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推しの髪は青空

 素敵なエッセイブログを読んで、私も何かしら心情を綴ってみたくなった。
 これまで小説を何百万字と書いてきたけれど、ノンフィクション、しかも自分の思いについてはSNSでの短文投稿に限られている。しかもその内容は、ほとんどが特段の思想がないいわゆる「小鳥のさえずり」だ。
 だから憧れてはいても何をどうアウトプットしたらよいか、そこからもうわからずにいたら敬愛する方々のおひとりからテーマをいただいた。
 「2023年を、色で振り返る」。
 そういえば私は仕事でも、何らかの枠組みを与えられた中で裁量を振るう形が一番やりやすい。ありがたく参考にして書き進めていこう。

 三色あげるとすれば、いの一番はやはり「スカイブルー」だろうか。
 ここ数年来ずっと夢中になっている、とあるゲームキャラクターのイメージカラーだ。公式にはサファイアとかネオンブルーとされているのかもしれないが、私の中では明度も彩度も高めの水色を「推し色」と認識している。
 鮫を思わせる歯並びと藍色に染まった唇を持つ、美しくも現実離れした容姿の青年。時に哀しいほど聡明で理性的な頭脳、なのに自身への評価に低めのバイアスがかかり、論理的な一方で非常に愛情深い性質を持つ彼を推して推して推しまくった一年だった。
 ゲーム内では主人公枠ではない彼をメインに据えた二次小説を書き、本の形にして対面でもオンライン上でも頒布した。未だ語られていない部分に思いを巡らせ、他所様の解釈や表現も貪欲に摂取して妄想を補強した。もちろん、公式から新たな情報がもたらされれば両手で余さず掬いにいった。
 青い炎となって燃える髪を持つ幻想的な設定は、インスパイア先のキャラクターに倣ったと同時にチェレンコフ放射光もイメージしているのだろう。魔法使いや妖精が跋扈する世界で、彼は科学技術の申し子という立ち位置だ。
 けれど私はいつも、その髪を空の色のように感じながら好ましく見ている。ふさわしくも思える、天空の青は人類が古来より憧れ続けて、けれど決して手の内に捉えることができないものだから。
 この世界には人の身では感知することの叶わない「本質」があるという。古代ギリシャ哲学での考え方だが、それを指す言葉と同じ意味を持つ名前も象徴的だ。
 指先で触れ、耳に聞き、目で見て舌に味わい鼻で嗅ぎ知る現象と似ていて、しかし絶対的に上位で完璧な万象。実際に「現実の向こう側」に存在するのかなどわからないが、人間がそういったものを精神的に求める気持ちはごく自然なことだろうと思う。
 弱くて、儚くて、少しばかり知恵に秀でているだけで単体では他の動物と対峙するのもやっとなのが私たちという生き物だ。大きな群れという命の一部として埋没しきれればまだ浅く済む「己の存在が揺らぐ恐怖感」を、発達した自我や想像力は時に強烈に個人へと突きつけてくる。耐えられず自己破壊の衝動に駆られてしまうような、生命としては喜ばしくない事態を防ぐためにきっと人は、人の本能は理想を心に描く。
 「圧倒的に強く正しい万能な何かが世界にはある」――一定の条件下では神と呼称されるだろう概念で、多くの人類が自分の脆弱な部分を補強して生きてきた。
 しかし私は祈る先の名前を持たない。神社仏閣、聖堂や堂々たる巨木等に向き合えばおのずと手を合わせるし、その時に胸に去来する畏怖や崇敬の念はまがいものではないはずだが、ついぞ何か規定の宗派が説く物語に心身を委ねることがないままできた。きっとこれからも同じではないかという予感がする。
 だから私にとって、「推し」は神や理想の別名なのかもしれない。
 そんな大がかりな言葉ではなくても、例えば「憧れ」などでもしっくりくるだろうか。
 凡夫などでは想像もつかないことをやってのけるひと。
 同じ場所まで辿り着けなくとも、こちらが目指す先だよと遠くで輝いていてくれるひと。
 絶えず万物が流転する世界で、永遠という幻を一瞬でも信じさせてくれるひと。
 可能性という希望の光は、目に見えるのに決して手が届かない空の色に似ている。似ていて欲しい、と思う。夢見て追い求めて、やっと掴んだ憧れが無惨に色褪せた経験からの、これは勝手な私の願いだけれど。
 たとえどれほどの高みに登れたとしても、能力には当然ながら限界がある。愚かさも狡さも、醜さも確かな人間の一部で切り離すことなどできない。他人を、自分を愛するのならそれら一切を含めて抱き留める覚悟が必要で、実際に行動に移せば涙が流れるほどあたたかい一方で時に痛みも伴う。温もりをしっかりと抱えたまま辛さだけをひっそりと流す先が誰にしも必要だし、私にとっては遥かな青空を仰ぎ見る時間がそうなのだ。
 アンバランスに不完全さを内包しつつ、あれほど強く美しくある彼の髪の色。
 現実を生きる存在に高すぎる理想を託すのは酷なことだ。信仰に似て、一定以上の期待は精神の強い依存だと感じてしまえばなおさら躊躇する、自分も相手も傷ついて終わる未来しか見えない。
 遠い後の世に現れる救い主だとか真理だとか、イデアだとか。古今東西様々な文化文明の中で求められてきた存在や概念はたぶんそのためにある。触れて確かめることすらできないから人々は心おきなく縋れる、叶わなければ裏切られることもない、いつまでもきれいな希望の灯は消えない。
 それに、いつか自分が生きたささやかな痕跡の一切が地上から消え去ってしまった後にも、憧れた空に変わらず虹がかかると想像できることは、ある種の人間にとっては無上の慰めなのではないだろうか。
 私が懸命に物語を書き儲けにもならない本を作るのはきっと、根底に彼を少しでも「この世」に広めたい、誰かの心に根付かせたいという欲望の発露だ。自分自身の安寧のために……そう気付いておきながらここに記すのは、何というか悪手のような気もするけど。
 ともあれ、ひたすらに求道(?)を続けた昨年だった。推しのますますの活躍が予見される今年も同じことを繰り返してしまうと思う。やりたいだけ、できるだけのことをやりきったと感じられるまで。

 あっさり、軽やかにいこうと思っていたのに重たく長くなってしまった。本当はあと二色、振り返りの色を別テーマで書くつもりだったけれど一度区切りにしよう。
 やっぱり私はエッセイに適性が無さそうだと自覚しつつ、けれど見通しよりもずっと楽しかった。
 ご縁がありましたら、いつかまた。ここまで読んでくださりありがとうございました。

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