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人というものはわからないものだ

たまに思い出して怒りを覚えることがある。

ある人達の事を思い出すと、今でも腹が立つ。
 
 ある団体のミーティングで、1人の役員を援護するために、私のプライベートの過去を暴露したり、ある人は私は頭がおかしいのでは?と侮辱していたりしたそうだ。その場には私はいない。同じことを言われた方がもう一人いる。事情を知る人々は、彼らの発言に異常さを感じたそうだ。

なぜ、そうなったのかは、ここでは書かないけれども。

 とにかく、だ。なんにせよ、私はその人達がどんな状態であれ、1人の人間として超えてはならない道徳の破壊を行ったと思っている。
 とても、悲しい。そして、私はその人たちを今まで信じていたのだ。それがまさか、である。私が怒りを感じるのは、いい大人が本当にそのような人前で、しかもその場にいない人達のことを罵れるものなのか?ということだ。

良い人だと思っていても、追いつめられるとどんな言動に走るか分からない。それは、彼らの焦りでもあったのかもしれないし、自分たちを正当化するためだけのものでしかない、と私は思っている。

ほんと、人というものはわからないものである。
情というものがあるから、そうさせているのであろう。

通常なら、仲たがいしても、修復できるものだけれど、
明らかに、特にその人しか知りえない私のプライベートでデリケートな話を暴露した女性(T.U.さん)とは、どうも修復できない、というか距離を置くべきだろうと思う。

意見の合わない人、言って良いこと、悪いことを判断できない人とは、距離おくべきだ。社交辞令の範囲で付き合えばよい。

もう終わった事であるからこそ、ここに書き留め、このことを他の人に言わなくて済むようにしたいと思う。それも心の鍛錬のうちの一つだと思う。


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