「昔男春日野小町」翻刻 三段目

〈地〉いちはやき月の冠を脱ぎかへて、今は情も厚額、在五中将業平と、よそ目にしるき家造り、内裏に軒も築地の高塀、武家にかはって門番の奴が髭に至るまで、和歌に和らぐ長袖の〈フシ〉家の風儀ぞ及びなき。
お側使のこしもとはした、一つところに寄りたかり、「〈詞〉なんと皆の衆、どふ思ふてぞ。このお館の殿様業平様は、昔はきつい色事しであったげなが、今はそれには引きかへて、それはそれは堅くろしい」「アノお朝のいやることはいの。なんのどこに堅くろしい。あのうきくさを毎夜々々引き寄せて、なにやらかやらよまいごと。ひょっとわしらも相伴せふかと、夜ざとう寝れどもいかなこと。かう男にかつゑては、大事の宝の持ち腐らし。どふぞ男に堪能する分別はあるまいか」「さてもきついお好様。それほど男が欲しいなら、八幡山へいたが良い。あの山を男山といふからは、男がぶらぶら木に生って、それでその名を木男といふといの」と、〈地〉仇口々も宮仕への憂さを忘るゝ〈フシ〉常なれや。
世に連れて小町の名さへ覆はれし、その萍と業平の、館をしばし仮初も、忘れぬ恋を隔ての襖、開く姿も艶やかに、「〈詞〉皆のお衆そこにかへ。殿様のお召しあそばす、〈地〉ちゃっと奥へ」としとやかに、知らする詞に「アイアイ」と、〈フシ〉皆々立って奥に入る。
跡見送って萍が、人なき折を幸ひと、振の袂の帛紗もの、結びとくとく取り出だす、位牌は母の亡き魂と、かたへに直し手をつかへ、「後の母様お町様、法名慈眼大姉頓証菩提」と、〈地〉手を合ししばし涙にくれけるが、「アヽ思へば思へば我が身ほど、親に縁なき者はなし。産みの母様、この母様、父上ともに三人の親に別れし身の上は、なんの因果の廻りにて、十三年の祥月の御命日のけふの日に、なにを供養、施しもまゝならぬ世に捨てられし、我が身の上のあじきなや」と、世を萍が根も絶えて、〈中フシ〉浪にしほるゝ風情なり。
「〈詞〉ヲヽその仏に捧ぐる供物、業平が得させん」と、〈地〉しづしづ一間を出で給へば、はっと小町は赤らむ顔。「位牌を袖に隠すに及ばぬ。遠慮は無用、〈詞〉倅少将と訳ある汝、とくにも聞かば仏事の営みさせんもの。差し当たる手向草、コレこれを供養に奉れ」と、〈地〉手に持つ一腰投げ出せば、不審そふに手に取り上げ、「〈詞〉刃物を仏へ供へよとは、合点が行かぬ業平様」「ヲヽ不審はもっとも。それこそは汝が慕ふ深草少将と、夫婦の縁を切れといふ暇の印。それを仏に供養するが、なによりの手向ぞ」と、〈地〉思ひがけなき一言に、小町はびっくり気もそゞろ、「とはとはいかに、とはいかに」と、おろおろ涙に業平卿、「〈詞〉ヲヽ驚くは道理々々。過ぎつる大内の騒ぎより、人知れず我が館に隠しおくは、なにとぞ倅少将と夫婦になさんと、思ひ寄っても任せぬは、穏やかならぬ時といひ、ことには両親もなきその方、密通などゝいはれては、小野・深草両家の瑕瑾。いかゞはせんと心を苦しむる折から、おことが家来五大三郎に廻り逢ひ、詳しき仔細聞きつるところ、その方は幼き時、死なで叶はぬ身なりしを、娘にかはって死したりし、母のお町が菩提のため、一生男持たさず、孀女で朽ち果てさせんと、父良実の遺言、知ったる者は三郎一人。勘当の身の上なれば、誰あって右の訳、言ひ聞かす者なければ、知らぬは理。なにごとも定まる縁と諦めて、少将がこと思ひ切り、〈地〉亡き父母の跡弔へよ。親のためには肉を削り、身を悪獣に任せしも、みな孝行の鑑ぞや。とはいへわりなき仲を断つ、心は鬼に業平が、詞を疑ふことなかれ」と、世にしみじみと語らるれば、小町はとかう泣きくづおれ、「悲しいお話聞くにつけ、我が身の上の恥しながら、少将様と我が恋を、たとへていはゞ伏籠にくゆる伽羅の香の、音ばかりしてねせぬ仲。せめて一夜の添ひ臥しに、別れの鳥を聞くならば、思ひ切るにも切られふが、どふぞ逢ひたいあひたいと、思ふ心を楽しみに、憂さを凌いでゐるものを、思ひ切れとはお気強い。親のためでもわしゃいやいや。許して給はれ業平様」と、〈フシ〉かっぱと伏して泣きゐたり。
心弱くて叶はじと、業平わざと声荒らげ、「〈詞〉ヤァ聞き分けなし、未練なり。その心とも露知らず、我が子大事と母きゞの、刃にかゝり死せし身の、よくよく子故に迷へばこそ、魂卒塔婆にとゞまって、子を助けたる親の慈悲、良実の遺言も、無下にする罰当たりめ。嘆くほど親が大切なら、聞き分けて縁切るか」「アイアイ」「いやさ、あいでは済まぬ。縁切ったといふ証拠が見たい。コリャこゝをよふ聞き分けよ。親子は一世、夫婦は二世、未来の縁まで切りはせぬ。いふこと聞かねば倅にかはり、未来永々縁切らふか」「アヽ申し申し、ふつふつ思ひ切りまする。未来はやっぱり〈地〉夫婦にすると、おっしゃって給はれ舅御様」と〈スヱテ〉わっとばかりに伏し沈む。
「〈詞〉ヲヽ聞き分くれば身も大慶。いよいよ思ひ切ったといふ確かな証跡どれ見たい」と、〈地〉根強き詞の裏釘に、返す詞も涙をおさへ、「〈詞〉アヽそのお疑ひもさることなり、なにをがなお心晴らし。ヲヽげに思ひ出だせし。過ぎにしころ七野の社へ詣でし折、お露といへる賤の女、少将様に心をかけ、自らにくれよとある無体の望み。大事の殿御思ひもよらずとすげなふも言ひ切りしが、少将様を思ひ切ったといふ証拠に、お露へやるが身の言ひ訳」と、硯引き寄せ筆しめし、訳も涙の玉章に、かくとも若ぬ悲しさの、〈半太夫〉よしや定めぬ世の中に、恋する人は多くとも、恨みわびたる仇人に、〈タヽキ〉我が恋人を小車の、憂しと思へば心消え、身もわなわなと震ふ手に、〈スヱテ〉あやなすことの散らし書き、よそ目に見やる業平も、切なる者の心やと、〈中フシ〉涙を胸に催せり。
小町は泣くなく文認め、「〈詞〉少将様へこの文を、お届けなされてくださるが、わらはが縁を切る証拠。〈地〉さはさりながら朝夕に、恋ひ慕ふたる少将様、もはやお顔を見ることもならぬ様になったか」と、わっとばかりに伏しまろび、〈中フシ〉前後正体泣き沈む。
業平も涙を隠し、「〈詞〉ヲヽさもありなん。誠の心、この上なにか疑はん。たゞありがたきは親の恩、必ず忘るゝことなかれ」と、〈地〉教への詞は法の道、恋の通ひ路せきとめし、仇は情の深草に、名のみばかりぞ肌触れぬ、あたら姿もあだ花の、昔語りぞ〈フシ〉哀れなる。
かゝる折節表の方、「〈詞〉基経公の御入り」と、〈地〉知らする声に業平驚き、「〈詞〉ハテ思ひ寄りなや、俄の入御。ヤァ誰かある、儲けの御座。〈地〉小町は一間へ、見つけられてはあしかりなん。奥へ奥へ」と勧めやり、〈ヲクリ〉その身も「表へ出で向ふ。
鈎を盗む者は誅せられ、国を盗む者は諸侯となる、強悪不敵不道の基経、自ら太上天皇と尊号し、人も許さぬ位山、続いて上る堀川太郎、兄の位の余りもの、関白職もしょく過ぎし、身の程知らぬ緩怠面、遥か下がって春日前司、主の威光に照り柿の、面に鎌髭、立烏帽子、素襖の袖も肩で風、桐の間の儲けの席、〈中フシ〉各々着座相済めば、
業平卿謹んで、「コハ思ひよらざる俄の入御。〈詞〉辺幅ながらうるはしき天顔を拝し、〈地〉臣が喜びこの上なし」と詞に基経寛々と打ちうなづき、「業平も知るごとく、〈詞〉今行方知れぬ陽成院、それに与する安公家ばら、折を窺ふと聞けばゆっくりと夜も寝られず、官女どもが舞謡ひ、耳やかましいばかりで一つも気にくはぬ。業平は琴の名人、一曲を望まんと、内裏へ召せども病気とあり、それ故押して来ったり。なんなりとも琴の一手、〈地〉所望々々」と望みに業平にっこと笑ひ、「〈詞〉すべて管弦楽器を用ゐる人は、喜び憂へ、あるひはいつはり、曲がれる心その気を音色に顕す。察するところ業平に御疑ひの筋あって、御詮議のため琴の御所望。今一天下を掌握し給ひ、草木もなびく君の御威勢、御心に叶はぬことあらば、あからさまに御詮議あり、たとへ刑罰に行はるゝとも、もとより君に捧げし命、〈地〉ちっとも恨み奉らず」と、五臓を見透かす返答に、さすがの基経〈フシ〉口ごもれば、
堀川太郎進み出で、「〈詞〉ヲヽよくも悟りし嗚呼をこの者、味方にとって不足なし。陽成院の大たはけに仕へたは汝が闇智あんち、これよりは二心なく我が君に仕へる所存か、但し別心なりや、サァなんと」と〈地〉言はせもあへず気早の基経、「ヤァ無益の長ごと、〈詞〉コリャ前司、言ひつけ置いたる用意のもの、早々これへ」と〈地〉仰せにはっと立ち上がり、「〈詞〉伊勢の祭主大中臣、御目通りへ出られよ」と、〈地〉呼ばゝる声に祭主長久、宮づこあまたに取り持たす、錦に包める御柱に、注連引きはへて恭しく、庭上にささげ奉り、〈フシ〉遥か下がって平伏す。
基経怒りの面をやはらげ、「〈詞〉ヤァヤァ業平、その柱こそ代々の天子の尺を取り、伊勢の宮居に納め置く、天照大神と崇め敬ふ真の御柱。陽成天皇をぼっ下し、時康をまろが子とし、光孝天皇と尊敬さすれば、今日よりの天照大神はこの基経。汝もまろに仕ふれども、もとは陽成院が臣下、いよいよ我に仕ふるにいつはりなくば、陽成天皇が姿をかたどるその柱、脛にかけて踏み砕け。サァいやか応か、一口に返答せい」と、〈地〉禁色の裾まくり上げ、〈フシ〉掴みひしがん勢ひなり。
業平騒ぐ気色もなく、「〈詞〉アヽ御もっともなる君の宣旨。この柱踏み砕き、御心晴るゝことならば、それこそ臣が望むところ。基経公の臣下となり、二心なき真の心、取りも直さず真の御柱、〈地〉御目通りで足下にかけん」とずんど立ち、我が日の本の天照神、許させ給へと心で観念、すでに踏まんず足首を、すかさず太郎がしっかと握り、「〈詞〉ヤァ馬鹿々々しい我が君、この柱踏まして疑ひ晴らすとはなんのたはごと、手ぬるし手ぬるし。〈地〉それよりは手短き我が思案」と、懐中より一つの短冊取り出だし、「〈詞〉去んぬるころ七野の社に置いて、足柄平太を手にかけ、定省の宮を奪ひ取って立ち退きし曲者、その場にあったこの短冊、『雲の上はありし昔にかはらねど、見し玉簾たまだれの内やゆかしき、小野小町へ陽成院』とあるからは、疑ひもなき小町がしはざ。小町さへ尋ね出ださば、宮はもちろん、どふ気違ひが行方まで自然と知れる。この討手を汝に申しつくる間、たとへいづくに隠れ住むとも、尋ね出だして首を討て。その時こそ君の御心晴れるといふもの。きっと申し渡した」と〈地〉言ふにはっとは受けながら、我が家に隠れある小町、知ってか但し知らぬかと、心迷へば〈フシ〉猶予の体。
春日前司進み出で、「〈詞〉コハ国経卿の仰せとも存ぜず。業平が倅深草少将に、くさり合ふたる小野小町。さすれば逃れぬ嫁舅。その舅に嫁の討手は、身替りのしらばけ掴まふといふお心か。ハヽヽヽヽ心もとないことせうより、小町が討手はこの前司、仰せつけられくだされ」と、〈地〉横に車の押し願ひ。業平も気色を損じ、「ヤァ出すぎたる春日前司。〈詞〉親子の縁に引かされて、忠義を忘るゝそれがしならず。いらざる詮議を横合から、〈地〉控へてゐやれ」と一口に言ひまくられてもひるまぬ前司、「〈詞〉イヤ口利口に言ひ抜けても、小町が討手はこの前司」「イヤそれがしが承る」と、〈地〉互に争ふ上と下。「ヤァ宣旨なるは、静まれ」と、堀川太郎が一声に、二人はしさって〈フシ〉うづくまる。
基経怒りの眼を見出し、「ヤァごくにも立たぬなんのせり合ひ。〈詞〉業平は望みに任せ、小町が討手。また前司が詞も一理あれば業平が討手を言ひつくる。さりながらまろが姿をもって、真の御柱こしらふるその間、百日のものいみ、血を汚すもいまいましい。今日より百日を限る小町が首を討って見せよ。もしその日限に、小町が首を討たずんば、業平が首を討て春日前司、双方ともに心得たか」と、〈地〉手強き詞に両人は〈フシ〉「ハヽはっ」と領掌す。
伊勢の祭主白洲に手をつき、「〈詞〉君の御丈を写す間、先例の通りこの御柱、それがし預かり奉らん」と、〈地〉立ち寄ればはったとねめつけ、「なんの先例、〈詞〉けふよりまろが姿を写し、諸人に拝ませ敬はせよ。役にも立たぬ朽木の切れ」と、〈地〉足下にかけて広庭へ、踏み落としたる傍若無人。「早還御ぞ」と呼ばゝって、打ち連れ帰る大内山、代々に伝へて天照す、光をくらますしょくの兄弟、前司とともに鼎の三人、それには染まぬ神職の、身は正直の十寸鏡ますかゞみ、善悪二つ在原や、〈三重〉君を見送り「立つ月日、
老の身はげに初春を木枯らしや、我が身からふる如月の、雪はもちにも消えやらで、富士も見下ろす磯の波、難波わたりの玉造に、〈フシ〉衣手といふ姥ありけり。
これはそのかみ時康のおほきみに、乳房の母と呼ばれしも、今は在所にお乳の人、むぐらの中の初花や、お露が思ひ深草の小野の篠垣明くれども、百夜もゝよ過ぎてと兼ねごとの、日数手に繰る糸車、「〈歌〉こいと言ふたとて行かるゝ道か、道は四十五里、波の上、イヨしょうがへ」「〈詞〉ヲヽ小女郎殿、お露様の心も知らずいまいましい歌おかしゃんせ」「ヲヽお楽女郎の言はしゃること。待ちかねさんすが今夜に限ったことか。お露様のあの文字六殿には、大抵や大方の惚れ様か。去年の冬の大煩ひもあれ故。また良い男でもあり、聞きゃお公家の果てぢゃげな」と〈地〉言ふをおさへて「アヽこれ。そのお公家様、声高に言ふてくださんすな。おとゝしの御修法の護摩が縁の蔓、つきまとふても叶はぬはづ。誰あらふ小野小町様と深い仲と、聞くほど思ひはなほまさり、をなごのほんに恥しい。『おまへの殿御くださんせ』と、言ふてもなんの聞き入れあらふ。頼みも切れて恋煩ひ、その様子が聞こえてか、殿御をやったと忝い。小町様の法度はゆりたれど、〈詞〉また一方が堅い殿御、『かはらぬ心を見届けるまでは、枕はかはさぬ。うそか誠か、百夜通ふて心を見定め、その上で祝言せふ』と、嬉しながらもとけしなさ、〈地〉待ち暮らしてやうやうと、もふ今宵が九十九夜め、明日祝言の今宵になって、この一夜さがこれまでの百夜よりも待ちかねる。この春の夜の長さは」と〈中フシ〉また繰り返すさゝがにの、
蜘蛛の振る舞ひ兼ねてより、知る深草少将の、夜の雨に濡れずとも、笠と蓑とは衣手が、娘の露に濡れつゝや、仮屋の外に窺へば、「そりゃこそかの人。惚れた男を吸い寄せる磁石娘、鉄漿かねつけた女房顔、ちゃっといて見せさんせ」と車押しやり押しやられ、まだ紐解かぬ恥し盛り、顔は夜毎の百日紅、籬の元に立ち寄れど、〈フシ〉夫婦のいろはもじもじと、
「ほんにまぁふつゝかな私が、御無理な恋をしかけまし、却って御苦労に預かります。〈詞〉そしたらいよいよ明日から、アノ抱いて寝てくださりませ。〈地〉これといふも小町様のおかげ。御慮もじながらよろしうお礼おっしゃって、〈詞〉そしてまぁ草鞋でお足が痛みましょ。〈地〉どふぞこっちへお入りあそばし、〈詞〉小町様の様にはあるまいけれど、〈地〉お気に入らずと私にさすらしてくださりませぬか」と、おぼこな詞のその中に、ちょっと悋気も〈フシ〉女の常。
「〈詞〉これはこれは。足よりもそのお詞が痛み入る。百夜通ふて心中を見るまでは、この垣の内へも入らぬと言ふたも惚れてゐる故。小町がことは思ひも出さぬ、うるさやうるさや。もっとも始めは惚れてもみたれど、よふ聞けば大きなかたは者、〈地〉名代ばかりで本尊のない開帳。しかしをなごの傷になること、あなかしこ人に洩らされな」と出次第うそのたはれが、濡らせば露の袖覆ひ、「いか様思へば今宵一夜、待ちかねたらしい内へとは申すまい。お肌は冷えはせぬかへ」と、一夜の垣を恋の関、明日の切手と取りかはし、こゝが互に極楽の内ならばこそあしからめ、〈フシ〉外はなにかは苦しかるべき。
「〈詞〉なふなふうらやましや、ぢんき巻くさへしんきがわく。去年の冬中恋煩ひの念晴らし、せめて殿御にあふ心ぢゃと、わざわざ取り寄せさしゃんした、深草焼きの手炙りさへ抱きしめられて痩せたのに、今の色艶、しほれた花にお露さん。あるは嫌なり、思ふはならずと、隣村の横蔵が、お露さんに惚れた、肝煎ってくれと、サァ毎晩こゝへうせくさる。〈地〉ヤァ人ごといはゞ背中に目、蟹の横蔵それそこへ」「南無三、我も禁物」と、法度も忘れ垣の中、〈フシ〉車のもとに身をひそめ、
忍ぶ恋路にまた恋路、君を思へばかちはだし、蓑笠もとより家重代、持って生まれし横蔵が、お露を見るよりひったり抱きつき、「〈詞〉ヲヽかはいかはい。そもじ故に恋煩ひで、顔はこの様ににきびだらけ、南蛮黍の様になって、銭儲けも女房に持たふ楽しみ。〈地〉さればにや横蔵は、肩に人参菜大根、恋の重荷と打ちかたげ、〈詞〉しんどするのも皆君故」と、〈地〉狼の人にそばゆるごとく、気をもむ少将ちらと見て、「〈詞〉ヤァ文字六、良いところに。この娘ぴんしゃんして手に回らぬ。われがそのぬっぺりとした顔でくどいてくれ、コリャ頼んだぞ」「ハテめっそふな。そなたの手で行かぬもの、なんとして何として」「いやか。いやなればそれで良し、また頼むことがある。こりゃちと儲け筋、四位少将といふお尋ね者、このあたりにへちまふと聞いたばかりで、とっくりと知らぬ。大方われが知ってゐよふ。サァ男が拝む、いふてくれ」「これはまた手を替へ品をかへ、様々の難題」「イヤ難題ぢゃない。われほか知ってゐる者はない。深くサァ隠すない、少々のことで難儀かける男でもない。いやなればあのお露、たゞは惚れぬ、詮議の種。言はぬと目の前で抱いて寝る。邪魔な母親は留守なり、どふせうとまゝ、サァサァどふぢゃ」と〈地〉好色強欲両の手に、〈フシ〉抱きしめ抱きしめ動かさず。
折霜置きし綿帽子、下にも雪の衣手が、外より戻りかゝる有様見るよりも、娘を隔て押しかこひ、「マァマァ待った横蔵殿。こりゃ人の娘をなんとさしゃんす」「〈詞〉ヤァお袋か、早い戻り様。なにを隠さふこの横蔵、あのおむすにきつう惚れた。年たけた娘、あゝしておくは浮名の種。今夜からすぐにこゝへ入り聟。良いか」「ムヽまぁまぁねんごろなりゃこそ、人の娘のことをいかゐお世話忝い。そんならいよいよ、こちの聟になる気ぢゃの」「ヲイノ」「黙れ下衆め。常体の百姓でも、そちたちと縁組はせぬ。この衣手はな、忝くも今の帝、光孝天皇様を養ひ育てたお乳の人、この難波津の遠里小野を所領に賜り、乏しからぬ身なれども、養ひ君の非道を見限り、この玉造に仮住居。今でも嫁にやらふといへば、公家高家にも欲しがる家は多けれども、娘がすかねばそれさへやらぬ。今上皇帝と乳兄弟のこのお露、山猿の様なやつに手足が触って汚らはしい。奥へ行て身を清めや、〈地〉早ふはやふ」と押しやり押しやり、「〈詞〉サァこの上に慮外すると、薙刀にかけるぞ。立って行かふ」と〈地〉決めつけられ、さしもの横蔵びっくりし、「〈詞〉テモゑらいたんなをなご、とふとふ俺を猿にしをった。猿ぢゃによって聟入する、きゃ
っとでもいふて見や、〈地〉どふでもおむす」と立ち上がるを、小女郎が才覚綿帽子、頭へすっぽりけつまづき、こけたところが綿だらけ、二人が寄って雪こかし、庭へころころ横蔵横槌、「女房のかはりに持っていにや。綿の虫送った送った」と〈フシ〉打ち立てゝこそ帰りけれ。
「〈詞〉ヤレヤレ嬉しや少将様。邪魔を払ふも密かにお頼み申したいこと、聞いてくださんせぬかではない。かふなるからはなんぢゃあらふと、押し付けて聞いてもらはにゃならぬ」「ハテそりゃ知れたこと。明日の晩から聟姑」「サァその明日の晩からを、きつう待ち兼ねるこちの娘、道理でもある。冬から釣られた、二年物の恋聟、一夜さにめかりもあるまい。今夜祝言してやってくださんせ」「イヤそりゃならぬ。とはいふものゝ、こっちもちっと頼みたいことがある、いはふかい。マァ少将が毎晩こゝへ通ふは、誰故ぢゃと思ふてぞ」「ハテ娘故」「〈地〉イヽヤわしがこがるゝ恋女房といふは衣手殿、こなさん故ぢゃ」とじっと手を取り寄り添へば、「ヲヽけうこつ。大方なぶるも良い加減。苧綛をかせの様な白髪頭」「〈詞〉イヤ髪こそなれよふ見れば、まだにっとりと若い顔。〈地〉じたい女房は四十越してからでなければ、真実の味が出ぬ」「〈詞〉そふ言はんすりゃどふやらわしも昔恋しい。いまだ女房気があるかの」「ある段か。たとへ顔はともあれ、心の色にほだされた少将、その心の下紐が解いてほしい」「ムヽそれで聞こえた。少将殿は先帝陽成院の忠臣、この衣手は今の帝、光孝天皇の乳母。心の底を見ぬうちは、敵の内へは聊爾に入られぬはづ。娘とはなほ寝られぬはづ」「サァその心の奥を見て、嫁取りの荷物に貰ひたいものもある」「いかにも在平殿、今宵のうちに心の下紐打ち解けん。その時はそっちの下紐も、娘に解いてくださんせ。委細はのちに、おさらば」と、〈地〉別るゝ道は隔たれど、胸と胸とは隣同士、開かぬ戸口に横蔵が、聞いてにたにた片穂垣、忍び込むとは露深草、〈ヲクリ〉踏み分け「我が家へ帰らるゝ。
更け行く空ともろともに、気は澄む内に済まぬこと、誰にかかくと角行灯の、光をせめて力にも、胸の灯のかき立木、尋ね兼ねたる折からに、村の庄屋が門口から、「〈詞〉まだ起きてか」「ヲヽこれは御苦労様や」「イヤ苦労でも公用。最前も呼びつけて言ひ渡す通り、いよいよ小野小町がこの内にかくまふてあるか」「ハテ自身訴人に出るから、なんの違ひがござりませふ」「サァそれでかくまふた科は御赦免。幸ひその詮議で、当地にござる業平様のお屋敷へ御注進申したれば、すなはち明日が日延べの百日め、今夜中に行方が知れねば、切腹せねばならぬところ、よふ知らせたときついお喜び。今夜の明けるを合図に業平様、相役春日前司様、御検使に見えるはづ。〈地〉とやかふいふうちもふ八つ過ぎ、用意さっしゃれ、早ふはやふ」と〈フシ〉せり立て散らし立ち帰る。
定まる春の短夜も、また今さらに驚かれ、「南無三宝、〈詞〉もふ娘が最期までは二時に足る足らぬ。女の知恵の一筋に、小町の命助けたさと、業平の御難儀救ひたさ、かくまひもせぬ小町姫、こゝにござるといふて出たは、娘を殺す修羅の使ひ。時こそあれ日こそあれ、〈地〉娘が恋の叶ふ夜と、小町を殺す百日め、言ひ合さずして同じ日に、当たったはなにごとぞ。たった一日、どちらぞ早いか遅いかで、一夜の枕をかはさせて、思ひを遂げさせ殺さふもの。それさへ叶はぬ身の上は、よくよく結ぶの神々も、捨てさせ給ふと諦めて、賽の河原へいてたも」と、一間に向ひよそながら、〈ノルフシ〉涙ながらの暇乞ひ。
思へば千歳祝ふ子に、つける名こそは多からめ、はかなく消ゆるあだし野の、お露は露もかくぞとは、白紙障子押し開けて、「〈詞〉かゝ様それにござりますか」と、〈地〉言はれてはっと涙を隠し、「〈詞〉ヲヽまだ起きてゐやったか」「サイナ。焦がれこがれた明日の夜の祝言、わたしゃあんまり嬉しうて、夜が寝られぬ。ほんに今夜ほど長ふ覚えることはない、〈地〉早ふ夜明けになれかし」とおのが知死期ちしごを急ぐ子と、母は今宵が千年も、明けずにあって給はれと、祈る心の裏表、覚悟さそふかさすまいか、ときつく胸を紛らし笑ひ、「〈詞〉ヲヽ嬉しいはづ。この様なめでたいことはない。母もあんまり嬉しふて、今に胸が落ち着かぬ。そして髪も結やったか。我が娘ながら、てもさても美しう産みつけたことはなんぞいの」「イヱもふ明日の晴れに宵からかゝって結ふた髪、結ひ直してもゆひ直しても、気に入らねど力一杯。かゝさん見てくださんせ、〈地〉つとは出すぎはせぬかいな」「〈詞〉イヤイヤよふできました」「アノかゝさんの。そちら向いて見もせずにうそばっかり」「どこに、これほどよふ見てゐるもの。イヤもふ髪も良い加減にしておきやいの」「あんなことおっしゃります。をなごの嗜みは髪形、〈地〉小町様といふ美しいお方を、見慣れなさった少将様、所詮器量は及ばねど、ちっとなりと小町様に似るやうと思ふばっかり」「〈詞〉なんぢゃ小町様に似せて結ふたとは、さてはどふでもそふせいといふ前世の約束か」「ヱヽいやいの。少将殿と夫婦になれといふ約束ごとぢゃと思へば、嬉しいことぢゃないかいの」「コレそなたは、恋無常といふこと知ってゐやるか。逢ふは別れの始め、恋と無常は離れぬもの。それ故に嫁入りの儀式はすぐに葬礼。なん時知れぬ世の中、母が顔もとっくりと見ておきや。この世はわづか、未来の契りが肝心ぢゃぞや」「アヽかゝさんの忌々しいことばっかり。〈地〉先の世は遠いこと、共白髪まで添ふ気ぢゃもの。〈詞〉したが少将様とわたしは三つ違ひ。おまへのおつむりを見るにつけ、をなごは早ふふけるもの、年寄って髪形がかはったら、〈地〉ひょっと飽かれはせまいか」と、末の末まで案じやる、詞は明日の遺言と、思ひ廻せばいぢらしく、〈フシ〉こたへ兼ねてむせ返る。
「かゝさんなんで泣かしゃんす」と、せな撫でさすれば「かはいやお露、〈詞〉そなたは少将殿と添ふことはならぬはいの」「ヱヽ」「ヲヽまだびっくりすることがある。夜が明けるとそなたは母が手にかけて殺すのぢゃはいのふ」「ヱヽ、それはまたなんの過ち、なんの科。〈地〉お気に背いたことあらば、堪忍してくださんせ」と、思ひがけなきおろおろ涙。「〈詞〉愚かなこといやる。科過ちで我が子が殺されるものかいの。義理が殺すと覚悟して、小野小町の身替りに潔ふ死んでくれ」と、〈地〉聞くよりはっと胸迫り、「様子は聞かねど死んでくれとおっしゃるは、よくよくどふもならぬ品。もっともな訳でもござんしょけれど、〈詞〉これほどまで尽くした心を仇にして、少将様に一夜も添はず、死ぬる命は惜しまねど、小町様の身替りになって死ぬのはわたしゃいや。かふ言へば恩のあるあなたを憎むやうなれど、なんなんの誓文、〈地〉小町様をあだ疎かにも思はねど、死んだあとで少将様と、夫婦にならしゃんせうかと思へば、輪廻が残って死にとむない。なんぼたしなんでもたしなまれぬ。これがをなごに生まれた因果、かゝさん許してくださんせ」と〈フシ〉わっと叫び伏しまろぶ。
もっともでも道理でも、どふでも斬らねばならぬ時宜、涙見せじとわざと不興し「〈詞〉ヤイ阿呆よ。この間から恋が叶ふたと躍りはねて嬉しがった、その嬉しいは誰がかげ。小町姫が思ひ切って、殿御をそちにやらしゃった故ではないか。そふなけりゃ恋煩ふて死ぬる命、その命を助けてもらふたお人が、また命の際になったを、きょろりと見てゐて畜生と言はれたいか。明日の夜は祝言せうと思はふが、そちが心底の見えぬうちは、百夜はおろか未来までも、この恋は叶はぬぞよ。なぜといへ、明日小町を討って出さねば、業平様は切腹、その業平様はそちがためには現在の舅御、小町姫は命の親。そのお二人の死を見ながら、嬉しそふに少将様と祝言せうと思ふか。小町殿にかはって、心底を見せたれば、〈地〉それを功に未来では、かゝが請け合ふて夫婦にしてやる。〈詞〉これでも合点が行かずばどふなりと勝手にせい。そのかはりに今から母が子ではないぞ。ヱヽ聞き分けない不孝者、〈地〉未練者め」と恥ぢしめて〈中フシ〉立って行く。
「なふ情ない。死ぬまいといふにこそ、覚悟は極めてゐるものを、御機嫌直してくださりませ。〈詞〉殿御に得添へず死ぬのみか、かゝさんにさへ勘当受け、閻魔の庁でなんと言ひ訳なるものぞ。〈地〉どふぞもとの娘ぢゃとおっしゃってくだされかゝさん」と〈スヱテ〉手を合せ伏し沈めば、
母も思ひにかきくれて、「なんの勘当したからふ。〈詞〉愛想づかしも貞女を立てさせ、さすがは母が娘ぢゃと、世間の人にいはしたさ。死ねといふ母が魂は、とふから死んでゐるはいの。さてもさても人間に、誰が義理といふ責苦をかけ、〈地〉子がかはいさに殺すとは、因果経にもあることか。兄弟は他人の始まり、親子は敵の始まりぞや。〈詞〉コレ親と思ふては手にかゝって死なれまい。鬼ぢゃと思ふて斬られてたも。母が方から手を合す」「〈地〉アヽもったいない。この思ひをさせますも、私がいたづらから。〈詞〉未練なことぢゃが少将様、最前逢ふたが逢ひ納め。〈地〉今一度お顔が、お顔が」とせんなきかこち時過ぎて、空心なき春の夜の、八声の〈フシ〉とりどり告げ渡る。
「ハァ悲しや。もふ逢ふことも叶はぬか。〈詞〉逢ふて別るゝきぬぎぬさへ、恨むるは恋の習ひ、ましてこれは一夜さも、〈地〉逢はさぬ鳥か」「かゝさん」「娘、そなたのためには冥土の鳥、烏もかはいといふほどなら、鳴きくさらぬが良いはいの。浅ましや槿あさがほの、日が出ると殺さるゝ。日輪も今は恨めしい」と、泣いてもなんとしのゝめの、明くるにつけて親子の胸、〈フシ〉暗闇とこそなりにけれ。
表に庄屋が声高く、「〈詞〉サァこれこれ、御検使様が今こゝへ。〈地〉用意々々」と〈中ヲクリ〉あはたゞ「しくも告げて行く、
詞は我が子の責め念仏、撞木にあらで嗜む一腰、気強く持ちは持ったれども、柄に掛ける手萎へ痺れ、またも猶予の外面そともより、「〈詞〉検使なり」と呼ばゝって、入り来るその行粧、〈地〉蘭奢の振袖うづ高く、裲襠の裾故実を正し、右に首桶左に反り太刀、遠山の眉に春の日の、いと〈フシ〉ゆふゆふと打ち通り、
上座に直るその顔ばせ、お露見るより「〈詞〉ヤァおまへは小町様。〈地〉どふしてこゝへ」と言はせも立てず、「ヤァ粗忽千万。〈詞〉在五中将業平卿よりの検使なるぞ。片時も早く小野小町が首討って出されよ。サァ受け取らん」と詰めかくる。「ハァ未練にも遅なはりし。只今目通りにて首討ち、お渡し申さん」と〈地〉泣くなく刀取り上げて、娘が後ろに立ち廻れば、「〈詞〉ヤァ検使の目をくらました身替りは受け取らぬぞ。正真正銘の小町が首受け取らふ」「ムヽこの女をのけて、正真正銘の小町はどこにあるな」「ヲヽ今日只今検使に立った、この小町が首討って、この首桶へ入れて渡せ。身替りの偽首叶はぬかなはぬ。夜前小野小町が首討って出さんとの訴へ、必定我が難儀を救はんと、情ある者のしはざ。我々故によしみもなき者の命を取らん様なしと、この小町を差し越されたり。サァこの上にもこの小町をかばはゞ、弓と矢をもって取り囲まふか、〈地〉サァサァサァなんと何と」と、義理と情の矢先にて、てうど射られし親子が胸。衣手刀からりと捨て、〈フシ〉とかふ詞もなかりしが、
「ハァしたりしたり。〈詞〉業平卿は天下の美男、小町姫は日本の美女と聞きつるが、顔形にてはなかりけり。〈地〉その潔きお心を聞いては、いよいよ娘は助けられぬ。この上の御情に、どふぞ身替り取ってたべ」「イヤイヤイヤ、〈詞〉たとへ業平卿は助けられても、この検使は生きてゐぬ。〈地〉生きてゐられぬその訳は、〈詞〉殿御と思ふ少将様に、どふも添ふことのならぬ品。一緒にこの世にながらへゐては、思ひ切ってもどこやらで、ひょっと未練が起こらふやら、ちっとなりとも早ふ死にたい。そのかはりにわたしにかはって少将様と、仲よふ添ふてくださんせ。生き甲斐もないこの体、早ふ殺してくださんすが、今生のお情ぞや。〈地〉聞き分けてたべ親子御様」と、検使の行儀もどこへやら、涙にこけし胸のうち。「〈詞〉そふとは露も存じませず、わたしが先へ死んだらば、少将様に添はしゃんせふと、さっきに言ふた舌の根が、食ひ裂いて捨てたい。〈地〉お情には私を、ちゃっと殺してくださんせ」と取り付く袂、衣手も、思ひ破るゝ心を静め、「〈詞〉世の中に恋といふことが法度なら、いっそかふした憂き目はあるまい。この母も元は奈良の京、春日の里のなにがしが娘なるが、年たけるまで男選びに日を送りしに、誰とも知らず、忍ぶ摺の狩衣に、歌を書いて送る男あり。いかなる縁にや、身にしみじみと〈フシ〉懐かしく、同じく返歌を書き付けやる。それを互の媒にて、一夜の契りに懐胎したがあのお露。いたづら者とて父の勘当、あの子を連れて家を出で、〈詞〉光孝天皇ののちの乳母とはなったれども、なにとぞ夫に尋ね逢はんを楽しみにて、〈地〉袖褄はひかれても、それよりほかの肌触れず、焦がれ暮らせし十七年。娘が去年の恋煩ひ、今はと見えし時の悲しさ。〈詞〉母が恋の切なるに、思ひ合せていぢらしく、三月四月がそのうちに、頭はかゝる白髪となり、腰までかゞむも病故。四十に足らねど立ち居さへ、〈地〉百歳もゝとせ近きつくも髪。唐土の凌雲の額、それは世の教へ、これは色故色失せし、思ひのあまりにふっと浮かみし、母が姿の腰折れ歌、『花の色は移りにけりないたづらに、我が身世にふるながめせし間に』と連ねて宮々の絵馬に奉納せしを、世の人の取り沙汰に、小野小町が詠みし歌。おまへの詠歌と言ひならはせしは、誠はわらはが詠みしぞや。これほどかはいひ娘の命、捨つるは貞女を立てさしたさ。思へば思へばこのやうに、男に縁のない者が、寄りあへばあふものかいの」と、かなたこなたを思ひやり、三筋四筋に結ぼれし、白髪に〈中フシ〉恋をあらはせり。
覚悟の小町はものをもいはず、首桶の蓋押し開くる、内に入れたる紅梅の短冊、「〈詞〉これはこれ陽成院の御製、小野小町へ送るとあり。誰やらん定省の君を奪ひ取って立ち退きし跡に、この短冊が落としあれば、小町が所為との疑ひ、覚えなけれど差し当たる証拠、小町が首を討って出さねば、業平様まで疑ひかゝる。介錯頼む衣手様、〈地〉サァこの首を、この首を」と小太刀引き抜き差し出せば、「イヱイヱイヱわたしをこれで」と差し出すお露が玉散る刃、膝と片手にしっかととゞめ、「マァマァ待った、問ふことあり。〈詞〉ムヽそんならその短冊が、定省の君を奪ひ取った跡に、ありし故の不審よな。シテその御製はなんと何と」「雲の上はありし昔にかはらねど、見し玉簾の内やゆかしき」「〈地〉ヲヽその返歌はこれこゝに」と、衣手が懐より差し出す短冊、これも同じく「雲の上はありし昔にかはらねど、〈詞〉見し玉簾の内ぞゆかしき。ハテ不思議や、やの字とぞの字の違ひにて、しっくりと合ふたるは」「サァそれにこそ仔細あり。もふ小町様は殺さぬ、娘が首も斬られぬ。斬る首はほかにある」「〈地〉ヲヽその斬る首はコレかふ」と、いつの間にかは横蔵が、だんびらひらりと衣手が、〈フシ〉首は前にぞ落ちにける。
「ヤァかゝ様をなぜ斬った」「衣手様を手にかけた仔細はいかに」と狂気のごとく詰めかくれば、表の方に窺ひ聞く、春日前司緒継が声、「〈詞〉花の色は移りにけりないたづらに、我が身世にふるながめせし間に。娘衣手よく死んだ、よく首討った、荒巻耳四郎、只今勘当許したぞ」「〈地〉ハァはっ」と横蔵飛びしされば、一間の障子の内よりも、「〈詞〉春日野の若紫の摺り衣、忍ぶの乱れ限り知られず。女房でかした。健気の最期を遂げしよな」と、〈地〉立ち出づる左中将在原業平、老懸おいかけしたる冠に、闕腋けってきの袍、弓やなぐい、〈フシ〉武官の装束厳然たり。
前司驚き、「〈詞〉衣手を女房といふからは、さては御辺は」「ヲヽ人知れぬ一夜の契り、春日野の歌の主はこの業平。女房衣手を娘と呼ばれしその方は」「ヲヽ春日の里にはらからの女が親はこの前司」「〈地〉さてははからず聟舅。それとも知らぬこの年月、〈スヱ〉残念さよ」と涙ぐむ。
「ヱヽイそんなら年頃日頃、焦がれ慕ふたとゝ様は業平様、前司様はぢい様か」「〈詞〉娘無事にあったな」「孫よ大きふなったなァ」「〈地〉なふなにもかも一時に、嬉しいやら悲しいやら。そのぢい様がなに故に、かゝ様を横蔵に言ひつけて斬らしゃんした。どうよくや懐かしや、いとをしの姿や」と首にすがりつ父の袖、ぢいの袂に取り付きつ、色々涙、小町も共に、〈フシ〉心の不審晴れやらず。
「ヲヽ首討った訳言ふて聞かせん。〈詞〉娘ながらも基経の憎みを受けたるこの首こそは小野小町よ。さりながら小町を側に置きながら、小町といはゞ不審にも思はん。およそ小町といふ名は、昔より一人ならず。大内に仕ふる官女の中局、町を賜る女を、すべて小町上臈と呼ぶ。されば我が娘も小町上臈の一人なれば、この津の国の遠里、小野を所領の地に賜りし故、ところをすぐに小野小町と、名も苗字も思はず知らず合ひたるが、あれなる小町の身の不運。七野の社にて足柄平太を手にかけ、定省の君を奪ひ取って立ち退いたはこの娘。我が子ながらもあっぱれ賢女、養ひ君の悪事を見限り、陽成院に心を通はし奉り、取り交したる詠歌の短冊、小野小町へ送るとあるは、我が娘の小町がことと知ったる者は我一人。〈地〉基経もそは知らず、業平が討って出さんとの請け合ひ。いたはしや科なき人を殺さん様なし、娘に逢ふて昔の勘当も許し、得心の上にて討たんとは思ひしが、〈詞〉計略とは言ひながら、この前司も表向き、基経に媚びへつらへば、かへって娘も我を疑ひ、本心は明かすまじと、あの耳四郎に言ひつけて、殺したあとで勘当許す、〈地〉我ながら愛想の尽きたどうよく親父、上皮の片意地ほど、恩愛はなほ百倍。白髪になっても我が娘、取立ての首もかはいさに違ひあるべきか。魂魄あらばたゞ一言、てゝかと甘へてくれよかし」と、首を抱きしめだきしめて、岩角のごとき顔ばせも、〈スヱテ〉涙にたはゐあらばこそ。
耳四郎も目をこすり、「〈詞〉家出なされたは拙者がまだ坊主子の時。互に顔は覚えねど、三世の縁が胸にこたへ、もしやと思ひ悪者になって入り込みしも、主従の名乗りがしたさ。思ひも寄らず主の首斬って主の勘当許さるゝ、前代未聞の不仕合せ、〈地〉御許されて」と大声上げ、大地を掴み悔やみ泣き、〈中フシ〉涙は石を穿ちけり。
業平あっと感心あり、「揃ひも揃ふ忠臣貞女。我もさこそと裏より忍び、宮の御守護にひかへたり。在平来れ」と詞の下に、四位少将、定省の君を守り奉り、笠も引き替へ風折烏帽子、蓑をも脱ぎ捨て、親の譲りの花摺衣、衣紋気高く引き繕ひ、「〈詞〉君この家におはしますか、よそながら窺ひ奉れと、父の指図は受けながら、かゝる賢女の心を疑ひ、恋路と名付け百夜が間通ひしも心は参内。〈地〉我がためにも母同然、いたはしさよ」と申すにぞ、業平空しき首取り上げ、「いかに霊魂聞き給へ。〈詞〉最前かくと聞きながら、前司の心を知らざる故、今生の対面せず、これ一つの残念。〈地〉我初冠の昔、歌の契りの忘られず、〈詞〉この女よりほか業平が妻あらじと、思ひ込みしその証拠、一生妻女を極めず、〈地〉たゞかりそめの戯れに、好色の名を取りしには謂れあり。〈詞〉そもそも清和天皇崩御ののち、今の陽成院わづかに八歳にて御即位、逆臣基経折良くば討ち奉らんとの企て。南無三宝と、御母二条后と心を合せ、密通の体にもてなし、日本一の好色人といはれんため、我と我が身の物語を作って、悪行を書き散らし、諸人にこれを触れ流せば、誰がいふとなく陽成院は業平が子なりと言ひ触らしたる故にこそ、さしもの基経誠とし、今日まで助け置き奉りしは、人臣の種と思ひし〈フシ〉故ぞかし。その物語の色好みも、今日よりは昔男と振り捨てゝ、心は剃髪染衣して、御身の菩提を弔ふぞや」と白髪に注ぐ血の涙、から紅に水くゞる、神代も聞かぬ忠臣は、げに百人に一首の詠、〈フシ〉和歌に誠は著し。
お露は泣くなく刀取り上げ、黒髪ふっつと切り払ひ、「〈詞〉恥しや、腹こそかはれ現在の兄様を、思ひ初めたる煩悩の、もちっとで犬になるところ。よふつれなくしてたまはった。〈地〉この上の念晴らし、小町様と仲よふ」と〈中フシ〉あちら向いたるいぢらしさ。
「なふ小町とても同じこと。共に尼に」と取る刀、前司押さへて「〈詞〉小町とは粗相千万。小野小町といふ女は、我が娘のこの老女よりほかになし。百歳に一歳ひととせ足らぬ九十九つくも髪、〈地〉思へば九十苦にし死に。一生男持たずに死んだ、この小町が身替りになって、御身の母の菩提を弔ふもお露尼。〈詞〉御身はこれまで世を忍ぶ、仮名をすぐに萍と、名を改めて少将と、夫婦結びの媒は、〈地〉忝くも定省の君。綸言違背あるべからず」「アイアイそふでござんする。おまへにもらふた少将様、おまへに返すも恩返し」殿御返しの貞女の操、一字も違はぬ小町と小町、〈フシ〉鸚鵡返しと名に高き、
二つの短冊取り添へて、娘の首をかき抱き、「〈詞〉犬死と思ふな、おことを討って心底を見せ、敵に心を許さすれば、この首こそは朝敵退治の大将軍。今日まで疑ひ合ひし、互の心も割符を合するこの短冊、身替りとは尋常よのつねのこと、これはまさしく本人を斬ったれば、敵の疑ひよもあらじ」「〈地〉ヲヽげにもっとも。いよいよこれより聟舅、〈詞〉悪事に入って悪人追討。かねて忠心たくましき、黒主も心相聟同士。近江の志賀に住むと聞けば、〈地〉彼が庵をしばらくの、黒木の御所と定省の君、御身を忍ばせ奉らん」道の警固は耳四郎、少将・小町はなほもまた、身を深草に忍ぶ摺、通小町はあだ情、その通ひ路の袖の露、身を墨染に関寺小町、卒塔婆小町を引きかへて、君が媒、綸言の御口真似の鸚鵡小町、春日は涙の雨乞小町、〈コハリ〉耳四郎が潔白は、かの穎川の清水小町、〈ハルフシ〉伊勢物語の悪名を、すゝぐも忠義、業平の〈詞〉草紙洗の七小町、〈地〉七夜八夜まで九重の、京と難波の小町塚、〈謡〉玉造小町と聞こえしは、老女が〈ナヲス〉涙の謂れなり。




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