうかはその人自身がどう思うかで変わる
んだろうけども、神聖な場所なので立入禁止区域
が多い、それが謎が謎を呼んでいる
待て、謎は謎だからいいんだ
建物の構造の意味が気になりすぎて木になる
そう、私が理論派のオカルトマニア

本日も相棒は例の日傘と忌わしき諸刃の剣である毒親から継承されしMCMの鞄。当初私はこのモノグラムロゴロゴしいのが苦手だった。もう仕方ない、慣れるしかなかった。これは仕方ない。
だって他にペットボトルと御朱印帳が入る鞄を持っていないのだから〜the end〜
場違い感が否めない、私のことはどうか逆柱的な参拝客だと思っていただきたく候。

3.アメリカか中国人向けのサイズ感のするカキ氷で小休憩と致す                                 〜ご当地グルメ赤福THE MOCHI〜

口が裂けても言えない、食べ物のサイズ小さくしてもええんやでなどとは。(出身県的にはいいんだばってな、とかなんだろうけど完全にネットに毒された結果の似非関西が定着してしまう)

さて、財布を取りにホテルに戻りそのままチェックアウトする荷物を預け再出発の前に涼む。

また、写真を撮り忘れて食べかけを写してしまう
だからお前は駄目なんだ
デブ活にしか他ならない断じて他ならないけども
事実としてのデブと私のデブは
雲泥の差があるので
余り言ってくれるな……。

人生苦いことだらけだから甘いものが美味しい、昔は嫌いな時期もあったのに今更になって美味しい甘いものだけ食べたくなるそして具合悪くなる、飲み物は苦い方がいい。

他人が私に期待するのは何かにおめでとうというだけの自分ってなんか切ないな。
報われた人と違って自分はなんか更地みたいな、壊されたあとに何かを怖がってる自分すら悟られずに他人から見て天才じゃなくなった私なんて必要ないのに凡人になんかしようとする、天才じゃなくなったら殺してくれとすら思う。

でも世間はそれが困るから私に才能のないゴミだなんて評価を誰かの特別のために貶されたりする。評価って凡人ほど与えられるから、そこに留まろうとする私はボンクラだ。

4.バスで揺られる事10数分伊勢神宮内宮〜周る順番合ってるはずSP〜

内心細けえことどうでもいいと思いつつ……。


くそでか鳥居
割と観光客多い
小銭とか落ちてる、途中にある川
神楽殿?中には入らなかった
あ、右上太陽光です
謎の空気感?というのは感じる
早朝のほうが神秘性とかはあるんだと思う
目立った観光地として何かを期待するより
遺跡巡りと似たような風情を楽しむもんだと思ってる
昔の人がどういう生活をしていたかとか


場所忘れる
ここが本質になるのかな?
白い布みたいなのが捲れる
あんまり個人的な願いもなかったので
座禅を組むみたいに何も考えず動作だけを済ませた
実はこの後別の場所で変な写真を
撮ってしまうのですが
騒いで載せるほど期待値高そうなやつでもないので
ひとまず載せるのやめときます
カメラとかの悪戯ということにして
鯉とかいる
派手さとかはないけど自然公園とかと似たような、
あまり人を誘いにくいので
一人で来るのが正解ではある

本当にあんまり願い事もなかった。
実はちょっと仕返ししたいみたいな雑念はあった。ありました。
国の繁栄とか家族のことも誰のことも思えなくて
祈るようなこともなくて、形だけだった。
別に願掛けみたいなもので祈ったからといって何かが変わるわけでもないだろう。
ただ、ここに長い時間置き去りにされるのは寂しいだろうなと自分を見るみたいに思った。

道すがら、
〜〜してくれなかったからクズだって誰かの言葉を時々思い出す、でも自分だって〇〇してもらえなかったのにって自分まで苦しくなるだろうからそれをしてあげなかったことに対して相手がどう思うかそんなの自分じゃどうにも出来ないんだなってそれだけ。

でもそのせいで悪く言われた自分の時間は戻ってこなくて、何も言われずに済んだ誰かを青く思ったりするんだろう。
ブスだクズだなんだって批判するのは簡単で、そんなの分かりきってるのに自分がそう言われると苦しくなって代わりに誰かを批判せずにはいられなくなる。言い返してしまった分だけ自分に返ってくるのにどうにも我慢できなくなってしまって口汚くなる。もっと聞こえなかったフリ出来たらな他人に無関心に慣れたら惑わされなくて傷付かない言い返すこともない。甘えてきた恵まれてたんだねなんてその人からは分からなくて私からは他人が甘えてきたり恵まれてたように思う。
そう、言われてしまうと途端に自分より恵まれてる人が可視化されて自分まで誰かの事を妬ましいと思ってしまう。自分が批判されて苦しいなら思うべきではないのに、自分があの立場だったら出来たことの一つや2つあっただろうって。
〇〇ちゃんは努力してきたって擁護されてるのを見ると自分の努力が否定されたように感じる。自分ばかりなんて思ったらまた誰かに苛々するだなんて自分でもどうにも出来ない感情を制限されるのにね。

そうやってまるでいい子みたいに、物分りがいい私を私は嫌っている。嫌っているから罵り返すのに反論すると疲れてしまう。
褒められなくてもそうしてきたから、褒められないと出来ない人を見下してしまう。

こんな事を考えて明日が変わるわけでもないのに言い聞かせるみたいに自分を整理するのがなんだか誰かにとってまるで都合のいい人みたい。
もっと我儘になってそれを許される人ならよかったのに、逆算的な我儘だから満たされないのかな

5.帰路に着く〜甘えてるのは君だ編〜


ノスタルジック
な駅舎

そうやって色々考えながら、自分が努力と思ってるものが他人にとっての努力とは限らなくて、あたかも自分が苦労してきたから他人にも同じ苦労を押し付けようとする人も居る。単に誰かの苦労を認めたくないだけなんじゃないのか?
私は待ってるだけじゃなくてちゃんと自分を迎えに行こうとしたのに王子様にはなれなかったけど、ちゃんとしてなんてちゃんとしてないやつが私に言う。そうやって自分の救いを他人に願ったやつが私を踏み躙った。それでも救われた人は文句を言う。釈迦みたいには悟れない、悟れないから他人に迷惑をかけて旅に出た。
なんにも変わんなかった変わんなかったけど、文字数は多くなった。

親から親の責任を押し付けられて、親は親の仕事をしなかった。子供と親を入れ替えて罪だけを私に償わせる。親戚は親だけを可愛がってた。そのうち子供(私)のフリをして私が苦労してきた分の取り分だけを掻っ攫った。そして私には60すぎの親の演技をしろだなんてするわけないだろ。虐待されたのは私なのに虐待の責任を取るわけ無いだろ。ある意味では家がなく、ある意味では子供時代がなかった。でも親のせいにすることは批判される。
だから死ねと言われても私みたいな不幸を繰り返さないために倫理観を盾にしながら「生まれてこなきゃよかった」って言葉にするために生きてるうちは反出生でいようと思った。そう思うことが禁止されることが不幸だ。幸せだと思える日が来ても生きてるうちは反出生だ、だって苦しかった事は苦しかったまま過去に残る。
こんなの哲学と同じだ、批判される筋合いもない、そう思いながら今日まで来た私のほうが素直に人生に感謝出来る人よりずっと強い。
それだけは今日も明日も変わらない。

そうあろうとした人の感情なんて知りもしないで、批判する。私からはとっくにその人達が救われてるようにみえるのに。幸せだよね?
自分が言い返した分だけなかったことにして他人の言葉が罵詈雑言がそっくりそのまま自分に返ることを祈ってます。

甘えてるのは君だ。


そして、自分に優しくない言葉をシャットダウンするために無関心を批判されても無関心でいようと思った。 
かつて誰かが私に無関心だったように。

おかげ横丁には寄れなかった、また機会があればいつか行ってみる。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?