「昔男春日野小町」翻刻 四段目

[道行千種の戎歌]
世渡りと世を忍ぶ身は様々の、憂きを引きかへ浮蔵主うきざうす、〈歌〉花が見たくば吉野へござれ、今は吉野の花盛り、花盛りいよ花盛り、このこのヱ、〈ナヲス〉花田も薄き木綿頭巾の糊だちや、どんざ羽織の袖なしも、縞は荒巻耳四郎、もったいなくもすべ御子の、定省さだみの君をもちゃそびの、箱に忍ばせ奉り、首にかけたる子守役、たゞ口なしの出放題、人形廻しはおのづから、やつすとせねど傀儡師、身の志賀しばし隠れ家と〈フシヲクリ〉近江路「さして行く道の、
里の子が打ち群れて、でく見よみよと宿送り、難波の京を出離れて、跡に生駒の山霞、天の川をば打ち渡り、楠葉を越へて八幡山、〈三下り歌〉まんまるござる、まんまるござる、十五夜の月の輪のごとく、輪のごとく、ヨイこの十五夜の、よさりよさり、綱引く女郎に打ち惚れた、打ち惚れた、ヨイこの格子叩いてじょろりと出たが、髭がものいはにゃ名も立たぬ、名も立たぬ、いよ名も立たぬ、このこのヱ、キヽキノキ、〈ナヲス〉声に子供は「やれこはや、〈フシ〉こはやこはや」と皆散り散り。
堤を横にねぢれ松陰、あと先に、人気なければ立ち止まり、高根に立ち寄りやっとこせ、さらば一服息休め、「〈詞〉宮様もさぞお気づまり、こゝこそ淀の水車。お腰伸ばして、アレアレアレ、〈表具〉向ふを御らんぜ、遠目にも名どころ多き宇治の里、春は山吹、夏は蛍がもいやもや、山から谷へぼったりこ、餅つく景色をいと様に、お目にかけたら良かろがな。あと旅は慮外もかへり短き煙管の吸殻、明けると一度に頭をぴっしゃり」「ヤイべヱよ、〈詞〉サァまたこゝで人形廻せ、蛇をつかへ」〈地〉ペんぺんぺんと口三味線、いともかしこき程拍子、はっと気軽に立ち上がり、ゆく一むらの藪の陰、子供まじりの人声に、びっくりあたふた風呂敷を、箱にかぶせてすってんてん、「〈謡〉不思議や川浪立ち返り、にはかに川霧立ちくらがって、波間に出づる蛇体の勢ひ、紅の舌を振り立てふり立て、張良めがけてかゝりければ、張良騒がず剣を抜き持ち、蛇体にかゝれば大蛇は剣の光に恐れ、持ったる沓を差し出だせば、沓を押っ取り剣を納め、また川岸にゑいやと上がれば、大蛇もたちまち雲居に上り、あと白波とぞ、〈ナヲス〉すっぽらぽんのぽん」こゝは伏見と宮様も、箱にゆぶられすやすや寝入り、この間木の間にしばらくと、〈三重〉森を目当てに「
〈鹿ヲドリ〉行き違ふ、道に疲れし〈ナヲス〉足弱の、世を忍ぶ旅みたり連れ、笠も草鞋もつく杖も、たま玉造筋かひに、遥かに遠き迷ひ道、野越へ山越へ里々を、尋ね尋ねてやうやうと、伏見に着けば程近き、深草さして少将の、連れとも見せぬ振袖や、小野ともわざと小町とも、いはぬはよそ目忍ぶ草、身は萍とかはる名も、義理と義理とに濃い中を、惜しやしばしの花の縁、〈タヽキ〉それは逢ふ恋、我はまた、あはぬ恋路もはらからと知らで迷ひの九十九夜、雪にしたふて雨に焦がるゝあと一夜、〈サハリ〉明日の命とたらちめは、浮世を夢と散り果つる、なんのことやら袖の露、霜は消えなん命さへ、惜しからざりし黒髪の、髻ふっつと削ぎ尼の、身は煩悩の塵ほこり、捨てばこの世の初桜、花の姿を〈ナヲス〉墨染の、御寺によりて称名し、母の菩提と身の後生、願ふ間に道遅れ、〈セッキャウ〉呼べば招かれ急がれて、走りつくづくつま上がり、風が裳裾をヲヽしんき、憎や子供の悪遊び、お山ちょいちょい、おか様へ様と、仇口々につきまとはるゝ〈フシ〉藤の森。
宮居を宮の御寝殿、御目を覚まさせ給ひければ、御機嫌取り取り鳥居をずっとでくの坊、思ひがけなく三人も、来かゝりべったり「テモ不思議や」と、いふもいはれぬ人目垣、子供は移り気、「アレでく廻し見たいみたい」とこぞり寄る。互に顔で知らせの目先、囁きごとを聞き取る耳四郎、「〈謡〉わりことしたもな毛物にかまそ、わりことしたもな毛物にかまそ、山猫邪魔な子山廻り、邪魔また山に追ひ廻り、〈ナヲス〉それそれ噛むぞ」に〈フシ〉子供は恐れ逃げ散ったり。
「〈詞〉まだまだ大事の山猫様は、コレこの箱に、これは出されぬ、出しては恐ろし、これ見や見たり、〈謡〉これは荒巻水無瀬の山へ」と山廻りして、行方に気もじはなかりけり。「〈地〉ノゥ良いところで出合ひし」と、しばしに積もる物語、〈中フシ〉とりどり尽きせぬ涙なり。
「〈詞〉イヤ万事はあとから、いづれも様、こゝには深くサァお出で。〈地〉でくはこれよりしがくよふ、〈詞〉随分御無事で」「宮様さばへ」「おさらば」「〈地〉さらば」の暇乞ひ、一言づゝさへそこそこに、狼谷と深草へ、〈三重〉分かれわかれに「急ぎゆく。
古の志賀の都の花園と、名のみばかりは残れども、今は家居もまばらにて、昔にかはる花の里、定省の宮を守り奉る、黒木の御所と黒主が、世を忍ぶ身の置きどころ。妻の水無瀬はいつしかに、うちきにかはる前垂れの、藍にしみ込む身の汚れ、釜の下焚き炭だらけ、げに黒主が女房と〈フシ〉いはねど顔に顕れし。
夫は包丁斜に構へ、「〈詞〉コレ水無瀬、今日は若宮様の御誕生日。幸ひこの志賀の里は、古へ天智天皇の皇居にて、志賀の都といひしところ。すなはち今月今日、その天皇の御即位の日に当たれば、吉例に任せ、定省の宮様もお位に即ける儀式をせんと、心ばかりの供御のこしらへ。手づゝ膾にすでのこと、指をちょつろとしたほどに」「それはまぁまぁ危ないこと。〈地〉おなまもこれでよござります。コレからはまゝうつして」「〈詞〉ヲヽ一時も早く早く。それがしは勅勘の身の憚りあり、あの一間にてそなたがすぐに御配膳」「〈地〉アイアイ」あいもかいしょげに、襷前垂れ取り捨てゝ、御膳の通ひしとやかに、一間の障子押し開けば、正面の床にうやうやしく、あたりも輝く金巾子の、冠装束飾り立て、側にぐゎんぜも定省の宮、三若がかしづきも、〈フシ〉わやく盛りのいたいけ同士。
水無瀬は前に御膳を据へ、「おむつかりもあそばさず、御機嫌よきお遊び。宮様の供御上る間、そなたは母が乳呑まそふ、こっちへおぢゃ」と三若を〈フシ〉伴ひ一間を立ち出づれば、
黒主は遥か下がって頭を下げ、「〈詞〉君へ申すは虚命の憚り、女房水無瀬よっく聞き置き奏聞すべし。忝くもその御衣は、父帝の御装束、受け継ぎ給ふがすなはち御即位。これと申すも追っ付け天運開くる瑞相。もっとも基経猛威をふるふと申せども、業平親子、春日前司、そのほか官軍御味方に加はれば、追っ付け朝敵討ち滅ぼし、四海太平瞬く間。〈地〉さるにてもそれがしほど、世に浅ましき者はなし。もったいなくも父帝を、陪臣の子なりと思ひ、しばらく似てもさげしみし、〈詞〉僻みにひがむ我が心。天の照覧空恐ろしく、我と我が身に心の勅勘被るも罪滅ぼしと、このところに蟄居仕るところに、思ひもよらず耳四郎が供奉仕り、宮このところへ入御なるこそ、そのかみ天智の例にならひ、埴生も仮の高御座、御即位の印と飾り立てたる御衣・冠。〈地〉かゝるめでたき折からも、勅勘の身の情なや、玉座間近く仕へし身の、一間を隔て妻や子に劣ったる黒主が、心の掟はすなはち天罰。哀れと思し召されなば、〈詞〉御喜びの宮の天盃、この身へこそはかなはずとも、倅三若へ下し賜る様、〈地〉天奏よろしくよろしく」と、身をへりくだる夫の心根、察しやって女房が、「〈詞〉時に取ってのお局」と、〈地〉三方取って御前に供へ奉れば、さすが天孫、流れの土器三若にたびけるにぞ、はっと夫婦はありがた涙、畳に額を擦り付けすりつけ、〈フシ〉喜び勇むばかりなり。
折から帰る荒巻が、笠取って入る体を、黒主見るより「ヲヽ耳四郎帰りしか。〈詞〉毎日々々大儀々々。シテ都の内にかはりし噂もなかりしや」「イヤさしてかはった取り沙汰もござりませぬ。とかく光孝天皇の悪逆、科もない者を無成敗と、京中が舌を巻いております。この様に安閑としてゐるうちに、詮議厳しい定省の宮様、もしこのところへ詮議などに来れば一大事。あっちからこぬうちにこっちから押しかけて、〈地〉光孝天皇を始め、基経兄弟が首引き抜いて仕舞ひをつけんもの。ヱヽ手がもぢもぢと歯痒や」と、例の荒気の荒巻を、黒主制して、「〈詞〉ハテさて、それに如才はなけれども、宮の御父陽成院の御在処、まだいづくとも知れぬうちは旗上げならず。万一このところへ詮議に来たらば、その時はまた思案もあらん。せくことはない、ゆっくりと帯紐解いて休息めされ」と〈地〉いふに女房が「ヲヽそれそれ、朝から歩いてひもじかろ。サァサァこちへ」に耳四郎、「しからばさやういたさん」と、〈中ヲクリ〉水無瀬に「打ち連れ次へ入る。
黒主もしづしづと、二階へ上りうやうやしく、御衣・冠を取り納め、気鬱を晴らすたばこ盆、〈フシ〉しばしの憂さを忘れ草。
下には宮と三若が、ぐゎんぜない同士隠れんぼう、庭の木の間を走り井や、井筒に寄ってうなゐ子の、互に顔を水鏡、面を並べ袖をかけ、「隠れうばあ」も余念なき、〈フシ〉幼遊びぞ底意なき。
二階には黒主が、きせる相手に独り言、「〈詞〉もしこのところへ討手来たらば、片っ端斬りまくり、宮を誘ひ立ち退かん。ガ行先とても敵の中、一日なりとも安穏に置き奉る、〈地〉思案こそあらまほし。アヽどふがな」と工夫にうなぢ押し下げて、思はず見下ろす庭の面、宮に並びし三若が、姿は水に映る月、宮は雲井の月影に、似たりや似たりや我が子の姿、きっと眺めて横手を打ち、「〈詞〉誠や漢の紀信は高祖にかはり、敵陣へ入って忠義に死す。老若に限らず、主にかはって死する者、異国本朝少なからず。まさかの時は我が子を宮の御身替りと、天より教への水鏡。アヽありがたや、忝や」と、〈地〉心の濁りをきっぱりと汲んで流せし筒井筒、〈フシ〉井筒より澄む胸の月。
始終の様子を女房が、知って驚く悲しさも、夫の心を計りかね、涙隠して走り出で、「〈詞〉これはこれは宮様、井の本で危ないお遊び。〈地〉三若もこっちへおぢゃ」と、二人を伴ひ上がり口。黒主も二階を下り立ち、「〈詞〉コレ女房。今日はなにかの喜び相済めば、村外れの産宮うぶすなへ荒巻もろとも社参せん。留守のうちなにかに心をつけめされ」と〈地〉言ひ含むれば、女房も「〈詞〉ヲヽさやうならば御参詣、後のことはお気もじなふ、早ふお帰りなされませ」と、〈ハルフシ〉夕日も西に入相の鐘に誘はれ黒主は、荒巻伴ひ産宮の〈ヲクリ〉宮居へ「こそは出でゝゆく。
後に女房がくよくよと、心もくらむ黄昏時、行燈に照らす灯火の、風なきうちの光ぞと、思へばはかなき我が子の命、気強き夫の心根を、思ひ合してさしうつむき、〈フシ〉しばし泣き入りゐたりしが、
「〈詞〉コレ三若、宮様もお聞きあそばせ。基経よりの詮議厳しく、定省の宮様を尋ねるとあれば、叶はぬ時にはそなたを宮様の御身替りと、夫の了簡。忝くも人皇五十七代、陽成天皇第一の御子、定省の宮の御身替りになるといふは、親に勝った手柄者。必ず必ずその時には、潔ふ死んでたも。〈地〉とはいふものゝかはいやな、西も東も知らぬ子に、死ねよと教へる親心、〈詞〉鬼といはふか蛇といはふか。宮仕へする身の上ほど、〈地〉悲しいものはなきぞ」とて、我が子にひしと抱きつき、前後涙にくれけるが、「アヽ我ながら迷ふたり。今別るゝといふではなし、未練の涙恥し」と、宮と我が子の手遊びに、〈フシ〉憂さを紛らす折節に、
表の方に案内し、入り来るは見慣れぬ武士、慇懃に手をつかへ、「〈詞〉拙者めは深草少将が雑掌。主人少将申し越し候は、承ればその地には、定省の宮の詮議厳しく候由。この方へお渡しなさるべし、この地にて深くかくまひ奉らん。すなはち拙者に御供申せと申しつけ越しましたれば、一時も早く宮を拙者に御渡しくださるべし」と〈地〉聞いて水無瀬が打ち笑ひ、「〈詞〉それはまぁまぁ少将様のお心遣ひ。そんなら宮様をその方へお渡し申しませうといふたらよかろが、あのいつはり者めが。その様なことでうまうまと、宮様を渡しそふな水無瀬ぢゃと思ふか。いづくの誰に頼まれた、サァありやうに白状せい」と〈地〉いはれて大きにむくりを煮やし、「〈詞〉ヲヽ良い推量。それがしは基経公の家臣、石動宮内といふ者。宮の在処を詮議のため、方々と尋ね廻る。このところで見つけたは絶体絶命。サァ尋常に渡せばよし、異議に及ぶとぶち放す」と、〈地〉宮を小脇にひんだかへ、駆け出せば引き留め、「ヤァ下郎めが推参」と、引き戻されてたぢたぢたぢ、たぢつきながら抜き打ちに、斬りつくれば身をかはされ、行燈へばったり真っ暗闇。「南無三宝」と暗がりを、探り回って尋ぬれど、天の助けと若宮は、水無瀬が側に障りなき、玉体嬉しと御手を取り、勝手覚えし〈フシ〉納戸に忍ばせ、
〈コハリ〉なほも窺ふ忍び足、こなたは虚空をめくら掴み、「コリャ宮めか」と頭を撫で、ちょっぽり髪はこの家の倅、「ヱヽ邪魔な餓鬼め」と〈ナヲス〉突き飛ばされ、わっと泣く声しるべにて、探り当たりし我が子の三若、夫の詞こゝぞと思ひ、親子の縁も短き髪、結ひ目を切って突き出だし、わざと納戸へ身を忍ぶ、〈中フシ〉心の内ぞ切なけれ。
〈コハリ〉それとも知らず石動が、尋ね廻って三若を、「サァしてやった」と〈ナヲス〉撫で回し、結ひ目のなきは定省の宮ごさんなれと引んだかへ、表をさして探り足、心も空も暗き夜の、〈フシ〉星を目当てにかけり行く。
かくとも知らず黒主・荒巻、立ち帰る我が家の内、女房見るより走り寄り、「ヱヽ遅かりし我がつま」と、わっとばかりに泣き出だす。黒主もびっくりし、「〈詞〉ハテ心得ぬ嘆きの体。様子はいかに、気遣はし」と〈地〉問はれてやうやう涙を止め、「〈詞〉おまへのお留守を窺ふて、石動宮内といふやつが、宮様を奪ひ取り、立ち帰らんといたせしを、渡さじものと争ふも、幸ひの暗がり紛れ、三若を宮様にして渡しことは渡せしが、さぞ今頃は母を尋ね、泣いてゐやうが〈地〉かはいや」と、聞いて二人も仰天し、「〈詞〉シテ宮様はなんとなんと」「イヤその若宮様は恙なふ、〈地〉これに」と伴ひ奉れば、「〈詞〉ヲヽまづは御安泰の御尊顔、この上の喜びなし」と〈地〉詞のうちより荒巻が、表をさして駆け出すを、黒主声かけ「ヤレ耳四郎いづくへ行く」「〈詞〉イヤいづくへとは、ぼっかけて三若様を取り返す」「ヤァ愚か愚か。女房が話を聞くに、宮内とやらが取り違へしは暗がり紛れ、さすれば追っつけ討手の勢、このところへ向ふべし。君の大事は今この時、気がつかぬか荒巻」と、〈地〉未だ詞も終らぬところに、間近く聞こゆる〈コハリ〉鐘太鼓、法螺吹き立つる人音足音、〈ナヲスフシ〉さも騒々しく聞こゆるにぞ、
水無瀬は悲しさやる方なく、「そんなら我が子はお役に立たず、やみやみと犬死するか。かはいの者や、いぢらしや」と泣くを制して「コリャコリャ女房、〈詞ノリ〉泣いてゐるところでない。耳四郎は若宮を守り奉り、浜辺伝ひを石山越へに、深草辺まで立ち退けよ。道の案内は女房水無瀬、別れ道まで見送って立ち帰れ。早とくとく」とせり立つれば、「しからば拙者は宮を供奉し、ひとまづこゝを立ち退かん。〈地〉いざさせ給へ」と後ろにしっかと負ひ奉れば、水無瀬も共にかいがいしく、「いざ御案内」と先に立ち、〈ヲクリ〉深草さして落ちてゆく。
後見送って黒主は、「あら心安や嬉しや」と、あたりにありあふたばこ盆、下げて二階へ悠々と、上がる心ぞ〈ウフシ〉不敵なる。
程なく寄せ来る所の代官村岡丹平大音上げ、「〈詞〉ヤァヤァ大伴黒主、定省の宮このところに隠れ住む由、注進あって召し捕りに向ふたり。もはや遁れぬ、宮を渡し尋常に腹切れ」と、〈地〉呼ばゝりよばゝり間の障子打ち砕けば、二階には黒主が、両足ぐっと踏み延ばし、〈フシ〉たばこすぱすぱ高枕。
丹平見るより気をいらち、「〈詞〉ヤァ鍋取りめが落ち着き自慢。餓鬼めを見せて吠えづら見よ」と〈地〉下知の下より石動宮内、三若を高手小手、「〈詞〉最前は暗がりで、よふ一杯食はせたな。サァ宮を渡すか、いやと言へばこの倅を芋刺し」と、〈地〉刀を胸に押し当つれど、見向きもせずせゝら笑ひ、「〈詞〉ヤァうづ虫めがほざいたり。忠義を以て妻子とするこの黒主、倅が命は構はぬかまはぬ。そのかはりにかふ並んだやつばら、一人も生けては帰さぬ、観念ひろげ」と〈地〉言ふも寝ながら肘つかへ。隙を窺ひ両方より、「捕った」とかゝる頭の皿、火皿でくゎっしり、あいたし国分のこりゃきつい、きせるの雁首足首で、叩き落とせし吸ひがら投げ。さってもいがらし小藤太が、寄るをすかさず真の当て、「うん」といふ間も荒岸才蔵、踏みのめさんず脛骨を、ぐっと一捻ぢ藤河九八、頭びっしゃり枕のゆびし、平田伴助・服部喜蔵、両脇より組みつくを、羽交ひ締めに締め付けられ、刃向かふ者も中敷居を、〈中ヲクリ〉しづしづ「庭へ折村文治、
向ふかゝりの入り身をほぐし、襟上取って打ちつくれば、村岡丹平・石動宮内、長柄を持って両方より、突き出す柄先をむんづと握り、〈詞〉こりゃこりゃこりゃと石動を、小手返しにのめらせば、〈地〉また起き上がって突っかくる、弱腰どんと蹴飛ばされ、さすがの村岡丹平急に踏み倒され、「叶はぬ許せ」と逃げ行けば、続いて駆け出す石動が、たぶさに琴柱打ちかけて、「どっこいやらぬ」と引き戻す、家来は主に取り付いて、渡さじものと引き留むる。「〈詞〉ヲヽしほらしの主思ひ。せめて体はくれんず」と、〈地〉ぐっと一引き石動が、首は琴柱に止まって、〈フシ〉木まぶりとこそなりにけれ。
主人の敵逃さじと、群がりかゝるをことともせず、あしらふ足元井筒のかは、これ究竟と踏み砕き、「一緒にそこでくたばれ」と、一ゆりゆって身をかはせば、はづみを打ってどさどさどさ。「良い埋め草」と打ち笑ひ、宮のお行方気遣ひと、〈三重〉後を慕ふて「行く空の、
火、崐岡こんかうに燃ゆれば玉石共に焚かる。雲井のよそは春なれど、大内山の花曇り、咲き乱れたる南面の位に昇る時康親王、光孝天皇と尊号し、和歌にやはらぐ敷島の、御製にかはる無成敗、土壇の拵へ首溜まり、〈フシ〉掘り返す代ぞうたてけれ。
「〈詞〉なんと出来六どふ思ふぞ。毎日々々の御成敗、土壇を築けの首穴掘れのと、大内も粟田口、血生臭いことばかり。これがほんの歌で鼻、〈地〉お公家の嗜み、たとへの節」と笑ひに吹き切る長肩下、大納言国経が妻の野分、けふ初めての参内も、夫の威光を裲襠の、しとやかに立ち出で、「〈詞〉コリャコリャ、下として上の取り沙汰、重ねていふたら許さぬぞ」と〈地〉ものやはらかにつけ上がり、「〈詞〉アヽなんぼその様におっしゃっても、これがいはずにゐられませうか、なぁ五作」「ヲヽ今も今とて御門へ出て見りゃ、帝様の御慰みに、料理しられる百姓ども、なにがいやが上へ重なり合ひ、すっぽん屋同然。その下へは入り、その下へはくゞり、御門を入るまいとするそのいぢらしさ、ホンニ目も当てられるものぢゃない。そのすっぽん突きはといへば、意地悪の大納言。その面つきなら根性なら悉皆鬼。その鬼を男に持つ女房は鬼神、けふ参内すると聞いたが、どんな顔ぢゃ、見てやりたい」と〈地〉それとも知らぬそしり口、聞き流しても流されぬ、しほれる野分が目に涙、「〈詞〉コレ皆の衆。今の夫の噂をば、必ず外でしやんな」と、〈地〉聞いて気のつく出来六・五作、「ソリャこそかのぢゃ、〈詞〉すっぽん突きで突き当たった。鬼のこぬ間に洗濯せう」と、〈フシ〉鋤鍬かたげ逃げて入る。
折から黒戸押し開けて、大納言国経、出頭の鼻高々と、のけぞり冠、直垂の袖まくり上げ、のっさのっさと入り来る。女房見るより、「コレ国経様、〈詞〉たった今も下々が、おまへのことを悪口雑言。〈地〉お心を翻し、帝様を諫めてたべ」と夫を思ふ女気の、袖に縋るを取って突きのけ、「〈詞〉けふ初めての参内、不吉の涙。無益の頬げた叩くな」と〈地〉叱りつくる折こそあれ、滝口の官人罷り出で、「〈詞〉今日の鬮罪人は岡崎村の百姓ばら、先だって引っ立て来り、使の庁へぼっ込み置く。〈地〉いかゞはからひ申さんや」と伺へば、「〈詞〉ホヽ気味良し気味よし。見分は我が役目、〈地〉これへこれへ」の詞に滝口切り声の、切戸の外より役人に、叩き込まれてどやどやどや、「御許されて」と泣く声は、閻魔の庁で罪人の、〈フシ〉呵責にあふもかくやらん。
大納言にこにこ笑ひ、「〈詞〉コリャ百姓ども、けふ御庭へ召されたは、帝の御遊。蝿虫の分として、天子御酒宴の肴になるは冥加至極、喜んでくたばれ」と〈地〉聞いて庄屋が震ひ声、「〈詞〉帝様でも味噌漉し様でも、人の命を底抜けとは、天井抜けな王様。申しおまへ様は仏顔、コレ村中が拝みます、〈地〉拝む拝む」を国経ねめつけ、「〈詞〉高官に対し仏顔とは慮外者。身は仏は嫌ひぢゃ」「ハイさやうならば閻魔様、どふぞ極楽へ」と〈地〉いふを耳にも聞き入れず、「〈詞〉アレあの端にをる太りじゝ、油ぎって心地良い。そやつそやつ」の〈地〉下知に早縄ぐっぐっと高手小手。次に痩せたる雲雀骨、指図に取って羽交い締め。「そやつ焼き鳥、重畳々々。次はこやつ」と立ちかゝれば、「御許されて」と手を合す。「〈詞〉物ないはせそ金柑親父、けんに良い老いぼれ体、きゃつも括れ」と国経の、〈地〉下知は情もあらしこども、飛びかゝって三寸縄。「ノゥいとしや」も口の内、帰る百姓いそいそ足、こなたの三人縄付きの、魂飛んで禁中の〈フシ〉獄屋へこそは引かれゆく。
野分は花につらからで、涙もろきは女の情、「汚れを禁ずる大内の桜狩、紅葉の御遊引きかへて、血を見てお慰みあるとは、なにが天子の御叡覧、大納言の承る役かいの。冠の手前も恥ぢたが良い」と、諫めの詞もよそ吹く風。花垣間近く当番の侍罷り出で、「〈詞〉志賀の里の百姓、黒主が牢扶持持参いたし、溜りに控へ候」と、〈地〉言上すれば仏頂面、「〈詞〉ヱヽいかに位にゐればとて、科人めが食らひものまで世話焼かす。ゑいは、どふでしまふは小豆粥、大納言に似合ふた役。これへ呼べ、面見てくれん」と、〈地〉下知に従ひ呼び出だす、けふの牢扶持、明日はまた水無瀬とかはる憂き縄目、かゝる姿の参内はと、瞼に散らす涙の花、〈フシ〉払ふ方なき風情なり。
「〈詞〉ムヽ久々の対面さぞ辛からん。馬鹿な夫に付き添ふ故そのざま。恋ひ慕ふ黒主、これへ呼び出し会はしてくれん。ヤァヤァ者ども、囚人これへ引き出せ」と、〈地〉いふほどこそあれ村岡丹平、足音高くつっと出で、「〈詞〉コレコレ国経卿、評定所より急御用。早くはやく」「ヱヽ折も折、時も時。コリャ女房、黒主が吟味はその方。国経が名代ぢゃぞ、随分とむごふ当たれ。〈地〉言ひつけたるぞ」とあたりを睨み、〈フシ〉丹平引き連れ入りにけり。
後見送って涙ぐみ、「むごい夫の名代を、つとめにゃならぬ身の不祥。科人引け」と涙声、引き出ださるゝは黒主ならで、〈表具〉あはれ二つか三若が、ぐゎんぜなき身をあらけなく、〈セッキャウ〉引かるゝ身より見る母の、見る目も辛き囚人の、さもいまはしき車の牢、「ヤァ三若か」「かゝ様抱いてだいて」と、牢の内には足ずりし、嘆き沈みし有様は、目もあてられぬ風情なり。
〈地〉野分は涙押し隠し、「〈詞〉科人大伴黒主が、痛々しい顔見やしゃんしたか。親御の在処が知れるか、宮様のお行方が知れるまでは天下の掟、親のかはりのこの黒主。東西知らぬ朝敵、まゝ食はしても食ひつかず、牢扶持の乳あてがふても、顔がかはって飲みはせず、かゝ様呼んでと泣いてばかり。そのおまへの真実親身の牢扶持でなくば、どふで命も続くまい。アヽ機転の利かぬ下部ども、ちゃっとその縄解いてとも〈地〉いはれぬ夫のかはりの役目、ちっとゆるめてあの子の側へ、早ふはやふ」と詞にゆるめる縄より早く駆け寄って、しがみついても手はかなはず、心ばかりが抱きしめ、親子隔ての中垣の、牢に食ひつき身を擦り付け、〈スヱテ〉わっとばかりに泣き沈む。
子はなほ悶へあこがれて、「〈詞〉かゝさまほしい、乳たい乳たい」「ヲヽ母は乳が飲ましたふて、乳房も胸も張り裂ける。申し野分様、お情にわたしもあの中へ一緒に入って、牢屋の添へ乳をさせてたべ。長ふとも申すまい。どふで思ひに死ぬる命、親子は一世、長い別れの抱き納め、ちょっと抱かしてくださりませ。〈地〉拝みまする」と後ろ手の、合せたふても任せぬ野分、「〈詞〉コレなふ、ぐゎんぜなふても科人を、親子一緒に置くことのならぬ大法。それを破って一緒にと、無理な願ひがもっともで、おいとしうござんす。牢扶持ばかりはお許し、天下晴れたこの乳」と〈地〉押しくつろぐる水無瀬が胸。「〈詞〉ハアヽ忝い。コレむまむま」と〈地〉さしつくれば嬉しげに、手そゝぶりして飛びつけど、牢格子の子が子を隔て、飲まれぬ乳より飲まされぬ、母は涙の血の地獄、子は餓鬼道の苦しみに、涙々の落ち込みは、野分が胸の三つ瀬川、〈フシ〉袖にみなぎるばかりなり。
かゝるところに大納言国経、したり顔につっと出で、「〈詞〉奏聞々々」と呼ばゝる声。〈地〉常寧殿に相伝へ、「出御ぞふ」と警蹕して、南面の御簾さっと巻き上げ、玉体龍のひいるがごとく、今上光孝天皇、夜の御殿おとゞの御装束、緋の袴蹴はらかし、庭上遠く見下し給ひ、「〈詞〉ヤァ国経、慌たゞしき奏聞なにごとやらん」と仰せけり。「さん候、このほど取り逃せし定省の君、東山の片ほとりに隠れ住む由、詮議明白に相知れ候。宸襟安く思さるべし」と、〈地〉申しも果てず龍顔莞爾と打ち笑み給ひ、「〈詞〉いしくもしたり国経。三歳の小児を守り立て、朕を亡ぼさんと企てし天罰知らずの黒主、宮が首を大路に晒し、朕に肩を並べんとする、数多の宮々、皇子ばらへの見せしめ、このごろより待ち兼ねつるに、嬉しやうれしや。宮が在処知れるからは黒主が倅、召し置くに及ばず、牢舎を許せ」「〈地〉はっ」と国経、牢屋の戸開けて我が子は助かれど、宮と夫の身の行方、〈フシ〉またも思ひを重ねけり。
「〈詞〉ホヽ牢屋を許され喜ぶは理。咎なき倅さぞ苦痛しつらん。菓子取らせん、野分これへ」と、〈地〉いつにかはりし勅諚に、「アヽ子供なればこそ、殿上の交はり、ほんに果報なあやかり者」といそいそ上る雲の上、昼の御座の御剣抜くより早く、三若が喉ぶゑぐっとひとゑぐり。野分もびっくり、水無瀬は狂乱、縄つきながら階半ば駆け上り、龍顔をはったと睨み、「〈詞〉ヱヽ恨めしの畜生天皇、あのぐゎんぜない三若を、騙し殺しになんでした。〈地〉ヱヽ口惜し」も取り上し、階下にかっぱとまろび落ち、〈スヱテ〉正体もなく泣き沈めば、
甚だ興に入らせ給ひ、「〈詞〉アヽ心地良し心地よし。朝敵の種は根を断って葉を枯らす、軍神の血祭り良し。この死骸大路へ捨てよ。行方知れざる定省の宮、なにとて延引。首ねぢ切って早来れ、国経やっ」と〈地〉宮中響く御声比叡の山おろし、「ハァはっ」と勅答恐れ入り、〈ヲクリ〉洛外「さして急ぎゆく。
あとは水無瀬が声限り、恨んでも悲しんでも、叶はぬ縄目の身を悔やみ、白洲へどふどまろび伏す。天皇は目もやらず、「コリャ采女、〈詞〉御剣を清め日の御座へ。野分もともに、〈地〉早ふはやふ」に立って行く。引っ違へ村岡丹平、官人召し連れ科人に、轡をはませ引き出せば、「〈詞〉ホヽけふ試し者の人数のうちへ、幸ひのその女」と、〈地〉下知も下部が情なく、南面の御垣にぐっと手ばしかく、「〈詞〉ムヽその太り肉、成敗の用意せよ」と〈地〉御諚のうちより梅壺の、薫る留木も袿の綾、九献の御用意、菊の戸・桐が枝、〈フシ〉御前に畏る。
「〈詞〉ヲヽよふ気がついた。君が情の色ある盃、〈地〉一献汲まん」と菊の戸が膝にもたれて「サァ桐が枝、酌取れ」と注ぐ間遅しとずっと干し、「〈詞〉村岡、肴、〈地〉肴」も心得丹平が、大袈裟に打ち放せば、天皇御感の高笑ひ。「〈詞〉ハヽヽヽヽ。ハテ良い慰み。サァこれからは土壇の拵へ、早くはやく。菊の戸・桐が枝、朕が手の内よく見よ」と、〈地〉ずんど立って紅の裾小短くまくり上げ、しづしづ御はしに下御なれば、兼ねて用意の荒身の刀、切柄はめて村岡が、恐れ入って差し出だす。「ホヽよしよし」と鋭き眼中、刃もとも、振り上げ給ふと見えけるが、〈フシ〉四つになって飛び散ったり。
「〈詞〉アヽ鬱散々々。国経が帰りもほどあらじ。その女めは一分試し、朕が計らふ旨あり、獄屋へ引け。女ばらも行けいけ、死骸ども取り片付け、〈地〉鳶烏に喜ばせよ」とのっさのっさ、元の玉座に立ち直り、太郎今やと〈フシ〉待ち給ふ。
ほどもあらせず「定省の宮、只今討って候」と、首桶かいこみ立ち帰れば、「〈詞〉ホヽ手柄々々。小倅の首実検に及ばず、太上基経へ持参せよ」と仰せも果てず「狼藉者が入ったり」と、呼ばゝる声々、大伴黒主、摩醯首羅まけいしゅらの荒れたるごとく、大内裏を踏み散らし、玉座を睨んで大音上げ、「〈詞ノリ〉光孝天皇と敬ふも今日まで。定省の宮の御敵、龍顔を獄門に切りかくれば天下の喜び。神道清浄の禁中に血をあやし、この葦原国を魔界となす時康匹夫、天子なぞとはもったいなし。神罰思ひ知らせん」と、〈地〉玉体めがけ斬ってかゝる。「ヤァさはさせじ」と支ゆる国経、「〈詞〉シヤ頭は侍、胴は公家、心は土民の蝙蝠め。差し当たる宮の敵、うぬから先へ」と斬りつくる。村岡丹平後ろより、突っ込む槍先はったと蹴落とし、塩首細首一度の分かれ、〈地〉さしもの国経あしらひかね、刃を受くる首桶を、ふたつにさっと切り割ったり。中なる首は我が子の三若、「コハいかに、コリャどふぢゃ」と、思ひがけなきびっくり仰天。光孝天皇御声高く、「〈詞〉その首を以て陽成院の勅勘を許され、さぞ喜ばしかりつらん黒主」と、〈地〉厳然たる勅諚に、たゞ「ハァはっ」と思はず知らず、刃もなまり〈フシ〉呆れ果てたるばかりなり。
天皇重ねて、「いかに黒主。〈詞〉過ちを改めざる、これを悪といふ。汝臣下の身として、天孫を弑せんとせし先非を悔い、自ら勅勘を受け、前帝の世に翻し、腹かっさばき死なんずる、魂のしほらしさ。三若を殺して宮の身替りに立てたるは、勅勘を許し得させんため。基経が犬につけ置く村岡が死したれば、宮の命気遣ひなし。〈地〉我悪逆の本心を顕し見せん」とずんど立ち、庭上に飛び下り、「〈詞〉出御ぞふ」と平伏あれば、〈地〉空薫きの音さと薫り、御簾の追風穏やかに、介内侍に供奉せられ、陽成院・定省の君、南面の褥恭しく、昔にかはらぬ雲の上、黒主・国経一同に、「ハァはっ」と〈フシ〉拝し奉る。
光孝天皇玉座に向ひ謹んで、「天機よろしく渡らせ給ひ、臣が喜びこの上なし。〈詞〉過ぎつる元慶の秋、基経我を養子とし、人臣に下せしに、逆心まさに顕れたれども、この時これを糾明せば、たちまち天下の大乱となり、民の煩ひ少なからず。是非なく彼が子となる上は、従ふもまた父の道。不義非道の位に昇り、心に染まぬ悪逆をなしつればこそ、陽成天皇の御在処、六十余州を尋ぬれども、間近きこの光孝天皇が、すなはち天皇をかくまひおくとは夢にも知らず、〈地〉玉体恙なかりしぞや。我が心の潔白は、『〈詞〉君がため春の野に出でゝ若菜摘む』と、詠みし歌こそ証拠なれ。〈地〉かつ人臣に下りし我が身、形は天子になるとても、心は臣下。陽成の君がためになす悪事、〈詞〉これにつけても乳母衣手が、我を諫め苦にやんで、〈地〉頭の雪はふりつゝと、三十一字に顕せし、〈詞〉我が神国の正直心、〈中フシ〉和歌三神こそ知り給はめ。
ヤァ黒主もよく聞けや、世の有様とはいひながら、人臣の時康が、もったいなくも日の本の御主に、日の影も見せ奉らず、押し込め申せし身の天罰、許させ給へ我が君」と、玉体を謙り、御涙はらはらはら、御衣をうるほす忠義の叡慮。黒主思はず飛びしさり、五体を抛つありがたさ、〈フシ〉骨もとろくる涙なり。
前帝御階に出御なり、「いかなれば人々の、朕ばかりかは定省の宮助けんためにかくばかり、親王といひ黒主ら、また衣手にあたへし嘆き。『〈詞〉見し玉簾の内やゆかしき』と、我安穏にて昔にかはらぬ、雲井の住処知らせし謎を、かしこくも悟りてや、ぞの一字にて返したり。〈地〉返すがへすも時康の、誠をいつか忘れん」と、大床に両手をつき給へば、「ハァこはいかに、〈詞〉天罰を重ねよとの御ことか。〈地〉恐ろしおそろし、入御なり給へ」と御手を取り、〈フシヲクリ〉玉座に「帰らせ奉り、
御簾さっと巻き下れば、耳四郎飛んで出で、「〈詞〉天皇の叡慮のほど、国経に聞いたる故、定省の宮の御供して、とくよりあれに控へたり。この上は片時も早く、〈地〉基経を滅ぼさん。いかにいかに」と血気の若者。「ヲヽ我もさは知りながら、国経は現在敵の弟。心底いぶかし、なんと何と」「〈詞〉ヲヽその不審はもっとも。基経が家来と思ひしうちは、悪事をするがすなはち忠義。天子に弓引き基経を取り立てんと、一途に思ひ込んだれど、過ぎつること御狩の御所にて、兄弟と聞いたれば、先祖代々天恩を受けし藤原氏、即今五臓は陽成の臣下と、たちまちかはる我が魂。光孝天皇と心を合せ、前帝御親子を助けたり。〈地〉兄なりとて国家の仇、いざこいやっ」と三人が、〈フシ〉勇み立って駆け出すを、
「〈詞〉ヤァ太上基経を、討たんとせば一人も許しはせじ。かつ父と頼んだれば、基経が子の時康、朝敵追討ならば我を討て。この年月の悪逆無道、無成敗せし我が本心」「〈地〉ヲヽそれこそはこの国経が承り、〈詞〉死罪に極まる科人を、科なき者に拵へ立て、人目には無成敗と、思はさんとの御計略」「ヲヽさればこそ、剛悪の名を取って、民百姓に恨みを重ね、一日も早く滅びたく、〈地〉けふや鬨の声を聞く、明日や大路を引き渡さるゝと、科人よりも我が命の、屠所の歩みを待ちつるぞ。早く汝ら義兵の旗を翻し、攻め鼓の時を待つ。〈詞〉長居せば首を並ぶる、早立ち去れ」と激しき勅諚。〈地〉ヲヽげにもっとも。重ねては敵味方。〈詞〉戦場の再会までは、汝が首は汝に預くる」と〈地〉申すも恐れありがた涙。「ハァはっ」と一度に頭を下げ、敬ふ三人仁義を守り、〈コハリ〉残る玉体忠義の悪逆、〈上〉涙を隠す天が下、〈詞〉はったと睨んで入り給ふ、〈地〉叡慮のほどこそありがたき。





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