「崇徳院讃岐伝記」翻刻 二段目

〈地〉すでに戦敗れしかば、富家禅閤ぶがのぜんこう忠実公、思ふまゝに逆意を振るひ、崇徳院を黒戸の御所に押し込め申し、当今は名ばかりに、百官百司おのが館に参列させ、天下の公事を執り行へば、下民も恐れおのづから、宇治の内裏と殿造り、繧繝うんげんの深縁、唐綾のしとね、踏み延ばしたる葦原国、〈フシ〉威勢に靡かぬ草もなし。
お気に入りの平長盛、御前に向ひ「〈詞〉先立って押し込めおかれし崇徳院、讃州へ流罪に相極まり、今日これへ呼び寄せ候。御対面なさるべきや」と伺へば、〈地〉ほくほくと打ちうなづき、「〈詞〉科極まった崇徳院、とくにも流し遣はすべきところ、御室にありし小倅、風をくらふて行き方知れず。きゃつを詮議のおとりにせんと、今日まで述べおいたり。配所へぶち捨て、鮫鯨の餌食となすからは、娑婆の名残に一目逢ふてとらせん、こゝへ呼び出せ」と仰せの下、「ヤァヤァ者ども、崇徳殿をこれへ伴へ。禅閤のお召しなるぞ」と、さも横柄に申せども、〈地〉口さがなきは下部のならひと、御耳にもかけ給はず、悠然と渡御なり給ひ、「〈詞〉忠実恙なかりしよな」と、〈地〉仰せ捨てゝ何げなく上座につかせ給ひければ、誰下知せねど近習の武士〈フシ〉一度に頭ぞ下りける。
禅閤怒って瞼も裂くる目を見出し、「〈詞〉ヤァ身の程知らずの位盗人。引き下ろしたは徳なき故、己が身を恨みもせず、禅閤に敵たふ悪逆無道、その罰でよいざまな負け戦。命を助け流しやるをありがたき御慈悲と三杯し、我が沓を直しても飽き足らぬ大恩、何ぞや許しもなきに上座につき、我を憚らぬ慮外千万。どいつもこいつもこの位抜けに何の辞儀。〈地〉うっそりどもがうろたへ眼覚ましてくれん」とずんど立ち、もったいなくも足にかけ、縁よりはったと蹴落とせば、さしもの長盛はっと仰天。「〈詞〉ハヽヽヽ、日本の神宝神璽を肌につけたる禅閤、王位でも恐れぬ恐れぬ。崇徳院を蹴落としたれば、我より位高きもの天下になし。一天四海に跨ったる我が両足は、日月の足に等し。汝らも近ふ寄って、我が足を頂戴するが身の冥加」と〈地〉悪口雑言、白髪たる頭下しの放逸無慚。新院しばし〈ヲン〉思案あり、懐中の御守り刀抜き放し、柳の御ぐしふっつと切って捨て給へば、〈詞〉長盛きっと見「心得ぬ俄発心。浮世を恨みての捨て坊主か、但しまた忠実公へ当てつけて切った髪か」と〈地〉詰めかくれば、にっこと笑はせ給ひ、「〈詞〉さては世の中に一人を恨みて髪切ることもあるよな。げに下々にはさもありなん、さりながら、〈地〉崇徳院はこの国の主、この国の人は皆我が子なれば、誰をか怒り誰をか恨みん。まして何故世を恨むべき。〈詞〉今切ったるこの髪は、忝くも神の流れを受け継ぎながら、禅閤づれが足にかゝり、十善の位を穢せし我が誤り、遠祖とほつをや天照大神てんせうだいじんへの申し訳。髪切ったるは神の血筋を切ったる心。神の血筋にあらざれば、打ちもせよ叩きもせよ、我は少しも口惜しからず、心任せにはからへ」と、〈地〉人を咎むる御気色は露塵の世に逆らはぬ、〈フシ〉それこそ神の心なれ。
「〈詞〉ムヽ面白い。神の血筋を切ったれば王位でも杭でもない。これからはなほ遠慮なし。千里の宮も引き出だし、打ち殺すに勝手が良い讃岐の島守。もはや都に用はない、島へ追ひやりきっと番をつけさせよ」「ハァその儀もぬかりなし。流人預り、讃岐の在庁林田権太夫高遠は病中故、その甥八栗洞内やくりどうないと申す者、先立って召し上せおく。随分抜け目なきやつ、彼めに渡せば気遣ひなし。こなたはまた島の番、鉢開きなりと山伏なりと、所にたくさんな法螺貝吹いて、崇徳院修行同行一人。〈地〉早いたいた」と痛はしくも、追っ立て申すこの世の鬼、後にかぐ鼻みるめ刈る、〈ヲクリ〉讃岐の「島へぞ出で給ふ。
お次に控へし伊藤武者景綱罷り出で、「〈詞〉左馬頭義朝今日御召しのところ、所労と申して参上せず。常盤と申す宿の妻、名代と申してとくより控へ罷りあり。〈地〉いかゞ仕り候はん」と申し上ぐれば、「〈詞〉ムヽこのごろより所労々々と引っ込みゐる、義朝が性根心得ず。これへ通せその女め、かんでくれん」とうなり声。〈地〉人食ひ馬を牛の間に、とくより松の常盤とは、いへど場うてにもみぢして、気は空蝉のうちかけも、あっぱれ口上夕顔の〈フシ〉源氏女房といちじるし。
「〈詞〉義朝が妻常盤とはおのれよな。保元の乱れ鎮まるといへども、鎮西八郎為朝といふすでっちめ行方知れず、このごろ聞けば東国にて軍勢催促して、鼠の巣ほどの城に籠らんとひしめく由。兄弟の縁につるゝ病気、虚病か実病か、よし実病にもせよたびたびの使、杖に縋ってもくるはづ。なまぬるき女を名代に遣はすは、禅閤を侮ってか。返答あらば言へ聞かん、何となんと」と決めつくる。「これはこれは思ひがけないお疑ひ、御もっとも様ながら、二心のないことは、忠義に替へて親を討つ、義朝が心の内、御推もじ下さりませ。このごろの心地も、根はそれが病の元。御出仕が遅なはってはと、夫に替はって参りしは女の鼻の先智恵。〈地〉ほんに時世とは申しながら、禅閤様も帝様をお流しなさるゝは、さぞお心のお苦しみ」と言はせも立てず、「〈詞〉黙れ女め。さてはうぬ禅閤を嘲りにうせたな。京中の町人どもが、我がことを逆臣なんどゝそしる由、大方うぬらが触れ歩いて、愛想つかさせんためか、但し禅閤を逆臣といふには証拠ばしありや」と、〈地〉もっての外の顔色を見てとって、「ホヽヽヽ。〈詞〉わっけもないこと御意遊ばす。あの結構な御慈悲深い禅閤様に、逆臣などゝはもったいない。をなごの及ばぬ推量ながら、この度帝様をお流しなさるゝは、やっぱりあなたのお主思ひ。なぜとおっしゃれ、九重の内におはしませば、たまたまの御幸も山科か交野か、つゐ都のほとりばかり。御窮屈な御住居、お精の尽きるはぢゃうのもの。罪なうて配所の月とやら、禅閤様がお流しなされますればこそ、珍しい島々の風景を御覧遊ばす。帝様のためには大忠臣。それに下々の何のかのと、なんぼほど謗ってもくっさめ一つ遊ばさぬ、御達者な禅閤様、何やらが世に憚ると、その様に申すほど神が堅いと申します。〈地〉御寿命の長い瑞相、おめでたやおめでたや。これと申すも仏性なお生まれつきから、如来様の証拠には、めったにお光り遊ばします」と、〈フシ〉立て上しに上されて、
さしもの禅閤向ふ獅子べし、唐獅子頭ほいやりと「〈詞〉ホゥでかしたでかした。禅閤が前にて、それほどにもの言はん女覚えなし。その器量を見込み、早速申しつくる用事あり。中納言雅頼が娘浮寝の姫は、千里の宮と密通してゐる由。宮の行方知らざることはあるまじと、引っ立てに遣はしたり。汝が弁舌を以て責め落とし、言はずば骨をひしいで拷問せよ。〈地〉心得たるか」と御上意は、耳にこたゆるお主の姫君。はっととむねを紛らして、「〈詞〉これはまたあられもない。拷問とやらつゐに見たこともない役目。話聞いてさへぞっとする水責め火責め、責めらるゝ人より、こっちが先へ気を失ふは知れたこと。殿たちを差し置いて、姫御前に髭出せの御難題。〈地〉こればっかりは御許されて」と辞退をさせぬ無体の景綱、「〈詞〉ヤァ女とは言はれまい。義朝が名代に来たれば、けふ一日は左馬頭義朝。辞退するはムヽ合点、お身はもと姫の家来、梅津庄司が娘。かばふてもかばはせぬ。伊藤武者も立ち合ふて、矢柄責め、鉄砲ひしぎ、〈地〉用意々々」と言ふところに、「〈詞〉浮寝の姫を生け捕って、只今これへ」と申す声。「両人ともに言ひつけたぞ。〈地〉ぬかるなやっ」と言ひ捨てゝ、〈フシ〉帳台深く入りければ、
伊藤武者立ちはだかり「これからが大事の詮議。〈詞〉ソレ家来ども、めろさいめを引き出だせ。〈地〉水くらはせて白状させん」と睨め回す赤目玉。責めらるゝより責むる身の、胸は涙の水責めや、浮寝の姫は鵜遣ひの、うきに御身をたぐ縄の、つながる人のあるぞとも、白洲に落つる白粉の、柳に残るはだれ雪、〈スヱ〉消ゆるを願ふその風情。
生まれついて色事にやくたいなる伊藤武者、姫の器量にうっかり見とれ、髭口くゎっと睨んだ目玉糸薄、詮議のことはどこへやら、〈フシ〉鬢撫でつけて色どる体。
常盤は姫のいぶせき姿、見れば見合す互の顔、「常盤かいの」と言ふ先折って、「〈詞〉コレコレ聊爾言ふまい。いつもの常盤とは違ふ、けふは詮議の役人。千里の宮の御行方、知ったら知った、知らぬなら知らぬと、ナ、大方お知りなされまい。つゐ知らぬとありやうに、ナ、サ白状々々」と、〈地〉めまぜで知らす詞の謎、常盤の情け汲み取って、「宮様は賤花が連れ立ち退きしとばかりにて、真実知れぬ御行方。自らも逢ひたい見たい、お尋ね申してたもいの」と、〈フシ〉後先しどけ泣き給ふ。
「〈詞〉アレあの通り知らぬとあれば、もふ詮議には及ぶまい。言へばしどない振袖の、あの子が知らふ様がない。ナそふは思し召されぬか」と、〈地〉言へども耳へ入らばこそ、「なるほどなるほど、〈詞〉何はともあれ良い器量。我ら振そが大好物」と〈地〉取ってもつかぬ挨拶に、さては色ぞと気のつく常盤、「〈詞〉かう役人が揃ふたからは、どんなことでも問ひ落とす、ナ落とす。落としたがよからふではあるまいか」「いかにも、拙者も落として見やうと存じてをる」「イヤこの常盤が落として見せう。古主の縁でも構はぬ証拠、落ちずば用意の責め道具。〈地〉それ水々」と気を持たせば、「〈詞〉アヽこれ、さりとは無得心。あの気の弱い姫に水呑ましてたまるものか。女を責めるは拙者が得物、〈地〉我らに任しておかれよ」と近く立ち寄り「〈詞〉ヤイ女め。おのれ美しい顔をして、宮めとぬっくり抱かれて寝おろふ。思へば思へばにっくいやつ。水責めよりこの景綱、火が高ぶって堪忍ならぬ。これからは身が責め道具。尻も股もつめり上げ、餅搗き責めにしてくれん、〈地〉サァうせう」と引っ立つれば、「なふ知らぬこと問はふより、いっそ一思ひに責め殺して下さんせ」「〈詞〉何ぢゃ、責め殺してくれい。ヤこりゃたまらぬ」と〈地〉夢中になって抱きつくを、すかさず常盤引きずりのけ、「〈詞〉サァ景綱殿、縄かゝった」「ヤァ何と、縄かゝれとは何の科で」「言ふまいいふまい。大事の詮議の役人が、科人を捕へ今の放埒。手放しておいたら、どんなことがでけふも知れぬ。こなたにも縄かけておいて詮議さす」「イヤこいつ、めらうの分として慮外千万」「イヤけふ一日は女でない、左馬頭義朝。縄かゝらずば今のしだら、禅閤様へ申し上げふか」「それ言ふてたまるものか」「いやなら縄かゝるか」「サァそれは」「サァサァ何と」と、〈地〉理屈に詰まって是非に及ばず手を回せば、かくる手際も義朝の魂顕る妻の役、姫の縄目に括り添へ、つき合したるせなと背、「〈詞〉サァこれで自堕落の気遣ひない。とっくりと御詮議なされお役人、後刻お目にかゝりましょ。〈地〉御苦労様や」と奥に入る。
あとを眺めて苦い顔、「〈詞〉頭掻かんも手は叶はず。とても括ってくれるなら、前向かしては縛らいで。尻つめらふも手がいかぬ、誰ぞ水かけてくれぬか」と、〈地〉見回せども人は来ず、うろうろくるくる回るうち、ふっと気がつき「〈詞〉コレおむすさん、俺が手には解かれねど、こな様の手で解けば解かれる。コレ善根ぢゃ、解いてもらふたあとで拝もふ。〈地〉頼む頼む」と身を揉めば、「〈詞〉わしゃ手が痛ふて得解かぬ」「ヱヽどんな。そんならこな様のから解いてやろ。あとで俺がの頼むぞや」と、〈地〉君を思ふも身にかゝる、なんなく解けし縄よりも、常盤の情け伏し拝み、「〈詞〉てもよふ解いて下さんした」と、〈地〉嬉しさ足も浮寝の姫、落ちて行方は「〈詞〉南無三宝。大盗人め待ちをれ」と、〈地〉駆け出す向ふへ平長盛、「〈詞〉ヤァ伊藤武者、この縄目は何故」と、〈地〉問ふ間も立ち聞く常盤御前、「〈詞〉その景綱は浮寝の姫を、助けて逃した科によって、自らがいましめし」と、〈地〉半分聞かず「〈詞〉さては景綱二心。言語道断、禅閤の御前へ引き、矢柄責め鉄砲ひしぎ。常盤御前でかされた」「そんならわたしはもふお暇。夫の替りに参った常盤、夫の役目済んだるときはまた常盤」〈地〉元のお内儀左馬頭、お上の首尾は義朝の〈三重〉妻の機転ぞ「類なき。
唐土に戸ざゝぬ御代のためしあり、今保元の都には、父子兄弟の仲さへも、二つに分かれいちじるき、左馬頭義朝の館の有様、願ひ訴訟はいふに及ばず、父の忌日の追善さへ、弥陀の利剣の血刀に、観音薩埵の御弓も、仏の庭の戦の場、まことに光陰矢のごとし、けふ七七日の弔ひ供養、七々四十苦はもてど、変はらぬ色の常盤御前、みそぢにはまだ五つ六つ、〈フシ〉子持ちとさらに見えざりし。
廟参より立ち帰る、鎌田兵衛正清、長髪に麻上下、しづしづと打ち通れば、「〈詞〉正清下向召されしよの。改め言ふには及ばねど、為義様の御最期、子の身として父御を討つ、夫義朝様のお心根、〈地〉義によってとは言ひながら、浅ましき世の有様。その上禅閤忠実公への聞こえとあって、自らを始めおぬしまで墓参りも仏間へも、そなた一人にふり向けて、嫁と呼ばれし甲斐もない、心を推量してたも」と、胸に積もりし憂き涙、〈中フシ〉保ちかねてぞ見えにける。
鎌田兵衛もさしうつむき、しばし詞もなかりしが、「〈詞〉御愁傷察し入り奉る。お墓参りの御名代、仏間の膳具、お茶湯、香花までそれがし一人に仰せつけられしは、まだしもの身の冥加。〈地〉たとへ七五三を以て、千日千夜百味の飲食おんじき据ゑたりとも、主人を討ったる冥罰、何としてつぐなはれう。〈詞〉アヽこれもいらざる繰りごと。殿には早御出仕なされしか。若君今若・乙若様のお顔も拝せず、こしもと中気をお付きやれ」「イヤなふ、義朝様は今朝ほどより、お心悪いとおしつらひ、わんばくたちの悪遊びも気の毒故、二人ともに下屋敷へ遣はせしが、ほんに気がつかなんだ。〈地〉そちたちは屋敷へいて、昔話の伽の役、必ず喧嘩させまいぞ。早行けいけ」に「あいあい」と〈フシ〉皆々打ち連れ急ぎ行く。
常盤御前は袂より、念珠取り出し仏間に向ひ手を合せ、「南無尊霊出離生死、頓生菩提」と回向ある。その隙に鎌田兵衛、勝手に入って仏間の御膳、死出の山路の高盛を、嫁と呼ばれし冥加ぞと、通ひの給仕常ながら、この世あの世の中敷居、夫の言葉重ければ、立て切る障子もろともに、心も塞がる常盤御前、思はずわっと泣く涙、〈フシ〉三途の川と隔つらん。
折もこそあれ誰が射るとも、白羽の尖矢植込みの、松の下枝にはっしと立つ。さすがは源家の北の方、驚く色なく常盤御前、するすると歩み寄り、矢を抜き取って矢文の書面、繰り返しくりかへし、「〈詞〉ハテ心得ぬ。夫義朝殿を差し置き、自らに対面せん、鎮西八郎為朝より。合点の行かぬ。〈地〉行方の知れぬ御身の上、うかつに御出では」ハァどふかかうかと思案のうち、襖あらはに押し開かせ、「鎮西八郎為朝」と、名乗って来るは妹の桜木。重藤しげどうならぬ繁縫の、襠姿ぼんじゃりと、殿御の肌は白歯の振袖、ぴんと目元の三日月眉、おめず〈フシ〉臆せず座に直れば、
常盤御前は不審顔、「〈詞〉コレ桜木。為義様のおなかうどで、いひなづけなされし上は、嫁入りせねど夫婦も同然、八郎様にしてやらふが、仔細あらふ。〈地〉様子聞かしや」とありければ、「〈詞〉姉さんの良い御推もじ。為義様のお世話にて、いひなづけは済んだれど、折悪い戦半ば、八郎様もどこへやらお行方知れず。ほんに姉さん恨んでゐる、さいさいやゝを産んだほどにもない。わたしがことは打ち捨てゝ、嫁入りのよの字も言ひ出しても下さんせず、為義様も聞こえぬ仕方、死ぬるなら嫁入りのこと世話焼いてしまふてから、斬られなりと死になりと、〈地〉仲人は宵のほど、そこに構ひはなけれども、ほんに聞こえぬ浮世ぢゃ」と、女心のぐどぐどと、〈フシ〉訳も涙にくれゐたり。
姉もうっとり顔眺め、「〈詞〉あんまりでものが言はれぬ、ちっとまぁたしなみや。もふそなたも明けて十七、とゝ様は誰あらふ中納言雅頼卿の御家人、梅津庄司義法よしのり様。今では隠居の御身分でも武士の家。最前の矢文の面、そなたの筆とは知ったれど、鎮西八郎為朝と書きやったからは、まそっとらしい良い分別もあることかと思ふたに、いしこらしい恨み言。こりゃまた甘やかした母様と、談合づくでおぢゃったの」「さればいな、母様と談合してお行方を尋ね、夫婦になりたいと言ふたれば、『イヤイヤ、女の一人大胆な。たとへ巡り逢ふたりとも、姉の常盤は義朝殿の妻、その妹のそなたなれば、ヲヽでかした、夫婦になろとはおっしゃるまい』と、〈地〉道理に迫った母御のお詞。そこでわたしが才覚には、『〈詞〉八郎様になり替り、義朝様をたゞ一太刀』と言ふならば、『ヱヽ憎い妹め、姉と思ふな〈地〉勘当ぢゃ』とおっしゃるは定のもの。その勘当状を不肖ながら、さらさらと書いて下さんせ。〈詞〉それを証拠に八郎様にお目にかけなば、つゐ夫婦になられそふなものゝ様に存じます」と、〈地〉跡先揃はぬおぼこでも、〈フシ〉恋には抜け目なかりけり。
ものをも言はず常盤御前、ずっと立って入らんとす。裾に縋って「コレ待った。〈詞〉大事を人に打ち明けさせ、返答もなされぬは、お気に入らぬか。なるならざれを聞き切らねば、一寸もやりませぬ」と〈地〉引きとゞむれば振り放し、「〈詞〉こっちにどのよな思ひがあるやら闇の夜の礫、隙らしい、早帰りや」と〈地〉また行き過ぐるを立ちふさがり、「〈詞〉コレ姉様、勘当状とはおまへを思ふわたしが了簡。いつぞや八郎様のおっしゃるには、『姉の常盤をたゞ一矢恨みてこい。兄弟の縁切れたれば、夫婦になろ』とのお詞を、畏まったと請け合ひしが、〈地〉よふ思ふても見て下さんせ。妹の身としてそもやそも、どふ姉様が射殺されませう。こゝの道理を聞き分けて、勘当状をたゞ一筆。姉様頼む、コレ拝む。頼む拝む」と泣く涙、姉を思ひの真実心、〈中フシ〉理せめて道理なり。
常盤御前も胸痛み、姫御前同士さへ姉のこと、思ひやりもあるものを、さぞや夫義朝様、てゝごを討っての御手柄は、口惜しかろ、無念にも思されんと、せきくる涙とゞめても、〈スヱ〉とゞめかねてぞゐたりしが、
心弱くて叶はじと、「〈詞〉ものに狂ふか妹。常盤がいくたりあるものぞ。最前の矢文、自らが庭前の松枝に立ったれば、常盤を射たも同じこと。了簡して早帰りや」「姉様ヲヽあじゃら。この上は義朝様へ直々に」と、〈地〉駆け入るを引きとゞめ、「やらじ」ととゞむる常盤木に、負けじと争ふ桜木が、所体乱れし狂ひ咲き、はぎもあらはにしどけなく、小褄も裾もほらほらほら、襠ひらりと奥の間へ〈ヲクリ〉やらじと「姉も追ふて入る。
早暮れ過ぐる表の方、「御上使ぞふ」とひしめいて、平蔵人長盛、鴨居をこするのけぞり烏帽子、素襖袴いためつけて打ち通れば、館の主左馬頭義朝、上下改め出で向ひ、「〈詞〉これはこれは長盛殿、御上使御苦労千万。それがしもこの間は鬱々として出仕も不参。〈地〉いよいよ上にも御機嫌よろしくお入りあらん」と伺へば、「〈詞〉イヤ鬱症はさぞさぞ。忠義とは言ひながら、親を討ってのお手柄は、これまでにない図な功名。その上只今の上使余の義にあらず。禅閤忠実公の仰せには、戦には打ち勝ったれども、千里の宮、鎮西八郎、両人とも行方知れず。その上に神鏡と言ひ宝剣と言ひ、大切の二品ありか知れねば、位に即いても入我我入。父為義を討って、嬉しやと心許させ、八郎為朝と一致になり、逆寄せに寄せまいものでもないと、石に根継ぎのねちみゃく人、〈地〉右のお返事承って立ち帰れとの〈フシ〉上使なり」とぞ述べにける。
義朝にっこと打ち笑ひ、「〈詞〉この間の遅参故御疑ひ御もっとも。御返事までもなく只今すぐさま同道致し、千里の宮、鎮西八郎雲を分けて逃ぐるとも、搦め捕って見参に入れ奉らん。いざ御同道」「いかにもそれでは御疑ひもさっぱり。〈地〉御苦労ながら」と立ち上がる小庭の切戸。「下りませいさがりませい」と、とゞまる侍、止まらぬ町人、どやどやどやとうづくまり、「〈詞〉ハイ申し上げます。この間はお上にも何やかやお取り込み、公事訴訟はお聞きなされぬと聞いたれど、只今参ったは、どうでも下で済まぬこと。御苦労ながらお聞きなされて下さりませ」と〈地〉願へば下部が「〈詞〉お取上げはない、下がれさがれ」と決めつくれば、〈地〉長盛とゞめて「待てまて家来ども。〈詞〉公事訴訟の儀はそれがしと義朝殿両人が采配。何義朝殿、行方の知れぬ両人が手がゝりになるまいものでもなし。ことに下で済まぬといへばまづ耳より。こりゃ聞いておやりなされまいか」「なかなか左様。コリャ町人ども、御用多い中なれども慈悲を以て聞いてくれう。隙取ることはならぬ、早く早く」「ハァありがたい忝い。サァサァ五人組衆、宿老殿、〈地〉その科人と手負とを早ふはよふ」とどやめけば、心得てんでに荒縄でがんぢがらめの科人は、十六七の丸額、赤ばちくりし面つきに、のっさのさばる白洲の庭、畳とともにかいて出るは、手負と見えて痩せ親父、〈フシ〉布団の内にうめく声。
「〈詞〉ヲヽ痛いかいたいか、道理ぢゃ。追っ付け敵をとってやる、気をしっかりと持っていやしゃれ。ハァ申し上げます、お上にもお取り込みとござりまする故、かいつまんで申し上げます。こゝにゐらるゝ手負殿は、私が貸家、鰻屋作兵衛と申して、毎日毎日うまいかざをさすわろ。その息子殿はこれなる縄付き、名はごろたの金蔵。その力強、町中が持て余す。嫁入りの石打ちござれ六道ござれ、綱引きのお大将、その尻がきて親子喧嘩。商売の鰻ばかり裂いてゐればよけれど、よふ切れる鰻裂きで、お聞きなされませ、てゝ親の胴腹を二所まで。親父も大方今夜中。大それた親殺し、たとへ親父が本復しられても親殺し。ナ左様ぢゃござりませぬか。主殺しは竹鋸、親殺しは逆磔。ナ申し」と〈地〉皆まで言はせずごろたの金蔵、「〈詞〉ヱヽあたやかましい、ごたくばられな。よそほかの他人を殺す者か何ぞのやうに、現在の息子が親を殺すが何の科。心安いが親子の仲、貴様たちを突くにこそ〈地〉いかゐ世話であるはい」と、ぎょろりとしたる顔つきに、布団うごめく手負の親父、「〈詞〉ヱヽ罰当たりめ、〈地〉親殺しめ」と言ふばかり、また打ち伏したる苦痛の体、聞く義朝が五臓には熱湯注ぐ玉の汗、百千の雷も頭の上に落ちかゝり、喉に磐石押し込むごとく〈フシ〉肉も蕩ける思ひなり。
長盛声を荒らげ、「〈詞〉この方の手がゝりになることもやと、聞き届けくれたれど、ごくにも立たぬ願ひごと。素町人めら早帰れ、御用多いこの時節。〈地〉それ叩き出せ、ぶち出せ」と、例の荒気を止むる義朝、「〈詞〉しばらくお待ち下され。公事裁判の日限繰ってみますれば、当月は拙者が当番、その元は休日。待ち遠ながら御控へ下されう。申さば大それた科人、きっと糾明仕らん。鎌田はなきか、正清々々」と召さるれば、「〈地〉はっ」と答へて仏間より、刀提げ立ち出づれば、「〈詞〉その方に役目あり。あれなる手負めが傷改めよ」〈地〉畏まって庭に飛び降り走り寄り、布団引き退け手負の顔、「〈詞〉コリャコリャ鎌田、とっくりと傷口も見届けたか」「ハッ」「いやしかと改めたか」「ハァなるほど、とっくと見届けましてござります」「ムゥその金蔵とやらめが縄を解け。何を猶予、早く解け。町人どもつっと出よ、〈地〉罷り出よ」と怒りの顔色。長盛は不思議顔、気味悪そふに町人ども、おづおづ出づれば「ツヽつっと寄れ」「〈詞〉ハイハイ」「いやさこはいことはない、つっと寄れ、つっと寄れさ。最前から承れば、親を殺せし者は大それた科人とな」「ハイ、左様なものそふにござります」「黙りおらふ。下として上をはからふ慮外者、この義朝が千変万化に砕く魂、おのれらごときが知るべきか。コリャうぬ誰ぞに頼まれたな。但し敵方の回し者にて、この義朝を嘲弄せんとや。言語道断にっくいやつ。第一親父めが不届き者、たとへ倅がなるほど親を斬ったりといふとも、親の慈悲にはナ、『いや左様ではござらぬ、人の喧嘩を取りさゆる、彼めがけがでござる』なんどゝ、子を恵む心あらば、陳じやうもあるべきに、親殺しめ、罰当たりめと、義朝が耳を突き抜く最前の詞の端。正清、その親父その方に預ける。奥庭の離れ家へ打ち込み糾明させよ。倅めはまた器量あるおこのやつ、親を突くとは上を学ぶ下、出かしおったよ。家来どもに預けおく。町人めらも一つ部屋に押し込みおけ。詮議の残るやつばら引っ立て行け。正清抜かるな、〈地〉心得よ」と、常に変はりし不機嫌無骨。「〈詞〉長盛殿何をきょろり。イザお立ちなされぬか」と、〈地〉とがとがしさにびっくりし「〈詞〉げにまこと、お腹立ちは御もっとも。ヤイ町人めら、この長盛が当番ならば、一々首を並ぶるやつ。仮令けれう義朝殿が、結構を裁かるればこそ。ハヽハヽいざお先へ」「然らば左様」と先に立ち、畳蹴立つる式礼無礼、明けて言はれぬ胸の蓋、瞼でうなづく心の底、預ける義朝、預かる正清、目はもの言はねど主従が〈フシ〉心残して別れ行く。
早更け渡る時計の音、館もひっそと静まりて、寝よげに見ゆる庭の大木ゆさゆさゆさ、ねぐら驚く村烏、ともにひらりと鍵縄に、飛鳥のごとく鎮西八郎、庭にすっくと力士立ち、〈コハリ〉奥を窺ふその形相、せなにしっかと大雁股、鷲の羽の尖矢二筋、人に勝れし強弓は、〈ナヲス〉十人張に三十束、弓手に横たへ広庭の草木も揺るぐ大音上げ、「〈詞ノリ〉左馬頭義朝はいづくにある。父の鬱憤報ぜんため、鎮西八郎為朝たゞ一人向ふたり。恨みの一矢はこの雁股。寝とぼけ武士の寝巻ながらは物騒々々。甲冑でも帯し首筋の用心して出合はれよ。見参々々」と呼ばゝったり。〈地〉音に驚く常盤御前、手燭てんでに桜木が、恋しゆかしい夫の声、聞くより庭に走り下り、「ヤァ八郎様か。おゆかしかった、逢いたかった」と抱きつき、〈フシ〉嬉し涙ぞ道理なる。
常盤御前はしとやかに、「お珍しや八郎様。〈詞〉お行方の知れざる故、桜木もろともどふかかうかと、案じ暮らすは御兄弟の不和なる御仲、〈地〉父御に離れし御身の上、どふぞ一家丸ふなる、御了簡はあるまいか、なふ妹」「〈詞〉それそれ、それではわしが嫁入りも近づく。〈地〉何やかや嬉しいだらけ。申し申し」に見向きもせず、「〈詞〉黙れめろさい。喪に籠ってゐる八郎、三年の間は大忌みごと。ことに千里の宮の御行方尋ね求め奉らんと、軍勢催す八郎が、忍んできたは一分別。義朝に対面とげ、この八郎が了簡、おゝとあらば兄弟仲も丸ふなる。いやと言ふたら絶体絶命、一口商ひ。義朝はいづくにある、臆病神の出ぐすみか、〈地〉引きずり出さん」と駆け込むを、「しばらく待って下さりませ。〈詞〉夫義朝出仕の留守、帰りも未だ隙取らん。〈地〉何にもせよ丸ふなるとは嬉しいやうな。御心底そと聞かしてたべ」「ヲヽよふおしゃんした。早ふ様子を仔細を」と、兄弟寄ってせり立つれば、「〈詞〉ヲヽ女心に案じるは理。たとへを取って言ひ聞かさん。この弓引いてみられよ」と、〈地〉言ふに常盤が「ホヽホヽヽヽ。八郎様のめっそふな。音に聞こえたおまへの弓勢、百人寄ってもそれがマァ」「〈詞〉然らば桜木と一所になって引いてお見やれ」「アイアイ、〈地〉そんなら姉様二人して、引いて見ようぢゃあるまいか。何のその女の念力、岩をも通す」とおとゞいが、弦に手をかけ両手をかけ、「ゑいやゑいや」と声揃へ、引けども引けどもいかなこと、「ヲヽ痛、〈詞〉手の皮が破れるはいの」「ハヽヽヽ、女の力ではそのはづ、そのはづ。まっそのごとく心と心が一致せねば、苧がらの鉾に灯心の弦でも引けぬ引けぬ。コレよく聞かれよ。常盤御前は義朝替り、桜木は鎮西八郎よ。〈地〉鉾はすなはち弓矢神正八幡の鳩頭、握り手前、握り先、取りも直さず士卒の駆け引き。〈詞〉弦も引っ張る親子の縁、持ったる腕は父為義。サァ心を一致に今一度引いてみよ、早くはやく」と〈地〉諌めに兄弟弓の弦、鉾を握りし八郎が、飛び石煮え込む片手の力、ぐっと押したる呼吸とともにおとゞいが、引っ張る弦は女の力、〈フシ〉三つ伏せばかり引き絞れば、
「〈詞〉それ見たか。心と心が一致すれば、矢頃一ぱいこの通り。放すとそれそれその通り、まっこのごとく親子三人、一致になって戦せば、敗北はせまいもの。〈地〉眉に火のつく戦場故、親も討たれて兄弟も散り散りになる武運の末、ヱヽ無念やな、父の最期の御顔も拝せぬことの口惜しさ。肝は八つ裂き、五体をばたゝらに踏まるゝ思ひぞ」と、しめ木にしめる血の涙、〈スヱテ〉はらはらはらと嘆きしが、
「アヽ我ながら迷ふたり。〈詞〉かうばかりでは済まぬすまぬ。この上は義朝に直々に見参し、親を討ったる兄なれども、この八郎が前に頭を摺りつけ、今日よりは千里の宮の御味方なりと降参せば、父為義がながらへあるも同然。親の敵を宥免いうめんし、今宵すぐさま館を立ち退き、千里の宮の御行方、尋ね求めて旗上げせん。〈地〉流罪と聞こえし天皇の、讃岐の浦まで押し渡り、浦々島々切り靡け、鬼ヶ島にも駆け廻り、〈詞ノリ〉九州二島の荒夷、いやと言はゞ打ちひしぎ、〈地〉味方に伏せば腰に引っ付け、一揉みに揉み破り、鯨波ときをどっと上ぐるならば、うろたへまなこの禅閤忠実、首打ち落として勝鬨上げん」と、心も剛に逞しく、詞ににべも飾りもなき、夷に引かせし強弓を、女二人に弓の引きごと、〈フシ〉めざましくもまた潔し。
二人はぞくぞく勇みをなし「嬉しいうれしい、おめでたい。夫の帰りに間もあるまい、それまでにさゝ一つ。妹奥へお供しや」「〈詞〉アイアイアイ、さゝよりはマァちっとの間お休みなされませぬか。〈地〉幸にわしが寝間も引いてある」「〈詞〉ヤァまたぬかす。イヤこれ常盤殿、義朝が帰らるゝまでぐったりと一いびき。うぬまたそばへうせまいぞ。三年が間は大精進々々々」と〈地〉奥へ歩めば桜木が、心も浮かぬ不肖顔。「姉さん聞いて下さんせ。たまたま逢ふた恋男は、大精進々々々と、〈詞〉精進多い聟様で、〈地〉嫁御寮が呆れる」と、〈トル〉つぶやき奥へ「伴ひ行く。
すでにその夜も明け近く、星もきらめく天の川、今宵一夜を百夜とも、恋にはあらぬ左馬頭、我が家へ忍ぶ兜頭巾、庭の切戸のきりきりきり、勝手覚えし飛石伝ひ、奥の一間の縁側に、忍ぶ足音忍び声、「正清々々」とありければ、耳にこたへる鎌田兵衛、「畏まった」の声より先へ、いきり切ったる鰻屋作兵衛、「〈詞〉ヲヽ待ってゐた、待ち兼ねた」と〈地〉走り寄って義朝の胸ぐら、しっかと取ってどふど引き据ゑ、「〈詞〉コレ親殺し殿、よふ聞かしゃれ。コレ俺も中納言雅頼卿の御家人、梅津庄司義法。今では隠居の身分なれども常盤が親、少分ながらこなたの舅。その舅がコヽこれこのざま。家来を始め小者までを、町人にこしらへてきた心は、町人の魂と侍の魂と、磨き比べて見せうと、思ひ込んできたれども、折悪い長盛が居合せ、むごむごする口をこらへてゐたは縁者だけ。いかに女房の親ぢゃとて、あなづって下さんなや。忠義ごかしに親を殺し、身のためになるか、家のためになりますか。ひょかすかした侍でも、あり様の魂と俺が魂はお月様とすっぽん。源義朝で候なんどゝ、刀の手前恥ずかしうはないかいの。町人に劣った土根性、コレ親の罰が子に報い、アノ今若・乙若といふ二人の孫、成人の後源氏は散り散りばらばらになって、どんな憂き目に遭ひをらふかと、ばゞと二人は夜の目も合はず泣いてばっかり。ほんにほんに情けない、いっそ腹切って死なしゃれや。コレ聟や子を息災なやうにと、神仏を祈るのが親の道。その親が腹切らしゃれと勧めるは、こなたを侍ぢゃと言はして、源氏の家を末の世まで、孫どもに継がせたいばかりぢゃはいの。言ふこともこれまで、イヤこゝに一匹猫殿がゐらるゝ。ヤイ主殺しめ、いけまじまじとその面付き。うぬも腹切れ、俺も切る。腹切り勝手の良い様に鰻屋作兵衛、ナ聞こえたか。サァ切らんか、切りをらぬか」と〈地〉詰め寄って、老の一途の腹立ち涙、義朝主従諸手を組み、〈フシ〉さしうつむいて詞なし。
「〈詞〉二人ながら得死なぬか。そのはづ、そのはづ。侍でなければ腹の切りやう得知るまい。俺が先へ死んで見せう」と〈地〉義朝の刀抜き取り諸肌脱ぎ、すでにかうよと見えたる仏間の障子を開き、誰とは知らずつっと寄り、庄司が刀踏み落とし、すっくと立ったるその有様、香の煙にふすぼりて、腰に降魔の利剣を帯し、かはる姿は墨染めの、「ヒャア、〈詞〉六条判官為義殿。こりゃどふぢゃ、〈地〉夢ではないか」とさし覗き、「ほんに為義殿ぢゃ」と喰ひ違ふたる、次の襖閉め明けに、父の存命落ち着く八郎為朝が、兄の心はいかゞぞや、夫の心底いかゞぞと、窺ふ常盤・桜木も、目と目を見合せ息をつめ、〈フシ〉襖に引っ添ひ聞きゐたり。
為義はしづしづと、ものをも言はず仏間に向ひ、払子に払ふ仏の清め、真言秘密の無言の法、床几にかゝって黙然たり。義朝やうやう頭を上げ、「舅殿の御恨み、もっとも至極。〈詞〉父為義存命といひ、ことに五十日の中陰過ぐるそれまでは無言の行。これすなはち仏ののり。この義朝主従が忠孝を思ふ一心は、なかなか一朝一夕のことにあらず。連れ添ふ女房はさておき、猫鼠にも知らさぬ一大事なれども、〈地〉聟を思ひ娘を思ひ、孫子の末の末までも、思いやっての御憤り、明かさずばあるべからず。〈詞〉鎌田兵衛も主殺しでない申し訳、包まず語れ」とのたまへば、〈地〉正清はにじり寄り、「御諚なくとも最前より、申し上げんと存ずる折から、一通り聞いてたべ。〈詞〉それがしが親にて候鎌田左衛門、為義公とは御同年なりしが、五年このかた業病にて足腰立たず、打ち伏したる折もこそあれ、このたびの戦ひありと聞くより、それがしを枕に招き、『畳の上の往生は武士の本意にあらず。時に望みし今度の合戦、御親子引き分かれての戦ひとや。戦場にて切腹せば、どちらの道でも忠義は立つ』とひたすらに頼みし故、義朝公へ言上し、御召し替への鎧櫃に父を入れ置き、御供させし時こそあれ、院方すでに敗北し、落ち行き給ふ為義の、御身を隠すも鎧櫃。長盛に見顕され、親を討たぬは二心と、手詰の一言のっぴきならず、『ソレ鎌田』『はっ』とお受けはかねての望み、父が入ったる鎧櫃、何言ふ間もなく首打ち落とし、朱に染まりし白髪首。『サァ為義の首受け取られよ』と、見すみすのくらましもの、長盛が眼前に差し付くれば、邪智深き蔵人長盛、二言ともなく為義公と思ひ受け取ったり。ハッアありがたや、父が忠心天運に叶ひし故、それがしにまで忠を立てさせてくれられしは、子を恵む父の御恩と、立ち帰ったる今月今日、よくよく思ひ廻らすれば、為義公と思ひ受け取ったる故、末世末代義朝は、親を殺せし大罪人と、源氏の家名を汚せしは、我々親子が忠孝を〈フシ〉立てすぎたる故。孝を立つれば忠義欠け、忠義立つれば孝もなし。へヱヽよっく武運に尽きしよな。さぞ口惜しふ思すらん」と主人の前へ擦り寄れば、義朝も正清が手を取って「いやとよ。汝親子が忠孝故、父為義の存命は我が孝行」「〈詞〉イヤイヤ、その孝行は内証にて、表はやはり親殺し。主も家来もかほどまで、弓矢神にも仏神にも、見捨てられたか」「ヤレ鎌田」〈地〉「義朝公」と握る手も、砕くるばかり嘆かるれば、庄司は畳に食いついて、先非を悔いし誤り涙、無言の為義喉まで、突き込む涙こたへても、こたへ兼ねたる四人の涙、次の一間に三人みたりの涙、四人三人七人が、涙は一つ七瀬川、〈フシ〉夜の間に増すもかくやらん。
正清重ねて、「〈詞〉かく物語いたせし上は、父が追腹、おさらば」と、〈地〉差添ひらりともぎ取る為義、我が腹へぐっと突き立て引き回せば、「これは」と驚く主従より、八郎たまらず飛んで出で「こは何故の御生害。〈詞〉コレ申し八郎なるぞ」「コレ父上、義朝なるぞ」「コレ申し、御切腹なされては、仏の教への無言の行、御罰は何となさるゝぞ。これこれこれ、気を確かに持ってたべ」と〈地〉いたはり起こせば今はの為義息をつぎ、「〈詞〉仏の教へを背き無言の咎を思はぬは、おこと兄弟、嫁たちにも詞かはして死にたさ故。最前八郎為朝が入り込みしを疾く知るより、あら嬉しや、兄弟心一致して、千里の宮を世に立つれば、ながらへて詮なき為義、無言も命も今宵が限り。八郎が見る前にて、義朝に渡すべきものあり」と、〈地〉腰に帯せし降魔の利剣、帯取解いて義朝の手に渡し、「〈詞〉それこそ三種の神器の一つ、十握の御剣。流罪にまします天皇より、鵜丸と名を替へ預かったる御剣なれども、八郎は行方知れず、義朝は表向き敵味方、とやせんかくやと思ふうち、今宵思はず兄弟が心の一致、宮の行方知るゝまでは、義朝が手に預け置き、〈地〉八郎は一刻なりとも千里の宮に巡り逢ひ、この通り申し上げよ。〈詞〉随分兄弟仲良くせよ。常盤・桜木、あいやけ殿、〈地〉孫どもがこと大切に。申し置くことこれまで、これまで。〈詞〉コリャ正清、唐土はいざ知らず、日本の鑑となるは、その方親子が忠義ぞや。〈地〉その忠義を感心の余り、為義が褒美くれん。〈詞〉勘当ぢゃ」「〈地〉ヱイ」と驚く一座の人々。「〈詞〉イヤサ驚くことはない。主従の縁切って、介錯せよ、首を打て。我に替りし左衛門は主人へ忠、勘当受けてそれがしが首を打てば親への孝。なんとなんと」「ハァ」〈地〉はっとは言へど立ち兼ぬれば、「〈詞〉ヤレ打て」「ハァ」「孝行の道忘れしか」「ハッア、はっ」〈地〉と刀提げ後ろへ廻るも弓矢の義理、皆々合掌、まなこを閉ぢ、口に称名経陀羅尼、正清刀ひらりと抜き、弓矢神正八幡、許させ給へ南無阿弥陀、「南無阿弥陀、南無阿弥陀」〈フシ〉首は前にぞ落ちてげる。
常盤・桜木、御からを、押し動かせどその甲斐も、泣き沈みたる庄司義法、落ちたる刀拾ひ上げ、髻ふっつと押し切って、為義の着せし衣肩にかけ、首脇挟んで走り出で、「我は死しても甲斐なき体、生き長らへて為義の御跡を弔はん。〈詞〉義法よしのりの文字をそのまゝ、法名を義法ぎほうと改め、七条大通寺の御寺は、六孫王の御墓なれば、〈地〉先祖に並ぶるこの首」と、侍やめし出家気質、〈フシ〉言ひ捨てつっと出でゝ行く。
跡見送りて人々は、とりどり嘆きの折こそあれ、縁の下よりぬっと出る忍びの両人小躍りし、「〈詞〉ヤァヤァ義朝、禅閤忠実公かくあらんと思し召し、忍んで聞いたるこの通り長盛殿へ訴へ、たった今押し寄する。観念ひろげ」と駆け出づる。「〈地〉どっこいやらぬ」とごろたの金蔵、やり過ごして首筋掴み「〈詞〉コリャコリャコリャ」と引き戻し、桶据ゑどうど七八間、次にかゝるをかい掴んで車投げ、以前の忍びが抜き打ちを、「まっかせ合点」と腕首掴んで、ずでん胴骨しっかと踏まへ、踏みつけふみつけ踏みにぢり、〈地〉右と左に二人が首、何の苦もなく引き抜き捨て、〈フシ〉踏んぢかって立ったりけり。
義朝大きに感じ入り、「出かしたでかした。義朝が目がねに違はぬおこの者、〈詞〉汝が親も以前は武士、それ刀取らせよ、奉公這出の渋谷しぶたに村、正清が正の一字を取って、渋谷しぶや金王丸こんのうまる正俊と名乗り、〈地〉今若・乙若が乳父めのとに付け置く。忠勤励め」とありければ、「ハヽはっ」と飛び石に頭を下げたるごろたの金蔵、今若君の御成人、頼朝の御膝元、渋谷土佐坊正俊しゃうしゅんとは、〈フシ〉この金蔵がことなりし。
鎮西八郎にこにこ笑ひ「〈詞〉ホヽヽヽ、忠勤の若ばへでかすでかす。もはや明け方程近し、御暇申す」と〈地〉例の大弓横たへて、ゆらりゆらりと立ち出づれば、義朝声かけ「ヤレ待て八郎。〈詞〉父が遺言に任せしばらくは敵味方、やがて一致に旗上げせん。戦は時の運なれば、いづくにて空しくなるとも、源氏の家名を汚すなよ。〈地〉運尽きて義朝が、首は巷に晒すとも、魂髑髏に止まって、院宣を申し受け、倅が末々守るべし。汝も必ず忘れなよ」「〈詞〉何さなにさ、体は微塵に砕かれても、家の名字は汚さぬ八郎、仮にも敵の館へ来て、矢を放さぬは臆病たり」と、〈地〉大雁股を引っくはへ、きりきりと引き絞り、「内裏に弓引く同然」と切って放せば縁側の、鴨居に立ってゆさゆさゆさ、〈フシ〉弓矢の法ぞ潔き。
常盤御前も桜木も「随分おまめでお達者で、戦めでたく納まらば、嫁入りの三国一」〈詞〉打ち堅むるはごろたの金蔵、こんこん九献金王丸、〈地〉柾木の葛正清が、祝ふ常磐木桜木に、鶴亀すなはち仏具の光、これや菩提の為義と、心引かるゝ後ろ髪、見返る涙、見る涙、流れ流れし源氏みなもとうぢの、栄へを今に残しけり。






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