江戸期の「難波軍記もの」に関する一考察

文化期の浄瑠璃「八陣守護城はちじんしゅごのほんじょう」で、徳川家康に相当する人物が「狸親父」と呼ばれていたことについて、こちらで興味深い考察がなされていました。

https://tonmanaangler.hatenablog.com/entry/20160909/1473413629

さて、この作品について、「日本戯曲全集」の後書きで、「繪本太閤記さへ絶版の憂目に遭つた時代にこの浄瑠璃が無事に上演し得たのは、全く不思議と云つてもよろしい」とあったのが気になったので、少し考えてみました。ただ小生は、専門に研究しているというわけではなく、半ば片手間で浄瑠璃(ことに時代物)を濫読しているというていどで、造詣も諸先生方には遠く及びません。それゆえ、以下も誤認が少なくないかと思われますので、その辺お気づきの点があれば、ご指摘いただきますよう。

そもそもこの作品が、もっぱら京・大坂(以下、当時の表記に合わせて記します)で上演されたものであれば、多少取り締まりが不徹底であってもおかしくはありません。しかし本作は、遅くとも文化年間には江戸でも上演されており、またそれにクレームがついた記録もないのです。これはなぜでしょうか?その理由は、上記の「絵本太閤記」が絶版の憂き目にあった理由と表裏一体なのではないか、と小生は考えております。
大坂の陣を扱った、いわゆる「難波軍記もの」は、すでに享保初期に紀海音による「義経新高館」という、義経記の世界に設定した作品がありますが、こちらはまだ未見です。その次が並木宗輔の「南蛮鉄後藤目貫」で、こちらは太平記の世界に設定され、家康は足利尊氏になっております。しかしこの作品は上演禁止の憂き目にあいました。その原因の最たるものは、四段目で尊氏(=家康)が狙撃されるというシーンが刺激的すぎたからです。それにしても、享保年間にしてこんなラディカルな作品が現れたのも不思議と言えば不思議です。宗輔の作品の多くは、いわば一種の問題劇で、つねに暗い情念が漂っていることが多いのですが、それが思わぬところで噴出してしまったのかもわかりません。さらに不思議なのは、そのあと少しく和らげられたものの、同じモチーフで「義経新含状」なる改作が作られ、そして宝暦年間に入ってから、再び「南蛮鉄」に近づけたかたちでの改作がいくつか現れていることです。そしてそのひとつである「義経腰越状」でも、また似たようなトラブルが起きているのです。どんなかたちにしろ、ここまで危険を冒して現政権の出自を問う作品を懲りずに作ったのは、やはり大坂人の徳川政権に対する複雑な心情からでしょう。すでに大坂の陣が過去のものとなっているとはいえ、そのときの徳川軍の大坂市街での暴行が、あるいはひそかに語り伝えられていたのかもしれません。それから少しあとに、近松半二その他の「古戦場鐘懸の松」というのができましたが、こちらはかなり朧化されております。
そして明和になってから、近松半二の「近江源氏先陣館」を経て、その続編である「太平頭鍪飾たいへいかぶとのかざり」ができましたが、これも上演禁止になっています。しかし、なお終わることなく、その改作である「鎌倉三代記」が天明元年に演じられ、それより先歌舞伎でも二作ほど出ています。ばかりか、寛政期にも繰り返し同材のものが出ているのです(これらは未見)。かかる作品が増加したのは、八代将軍吉宗の薨去以来、徳川幕府の権威失墜が覆うべからざるものとなっていたことと無関係ではないでしょう。それかあらぬか、この種の作品は将軍のお膝元であるはずの江戸でも公然と上演されているのです。
これは他の近世に関わる作品にも言えましょう。太閤記ものは大近松のころからありましたが、けっして主流とはいえませんでしたし、近世に入ってからの事件を扱ったお家騒動・陰謀もの、あるいは仇討ちものの類も、元文ごろまでは、義士劇以外は天草軍記ものや由比正雪ものなどが若干あるぐらいでした。それが吉宗薨去直後の宝暦に入ると、それらの作品が、大げさにいえば雨後のタケノコのごとく現れてきたのは偶然のことではないでしょう。じじつ寛政期には、田沼騒動を扱った「有職鎌倉山」というかなり思い切った内容の浄瑠璃が出ているわけですから。

このような状況が続いて文化年間に至るのですが、ちょうど文化と改元して間もないころに、当時ベストセラー化しつつあった「絵本太閤記」が、突如絶版を命じられています。その評判の高さが公儀を危惧させるに十分なものであったことは推して知るべきですが、それは裏返せば、そういったものを警戒せねばならないほど、徳川政権の衰微は時間の問題となっていたと言えましょう。そんななかで、なぜ「八陣守護城」のような作品が出たのかというと、やはりそれも世相の反映ではないでしょうか。そしてそれが無事だったのは、ひとつは当局が圧倒されてあきらめたからであり、またひとつは、それが浄瑠璃という、すでにエンターテインメントの主流から外れたもののかたちをとっていたからでしょう。いずれにしろそれも世相が関係しているように思えます。しかし徳川政権の時代と同時に、旧来の浄瑠璃・歌舞伎の時代も終わりに近づいてきたということもいささか皮肉です。

余談ですが、難波軍記ものに対し、徳川勃興の端緒であった関ヶ原の役を描いた作品は多くありません。小生の読んだ範囲では、紀海音による「頼光新跡目論」と、天明3年の「石田詰将棊軍配」ぐらいで、かつ両方ともあまり出来は良くないのです。内容がどうであれ時代・人物さえ変えてしまえば通ったわけですから、遠慮というよりも、意欲が湧かなかったのでしょう。そしてそれは、大坂人が、徳川将軍を素直に尊敬できなかったことから来ているのではないかと、小生は解釈しております。


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