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私が幸せに生きることで子が幸せを知る


子どもにどんな大人になってほしいか、
考えたことはありますか?

お腹に命を宿したと分かったとき
ただただ無事産まれてきてほしいと願い、

無事産まれた今は
まとめて寝てほしい、離乳食たくさん食べてほしい、今は泣かないで、泣き止んで…

きっともう少し大きくなれば
早く起きてほしい、お友だちと仲良くしてほしい、宿題はちゃんとやってね、先生の言うこと聞いてね、希望する高校や大学に行ってほしい、ちゃんと就職してほしい、素敵な人と結婚してほしいな…


最初はただ無事産まれてきてほしかっただけなのに、私の願いはいつ尽きるのだろう。


『子どもへの期待は自分への期待』
何度聞いてもハッとさせられます。


今のわたしは、未来ばかりの1才の子どもの7000日後をどんな壮大なことでも望んでしまう。それはきっと子の幸せを願う故。

そして「自分にも願っていることなんだよ」と教えてもらい、確かにと納得し、それが自分に足りていないことだと気づく。


“子どものため”と思い考えるずっと未来の願い・期待は、自分への願い・期待でもあった、さらにそれが私自身に不足していることだったと気づいたとき、私はなんてエゴなのだろうと省みる。



職場で自分のことを棚に上げて要求ばかりしてくる上司がいたらちょっと嫌。それに「あなたのためなのよ」なんて言われた日にはムッとしちゃいそう。



それが上司でなく親であっても同じなのではないでしょうか。これまでの人生をふりかえり、親に「あなたのため」と言われ、愛情は感じても腑に落ちないことって何度もありました。
心のどこかで「それはあなたの願いでしょう?」と思っていたからでしょうか。


子どもは目に見えないとそれがどんなものなのか分からないのに、‘’幸せ”は目に見えません。
「これが幸せだよ」と手渡すことが出来たらいいのに、出来ないからこそ体現して見せることで教えることなく知ることができるのだそう。

つまり、大人がそう生きる必要があるのです。

そして冒頭書いたように、親の日々の願いは小さくいつまでも尽きません。私はたった1日を生きるだけでも色んなことを1歳児に願ってしまいます。(早くご飯食べて…もっとゆっくりお昼寝していいのに…)

でも結局最終的な願い(どんな大人になってほしいか)さえ叶えられたらオールオッケー。
それで幸せなんだもん。 

そんなこと分かっていても理想論、忘れちゃうのが私たち感情のある人間、目の前の問題には立ち向かわずにはいられません。だから時々、私はどこへ向かいたいんだっけ?と思い出すだけでいいんです。あ、そっちだったね、と軌道修正できるから。

子どもに求め、期待ばかりし続けた時、その子が自分の人生を歩みだしたら私には何が残るのだろう。



私が幸せに生きることで子が幸せを知る。
これってすごく幸せなのでは?


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