見出し画像

92歳 三石巌のどうぞお先に 1 

三石巌が1994年から産経新聞に掲載していた「92歳 三石巌のどうぞお先に」の記事を掲載させたいただきます。(全49回)


徴兵検査

 

“父の恩”で不合格に


 ボクのわかいときの日本は今よりひどいものだった。好戦国として外国からきらわれていた。戦争をやって金や領土をぶんどることの味をしめていたってことなんだろう。兵役は国民の義務だった。

 そのころ成人の日はなかったが徴兵検査の日はあった。その日、二十歳の男子はのこらずしかるべき役所によびだされたもんだ。ボクのばあいは区役所だった。おさだまりの身長、体重、視力などの項目がすむと、全員すっぱだかにされた。そのまま国家権力執行者のまえにいかされる。かれは軍服をきて椅子にこしかけているんだ。かっこうがついている。

 かれは若者の下垂体をにぎる。殺生与奪の権をにぎって人権無視の思想をうえつけるつもりだろう。

かれはしばし書類に目をやって解放のサインをだした。合格不合格はここできまったようだ。

 ボクが学生服をきると、ぶあいそうな中年男が「第二乙種合格」としるしたほそながい紙きれをくれた。

これは一九二二年、第一次世界大戦がすんで軍縮の時代のことだった。そのせいで、第二乙種合格は不合格をいみしていた。ボンヤリ者のボクでもそのくらいのことは知っていた。

 この徴兵検査におちたことは、おそらくボクの一生にとってなにより重大なできごとだった。おかげでボクは、いちども兵営の門をくぐることがなかった。第二次世界大戦にかりだされて無念の死をとげることもなかった。

 むかしは「父母の恩は山より高く海より深し」なんていうことばがあった。ボクの目は父親ゆずりでわるい。そのおかげで徴兵検査におちたわけだとおもえば、これは父の恩ってことになる。だが、その時点ではこんな殊勝なかんがえはうかばなかった。男兄弟が三人ともこのいみで父の恩をうけたんだからたいしたもんだ。それは山よりも高く海よりも深いといっていいだろう。

 この父の恩は、兵役をのがれさせたばかりじゃない。「どうぞ、お先に」なんて軽口をたたかせる心境になったのも、ボクのわるい目のしわざだったんだな。

三石理論研究所


三石巌
1901年 東京都出身
東京大学理学部物理学科、同工学部大学院卒。
日大、慶大、武蔵大、津田塾大、清泉女子大の教授を歴任。
理科全般にわたる教科書や子供の科学読み物から専門書にいたる著作は300冊余。
1982年 81歳の時、自身の栄養学を実践するために起業を決意し、株式会社メグビーを設立。
1997年 95歳で亡くなるまで講演・執筆活動による啓発につとめ、
生涯現役を全うした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?