「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 二段目

[道行恋の初雪]
〈半太夫〉恋せずば今の憂き目は白雪の、木々に積もりて〈ナヲス〉柏木の、左衛門は大内を、逃れ出でしは出でしかど、いづくをさして行くぞとも、身はおちこちの落葉姫、女三の宮となりかはり、科を北山嵯峨の奥、しるべを出でゝこゝかしこ、昔のゆかり帯刀が、すみかは野越え大和路の〈フシヲクリ〉小泉「さして行く道も、
霜に枯野の薄原、露と答へて消えなまし、なれも恋路に踏み迷ふ、都離れて暁の、櫛もそのまゝ宵のまゝ、柳の髪の枝垂れて、花も紅葉も我が家の、かゝりに植ゑし木々なれど、知らぬふりする深草の、すへもの作り末かけて、かはるまいぞやかはらじと、神に祈りを藤の森、空にちらちら散る雪は、梢に知らぬ花ぞ降りける。ふりみふらずみ曇りなき、身でさへ旅はもの憂きに、犯せる罪の数々は、時の太鼓の役人を、討って恨みは晴れたれど、都に残る父と母、わたしが兄の惟茂様、さぞお怒りも自ら故、いやわし故と顔と顔、〈中フシ〉思ひあふたる二人が仲。
いつ別れふやら死なふやら、はかないこの身持ちながら、いっそ今宵はしっぽりと、伏見の里のアヽお手枕、袖をかたしくかれのばら、〈三下り歌〉しどけなりふり目に立つ娘、誰が惚れたかしなやる娘、可愛がられて色づく娘、娘々とたくさんそふに、いふてくだんすな、こちやかねつけて、袖も留めたりよめりの談合、やがてあづまへ行く身ぢゃもの、わしゃどふもならん、ほんぼにほんに、〈ナヲス〉鷺も烏も白雪に、ばっと立つのも追手かと、心どきどき時ならぬ、槙の島には晒す麻布、賤が手技の〈フシ〉面白や。
見渡せば宇治も竹田も淀鳥羽も、いづれ劣らぬ名所かな、巨椋も過ぎて久世の里、雪やこんこん霰やこんこん、子供遊びの雪こかし、山また山に降り積もる、身の罪科をいつの世に、とけしないほど賤の女が、真苧をうむてふ、我々が傷持つ足に雪道を、右よ左よ草結び、思ひそめしはいつのこと、去年こぞの初秋七夕の、鞠の御会のその日しも、互に見初め見初められ、それが恋路の橋渡し、ほんにそれそれその時を、今で思へばひと昔、昔恋しや忍ばじと、手に手を取りてもろともに、鳴いて渡るや雁金の、翼に文を言伝てん、我が故郷のつてもがな、世の浮き沈み長池の、里にかゝれば吹雪空、しばし凌がんこなたへと、堤伝ひの長なはて、とある木陰を目当てにて、〈三重〉やうやうたどり「着きにけり。
「〈詞〉ござれござれ、寒垢離屋が商売は、冷たい商売ぢゃ。ござれござれ、子供衆よござれ、娘御もござれ、ぢいもばゞも若い衆もござれ」〈地〉ござれござれにつけ廻る、在の子供も声々に〈フシ〉囃すを力にかけ歩く。
裸坊主に水浴びせ、水ぢゃ水ぢゃと立ちかゝれば、いらたか数珠を押しもんで、桶のぐるりを三遍廻り、「〈詞〉南無不動明王様、家内息災富貴繁昌、〈地〉守らせ給へこんがらせいたか」これは背低の寒垢離屋、ざんぶと浴びたるとばしりに、〈フシ〉子供もともに皆散り散り。
世渡る業は様々に、井手の里の蜘駕籠一挺、ふらふらと来て「ヤイ団助、〈詞〉こちが商売を術ないかと思へば、寒垢離屋殿は、アヽ冷たい商売。こなたは水がなふてほへる、脇にはまた水がついて難儀ぢゃげな。奈良郡山への旅人がなふて、駕籠舁きも足が上がった」「ヲヽそれならば乗り手もあるまい。〈地〉酒手もなふて寒かろ」と後先見廻し寒垢離屋、縄の鉢巻頭巾を脱げば、撥鬢頭の突っ込み髪。「〈詞〉なんと新吾、紛らはしい者見つけはせぬか」「いかなこと、いかなこと。それらしい者にも逢はぬ。判官様より形をやつして嗅ぎ歩けと仰せつけられ、極寒のうちに寒垢離屋の振り鬮に当った故、アヽ寒い目を格別する。団助・伝蔵、わいらはどふぢゃ」「イヤイヤけがなこと。ナァ伝蔵」「さればいやい。蜘駕籠になって巣を張れど、似た者にも尋ね会はぬ。ことに顔は見知らず、肝心の名は忘れる。やうやうと今思ひ出した、柏木左衛門、女三の宮。この間都の町で、御簾の隙漏る唐猫と歌ふたは二人。捕らへればずっかりと、御褒美を貰ふはづ。〈地〉かううっかりとしてゐよより、玉水あたりを探してみよ」と、欲に手足を動かする、蜘駕籠、寒垢離〈フシ〉身の毛よだてゝ走り行く。
風寒み、竹の音さへる尺八に、やうやう身をば帯刀太郎、主人柏木の勘気を受け、浪人のすぎはひに、身をばくろめるこも僧の、在々廻るぼろぼろも、綿秋しまふ町修行、たばこ一服いたさふと、在と離れし一つ家の、見せの挽きがら吹き付けて、「〈詞〉お内儀まめなの」「ヲヽ出やしゃんす」「御亭は何と」「けふは親出もあらふかと京の方へ」「ヲヽ寒いのに肝煎りもたいていではならぬ」「さいな、今年は霜月に閏があって、いつもの寒より冷へがきつい。内へ入って一服呑んでぬくもらしゃんせ」「ソリャ忝い。さてどこもかもたゞ御無用で入れませぬ」「アヽよござんす、また設けがあろぞいの。こんな時は歩かずと、茶釜の下で鼻あぶって暖かふしていなしゃんせ」「〈地〉イヤイヤ玉水あたりを廻ってきて、戻りに寄ろ」と帯刀は、〈フシ〉筒音調べて出でゝ行く。
恋の道知れども知らぬ旅の道、柏木・落葉は人目をば、堤伝ひに頬かぶり、帯刀太郎を頼まんと、小泉さして行く道の、春にならねば山吹に、花は名けれど見せ先に、「無心ながら」と腰打ちかけ、「〈詞〉なふ落葉殿、この井手の里は橘左大臣諸兄公の閑居の地。けふこの身になりたればこそ、不思議の見物」「さればいな、世にある時に打ち連れて、見るなら何ぼ嬉しかろ。〈地〉道々も言ふ通り、とにもかくにも悲しきは、兄惟茂様のお腹立ち。ほんにマァこの様に不孝な者が寄り合ふて、思ひ初め惚れ初めて、お側が離れともないは、因果な恋」と取り付いて、〈スヱテ〉人目遠慮も泣くばかり。
「〈詞〉イヤイヤそれは左衛門とても同じこと。父将監の御怒り、母の嘆き、〈地〉思ひ廻せば廻すほど、一度顔が合はされぬ」と悔やみ嘆けば「ヲヽもふ良いこと。余の話してもろともに、互に憂さを忘れ草」たばこよ茶よと在所衆の、〈フシ〉親切な気が端香はながなり。
「〈詞〉なふ内儀、これから小泉へはいかほどある」「ヲヽまだ五里余り」「ホヽそれならばよほどの道。そなたはさぞ草臥れ。無心ながら駕籠一挺」「〈地〉アヽ今までこの見せに、旅人待ってゐた駕籠を、呼ふできてあげませふ」と、〈フシ〉とつかは野道を急ぎ行く。
そこらの在所をうろうろと、廻って戻る寒垢離屋、きょろきょろ目して頬かぶりを、差し覗き差し覗き、「〈詞〉道中の御祈祷に、水一杯浴びませふかい」と、〈地〉言ふに左衛門顔背け、「〈詞〉イヤこの寒いのに水が散ってもはたの迷惑。俄か旅で路銭もなし」と、〈地〉相手にならねばなほ擦り寄り、「〈詞〉この人体で一銭もないとは、都からの駆け落ちか」と、〈地〉うらどふ折から以前の蜘ども、「〈詞〉駕籠借らしゃますはお二人か」と、〈地〉見るより三人顔見合せ、「ヲヽそふぢゃそふぢゃ」とうなづき合ひ、「〈詞〉駕籠は一挺、乗り手は二人、相輿でも行かれまい。幸ひな寒垢離殿、何するも銭儲け、三枚でやろかいの」「ヲヽ銭さへ取れることならば、水浴びやうよりはるかまし。小泉までならば相輿でげんこ。サァ早ふ乗らしゃれ」と、〈地〉駕籠拵へるなりそぶり、どこやら詞のひっぱなし、合点行かねば柏木左衛門、「〈詞〉イヤこりゃ駕籠の者、連れの女中の足の痛みも直ったれば、そろそろと日暮らしに、小泉まで行くつもり、大儀であった、いんでたも」「何と言はしゃりゃ。玉水にゐるものを呼びにおこし、廻っていんでくれ。何と伝蔵どふ思や」「ヲヽ駕籠借りかけて返がへは道中の法度。いやでも応でも乗せて行く。足元のあかいうち、サァ早ふ。乗られぬと手を持って引きずり込む」と、〈地〉ばらばらと立ちかゝれば、身構へし「〈詞〉イヤ武士に向かって推参千万。ほでをかくると真っ二つ」と、〈地〉気色変はれば落葉の姫、「コレ駕籠の値はやろほどに、何事も堪忍しや。拝む拝む」と手を合せ、詫び給ふほど付き上がり、「〈詞〉ヤァびこつくなやい。かう三人が見つけたからは、二人ともに天の網、柏木・女三を搦め来れと、判官様の仰せを受け形をやつし、おのら二人を尋ね廻る、この駕籠舁き、寒垢離屋」と、〈地〉駕籠に隠せし刀をめいめいぼっこんで、「〈詞〉サ尋常に腕廻せばよし、手向かひすると首筋へ、水より鋭いだんびらもの、ひいやりとあぶせる」と三人一度におっ取り巻く。〈地〉足弱連れに気後れし、左衛門は手ざしもせず、今が一期の浮沈ぞと、〈スヱテ〉途方に暮れし折からに、
戻る帯刀、出合ひ頭、かくと見るより飛びかゝり、先に進みし新吾が真っ向、尺八取りのべはっしと打てば、頭二つに血煙立て、のたうち回る半死半生、残りし伝蔵・団八が、すらりと抜いて斬りかくる、ひっ外しかいくゞり、右と左へもんどり打たせ、起き上がるをなほ踏みつけ踏みつけ、「〈詞〉阿曇判官が下部なれば、おのら生けては帰されぬ」と、〈地〉宙に引っ提げ野中の井戸へ、寒垢離もろともどんぶりどぶり、水にあぶれる氷の地獄、這ひ上がれば手ごろの石、打ち込み打ち込み放り込み、八寒地獄の皆殺し、〈フシ〉心地よくこそ見えにけれ。
左衛門嬉しさ限りなく、「誰人なればかほどまで、力となって賜る段、生々世々の御厚恩、こも僧殿の御仮名、承ろ」と言ふうちに、天蓋かなぐる顔と顔。「ヤ汝は帯刀太郎か」と、驚く左衛門、落葉姫、始めのこはさ引きかへて、〈中フシ〉喜び涙せきあへず。
「〈詞〉アヽ御驚きは御もっとも。いつぞや舅権内もろとも、女三の宮の別御殿へ参りしところ、何者とも知らず大内太鼓の役人を斬ったりと騒動最中、柏木左衛門、女三の宮を連れ、大内を立ち退きしと、聞くより何の苦もなく敵の家来、〈地〉無二無三に斬り散らせしがせんもなく、御行方の知れざれば、〈詞〉このごろ近在修行にことよせ、御行方尋ぬる折から、思はず御目にかゝること、〈地〉機縁尽きざるそのしるし。ハヽア〈スヱ〉忝し」と喜べば、
「ヲヽでかした、でかした。さりながら知る通り、この左衛門が不慮の難儀は天下のめしうど。おことが在所小泉へ尋ね行くところ」「〈詞〉これは幸ひ。たとへ勘当受けたるとて、粗略に存ずる帯刀ならず。我が住家は小泉なれど、その節舅が大内より、女三の宮を預かり帰れば、御一所には人目もあり。〈地〉玉水のしるべの方へ、密かに忍ばせ奉らん。とかふ言ふ間にこの家の女が立ち帰り、人をあやめた体たらく、見咎められては身の大事」右と左にお二人の、御手を引いて井手の里、山吹ならで身のなる果て、人影とても暮れ近く、ねぐら求むる鳥よりも〈三重〉足を早めて「急ぎ行く。
大和路は冬も賑はふ繁華の地、尺八の指南万笛ばんてきと釣り看板、表を囲ふ菱垣は小泉の町外れ、世のうきふしは様々に、この家の娘梅の井も、今はお梅と名をかへて、夫帯刀もろとも親の内にかゝりうど、冬松の手を引いて、勝手へ出で、「〈詞〉ぢい様は京へお出で、とゝ様は修行に。また土産買ふて戻らしゃろ。〈地〉ヲヽ良い子ぢゃ」とすかす母、朝夕子故にしほたらと、〈フシ〉前の形はなかりけり。
「弟子衆の見えぬうち、女三様、申し宮様」と、納戸の口よりおとなへば女三の宮、町家めきたるお小袖も、自然と備はる御粧ひ、しとやかに立ち出で給ひ、「〈詞〉コレお梅、権内も帯刀もまだ戻らずか」「イヤモ追っ付けでござりませう。この間にお気をお晴らしあそばしませ」「ヲヽ幼な子の世話に取りまぜて心遣ひ、何かにつけて思ふて見るに、〈地〉当今の姉宮と生まれながら、諸任がよこしまにて、かゝる憂き目に逢ふことは、ひとへに天照神も見捨て給ふか」と、世を恨みたる御涙、〈ノルフシ〉もったいなくも恐れあり。
お梅はっと頭を下げ、「〈詞〉その御嘆きは御もっとも。さりながら見るかげもなき親権内が、惟茂様から預かり奉る、大事の大事の女三の宮様、おしつらひあそばせば、冥加のほども恐ろしい。今こそさもしい暮らしをいたせど、いにしへはてゝ親も、惟茂様の侍分。年寄って奉公引き、わたしをかはりにこしもと奉公。若気の花と帯刀殿に馴れ初め、〈地〉その誤りにて御勘気受け、恋も情もどこへやら」「〈詞〉イヤなふそれでもそなたのは、思ひ設けし夫婦仲。〈地〉恥しながら自らも、左衛門に心かけしかど、落葉に親しきことを聞き、思ひ切りは切ったれど、あぢな心」と御顔を、赤らめ給ふ恋話、お梅も憂さを〈フシ〉忘れけり。
折から表へ家主の与太郎、はっと驚き立ち覆ひ、「ちゃっとちゃっと」に女三の宮、逃げ入らんとし給ふを、駆け上がって引っ捕へ、「〈詞〉このうちからちらちら見る故、合点がいかぬと思ふたが、この小泉には隠し遊女はきつい法度」「ヲヽわっけもない。あのお方は主の妹、御禁裏にお末の奉公。休みに戻ってゐさんする」「フゥ俺はまた、この間はなぐれ奉公人が十石に出ると聞いた故、こそなら六十がの買はふと思ふて」「ヱヽあほらしい、けがらはしい。二人ながら留守なれば、稽古なら後にお出で」「ヲヽ弥藤次殿連れて晩にこふ。俺が笛の上がったを、〈地〉聞いてもらを」と懐より尺八取り出し、「〈詞〉全体笛はかふ構へて、舌で歌口ねぶり廻し、普化三経の習ひごとでもやって見しょ。吉野の山といふ笛、歌にあふを聞かふぞ」と、〈地〉吹けども吹けどもひうともいはず。「〈詞〉南無三、親父に隠そと思ふて、火吹竹と取り違へた。ヤァ火吹竹のついでに、いかふ世間が物騒な、火の用心ようしよぞや。けふも会所で鞠蹴りの柏木と、女三の宮の密男話、〈地〉言ふて聞かそ」と大あぐら。お梅は気の毒、姫宮も逃げ入らんとし給ふを、引っ捕へ「〈詞〉話がいやなら仕形で」と抱きつくを、「〈地〉もったいない」と引き離す。「〈詞〉何ぢゃ、仏さんかなんぞの様に、妹が何でもったいない」と〈フシ〉せりあふところへ帰る帯刀、
かくと見るよりこも僧笠、脱ぐや脱がず駆け入って、ほたへる腕首むずと取り、ぐっぐっと捻ぢ上ぐれば「あいたあいたあいた、アヽ痛い放してはなして」と身を縮む。「イヤ放すまい。〈詞〉男の留守にわっぱさっぱ、重ねてきっと嗜みやれ」と、〈地〉二、三間突き飛ばされ「イヤコレ、〈詞〉女三と柏木と恋慕返しの濡れごとを、この尺八で仕形話、肝心の歌口へは誓文腐れ手もやらぬ。〈地〉家主へ妹と断っておかしゃれば、何のこともないこと」と、あほうのくせに一理屈、「〈歌〉あんな妹が唐にもあろか」と、鼻歌歌ひ〈フシ〉立ち帰る。
「〈詞〉ヱヽ気のつかぬ女房。なぜ勝手へ出しますぞい。したがあほでも目早い家主、晩に来たらば言ひよがあろ。宮様もまづ奥へ」と、〈地〉申し上ぐれば女三の宮、お梅もこちへと冬松の〈フシ〉手を引き納戸に入り給ふ。
上の町から長羽織に筒長足袋をはいたる男、門口を差し覗き、「〈詞〉こも僧の万笛殿はこゝか」「ヱイ花形屋の御亭様、よふこそよふこそ。〈地〉これへこれへ」と挨拶に、「〈詞〉イヤイヤ世話焼かしゃんな。シテ話の奉公人は」「されば私も今帰って、まだ髪も結はしませぬ」「ハテ素人らしい。繕ふたより木地で見るがこちの勝手」「それなら見せましょ。お梅お梅」「ヲヽ今添へ乳してゐるに、〈地〉せはしない」と立ち出づれば、「〈詞〉フゥさふか。あなたは都のさる旦那衆、こゝらへ来たとて寄ってぢゃが、マァお茶上げましや」「イヤイヤ茶は呑みませぬ」「ヲヽそんなら良いおこゞ時。サァサァ」と、〈地〉立たねど矢声の口馳走、利発な女房のならひなり。「〈詞〉イヤイヤ無用々々」「それならばあっちへ行きや」「ヲヽぬしとしたことが愛想もない。イヤ申し、〈地〉これでゆるりとお休み」と〈フシ〉会釈こぼして入りにけり。
「〈詞〉ヲヽ細手で押し立て良し。顔の道具も揃ふてある良い代物。親出なれば押し合ひなしに二年切って七十両。よかろがや。したが可愛や、乳呑み子があるそふな。乳母取ってやらっしゃれ。ドレまぁ手付け」と〈地〉紙入れより金十両取り出だし、「〈詞〉あとでぐれの来ぬ様に、書いて来た手付けの一札、文言はお定まり」「〈地〉なるほど左様」ととっくと見、かけ硯の印判取り出ししっかとすへ、「〈詞〉奉公はしつけたれど、勤めは初めて。子のある仲を手詰めになって売る女房、不憫がってくださりませ」「アヽくだくだ。これからこっちの大事の代物、可愛がらいでならふか。九条からはよほどの道。駕籠持たせて迎ひにこふ」「それは御苦労。近所隣へ知らさぬ様に、暮れてから」「ヲヽ合点」と〈地〉それやが万事抜け目なく〈ヲクリ〉喜び「勇み立ち帰る。
門送りして内に入り、「〈詞〉ムヽあの金をどふこふ」と〈地〉心の内で胸算用、よしよしと打ちうなづき、「サァこれからが一と文段。アヽ浮世ぢゃ」と尺八取り、胸のもやもや吹き払ふ、〈鹿ヲドリ〉鹿さへもつがひ離れぬに、我が身は何と〈ナヲスフシ〉涙の音色。
お梅は笛の音を聞いて勝手を出で、「〈詞〉稽古かと思へば、たった独りの楽しみ吹き、ちと休んだが良いはいな」「ヲヽそりゃそふぢゃ。イヤのふお梅、ちっとわがみに言ふことがある。聞いてたもるか」「こりゃおかしい、一生連れ添ふ女房に改まった」「フゥそれなら良い。今吹いた鹿しゝをどり、雄鹿は雌鹿を慕ひかへろと鳴く。畜類なれど夫婦の情を忘れぬは人間勝り。その雌鹿が狩人に取られ、あとに残った雄鹿はさぞ悲しうてたまるまい」「そりゃしれたこと。したが人の夫婦仲、釘鎹で打ちつけても、義理と品とによらば離れまいものでもない」「ヲヽそれ聞きゃ良い。コレお梅、俺がためぢゃ、傾城奉公にいてたも」「ヱヽあのわしをかへ」「ハテ義理と品とによらばと言ふて何びっくり。その訳は今朝言ふ通り、左衛門様と落葉様とに井手の里でお目にかゝり、女三様と御一所にはと思ひ、玉水のしるべへお預け申せしが、それはそれは不自由なお暮らし。といふて金の才覚ならぬ太郎、いろいろと分別して、わがみを勤め奉公と思ひついたがそちが因果。勘当の我なれば、なほ以て義理ある主人、サァ夫に忠義を立てさせふと、立てさすまいとわがみの心次第。いやか応かたった一口。ハテぐずぐずと、何涙ぐむことがある。そなたも帯刀といふ武士の女房、サァサァさっぱりと返事聞かふ」「アイおまへの忠義になることなら」「それなら売られていてくれるか」「それでもあの冬松が乳呑む最中。〈地〉残して行くが悲しい」と、しゃくり上げしゃくりあげ、〈中フシ〉声をも立てず泣きければ、
「〈詞〉子を置いて行くわがみより、可愛や坊主めが、あとで母を尋ねて泣きをろ。そのいぢらしい目を見る俺が気を、〈地〉思ひやってたもいの」と、身をふるはしてむせ返り、「〈詞〉アヽ過分なぞや、忘れはせぬ。今いんだが九条のくつわや、もふ手付けも受け取ったれば、暮れてから迎ひにくるはづ。したが堅い親父殿、つい得心なら良いが」「ヲヽ金のいる訳言ふたれば、とっ様ぢゃとて何と言はしゃろ」「そんならわがみ良い様に。マァ髪を結ひ直しや。俺も着るもの着替へふ」と〈フシ〉納戸の内へ入りにけり。
京よりいきせき戻る権内、吐息をついておいゑに上り、「〈詞〉さて歩いたは。余程の道をたった一息。帯刀も戻ってか、冬松は寝てゐるか、女三様は」「アイまた奥でお物案じ」「それは気の毒。さてこっちにも気の毒なことができてきた。サ娘こゝへ。改め言ふには及ばねど、いつぞや落葉様の御身の難儀、惟茂様御夫婦のお心休めに、どふぞお命救はふと、口先でちょっぽくさ言ふてきたが、けふ俄かに呼びにきて、女三様を明日中に、斬って出せと諸任よりの使。急に思案をしてくれとのお頼みのっぴきならず、落葉様のお身替りに、娘死んでくれるか」と〈地〉言ふにびっくり「マァそれは、夫に尋ねた上のこと」と、〈スヱテ〉目もおろおろとなりにけり。
「〈詞〉コリャお梅。人は知らぬがわりゃびっくりせぬはづぢゃ。なぜといへ、三年以前に不義した科で成敗にあふのを、御台様や落葉様の命乞ひで、けふの今まで助かり、男の子まで産んだぢゃないか。それでなければ今ごろは三回忌、香花取ってゐる時分。血を分けたこの親より、あなた方は大恩のある命の親。こっちから望んでも、お身替りに立たねばならぬ。コリャやい、恩を知らぬは山猿鬼畜。とはいふものの俺が娘でも、帯刀といふ男のある身。夫婦とくと談合して、〈地〉今返答が聞きたい」と詞もぎどに言ひ放せば、夫の心を察する女房、「なるほどけふまで生き延びたは、お主の御恩、忘れねど、どふもわしは死ぬることが」「なぜならぬ」「〈詞〉さればぬしの御主人柏木左衛門様、落葉様を伴ひ夫を頼み身をお忍び、不自由な暮らしを見兼ねて、わしを傾城に売ってやったその金で、お貢ぎ申したいと夫の願ひ、とゝ様にもこの様子言ふてくれとの頼み。さっきに廓の親方が見えて、手付けとやら受け取り、わしはもふ晩から勤め奉公に行かねばならぬ。〈地〉かうは言ふものどちらも忠義、この上はどふなりと、お二人の談合次第。勤めなりと死になりと、わしが身は厭ひませぬ」と言ふに権内、「コリャもっとも。〈詞〉夫に任す女房の身、親がいにもなりにくい」「イヤ舅殿悪い了簡」と、〈地〉一間を出づる帯刀太郎、「コリャ女房。〈詞〉そちが死ぬるは大忠義、この方の不自由な目をさしませぬは些細な忠義。比べてみれば大きな違ひ。いはゞこっちは金銀づく、辻斬りしてもことは済む。今一度分別し直して、女房をお身替りに立てゝくだされ」「ヲヽなるほど、落葉様もそなたのお主の片割れなれば、これも忠義のうちなれど、柏木殿の難儀を見捨て、権内がお主のために、娘はどふも殺されぬ」と、〈地〉義理にもつるゝ胸の内。「アヽ申し舅殿。〈詞〉どふ分別してみても、女房をかばひ子にほだされ、舅に忠義を立てさせぬといはれて、この帯刀が武士の恥辱、後々までの物笑ひ。〈地〉どふでも女房を」「いやいや娘は殺されぬ」と、聟と舅が忠義の辞儀、中に立ったるお梅が思ひ、親と夫が義を立て合ひ、片付くところが生死の境、障子の内より「お梅お梅」と女三の御声。「〈詞〉ソレ宮様のお呼びなさるゝ。〈地〉早ふはやふ」に「アイアイ」と、〈フシ〉涙拭ふて立って行く。
あと見送って目に涙、聟と舅はさしうつむき、しばし詞もなき折から、「のふ情なや、今の話の端々を、女三様がお聞きなされおっしゃるには、『〈詞〉女三を討てと諸任よりの使、もっとも不義は落葉なれど、自らに替った故、不義の科逃れず、不憫や落葉が心が思ひやらるゝ。その上にそなたまで、落葉が替りに死ぬるとの話。所詮女三といふ名は消えて、この世にあっても益ない命』と自害せうとなさるゝを、『落葉様も死にゃなされぬ、わたしも死なぬ』と様々におなだめ申し、コレお守り刀、やうやう取ってきました」と、〈地〉言ふに驚く聟舅、「〈詞〉ヲヽでかした、よふおとゞめ申してくれた。あなたの身に過ちあっては、この権内、惟茂様に〈地〉どふ申し訳するもの」とそゞろになれば「コリャ女房、〈詞〉宮様のお詞が重ければ、落葉様は死なされぬ。そなたよふ覚悟せよ」「ヲヽわしゃ聞くと死ぬる思案」「ヲヽそりゃ良い覚悟。この上は一時も早いがよかろ」と〈地〉言へば権内目を押し拭ひ、「〈詞〉それなら娘をこちのお主の、役に立てゝおくりゃるか。アヽ梅よ、もふ日も暮れる。冬松が顔見てこぬか。女三様に色目悟られな。サァ早ふ」「アイ」「はて立てやい」「アイ」「親父殿も気を揉んでぢゃ、世話焼かしゃんな」と〈地〉言ふにぜひなくついと立ち、〈フシ〉泣き顔隠し入りにけり。
時もあれ、家主の与太郎、諸任が家来岩渕弥藤治打ち連れて、「〈詞〉お師匠宿にか。兼ねて申し置いた通り、明日は主人の御前で晴れの尺八、御苦労ながら今夜はゆるりと御指南頼む」「ヲヽそれそれ、この家主も自身番がてら、夜とともに吹き明かさふ。〈地〉サァサァ稽古」とせり立つれば、「〈詞〉拙者宵の間叶はぬ用事仕舞ふまで、親ともに稽古なされ」「ヲヽ俺が御指南申そ」と、〈地〉棚の尺八取り下ろし、ほこり払へど払はれぬ、胸のほこりは娘の別れ、涙隠して稽古場へ〈フシ〉二人の弟子を伴ひ行く。
あとに太郎はとやかくと、思ひ乱るゝ乱れ焼き、何度より取り出だし、奥口窺ひ目釘をしめし、あっぱれ切れもの手のうちに覚えあれば、苦痛はさせじとねた刃合はするそのうちも、女房を殺す刃かと、思へば身も手もふるはれて、あとに残る子故の闇に〈スヱテ〉刃金もむねへ廻りけり。
早稽古場に吹く尺八も無常の調子、お梅はしほれ立ち出づれば、「〈詞〉ヲヽ用意は良いか。坊主に暇乞ひしやったか」「イヽヱ、乳呑ましたばっかり」「ハテ一生の別れぢゃに」「何の死んで行く身ぢゃもの」「ヲヽそれは良い思ひ切り」一間は稽古のひとよ切、「〈歌〉散りかゝる花とや人の惜しむらん」「〈詞〉あの唱歌の通り、思へばはかないそなたの命、念仏を忘りゃんな」「〈歌〉末白浪の便りも切れて」「〈詞〉この様に短い縁なら、いっそ夫婦にならぬのが良かったに」「〈歌〉残るひとりを稚児桜、ひとりを稚児桜、形見と見るも徒なれや」「〈詞〉かうしたことがあらふと知らず、夕べもけさも、おまへもわしも、あの冬松を中に寝さして、どちらが可愛いと言ふたれば、とゝ様もかゝ様も、この乳もかはゆひ、たぼして置かふと言ふたに、〈地〉今から誰が乳吞まふぞと、思へば悲しうござんする。〈詞〉アヽ思ふまい、やんがて死ぬる身」「〈歌〉とは思へども名に高き、花の匂ひの姥桜まで」「〈詞〉ほんにあとで孫見るたびに、ぢい様のさぞ悲しかろ」「〈歌〉神に祈りの伊勢桜」「〈ナヲス〉なんぼ泣いても祈っても、神も仏もない世か」と、声をも立てず伏し沈む〈中フシ〉夫婦が心ぞやるせなき。
〈詞〉アヽいつまで言ふても尽きせぬ名残。〈地〉覚悟せよ女房」と言へど答へも泣き入りて、我が子の別れ、恩愛の別れに涙せきあへず、お主のためとすゝめられ〈ヲクリ〉引き立て「一間に入りにけり。
稽古場の障子押し開け一心不乱吹く尺八、権内は真ん中に、今が
娘の最期かと、指もしどろに手も乱れ、笛の唱歌も称名の、南無阿弥陀、南無阿弥陀仏ばっさりの、刃の音を紛らす笛、止めても思はず出る涙、竹に伝ふて音も消え消え、〈フシ〉胸も消え消えなりにけり。
稽古終れば岩渕弥藤治、「〈詞〉アヽ今夜はそはそはと、稽古がしまぬ。明日とっくりと稽古せふ」「ヲヽそれそれ。今夜は早ふいぬほどに、そのかはりには晦日つごもりに、〈地〉家賃を早ふ」と立ち上がれど、挨拶もそこそこに、雪駄尋ぬる行灯の、灯も消え次第いに次第、ぐゎったり鳴った表の戸、「さてこそいんだ」と障子引き開け駆け入って、「〈詞〉娘は死んだか、ヲヽでかした。コレ帯刀、最期はどふぢゃ、未練にはなかったか」「イヤ女に似ぬ、武士にも勝ったる良い覚悟。たゞくれぐれも坊主がこと」「ヲヽそふあらふ、そふあらふ。〈地〉まだ生き顔のあるうちに」と、納戸へ駆け入り、寝入ってゐる子を抱きかゝへ、「〈詞〉コリャぼんよ、目を覚ませ。かゝにあはそ」と〈地〉娘の首を差し寄すれば、「〈詞〉イヤイヤそれは」「ヲヽぼんぢゃ。かゝ様はこゝにねんね、〈地〉うまうまのもふ」と縋りついて嘆くにぞ、「〈詞〉ヲヽ道理々々」と〈地〉地に染む体引き起こし、襟くつろげ「コリャ乳々」と見せてもみせても合点せず、「かゝ様呼んで」とてゝ親の膝に取り付き泣きければ、「ヲヽかゝに逢はそふぞ」と、娘の死骸の切り口に、首持ち添へ「のふ聟殿。〈詞〉死んでから間のないので、〈地〉寝てゐる様な」と権内が、こらへにこらへしくどきごと、子は見るよりもかゝ様と、懐に手を入れて、馴染みの乳に口差し寄せ、相好かはる母の顔、一口呑んでは不思議そふにきょろりと眺め、呑んでは見、見ては呑み、手そゝぶりする余念の体。ぢいは身も世もたまられず、むせび入れば持つ手も震ひ、思はず首を取り落とせば、「〈詞〉かゝ様がない、呼んでよんで」と〈地〉声を上げ、〈中フシ〉足ずりしてぞ泣きければ、
「〈詞〉ヲヽ泣くな泣くな」と〈地〉抱き上げ、「〈詞〉かふあらふと思ふた。これがどふ見てゐられふぞ。アヽ面目ない聟殿、俺も今娘と一緒に死んだら、この悲しい目は見まいもの。こんなことがあらふとも知らず、昨日も娘がこの孫抱いて、すみを入れたらどふせう、元服したら嫁呼んだら、嬉しからふと言ふた故、『コリャやい、嫁を呼ぶまでこのぢいは、よふ生きてゐぬはいやい』と言ふた俺は生き残り、〈地〉娘は死んだ」と大声上げ、せき上げせきあげ身をもだへ、わっとばかりに伏し沈めば、太郎は始終さしうつむき、〈中フシ〉畳に食ひつき泣きゐたり。
折から表へ九条のくつは花形屋、「こゝぢゃこゝぢゃ」と戸を押し開け、「〈詞〉万笛殿お宿か」と〈地〉言ふに驚き一間の障子、押し立て押し立て立ち出づる。「〈詞〉アヽ道は遠し、隙が入って、〈地〉さぞ待ち兼ね」とのし上がり、「〈詞〉証文も認め来たれば、かね渡して夜通しに連れていにませうかい」「それは御苦労。さりながら、手前も売る気、女房も行く気。なれども肝心の親が不得心」「コレコレ、今そんなこと言ふて済むか。太鼓ほどな判は何のためぢゃ。こちより良い買手があってほかへやらふといふことか」「イヤモ神もってその気でなし。けふ受け取った金お返し申す。手付けの一札この方へお戻しなされてくだされい」「そりゃならぬ。こんな格はいつもある、それを食ふて良いものか。うぢうぢいやると踏ん込んで引きずっていぬるぞや」「ハテそりゃ無体。金はそっちの、奉公人はこっちの、売らんといふに何の小言」「〈地〉ヲヽ買ふて見せう」と突っ立ち上がり、一間の内へ駆け入るを立ち塞がり「〈詞〉イヤその足を踏ん込むと手は見せぬぞ」「イヤちょこざいな」と〈地〉肩口掴んで引きのくる強力者、「やらじ」と止むるを踏み飛ばし、障子蹴放し駆け入ったり。「この体見せてはもふ生けて帰されぬ」と、引き抜いて斬りかくるを、ぬけつくゞっつ働けど、無刀のくつはや冬松を小立てに取り「マァマァ待った」「〈詞〉おのれにかゝる大事を見られ、一寸も逃そふか」と〈地〉振り上ぐる刀の下、子を人質にぢいもハァハァ、〈フシ〉気をもみ焦れば、
「〈詞〉サァおのれ、この首でもかゝへるか、何となんと」と詰めかくれば「ヲヽこの奉公人かゝへていのふ。定めの金は七十両なれど、奉公人の器量見かはしたれば、二百両でも三百両でも、給金は望み次第」と、〈地〉懐中の金投げ出せばぎょっとして、「〈詞〉フゥ死人でもかゝゑふといふ汝が所存は」「ヲヽその死に首がこっちに入り用。主のためぢゃ、帯刀太郎、了簡して売ってくれ」「フゥ我が名を知ったわりゃ何者」「ヲヽ上総介惟茂の郎等、金剛兵衛利綱としつなといふ者。我十年以前より主君の本国、信州諏訪の館の父君に仕へ、この間都に上り、諸任が権威にて、落葉様の絶体絶命、何とぞ救ひ奉らんと、様々思慮を廻らす折から、その方が女房を遊女に売ると、肝煎り者がその噂。シヤこれ幸ひと折り入って様子を聞けば帯刀太郎、顔こそ見知らね女房は我が傍輩、ことに女三様を預けた権内が娘なれど、始めから御身替りとは言はれず、くつはやに様をかへ、かゝへに来たもお主のため。その方も女房殺すは仔細もあらふが、是非ともにこの首は、利綱がもらふて帰る」と、〈地〉聞いて驚く聟舅、「〈詞〉さてはそふか。この権内も落葉様の御難儀を救はんため、左衛門様を貢ぐ金に売る女房を斬ってもらふたは、貴殿の心と同腹中」と、〈地〉聞くに喜び利綱も、「取り分け義をば帯刀太郎、主人の貢ぎに売る女房、御身替りに立てゝおくりゃる志、主人たちもこの恩を〈中フシ〉忘れはせじ」と手をつけば、
「〈詞〉何の礼。舅と女房が寸志の忠義、その方の忠義も立って満足々々。〈地〉この上は片時も早く館へ帰って御主人へ御安堵させられい」「〈詞〉ヲヽなるほどなるほど。〈地〉かりそめならぬ女三の宮」と恭しく首を抱へて立ち上がれば、一間の内より女三の宮、「これなふしばし」と立ち出で給ひ、「〈詞〉様子は残らずあれにて聞く。可愛や、お梅が自らと落葉がために死したるか。その首はすなはち女三、自らは地下ぢげの女、官も位もこの人に」と、〈地〉召したるあこめの上の衣、首にひらりと打ち掛け給ひ、「〈詞〉冥土では村上天皇のはらからとうったへ、〈地〉九品のうてなに至れよや。左衛門に添はれねば、この世にあっても益なき自ら、我もこれより仏に仕へ、おことが仏果を祈らん」と、たけなる御ぐしそぎ尼と、兼ねて覚悟の御姿、皆驚けば権内も、「惟茂様から預かった女三様、〈フシ〉いづくまでも」と引っ添ふたり。
いづくに忍びゐたりけん、岩渕弥藤治躍り出で、「〈詞ノリ〉ヤァ聞いた聞いた。よしある女をかくまひしと、家主が知らせに弟子となって入り込みしに、案に違はぬ女三の宮。この通り諸任公へ言上せん」と、〈ハヅミフシ〉逸足出して駆け出すを、「逃さじ」と帯刀太郎、後ろより飛びかゝり、抜き打ちに大袈裟斬り、〈フシ〉二つになってのたれ伏す。
「〈詞ノリ〉ヲヽできたできた、心地良し。〈地〉時刻も良し」と首を抱へて利綱が、御供申す女三の宮、涙とともに権内も、娘の首に引っ添ふて、行くと心のひかるゝ孫、〈サハリ〉父に抱かれ手を出して、「かゝ様どこへ、ぼんも行こふ」と慕はるゝ、母は冥土の旅の空、〈ヒロイ〉宮と舅は出離の門出、頓生菩提と回向の声、折から響く晨朝じんじゃうの鐘の音遠く聞こゆるにぞ、哀れさまさる子の嘆き、あとへあとへと引き戻す、ぢいが涙に女三の宮、ともにひかるゝ足弱車、かちゞ拾はぬ御足も、金剛兵衛を力にて、東雲近き烏の声、かはいかはいと鳴く音とともに、打ち連れたどり出で給ふ。


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