「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 三段目

〈地〉ありありと声もなまめく女中の鞠、惟茂の館には、落葉の姫を慰めんと、こしもとども打ち混じり、ついに蹴もせぬ高足は、天井へ当たり鴨居を越し、横に行くのを追ひ歩き、汗を流して蹴る鞠に、所体も崩れあげくには、鞠をぴっしゃり踏みつぶし、〈フシ〉笑ひこけたるばかりなり。
「〈詞〉アヽしんどうやのふ藻塩殿。きのふ落葉様のお館へお帰りなされてから、お慰め申してもお心が浮かなんだに、ちっとばかりお笑ひ顔」「ヲヽ緑殿そふはかいの。恋しゆかしと思し召す、左衛門様のお家の鞠、〈地〉所縁ぢゃと思し召して、お笑ひが出たものぢゃあろぞいな」「〈詞〉アヽひょんなこと言ひ出して、また泣かしてたもるのか。〈地〉この間左衛門様のお側離れず暮らしたもの、寝た間も何の忘れふ」と〈スヱテ〉あとは涙に暮れ給ふ。
御殿の内より惟茂の御台世継御前、年の始めの裲襠うちかけ小袖花やかに、金剛兵衛を伴ひて、しとやかに立ち出で給ひ、「〈詞〉アレ利綱、落葉様のお顔持ち、悪いぢゃないか」「これはこれは。きのふ拙者がお迎ひに参った時も、帯刀太郎とわっつくどいつ申し上げたれば、とくと御合点なされたぢゃないか。今朝も申すごとく、女三の宮様になって、一旦は御前の御難儀、そのまたおまへの御難儀にかはって、帯刀が女房梅の井が死んだれば、もふお案じはちっともなし」「ヲヽそれそれ。言ふて返らぬことながら、〈地〉左衛門殿と訳のあること知るならば、惟茂様のお耳に入れ、仕様模様もあらふのに、いとしや憂き目を見せました」との給へば涙ぐみ、「そふおっしゃってくださるほど、申し訳もない身の上。世継様の取りなしで、〈詞〉兄君の御機嫌も直り、一日でも左衛門様と夫婦になしてたまはるが、〈地〉このうえもないお情」と、恋に人目遠慮さへ、〈スヱテ〉泣き侘び給ふぞいとをしき。
「〈詞〉ヲヽお道理。左衛門殿のお身の上さへ済んだらば、表向きの婚礼。それまでもなく自らが、利綱と談合して、のふ良い様に」「なるほどさやう。ことに柏木殿御身分も、帯刀太郎がよろしくはからふ手筈なれば、必ず気遣ひあそばすな」「ヲヽそれなればなほ以て、自らが思案がある」と、〈地〉仲良き兄嫁小姑、来し方の憂さ辛さ、話しては泣き聞く人も、〈中フシ〉ともに涙にくれ給ふ。
玄関広間騒がしく、「諸任公御来駕」と、追々に訴ふれば、「〈詞〉落葉様はマァ奥へ。利綱、殿へこの由申し上げよ」と、〈地〉その身も裲襠改めて、待つ間程なく阿曇諸任、大紋の袖たぶやかに、のっさのっさと入り来れば、後に続いて舎弟判官諸純、遠慮もなく〈フシ〉打ち通れば、
「〈詞〉これはこれは御兄弟様、打ち揃ふて珍しい御来光。惟茂も幸ひ館に」「それは珍重。まづ言ふべきは女三が儀につき、夫婦ながらさぞ御苦労。年の終りに不義の女が首を見て、鬱憤を晴らし申した。したが不義の相手左衛門が、行方が知れいでアヽ残念」「コレ兄人、そふ美しうおっしゃらずと、不審なことは言ふたが良い。総別高位高官の人に罪あれば、引き渡すも輿車。ましていはんや女三の宮は当今の姉。惟茂殿の気持ちではよふ討ち召された。したが兄貴もこの判官も、女三が面を見知らねば、鴨瓜切っても同じこと」「コリャコリャ諸純、そりゃ何事。たとへ我々宮がしゃっ面見知らぬとて、あからさまなことしめされふか。宮の首でも討ち兼ねぬ上総介、ことに武家へ賜って、惟茂の養子分なれば、宮ではない、地下の女。よしまた女三でないにもせよ、西三十三ヶ国従へてゐるこの諸任、東三十余国にて武勇優れし惟茂、たとへ真の首でなふても、両人がうんと呑み込むに、誰が点の打ち手がある。二人が詞は天下の鑑。かゝる小事をあくちも切れぬ弟が罷り出て、若い者はたゞものに、ハァアヽヽ〈地〉必ず気にさへられな。惟茂殿にはなほ沙汰なし」「〈詞〉アヽなるほど。それならばお出での様子、〈地〉申し上げん」と言ふをこの場のしほにして、〈フシ〉世継は奥へ入り給ふ。
程なく惟茂上下改め、しづしづと立ち出で、「〈詞〉これはこれは、存じよりなき諸任公の御来臨」と、〈地〉兄弟の真ん中に、威儀をつくろひ座しければ、諸任も席を改め、「〈詞〉一別以来対面も致さず、女三の儀につき御苦労の儀は世継殿に申し置き、急に談じたきことあって、弟を同道にて俄かに推参。その仔細は、預かり置いたる平国くにむけの御剣、女三が首と引き換へに致すはづなれど、いまだ左衛門が行方も知れず、詮議の手がゝり存じついて罷ったり」と〈地〉聞きもあへず膝立て直し、「〈詞〉この惟茂もその義につき、肺肝を砕きしに、それは重畳。してその詮議の手がゝりはいかなる仔細」「さればされば。行方の知れぬ左衛門を尋ね廻らふより、足元にゐる親将監を呼び出だし、きっと糾明させなば、親子は一体、左衛門がありか白状さする分別。それ故只今この館へ、将監を召し寄せに遣はしたり。判官その旨言ひつけたるか」「なるほどなるほど。老人ながらきゃつもしれ者、一応では申すまじと、白状さする責め道具持参せり」と、〈地〉家来に持たせし鞠箱取り寄せ、「〈詞〉鞠は将監が家の芸、いかほど鍛錬せしことでも、心に一物あるときは、その技必ず乱るゝといへり。鞠を蹴させて蹴損なはゞ、それ言ひ立てに圧状おうじゃうずくめ、〈地〉左衛門がありか白状さする上分別」と言ふに惟茂にっこと笑ひ、「〈詞〉これはもっともなる御計らひ。拙者が兼ねて存ずる科人、〈地〉いで御兄弟の御目にかけん。それそれ、禁庭より預かりし科人これへ引け」と詞の下より、漏刻の太鼓捕縄にて括り上げ、目通りに直させ置き、「〈詞〉宝殿の錠捻ぢ切りしも、役人を斬ったる者も、明らかに知れざれば、科人はこの太鼓。〈地〉これをきっと糾明せん」と言はせも果てず判官、「この太鼓を科人とは、〈詞〉こりゃあぢな詮議」「ハヽヽヽおろかおろか。もとより太鼓は陰陽の轟く音。音といふ字は立つ日と書く。日の立つに随ふて、思ひがけなきところより、科人は知れるもの。ことに軍陣にて、法螺貝は人数を使ひ、鐘打つ時は退きしづみ、太鼓は進み攻めるに用ゐるものなれば、科人にして責めるといふに何のひがごと。サァ判官、返答あらば言はれよ」と、〈地〉錠捻ぢ切りし科人を、知っても知らず脇道から、肝取りひしぐ惟茂の、〈フシ〉思慮のほどこそ類なき。
諸任は目をしはめ、「〈詞〉ムゥ太鼓を責める道理面白し。さりながら、将監が白状せずんば鞠の相手にこと寄せ、搦め捕って拷問せん。その上にもきゃつが女房、萩の戸を呼び出し、夫を責める時の太鼓を、女めに打たせんず。〈地〉それそれ判官、萩の戸を召し寄せよ」といらって下知する折こそあれ、「〈詞〉柏木将監只今これへ参上」と、〈地〉案内とともに立ち出づる、もの慣れたる中老の、さすがは家の芸に富む、御所一ぱいの人品も、〈フシ〉禁裏の武士と見えにけり。
惟茂声かけ「これはこれは将監殿。〈詞〉早速の御出で御苦労。〈地〉いざまづこれへ」の挨拶に、将監席を見渡せば、上座には諸任兄弟。さては倅が詮議よと、わざと末座に控へゐる。判官席を進み出で、「〈詞〉コレ将監殿。今日この館へ招きし仔細、知らるゝ通り不義の女は成敗せしが、相手の左衛門行方知れず。察するに宝殿の錠捻ぢ切るも、太鼓の役人斬ったるも、左衛門に極まれば天下の科人。さるによって倅が行方、尋ねんために召し寄せたり。知ったらばありのまゝ、白状せられよ。異議に及ばゞこの判官容赦はせぬ。括り上げて拷問する」と〈地〉権威で脅せどちっとも恐れず、「〈詞〉コハ存じ寄らざる御尋ね。もっとも女三の宮と不義せしは重罪人、親の顔まで汚するにっくい倅なれども、宝殿の盗賊を左衛門とは、こりゃちっと粗忽に存ずる」「なぜなぜ、なんで粗忽」「さればきゃつ太政官の御判を盗まんと思はゞ、御鍵預かるはこの将監。捻ぢ切るまでなくこの親が、油断を見すまし奪ひ取るもいと安し。それに何ぞや、不義の誤りを言ひ立て、倅に謀反の悪名をお付けなさるゝが、粗忽と存じて粗忽と申したが、この将監が誤りかな」「イヤイヤ誤りでないとは言はれまい。惟茂は口をつぐんでゐられもせふが、この諸任詮議しぬく。まさしく倅が女三を連れて逐電せし時、錠を捻ぢ切り役人を殺すからは、左衛門が業でないとは言はれまい。但し他に科人のあるを知ってか、それ聞かふ。〈地〉サァサァ何と」と問ひ詰められ、将監も黙然と、返答なければゑせ笑ひ、「〈詞〉よしよし倅が行方も知らずば、その方に所望がある。総別人に邪、曲がれる心あれば、いかほど手練せしことでも、その芸に顕はるゝといふ。このところにて一と鞠蹴て、その方が胸の潔白見よふ。〈地〉少々にても蹴損なはゞ、倅がありか拷問する。サァサァ早ふ」と諸任が、詞に辞する色目もなく、「〈詞〉それがしが未熟な芸にて、胸の潔白顕はるゝことならば、御所望なくとも仕らん」と、〈地〉ずんど立って袴の側取り、心静かにしづしづと庭に下り、「御用意の鞠こなたへ」と言ふに判官「心得たり」と取り出せば手に取り上げ、「〈詞〉フゥそれがしが心の潔白、いかほどお目にかけたきとても、この鞠は得いたさぬ」「とはとはなぜに」「されば若年より鞠を好み、この業に心をゆだね覚えしが、これこの鞠の重きは、中にものこそあれ。〈地〉証拠を見せん」と差添の小刀おっ取り、鞠の胴紐切り開き取り出だすは宣旨紙、当今村上天皇の御宸筆。「さてこそさてこそ、かしこふも見出したり。あら恐れあり、〈詞〉この鞠蹴るは君を呪詛する調伏同然。罰蒙らせ罪に落とさん結構候な。これはまた似合はざる御仕方」と、〈地〉道に妙得し将監が、〈フシ〉詞に兄弟呆れ顔。
判官なほも口減らず、「〈詞〉それはそれ鞠師が業、この方は知らぬこと」と〈地〉ありあふ鞠を取り出だし、「サァサァ早ふその鞠蹴て、潔白見よふ」と化けを見られて判官も、破れかぶれとばれかゝる。将監なほもへりくだり、「〈詞〉さほどに御所望あるならば、〈地〉いで一と鞠仕らん」と、白砂にすっくと立てば、「〈詞〉ヤァヤァ諸任が家来参れ」と〈地〉下知に従ひ有井玄蕃・青柳主税、つと参る。「〈詞〉一人にては蹴にくからん。ソレ詰に参れ」と声かくれば、〈地〉示し合せし二人の家来、「身不肖ながらお相手に」と向ふ詰に立ち並べば、〈詞〉将監にっこと打ち笑ひ「ハヽヽヽヽ。これは御苦労候」と〈地〉うはべに言へど心には『我をはからん計略、シヤ何ほどのことあらん』と蹴上ぐる鞠はくるくるくる、軒に当たって返る鞠、地を踏んで足を延べたり。枝に結んでしばし残るを、ありとこふて有井の玄蕃、「〈詞〉捕った」とかゝるを〈地〉すぐに蹴上ぐる鞠の曲、衣紋流しの身の隙間、「〈詞〉やらぬ」と取りつく青柳主税、腕首掴んでもんどり打たす。〈地〉起き上がって左右より取りつくを、すぐに蹴返すさそくの働き、玄蕃・主税は叶はじと、鞠より先へころころころ、こけつまろびつ逃げ入るを、ひそくを放し足を拾ふて行く鞠を、追っつたいつ、のべつしいつ、〈トル〉飛行自在に蹴上ぐれば、
判官見兼ね突っ立つを、刀のこじりむんづと取り、「〈詞〉コリャ何なさる」「イヤサ家来が鞠の詰に得立たぬ故、この判官が相手になる」「ハヽヽヽヽ、一人の将監、惟茂が手を下ろさば、搦め捕るは安けれど、一芸に妙得し柏木、生け置くは天下の宝。罪の疑はしきを軽くせよといへば、あんまりさはいばらずとも、〈地〉すっこんでゐられい」と、やり込めやりこめ「〈詞〉ヲヽ将監殿、あっぱれ蹴鞠驚き入る。〈地〉お手際見えた」と感ずれば、「〈詞〉イヤイヤ手際には見えたれど、この諸任疑ひはまだ晴れぬ」「ムゥこの上に疑ひ晴れずば拷問なりと御勝手次第。いかほどお責めなさるゝとて、倅が行方は存ぜぬ存ぜぬ」「ヤァ口ごはなる将監。ソレ家来ども、言ひつけ置いたる萩の戸をこれへ呼べ」と、〈地〉諸任いらって下知すれば、夫とともに召さるゝは、子故にかゝる憂き目かと、人目いぶせく萩の戸は、年もいそぢの内外を思ふ思ひの裲襠姿、〈フシ〉心ならずも立ちゐたる。
「〈詞〉コレコレ萩の戸、呼び寄せたはこの諸任。その方も知るごとく、倅左衛門は重罪の科人。さるによって夫将監、てだてを以て様々と尋ぬれど、倅が行方存ぜぬと言ひ切れば、今日より将監を、時がはりに責めさする。これなる太鼓を牢に入れ置き、汝が時を打って左衛門が行方、明日中に白状させい。責める役は御苦労ながら惟茂殿、判官と両人が一時がはり。責めさすが悲しくば、〈地〉ありやうに言はせい」と睨みつけられ、ハァはっと胸塞がり、〈スヱテ〉しばし詞もなかりしが、
やうやうに顔を上げて、「〈詞〉てゝ御の知らぬ子の行方、母が知らふ様もなし。夫を責める時の太鼓、妻に打てとは御難題。知ったことを知らぬと言ふ、将監殿でもなければ、たゞ何事も御宥免ゆうめん」「ヤァ天下の大事にぐどぐどと何言ひ訳。そちが打たずばこの諸任が、一時がはりを半時々々に太鼓を打って、将監を責めさせふか、但し打つか」「アイ」「サァどふぢゃ、〈地〉なんとなんと」と決めつけられて答へさへ〈中フシ〉泣くよりほかのことぞなき。
「〈詞〉ヱヽ未練な萩の戸。不孝な倅故にこの難儀、是非なしと思ひ諦め、時がはりの太鼓を打って、この将監を責めさせい」と〈地〉言ふに否とも萩の戸は、たゞうっかりと夢現、太鼓を見るも恨めしげに、惟茂に打ち向ひ、「〈詞〉明日までの夫の詮議、せめて三日の日延べをば、御許されてくださらば」と〈地〉涙ながらに願ふにぞ、「〈詞〉ホゥなるほどなるほど。そのことは惟茂が良い様に計らはん。禁庭より預かりしこの太鼓、ことの実否を糺すまでは、柏木の館にて牢に入れ置く牢太鼓、番人怠ることなかれ」と〈地〉惟茂の采配にて、少し心も萩の戸に、伴はれ行く将監が、子故の闇としほるれば、諸任兄弟したり顔、「お暇申す」と立ち出づる。数多の家来は囚人の、太鼓とともに柏木が、前後を囲み囲まれて、打ちしほれたる将監夫婦、〈三重〉泣くなく館へ「立ち帰る。
うきふしに、心すぐなる竹垣や、鞠のかゝりはありながら、その役ならぬ牢太鼓、天下の御詮議、罪人つみんどと将監が身一つに、広き館ももの淋しく、家中の若党つっくつく、太鼓の番に撥鬢頭、鈍な役目の寝ずの番、あくびは百兵衛ひそひそ声、「〈詞〉何と専五左。世間は正月ぢゃ何ぞと言ってざはつく折から、このお屋敷は物事穏便にせよとの言付け。お身お上の噂聞かないか。いつぞや禁裏の時太鼓刻限を打ち違へ、あまっさへその役人を斬り殺し、宝蔵の家尻やじりまで切ったは、若旦那ぢゃなんどと厳しい御詮議なれど、今に左衛門様の行方が知れぬ。ところでこの太鼓を科人にして鞠掛りの牢入り、旦那の御難儀、貴様も我らも太鼓の張り番。主命とはいひながら、アヽ気の尽きるこの役目」「イヤサそふおいやんな。時ならぬ太鼓打った故、旦那の御難儀は、身どもとても同じこと。なぜとおいやれ、名誉気が尽きると夜でも昼でも、〈地〉時ならぬ太鼓を打つ、科人を持ち合せしは身どもが因果、色事御法度のお屋敷故、非番の時ならで科人めにたんのうがさせられぬ」と、さがなき口も下々の〈ヲクリ〉噂「とりどりなるところへ、
仕切りの襖押し開き、奥より出づる将監が妻の萩の戸、妼引き連れ立ち出で給ひ、「〈詞〉ヲヽ専五左衛門、百兵衛か。さぞ眠からふ、大儀々々。奥の時計の八つ半時今打ったれば、明け六つまでにほどもなし。日延べの三日も一時余り、今に行方の知れぬ左衛門、明け六つのあの太鼓打つならば、お役人のお出では治定ぢぢゃう。〈地〉御用の多いその方たち、夜詰故にうとついて、慮外あらばこの方の不調法。しばしが間いて休め。妼どもも部屋へいて、かはりの女おこしておけ、用があらば手を鳴らす。早いて休め」とありければ、「〈詞〉ハイ私どもはかはりがはりにまどろみましたれば、ねむたいこともござりませぬ。萩の戸様には三日三夜さ、まんじりともあそばされず、ことさら今宵の雪空、奥の間のお炬燵で、ちとお静まりなされませ。〈地〉お腰でもさすりませうか」と心を付けし奉公ぶり。「〈詞〉ヲヽしほらしいことよう言ふてくれたな。将監殿とわらはが中に、たった一人の左衛門、不慮の難儀に行方が知れず、ことにひはづには生まれつく、この寒さにもしや持病も起こらぬか、どこにうろたへさまよふぞと、〈地〉将監殿に問はれもせず、せめて嫁子があるならばと、女の身でぐどぐどと、思ふては泣き、泣いては思ひ暮らすもの。〈詞〉三日三夜さはさておき、たとへ半年一年でも、〈地〉子故の闇に目があはふか」と、胸にせきくる涙をば、とゞめ兼ねたるその風情、「お道理様や」と誰々も、夜詰の上のもらひ泣き、〈中フシ〉皆部屋々々に泣き寝入り。
館も静まる時こそあれ、奥使の女しとやかに手をつかへ「〈詞〉只今表御門へ、惟茂様の奥方世継様より、萩の戸様へ御内々のお使とて、武士一人。〈地〉これへお通し申さんや」と伺へば、「〈詞〉ハテおぼつかない。今宵明くると早々御詮議の相役、その惟茂の奥方より、わらはへ内々のお使とな。〈地〉フゥ何にもせよ御口上の趣は、お目にかゝって承らん。これへ通せ」と取り繕ひ、待つ間程なく〈フシ〉入り来るは、
惟茂の譜代金剛兵衛利綱、長持庭に舁き入れさせ、すぐに座敷へ手っ取り早く、腕に覚えの金剛兵衛、かたへに長持直し置き、家来二人に打ち向ひ「〈詞〉その方どもは先へ帰れ。必ず何事も取り沙汰致すな。〈地〉早行けいけ」と追っ立てやり、「〈詞〉それがしは金剛兵衛利綱と申す者。惟茂が奥世継より萩の戸様へ御口上。その趣は別義にあらず。日延べの三日も今しばらく、明朝よりは大切なる御詮議の相役。もっとも一時かはりとは言ひながら、夜分の用意、心を込めしこの長持、改めて〈地〉御受け取りくださるべし」と、懐中の鍵差し出せば、「〈詞〉これはこれは御苦労の上のお心づかひ。なるほど改め〈地〉受け取らん」と、何の心もつき錠を、開けて見合す女の顔、思ひがけなくびっくりはったり、「〈詞〉フム心を込めしこの長持、夜具の用意とは今見た女中のことよの」「なるほどしかじかとお見知りなければ、びっくりもことはり。心を込めし世継様の御口上は、すなはちソレその夜具がよう御存じ。模様は濃い花色に吹寄の落葉、ナ、申し、人の落葉と身の行方、〈地〉とっくりとお尋ねあらば、少しは晴るゝこともやと世継が寸志の御使、わざと夜更けて長口上、早御暇」ともぎどふに、七つ知らする時計の音、四つ五つ六つ七つ、「ハァ夜明けにも今一時、人や咎めん内意の使。見咎められてはあしかりなん」と、金剛兵衛利綱が〈フシ〉心は残して立ち帰る。
跡見送りて萩の戸は、あたふた長持押し開き、「さぞ気詰りにあろ、サァこゝへ」と、呼ばれて「あい」と恥しげに、初めて来る舅の館、何と言ひ出す詞もなく、しほしほとして差しうつむく。「〈詞〉ヲヽ初々しいは道理々々。こっちからも言ひたいことは山々なれど、今金剛兵衛とやらんの詞の端、委細はそもじに尋ねよと、〈地〉世継様よりの口上、早ふ聞きたい聞かせて」と、〈フシ〉心ぜきこそ道理なれ。
落葉はやうやう顔を上げ、「〈詞〉ほんに何から申そふやら、大事々々の左衛門様、そヽなかしたるのみならず、お身の御難儀。将監様、萩の戸様、「〈地〉お二方のお嘆きも、左衛門様の科ではない。皆わたしから起こったこと、堪忍してくださりませ。〈詞〉それ故世継様へお願ひ申し、せめてお寝間の上げ下し、朝夕のお給仕なりと勤めなば、孝行の端ともなり、〈地〉憎いながらも嫁ぢゃと思しくださらば、〈詞〉左衛門様に逢はずに死ぬる法もあれ、〈地〉御恩はさらさら忘れじ」と、先立つ涙はらはらと〈ノルフシ〉畳に落葉は浮くばかり。
母は聞くより胸迫り、「〈詞〉のふわっけもない願ひごと。可愛いと思ふ左衛門に、思ひあふた落葉殿、憎まふとて憎まれふか。天にも地にもたった一人の我が子の行方、知らぬことはよもあらじと、将監殿の御身の大事となりし故、三日の日延べを乞ひ願ひしも、一日暮れ二日暮れて今一時。〈地〉禁裏に極まる時太鼓、刻限が違ふては、天下は暗闇、その上に代々の御宝納まりし〈詞〉宝殿の鍵を預かり奉るは将監殿、太鼓の役人を斬り殺せしは左衛門なれば、こればっかりでも死罪は逃れず。〈地〉罪極まりし左衛門が行方、たとへ尋ね逢ふたりとも、これ斬れとて出されふか。三日の日延べを願ひしも、何とぞしてそのうちに、唐天竺へも逃げかしと、思ひ込んだるわらはが願ひ。将監殿は武士の義強く、おのれやれ尋ね出したら引き出してと、立派にはおっしゃれども、朝夕の御膳さへ、ろくろくに上がらず、宵に御膳を据へし時、『給仕があればせはしない、勝手にたべる』とおっしゃった〈地〉心を推量してたも」と嘆けば落葉も声を上げ、「そのお嘆きもわたし故。孝行は微塵もなく、〈詞〉不孝のありたけお許しなされてくださりませ」「アレまだいの。若い時の一と盛り、世上にいくらもあることを、何の不孝と思ひませう」と〈地〉顔と顔とを見合せて、「ノフ嫁御」「母様申し」「とにかくに、まゝにならぬは浮世ぢゃ」としゃくり上げしゃくりあげ、〈ノル中フシ〉声を忍びて嘆きしが、
母はやうやう涙をとゞめ、「〈詞〉アヽ卑怯なり未練なり。誰あらふ惟茂の妹御を、嫁に持ったる将監が妻、嘆くは愚痴。この長持、役人の目にかゝらば言ひ訳むつかし。一間の内へ、サァ嫁御大儀ながら」「〈地〉あい」と二人が後と先、畳引きずる塗長持、「サァ御苦労ながらお上りなされませ」と言へども母は長持に〈スヱ〉打ち伏し答へもせざりけり。
「〈詞〉ハァ何とぞなされましたか。お手が痛みは〈地〉いたしませぬか」と心置きなき介抱に、「〈詞〉イヤのふ手も痛みはしませぬが、世が世の時であるならば、柏木左衛門が嫁取り聟入り、輿よ車よ手道具よと、四町も五町も続かんもの。時代ときよとは言ひながら、下々の出替りなんぞの様に、この長持、さぞ口惜しからふとこなたの心を、〈地〉思ひやっての悔みごと、悲しうござる」と泣き入れば、「〈詞〉イヱイヱイヱ、わたしゃ何とも思ひませぬ。おまへ方へ孝行尽くすが輿車、〈地〉必ず嘆いてくださりますな」と、涙紛らす真実に、「〈詞〉ヲヽでかしやった、そふぢゃなァ。負ふた子に教へられてぢゃの」と、〈地〉思ひ諦め母と嫁、仲良き親子中の間の〈フシ〉小座敷へこそ入りにけれ。
奥の一間に将監が、身に迫りくる屈託顔、ときつく胸も時切の夜明けも近き間の襖、細目にそっと差し覗き、窺ひ窺ふ居間の畳、ほとほと音のふ通路の下屋、日の目に合はぬ柏木左衛門、打ちしほれたる風情にて、おづおづと這ひ上るその姿、父はじろじろ打ち守り「〈詞〉ヤイ倅、冷える時分に窮屈な下屋住居、炉に火を切らさぬは産みつけた親が覚えの持病。どこも悪ふはないか、空腹にあろ。コレこゝに、母が手づから給仕のこの膳、持ってきたそのまゝこゝにある」と〈地〉こてこて据へる膳拵へ、恩愛深き親心、かたじけ涙身にこたへ、我が罪科の悔み泣き、〈中フシ〉見すぼらしげに哀れなり。
母も落葉も一間を出で、「〈詞〉今そなたの物語で何もかも、さらりと知れたる帯刀太郎が忠義のほど。第一嬉しいは左衛門がありか、〈地〉将監殿にお知らせ申さん。サァサァおぢゃ」と奥の間の、時計の天府ぽちぽちと、話の音は「ハテ心得ず。〈詞〉お伽にくる人覚えなし。〈地〉仔細ぞあらん」と嫁姑、足音静かに中敷居、心は同じ心にて、思ひ隔つる萩の戸も〈フシ〉耳をそばだて聞きゐたり。
父将監はかくとも知らず、「コリャ左衛門、〈詞〉夜前よりその方が物語、惟茂の心底、委しく聞いて驚いたり。しかしこゝをとくと聞き分けよ。今日本に智勇を兼ねし武士は、上総介惟茂たゞ一人。その妹を嫁に取るならば、いかばかり嬉しかるべきに、その方もこの親も、運の尽きとはこゝのこと。妹落葉を女三の宮と言ひなせしは、思慮深き惟茂。それとは知らず落葉がこと故、時の太鼓の役人を討って捨てしは、若気とは言ひながらその方が落ち度、天下の科人。また宝殿の錠を捻ぢ切る曲者めは、確かにそれと睨みつけ置いたれども、証拠なければこれもそちが科に落ち、死罪は逃れぬ。不憫やいづくにさまよひをるぞと、人知らず尋ぬるところに、思ひもよらず勘当せし帯刀太郎に廻り逢ひ、そちが堅固な顔を見しその嬉しさ、〈地〉ひとまづ館へ連れ帰り、母にも無事な顔を見せんものと、夜前夜更けて裏門より連れ帰りしが、〈詞〉イヤイヤ、死罪極まる我が子の顔、なまなか見せなば女のこと、取り乱すは必定。親ぢゃもの子ぢゃもの、取り乱すとて叱りもならず、結句我も取り乱さば、もしその手より洩れ聞こえてはなほ大事。けふは言はふか、イヤ言ふてはと、心どまくれ、今に知らさぬその悲しさ。〈地〉身の科故に死するとも、せめて何とぞ武士らしく、切腹させなばまだしもと、先立つる子を尋ね廻る親が思ひ、情なの武士や。町人の身の上ならば、子を尋ぬる祈り祈祷、毎夜々々の返せの太鼓、打ち廻っても尋ぬべきに、それにひきかへ太鼓故、子をば尋ねて殺す親、三千世界にあるべきか」と、拳を握り牙を噛み、歯茎に洩るゝ血の涙、こたへ兼ねて嫁姑、奥へ入らんと仕切りの襖、押し開けんにも尻ざしに、〈フシ〉夫婦の縁を立て切る一間。
将監声を荒らげ、「〈詞〉ヤイ左衛門、必ず声立つるな。イヤサたとへそこらに、母や嫁が聞いてゐるとも、顔見することならぬぞ。今の声にとっくりと暇乞ひしたか、一生の別れ、顔見せぬわが心は、なまなか嫁で候、イヤ我が子何ぞと寄合ふても、〈地〉半年も添ふことか、左衛門が命は今一時。それで逢はさぬ我が所存、思ひやれや」とばかり似て、襖は開けねど心の底、明くる時計の六つの数、〈フシ〉いとゞ哀れはまさりけり。
将監はっと心つき、我が子を引っ立て元の下屋へ「イザ忍べ。〈詞〉コリャどの様なことありとも、それがしが出よと言ふまでは、出ることならぬぞ、もし出たらばこの世はおろか、七生までの勘当、合点か」と、〈地〉無理に押しやり押し入れて、「〈詞〉サァ明け六つの太鼓の役は萩の戸。早く打て」「なるほどお上の諚意の太鼓の役、背かふ様はなけれども、〈地〉明け六つ打つとそのまゝ詮議の役人。その役人の来ぬうちに、たった一目、嫁にも顔を見せてやってくだされ」「〈詞」ヤァぐどぐどと血迷ふたか。遅なはらばまた、ソレ時切せしと科に科を重ねさするか。とはいふもののそれも道理、役目の太鼓打った後、左衛門に逢はせてくれふ。サァ太鼓打て」「フム何とおっしゃります。明け六つ打たば左衛門様に逢はせてやろとは忝い。〈地〉母様になりかはって」と心落葉がいっきせき、掛りの内へ走り入り、撥取り上ぐる太鼓の響き、打つ数よりも睦まじき、夫婦の縁の切れ目とも、〈フシ〉知らず打ち切る明け六つに、
表使の侍走り出で、「〈詞〉御詮議役人阿曇判官様御入りなり」と、〈地〉知らせぬ驚く嫁姑、「サァこの間にちゃっとたゞ一目」と心をせけば、将監襖ぐゎらりと開け、「〈詞〉今入り来る判官に左衛門を逢はするか。女の鼻の先知恵、いよいよ顔見せること罷りならぬ。何をほへ面。必ず落葉を嫁なんどゝ、けどられぬが第一。コリャコリャ家来ども、座敷片付けたばこ盆、火鉢の用意、燭台行燈も取りのけよ」と、〈地〉残る方なく心をつけ、妻も落葉も引っ立てゝ〈ヲクリ〉一間の「内へ入りにけり。
早明け六つの刻限より、一時がはりの詮議役、阿曇判官諸純、家来引き具し入り来れば、柏木将監、萩の戸も、落葉打ち連れ出で迎ひ、「〈詞〉これはこれは判官殿、未明よりの御役目、御苦労千万。イザまづこれへ」と〈地〉席を改め敬ふ詞に付き上がり、ずっと上座にしかみ面、火鉢の脇にむづと座し、「〈詞〉コレサ将監殿、三日の日延べも相済んだれば、判官殿の、イヤ御苦労のとは、常体の挨拶。この判官は禁庭の役人、兄諸任も同じこと。お身たち夫婦はお上のお疑ひかゝれば、詮議済むまでは科人も同然、同席は慮外千万。サァ大小渡しやれ。但し手をかけふか、何となんと」と〈地〉権威を甲にきる雑言、口惜しとは思へども、子故に任せし我が身ぞと、大小ぐゎらりと投げ出せば、「〈詞〉ヲヽ良い合点。夫婦ながら白洲へ下がれ。家来ども、ソレ引きずり下ろせ」と、〈地〉下知に従ふ下部ども、「〈詞〉下がりませい、下がりませい」とせり立てられ、〈地〉夫婦は顔を見合せて、しほしほと縁より下へ、「アヽ申し、怪我あそばすな」と落葉が介抱。「コリャコリャ女、〈詞〉わりゃ何者」と〈地〉声かけられて、「〈詞〉ハイ、いやわたしゃ萩の戸様の召使」「何ぢゃ召使ぢゃ。ハテ美しい召使。詮議の落着は見えてある、左衛門が科なれば、親子ともに死罪は逃れぬ。この屋敷は知れた上りもの。わいらが様な色白な良い道具は、皆身どもが申し受くる思案。〈地〉引っ込んでをれ」と叱りつけ、睨むところを睨みもせず、目放しせねば気味悪く、〈フシ〉是非もなくなく控へゐる。
判官夫婦に差し向かひ、「〈詞〉コレ将監、三日の日延べのそのうちに、左衛門がありかは知れたかな。知れずば知れぬと言ふべきはづ、牛盗人同然のごとく、ぐっとも言はぬは所存あってか、返答いかに」と〈地〉嵩にかゝって決めつくれどもちっとも臆せず、「〈詞〉御意の通り、日延べ三日の時日まで、それがしは申すに及ばず、家来残らず尋ね廻れども、今に置いて行方も知れねば、将監をいか様にも、お上の仰せに任されよ」「黙れ将監、並々の科人とは格別の左衛門、宝殿の錠を捻ぢ切る盗賊。その上女三の宮と密通せし故、女三の首は兄諸任が受け取ったればこと済めども、肝心の相手の左衛門が、行方が知れぬとてわが白髪首、ころりと落として済まふと思ふか。てっぺいから爪先までほきほき折って責めさいなみ、いやでも応でも白状させ、親子並べて逆磔さかばっつけ。かう聞いたらばどこぞから左衛門が出まいものでもない。出ぬか、〈地〉出あがらぬか」と辺りほとり、奥の間に眼を配り、「〈詞〉ナニおばゞ、サァ太鼓打て」「ヱイ」「ゑいとは、そちが役目は太鼓打つが責め。但し禁庭の仰せを背くか」「イヤ背かぬ故に明け六つの太鼓は先ほど打ちましたが、ヱヽ聞こえた、一時がはりの御詮議なれば、五つ打てとおっしゃるのか」「ヤイ馬鹿め、もふ五つで良いものか。まだ半時にもならぬ。五つが鳴るとかはりに惟茂がくるはづ。また例の贔屓沙汰。それ故身どもが先へ廻って、一時の内に埒開ける合点。太鼓の数三つ打て、それを合図に責め道具言ひつけ置いた。サァ打て」「それはあんまりむごい責め。〈地〉時の太鼓は是非もなし」「〈詞〉ヤァこまごとぬかすな。ソレ、掛りの内へ引きずり入れよ」「〈地〉畏まった」と家来ども、小がいな取って引っ立つる。「これマァ待って」と取りつく落葉、蹴のけ突きのけ、突きのけられてもしがみつく。判官声かけ「ヤイヤイ、〈詞〉その女を手荒くすな。我に任せ」と立ち寄って、〈地〉二人が首筋引っ掴み、鞠掛りへ押し入れ押しやり、押し入れられても駆け出るを、入り口ぴっしゃり小柄の閂、横に縫ふてぐっと差し込み、「〈詞〉その槍おこせ」とおっ取り延べ、〈地〉掛りへずっと大身の槍先、「〈詞〉サァ打たぬか、胴腹へ風穴」と差しつくれば、〈地〉落葉がかはって「わたしを先へ」と隔つれば、「〈詞〉うぬめを突いて良いものか。〈地〉ばゞめ出され」の槍先を、将監見兼ねて「出まいぞ出まいぞ。「〈詞〉ヤイ萩の戸、なぜ役目の太鼓を打たぬ。こゝへ出ると縁切るぞ。ナ、出ると縁切るぞ、ナ合点か」と、〈地〉我が子の方と掛りの内、心を配る目づかひを、さとき萩の戸見て取って、「〈詞〉アヽなるほどなるほど、打ちませう。縁切ってくださんな」「ヲヽ早く打て、〈地〉打たねば切るぞ」と内と外、下屋の左衛門三方論議、太鼓の三つ合図ぞと、水責め火責めの責め道具、〈フシ〉庭に並べて待ちかけたり。
判官悠々と座に直り、「〈詞〉ヤイ下部ども、冷える自分に火責めは手ぬるい。ひいやりと水責めから仕らふ。梯子を直せ、将監を引っ立てよ」「〈地〉畏まった」と立ちかゝり、すでに危ふき後ろの蹴込み蹴放して、飛んで出でたる柏木左衛門、「〈詞〉ソリャこそ逃すな」承って、「〈地〉捕った」とかゝる雑人ばら、蹴据へ蹴飛ばし刎ね倒し、ずっと寄って「コリャ判官、〈詞〉本人の左衛門、名乗って出るに尾籠の振る舞ひ。サァ父将監に科はない、この左衛門をお上へ連れ行け」と、〈地〉魂据はりし我が子の顔、将監は歯噛みをなし、「〈詞〉ヤイ左衛門、言ひつけたる詞を背き、この場所へ何で出た。武士の詞、二言はない。七生までの勘当ぢゃ」「ハッア忝い。その勘当を受けたさ故、罷り出たるこの左衛門、勘当受ければ他人と他人。おまへ方御夫婦、付き添ふ女も構ひはない。〈地〉サァ引っ立てよ判官」と言はせも果てず大口開いて「ハヽヽヽヽヽ。〈詞〉かうあらふと思ふた我が推量。ヤイ左衛門のうろたへ者、勘当受ければ親子でないとぬかすか。親でもない者が勘当せう様がない。但し他人の判官が、勘当ぢゃと言はゞおうと言ふて置かふか、将監も身に勘当するか。もったいなくも禁庭を欺く横道者、〈地〉サァ縄かゝれ」と理屈に責められ、将監はつっと寄って左衛門が小腕取って捻ぢ曲げ、ありあふ捕縄手ばしかくしっかと締め上げ、「〈詞〉サァ同罪なれば将監とても逃れぬ」と、〈地〉後ろ手になって控へゐる。判官庭に飛んで下り、遠慮会釈も三寸縄にぐっと締め上げ「〈詞〉サァ詮議はさっぱり。親子ともに縛り首、土壇の用意」とひしめく声、〈地〉掛りの内には夢うつゝ、胸はときとき時の数、奥の時計の五つの音、落葉は嬉しく「申し申し判官様とやら。〈詞〉五つの時計鳴ったれば、惟茂様がお出でのはづ、もふ太鼓打ちましょ」と〈地〉撥取り上ぐれば「ヱヽちょこざい者。〈詞〉おのれそれを何の世話」「そんならわらはが役目ぞ」と、五つの数のせはしなく〈フシ〉打つ間程なく、
平惟茂入り来り、「〈詞〉これはこれは判官殿、さぞ御草臥れ。イザ役目なればおかはり申そふ」「イヤかはることはござらぬ。詮議はさらりと済んである」「イヤ済みませぬ。大事の役目と存ずる故、それがしも前ひろに参って、ことの仔細残らず承った。その元にはしばらくお帰り。イザイザ」と〈地〉勧め立てられ仏頂面、「〈詞〉それなれば罷り帰る。帰るとそのまゝ戻ってくる、詮議のよりの戻らぬ様になされい」と、〈地〉そこらあたりを睨みつけ、〈フシ〉家来引き連れ立ち帰る。
惟茂しづしづと座に通り、「〈詞〉身が家来ども、参れ参れ」と呼び出だし「ソレ両人の縄を解け。掛りの内の二人もこれへ。太鼓は大切に取り納め、身が屋敷へ持ち帰れ。〈地〉サァ行けいけ」と追ひ退け、「〈詞〉将監殿冷える時分に白洲の詮議、老体のさぞ御難儀。ソレソレ左衛門気を付けて、〈地〉サァサァこゝへ萩の戸殿、落葉も近ふ」と招かれて、親子夫婦が膝と膝、〈フシ〉打ちくつろぎし詮議なり。
萩の戸は不思議顔、「〈詞〉かくゆるがせなる詮議の体、惟茂殿の御心底、聞かせてたべ」と窺へば、「ヲヽなるほど、惟茂が詮議の仕様、お目にかけふ。ヤイヤイ、申し付けたる責め道具、持参いたせ」と呼ばゝれば、「〈地〉はっ」と答へて持ち出づるは、三方・かはらけ・熨斗昆布、千歳を祝ふ大島台、〈フシ〉詮議の場に並ぶれば、
将監見るよりぎょっとせしが、「〈詞〉ムゥ責め道具となぞらへしこの島台、仔細ぞあらん、貴殿の所存いかにいかに」と詰め寄れば、〈地〉惟茂涙をはらはらと流し、「〈詞〉アヽ是非もなき世の有様。今朝それがしが館にて、密かに逢ひたる帯刀太郎が物語、左衛門この館へ帰りしとあるからは、何もかも御存じのこと。また萩の戸殿と妹が物語にて、存じの上は申すに及ばず、それがしとてもつながる縁、何とぞ申し訳もあるべきかと、肺肝を砕けども、せん方なくこの島台、嫁入りも切腹も今日只今。将監殿には我が胸中、奥にて密かに打ち明けん。〈地〉その間に萩の戸殿、長い別れにしばしの嫁入り、よろしう頼み存ずる」と、親子兄弟顔見合せ、〈フシ〉将監伴ひ奥に入る。
跡は三人顔見合せ、消え入り消え入る憂き思ひ、母は涙にくれながら、「〈詞〉コレ落葉、女の身では一世一度の晴れの嫁入り、また武士の身の上では、切腹も公業はれわざ。〈地〉これ着せかへて」と差し出だす、この世は浅き麻上下、死出の旅路の無紋の小袖、妻と妻とはあひながら、別れは早きこの座敷、今来て逢ふて今別るゝ、契りは何の因果ぞと、思へば胸も張り裂けて、〈中フシ〉声を得立てぬ忍び泣き。
「〈詞〉サァ二人ながらこゝへござれ。惟茂殿の心を込められしこの島台、千歳を祝ふ尾上の松、落葉かくなるまで、命ながらへて、なほいつまでかいきの松、何のこれが生きの松。アヽそふぢゃ、泣くまい泣くまい。サァ祝儀の通り、嫁の盃、左衛門頂きや。ヲヽそれそれ、俺が納めふ、めでたいめでたい。あんまりめでたうて、目が張り塞がってものが言はれぬ。盃が済んだれば、嫁御寮の色直し。〈地〉それとは引き換へ左衛門が、切腹刀で引き廻す、聟殿が色直しか」と、島台ぐゎらりと投げ捨てゝ、〈中フシ〉取り乱すこそ道理なれ。
落葉は始終泣きくづおれてゐたりしが、「〈詞〉申し母様、どの様に思ひ直しても、左衛門様を先立てゝその後の御孝行、わたしゃ得いたしませぬ。〈地〉御許されて」と用意の懐剣、自害と見ゆるその手に縋り、「〈詞〉コレ嫁を先立て、どふながらへてゐられふぞ。〈地〉わしが先へ」と死を争ひし嫁姑、「どっこいさせぬ」と一間より、阿曇判官飛んで出で、萩の戸を踏み飛ばし、落葉が腰をほうどだかへ、「〈詞〉そもじを殺して良いものか。何事も鼻次第」と、〈地〉つっと寄って左衛門を、どふど蹴倒し早縄たぐって締め上げ締め上げ、小脇に落葉をひんだかへ、〈フシ〉表をさして駆け行くところへ、
惟茂見るより走り出で、判官が刀の鐺しっかととらへ、「〈詞〉コリャ左衛門をいづくへ連れ行く」「ヲヽ諸任が目の前でなぶり殺し、そこ放せ」「ムゥ左衛門には何科あって」「イヤこいつ寝とぼけたか。わが詮議の仕様、まっかうあらふと思ひし故、裏の高塀乗り越えて、女三の宮のくせ者、上を偽り諸任を謀る段々、たった今それ奥で、その方が将監に物語った様子、残らず聞いた。サァ言ひ訳あらば言ってみよ」と、〈地〉抜き差しならぬ一言に、さしもの惟茂はっとばかり、返答猶予す後ろの襖、「〈詞〉ヲヽその言ひ訳はこの将監、いか様とも御計らひくださるべし」と、〈地〉眼を閉ぢたる覚悟の体。「〈詞〉ヲヽ良いところへ出あがった。首より先へ取るものあり」と、〈地〉懐中に腕差し込み、宝殿の鍵ひったくり、「〈詞〉これさへあれば心のまゝ。サァ惟茂、われも諸任への言ひ訳、将監が首を討て」「なるほどなるほど、委細露見の上は是非もなし。将監殿観念あれ」と抜き放す、〈地〉刀に縋る嫁姑、突き退け突きのけ「南無阿弥陀仏」と振り上ぐる、刀の光、判官が〈フシ〉首は前にぞ落ちにける。
将監手早く抜き刀、腹にぐっと突き立つる。「これは」と驚く親子三人、惟茂声かけ「ヲヽでかされた。〈詞〉さふなうては叶はぬ場所」と〈地〉左衛門が縛めを切りほどき、「〈詞〉最前奥にて申せしごとく、太鼓の役人を討って捨てたる左衛門、その科のかはりに将監殿の切腹でことは済む。また宝殿の錠を捻ぢ切る曲者はこれなる判官、その証拠これ見よ」と、〈地〉死骸の懐中より以前の鍵取り出だし、「〈詞〉この鍵を預かる将監殿の屋敷の高塀、乗り越したるは盗賊、〈地〉討って捨てゝも気遣ひなし」と〈フシ〉詞涼しき物語。
将監にっこと打ち笑ひ、「〈詞〉惟茂殿のおかげ故、倅が悪名もさっぱりと明かりを走る達者な左衛門。奥倅一人拾ひました。嫁も喜び、将監も嬉しい余りの喜び死に、思ひ置くこと何にもない。何とぞ御剣を取り返し、惟茂殿の手に渡せ。サ将監が目の黒いうち、早々急げ、早行け」と、〈地〉立派に言へど目は涙、死に別れより生き別れ、人目を忍ぶ世を忍ぶ、目立たぬ着物着せ替へる、死ぬる覚悟は引きかへて、先立つ父は順の道、裏道より落ち行く姿、惟茂も鞠箱取り寄せ、判官が首取り納めて、突っ立ち上がり「〈詞〉将監殿の切腹、判官が科の次第、このまゝ禁庭へ申し上げん。萩の戸殿、早お暇」と、〈地〉出で行く小舅仁あり義ありまことあり、情もありや鞠掛り、名をば再び揚げ鞠や、柳に鞠の夫婦仲、仲良い中の鞠垣に、暮れを急げど春日影、長き別れのてゝの親、死しての恩愛、生き残る母の恩愛、二親の思ひは一つ思ひにて、泣く泣く別れ出でゝ行く。



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