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歌にみる創価学会の歴史 戸田城聖の時代

2023年11月15日、創価学会名誉会長 池田大作氏が死去。
池田氏は1960年の学会3代会長就任より半世紀以上にわたり公称872万世帯の会員数を擁し圧倒的な社会への影響力を今も持ち続ける学会の躍進を第一線に立ち続け鼓舞してきた。

そんな学会も組織は十分な官僚化が進んでおり、池田氏が公の場に姿を表さなくとも学会員の信仰は直接、組織としての学会を確固たるものにし続け、現会長 6代目の原田稔氏の実務的な組織運営下でも揺るぎない。

そんな学会を語る上ではやはり歌、『学会歌』が重要な役割を果たしたと言える。学会の基本となる座談会や会合においては最後に必ず学会歌が流され、参加者の前で男子部の青年が金扇子を構え、青ネクタイ姿で拍子をとり、それを囲む形で学会員たちが座り手拍子をとる。座談会や会合は『歌』によって生み出される学会員同士の一体感と結束を感じ取り、または再確認の場であると言える。

(私は学会員ではなく、今まで座談会や会合に参加したことは勿論、題目を唱えたこともない程です。おそらく多くの間違いがあると思われますので、その際はご指摘頂けますと幸いです。)

ただこのような形式の原型を考えた場合にはやはり、創価学会の原点から遡る必要に迫られる。
そこで今回は、現代の創価学会の礎を築いた戸田城聖氏の時代の学会歌からプチプチ考察をしてみようと思う。

戸田城聖時代の学会歌

創価学会第2代会長 戸田城聖

戸田城聖氏の時代を代表する学会歌といえば、
『同志の歌』『学会健児(日本男子)の歌』『威風堂々の歌』であり、これらの特徴なんといっても、勇ましい軍歌調であることだ。

1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖が創価学会第2代会長に就任した。戸田は就任挨拶の中で、自分の存命中に75万世帯を創価学会に入信させるとの拡大目標を打ち出した。当時の創価学会はまだ会員数3,000世帯程度の日蓮正宗内でも小さな講中で、挨拶を聞いた当時の創価学会幹部は「75万世帯などとは途方もない数字だ」と述べるなど、達成できるとは到底信じられなかったいう。

「折伏大行進」(2024年4月1日(月)3:58 JST版)『Wikipedia日本語版』。

終戦直後の日本社会において戸田城聖氏は、治安維持法違反によって自らも投獄され、大打撃を被った学会の再建と日蓮仏法の広宣流布を実践し「折伏大行進」にたつ。
その際に上位下達型の軍隊式の組織固めを指揮するための軍歌調の曲が必要とやったことは容易に予想がつく。
だが当時の50年代当時の学会が自ら作曲をするまでの資金も時間もがなかったのだろう。
上記の3つの曲それぞれ様々なところから曲を拝借しているが、どれも軍歌調である。


1.『同志の歌』は旧制第三高校(現在の京都大学、岡山大学医学部)寮歌『行春哀歌』(作詞:矢野禾積、作曲:小川昇)そのままのメロディである。(学会公式としては作曲は不詳としている)

2.『学会健児の歌』は旧日本軍軍歌『戦陣訓の歌』が使われており、なんなら前半部分の歌詞も同じである。(一応学会は仏教団体であるテイをとっているはずだが一番の「御国に薫れ桜花」という歌詞はどうにかならなかったのか)

3.『威風堂々の歌』は元はといえば京都の学会支部にて非公式的に作られたものが、学会全体に広まったようである。今では世間で一番知られている学会歌だろう。
元の曲はコレまた旧日本軍歌である『愛馬とともに』上記の『学会健児の歌』と比べたらすぐにわかるが歌詞が丸っきり原曲と違い、文面だけでは"軍国"は感じられない。....が、
元々は京都の学会の"地区"歌として制作され、その後に"支部歌"と格上げされていった....
この曲の歌詞について、京都という特別な地、つまりは日蓮仏法において
「邪宗」とされているその他仏教諸宗派の寺院が数多くあり、歌詞中の「北山南河は邪宗の都」とある通り、穏健な内容ではないのがこの戸田城聖時代を表しているのだろう。
それに、やはり曲調は軍歌そのものである。

上の3曲を挙げてみて、特に『学会健児の歌』と『威風堂々の歌』からは、やはり学会の「右翼的な側面」を考えてしまう。
創価学会の信仰の柱である日蓮仏法と、国家主義は戦前右翼運動とも緊密な関係をもち「日蓮主義」と体系化し、右翼運動や思想運動に少なくない影響を与えた。
田中智学はじめ、井上日召や北一輝、石原莞爾等国家主義的思想家はもろにである。
これは創価学会に限らず日蓮系諸集団にも言えることだが、日蓮自身の三大請願の「我日本の柱とならん」からわかる通りにじゅうぶんに国粋主義の要素を孕んでいるのである。
創価学会初代会長牧口常三郎氏も日蓮正宗入信前に国柱会の講演に通った記録もあるし、なにより戦時中に治安維持法及び不敬罪の容疑で逮捕、戸田城聖氏ほか学会幹部21名が検挙されるなどの弾圧を受けてはいるが、牧口常三郎氏はじめ少なくとも戸田城聖氏含めた学会幹部は国家神道と戦争には反対していなかったことが大きい。
冒頭で述べた、座談会や会合において最後に軍歌調の(上記のような歌)を歌う恒例となっている行事は、実のところ戦時中に学会の会合の最後に戦勝祈願を願って軍歌を歌った名残りである。また、日蓮正宗(学会)の信仰を戦争の勝利への道筋と説いたのは旧版の戸田城聖氏による『人間革命』にも見られる。
そういう面からも「折伏大行進」の際の上位下達型の組織づくりというのも、実用的な面と同時に旧日本軍の権威を利用する意図が同時にあったと推測できる。

ただその中でも目立つのは
上で挙げた2番目の曲、『学会健児の歌』だ
原曲の『戦陣訓の歌』では
「皇師に向かう 敵在らじ」
が『学会健児の歌』では
「聖師に向かう 敵在らじ」
と戦時中の"天皇に仕える大日本帝国軍隊"の権威と戸田城聖氏とをすり替えているのである。

学会は形式的には一宗派の信徒団体の一つであるが、実質的に学会員は学会の中で信仰が完結するような構造になっていたというのもあるのだろう。
そうであっても、この『学会健児の歌』が学会から発表された50年代の時点でも日蓮正宗の"イチ信徒団体"の指導者がそれほどまでの威光を振っているたことは改めて見てもイビツであると思う。
この段階これからの学会「会長(名誉会長)職」の地位が絶対的(かつカリスマ的)なものであるとが確定していたのだろう。

戸田城聖氏が「会長」の時代、50年代は日本中が「貧病争」の渦中にあっただけに、時代感とマッチした軍隊組織は成功し、日蓮正宗信徒3000世帯のうちのさらに小さい組織であっあ学会は7年ほどで75万世帯を達成したのである。

こののち戸田城聖氏は急逝、「折伏大行進」による広宣流布のバトンは当時32歳の池田大作氏が受け継いだ。前会長の気付きあげた学会とその権威についた彼はまた、戸田城聖氏とは違った特徴をもっていた....


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