『鶴梁文鈔』巻1 訳

以前ご依頼いただいた中から、幕末期の儒者・林鶴梁(1806ー1878)の文集『鶴梁文鈔』の翻訳を掲載していこうと思います。内容は人物論、旅行記、書状等と多岐に渡ります。

巻1
佐賀侯に奉る書
十一月三日、林長孺ちょうじゅ(鶴梁の別の名乗り)がつつしみ再拝して、書簡を佐賀侯閣下(鍋島直正)に捧げます。天下で豪傑といわれる人物は、けっして名声にはこだわることなく、しぜんと名声は得られるものであります。実力があればそうなります。戦争の世にあれば、単に威勢が良く力 が強いだけの者でも、民間から発奮して立ち上がれば、たちまちのうちに殊勲をあげましょう。ましてや沈着にして深慮であり、その画策することが千 万人の中でも傑出しているような者であればなおさらです。そのような人物ならば、富貴を得て栄達し、その名声は歴史に残り、異郷にまで名が知られるのはとうぜんのことでしょう。しかしながら彼らが名を上げるのは、遭遇した時勢もまた関係しているのであります。僭越ながら国家について考えてみますと、泰平となっておよそ三百年、君臣上下の別はすでに定まり、各国の諸侯も、王室を敬い、幕府に忠実に従っており、そして天下の人々も心静かに暮らしております。そうなりますと、英雄豪傑といえども、その智謀や勇力を施す必要はなくなりましょう。それならば、泰平の世にあっては、人材があっても名を上げることはできないのかと申しますと、そうではありません。真の豪傑と言える者がおりましたら、用いることを世に求める必要はなく、称賛・名声がとどまることなく鳴り響き、天下の人望が次第にその人物に向いてまいります。世の治乱、位の高低を問わず、有り余る仁徳に対する敬仰、下の者たちの敬慕が集まるのを妨げることはできません。わたくし長孺は、若いころから経世の志を抱き、発奮して書を読み、また好んで天下の名士と交わりました。高位高官もあり、また山林に隠棲する者もあり、片田舎の賤しい者でも、わたくしの進む道を啓発してくれるような人物であれば、皆友として交わりを結びました。このように交友関係を持つ者を多数得ましたので、天下の人士の、誰が賢人であり、誰が賢人ではないのか、誰が人望を得るにふさわしく、誰がふさわしくないか、といったことを広く聞くことができました。そしてわたくしが思いますには、先に申しました天下の人望を得ている人物は、下にある者はさておきまして、上に立っておられる方では、閣下と水戸斉昭公のみでありましょう。これは天下の公論でありまして、わたくしが私見でそれを云々すること はできません。わたくしが聞くところによりますと、閣下はとりわけご英明で、遠謀深慮であられ、ご先祖鍋島勝茂公の武と治茂公の文とを旨としてこれを広めることにつとめ、長崎の要所を守り、諸外国の来航にも接し、そのお振る舞いは人の想像のつかないものであり、またお言葉の素晴らしさと、ご容貌の堂々としておられることは、皆外人たちが驚嘆の目で仰ぎ見るに十分だそうですが、そうなりますと、わたくしは天下の議論はけっしていつわりではないと、ますます信じざるをえなくなるのであります。またわたくしは次のようにも聞いております。水戸斉昭公は生来ご聡明で、文武を兼備しておられ、ご先祖頼房公・光圀公のご業績を受け継がれ、王室を尊び、幕府を奉じ、君臣の大義を常に論じ、国家において重んじるべきものをも論弁しておられ、それによって一藩の人民を励まし、諸藩の手本となり、幕府の大政にも参与し、天下の人を指導しておられるとのことであります。天下の論者が公を閣下と並び称するのももっともなことと存じます。それにいたしましても、斉昭公は江戸において天下の大政に参与され、閣下は西海において諸外国の人々と接し、お二方 とも陰に陽に名を上げて大日本国の重鎮となっておられるのは、真の豪傑とい うべきではないでしょうか。閣下と斉昭公との名声がこれほどまでに高まって おります以上、天下の人士で、お二方を敬仰し、お慕いする者、そしてお二方のご知遇を乞い願い、お言葉を一言でも賜りたいと望む者が限りなく増えましょう。しかしそれはたやすくは得られないものです。わたくしがお二方のお言葉を得られましたのは、非常な幸いと申せましょう。閣下がわたくしを近づけてくださるときは、垣根を払い、胸襟を開いて、儒学の経典や史書の奥義を語り合い、古今の情勢を論じ、おそばにおりますときは、対座し膝を接して歓談に時を移しております。閣下がこれほどまでにわたくしを厚遇してくださることを思うと、心から深く感激し、涙が流れます。わたくしはまだ斉昭公に謁見することはできませんが、詩や文章を賜ることは一度や二度ではありません。そして閣下に賜ったいくつかの詩や文章とともに、室内に掲げ、昼も夜もこれらを読み上げては、お二方への敬慕の意を表し、また天下の人々に、お二方の人をよく受け入れ、愛するお心の一部でも知らしめたいと思っております。そしてわたくしはまた心配しすぎてしまうことがときおりありますのですが、それについても申し上げることをお許しください。その昔中国では、周公が兄である周の武王を助け、王家のために力を尽くしておりましたが、武王がなくなると、その子成王が幼いのを良いことに、三叔(周公の三人の兄弟)が悪い噂を流して、周公を脅かしました。周公がいかに聖人であり、また成王の叔父という高位にあっても、三叔に噂を流されることを免れられませんでした。いま閣下と斉昭公とは、周公に次ぐ賢人であられますが、その地位を考えますと、将軍に対しては叔父のような親しみをもってはおられませんし、また摂政のような大任を帯びてもおられません。そうなればあるいは今後悪い噂を流されるような災難に遭われないとも限らないのではないでしょうか。どうかお二方には、そのようなことに備えて、ちょっとした疑いをかけられて退避するようなことがないようになさいますように。そして周公や召公(周公とともに成王を助けた功臣)のように篤実に振る舞われましたら、天下はまだ希望がありましょう。昨今、諸外国の強引な態度は憂えるべきものがあります。そして天下の人々が重鎮として頼りにしておりますのは、実に閣下と斉昭公とであります。すなわち、お二方の進退は、天下の安危に関わることで、けっしておろそかにすべきではありません。わたくしは卑賤な身分でありながら、このようなことをみだりに申し上げまして、その罪まことにはなはだしいと申せましょう。もし閣下が、わたくしが無礼を申し上げた罪をお許しくださり、閣下にとって取り上げるべきものをお取り上げくださいましたら、それは実にありがたいことと存じます。また閣下が斉昭公とお会いになりましたときに、今わた くしが申しましたことについて公にご相談なさいましたら、なおありがたいことであります。わたくし長孺、ここに恐れつつしんで申しあげます。

松代侯に奉る書
十月十八日、林長孺がつつしみ再拝して、書を松代滋野侯閣下(真田幸貫)に捧げます。わたくし長孺は、以前から閣下が不世出の才をお持ちで、天下の書を広く究め、諸侯という高位を鼻にかけることなく、天下の才人を迎え 入れておられ、一代の賢諸侯というべきお方であると聞いておりました。しかしながらより詳しいことについては聞くことができませんでした。そののちわたくしは、閣下のご家臣である渋谷碧・山寺久道といった方々と知り合って、ようやく閣下について詳しく知ることができました。いったい、閣下が国を治められるさまは、仁政を施し、学術を尊び、親子兄弟が仲良くすることを教え、民の窮乏をあわれみ、その人材を愛する心は特に厚く、人材を網ですくうように何人も集めては育成し、寛大に受け入れて、少々の欠点にこだわらず、その長じているところを用いることのみお考えになるのであります。これによって下々の民はご恩に感じ、敬うこと父母のごとく、藩士たちはその長じることに懸命に励み、藩内はよく治まり、声高らかに善政を褒め称えております。このように聞いて、わたくしはいよいよますます閣下をお慕いする心が湧き、ぜひ一目お会いして、心中をお伝えしたいと思っておりましたが、ご謁見を求めることは控えておりました。しかし思いもかけず閣下のお招きにあずかり、お言葉をありがたく頂戴し、陸宣公(唐代の政治家)の「奏議」一部をも賜りました。わたくしのような者が恐れ多くも閣下のお教えを受け、結構なものを賜るのはまことに感激の極みであります。わたくしは若い頃、宴楽遊興を好み、世俗から少なからず非難されました。そして二十四歳に至り、自らを振り返って恥じるところがあり、さらに発奮して、男と生まれて天下に用いられるところがないまま一生を終わるのは、生きていても死んでいるのと同じだ、と考えました。しかしながらもう二十歳を過ぎておりますから、文武ともに修めるには遅すぎます。それゆえもっぱら文学につとめましたが、十二年経ってもまだ成果を得ておりません。儒者の学ぶべき道や、文章のことについては、常人よりはそれほど劣ってはいないと思っておりますが、天下のために力を発揮するに十分でないのが残念なのであります。そんなわたくしを、もし閣下のように仁徳・官位ともに高い方が捨てることなく目をかけてくだされば、わたくしのような凡人でも価値を増すことになり、けっして天下に無用の人間ではないと信じることができましょう。そこでまた思いますに、わたくしは生来頑強で人に屈せず、媚を売ることを好まず、天下の勇敢な豪傑を求めて、互いに友情を築くことを喜びます。勇敢な豪傑と言える人物は好きになれましょうが、往々にして彼らはその才能を誇り、物事に携わる折には、あまりにおおらかで束縛されない態度なので、理にかなわない振る舞いもありましょう。温厚誠実で、目上にも友人にも実直な者を求めても、そのような者で、事理に明るく、人情に通じるような者は、ほとんど見当たらないでしょう。そもそも陸宣公は徳宗皇帝の頃の人物でしたが、この時君主は暗愚で側近にはへつらい者が多く、ことを成すのが難しい状況でした。しかし宣公がことに処するや、一度たりとも落ち着くところを見失うことがなく、君主を諌め政務を正すにも䣍、みな事理・人情にかなっており、行き届かないところはありませんでした。これは先に述べた勇敢な豪傑というべき人物で、疵のほとんどない者と申せまし ょう。いま、閣下がわたくしに宣公の著書「奏議」を賜りましたのは、おそらくわたくしを戒めるところがあるのでありましょう。わたくしは閣下のご好意に、いよいよ感激せずにはおられません。あぁ、まことに閣下のお心の深さ、恩恵の厚さが、わたくしのような取るにも足りぬ者に及ぶことを思いますと、閣下のご仁徳の盛んなことを人々が褒めたたえるのはいつわりではないことを改めて思い知るのであります。書簡一通を献じて感謝の意を表する次第であります。わたくし長孺、ここに恐れつつしんで申し上げます。

土浦侯に奉る書
三月五日、林長孺が、つつしんで再拝し、土浦侯閣下(土屋寅直)に申し上げます。閣下は官位・仁徳ともに高くあられますが、なおつつしみ深くあられ、広く天下の人士を得て、交わりを結び、その聡明さを助けてほしいと願 っておられます。そしてわたくしのような無能な者でも、知己としてお言葉を賜り、また親しく交わらせていただき、しばしばお召しをも賜りました。わたくしは愚昧で礼儀を知らない者でありますから、まだお邸に参上して、そのご厚恩にお礼を申し上げておりません。しかし閣下はそのことをお責めにならないばかりか、わたくしの貴人に媚びないことをお喜びになりました。閣下は大坂城代となられたとき、遠国の産物を下され、またお言葉をも下されました。昔、唐の韓愈は宰相に仕えることを求めて、三度書状を送りましたが、答えはありませんでした。いま、わたくしは閣下に対して一度も謁見を求めたことがないにもかかわらず、閣下は親しくわたくしと交わろうとしてくださいます。わたくしは愚かな者ですが、知己を得たと感じざるをえません。しかしながらわたくしは自ら顧みますと、無才無芸、用いるべき者とは申せません。それでも閣下が目をかけてくださるのは、広く人を愛するあまりのことですが、人を知るご聡明さを損なう恐れもあります。昔、周公は摂政となると、食事中に口中の食べ物を吐き出し、あるいは洗いかけの髪を握って賢人を出迎えました。それほどに、彼は人士を求めるのに忙しかったのであります。ゆえに昔は人士を得ることが盛んであったことでも、治世に功を上げたことでも、周公の右に出るものはありませんでした。しかし周公が暗愚・凡庸な人間を愛したとは聞いておりません。閣下が人士を求めるお気持ちも、周公と異なるところはないでしょう。広い天下、多くの人物の中には、必ず真に立派な人物がおります。わたくし長孺のような者は、けっしてそのような人物ではありません。閣下のご家臣である鈴木内匠 たくみや大久保要といった方々は、皆広く四方の名高い人々と交わっておりますから、きっと天下において真に立派と言える人物を知っておられましょう。閣下はこの方々とよく相談なされば、人物はたやすく得られるのではないでしょうか。閣下ほどのご仁徳や高位の方は、宰相の位に登るのにさほど時間はかからないことと存じます。天下の真に立派な人物を友とし、真の才 人を用いて役職につければ、周公に近い治世をもたらし、功をあげることがで きましょう。わたくしは愚物でありますが、よく天下の名士を知っております。その人々の姓名を記録し、それぞれの人物のところにはその才能や業績を略記して、献上致します。閣下が人士を求めるのに参考となされば、多少はお役に立てるのではないかと存じます。

桜井小陵に答える書䥹(この人物は幕臣と思われるが未詳)
長孺が申し上げる。昨日お手紙を頂いたので、このたび貴殿が近々目付に昇 進されることについて、その責任は重大であることをお伝えし、天下の大計を 詳しく述べ、貴殿のご聡明を助けさせていただきたい。わたくしは位も低く浅学であるから、天下の大計に関わるような立場にはない。ご要望にはお応えできないだろう。しかしお尋ねを受けた以上、黙っているわけにもいかない。忌憚なく申し上げることをお許しいただきたい。そもそも天下の大計となると、語るべ きことははなはだ多く、一朝一夕に詳しく述べることはできない。とりあえずは貴殿の職分との絡みで述べることにしよう。そもそも目付とは、進言することを職とする。すなわち、その任務は、天下の人々が政府に対して意見を述べる道を大きく開くことなのである。天下のことを広く見、天下のさまざまなものをよく観察し、その良し悪しを論じ、何が正しく何が誤っているかを弁ずるならば、天下の良いことも悪いことも、将軍がご存知ないものはなくなろう。政府と人民との隔てを取り払い、天下の賢人たちをあまねく来たらしめ、おきての誤りを正し、治世を広く行き渡るようにすれば、天下の民衆は、皆ことごとく恩恵を蒙り、和らぎ楽しむであろう。これを堯舜(中国古代の聖天子)の治というのである。そして将軍を限りなく堯舜に近くするのは、進言を職分とする者の責務であろう。任務が重くなると、一人だけの力でつとめることはできない。責任重大となれば、大勢と相談するのが最上の道である。目付の人数は十人のみである。十人で天下の大計を述べるのと、天下の人々に意見をいっせいに述べさせるのとでは、どちらがよかろうか。民が意見を述べることを許されたとしたら、貧しい草刈りでも、その素朴な言葉をもって、理にかなったことを語るであろう。いま、天下の人々が意見を述べる道を大きく開き、意見を述べたがっている者たちが、貴賎を問わず幕府に至り、忌憚なく、公然と建白するようにしたとすれば、天下の人々は皆目付であり、十人にとどまらない。貴殿と同僚たちとが、互いに議論し、是を是、非を非としたならば、天下のことは、皆当を得て手落ちがないようになるであろう。いま、目付十人を置き、天下のために進言することをその職分としているのは、整っているといえばいえよう。しかしもし天下の人々をすべて目付としたら、それ以上に整っているというべきではないか。あぁ、天下の公論をもって、天下の大計を定めるのは、確かに万全の策である。しかし器の小さい者には、そのようなことに携 わることはけっしてできない。ゆえに、わたくしはいま述べたようなことを、ありふれた平凡な者には語っていない。貴殿の心は非常に広く、職分に関わることを人に隠すことなく、わたくしのような者に天下の大計を問うている。わた くしもまた、その思いに答えざるをえない。しょく せつ皐陶 こうよう (いずれも堯舜の臣)は、その職分をそれぞれ異にしてはいるが、職務につとめるときは、その心は常にひとつであった。いま、貴殿は進言する職にあり、宰相とはその任務を異にしている。しかしながら稷・契 ・皐陶と同様に、一心同体となって職務に励めば、彼らがいまの世に生まれたかのように、よく政治を行い得るであろう。そうすれば将軍もまた堯舜となることは難しくないはずである。この辺のことにつとめずに、将軍は堯舜たり得ることができない、といったとすれば、それは不敬のはなはだしきものである。どうかよくお考えいただきたい。わた くしの見解は以上であるが、どうお思いであろうか。

藤森淳風に与える書
淳風殿へ。古の君子は、世に正しい道が行われれば世に出、正しい道が行わ れなければ隠棲したものである。隠棲すれば貧しく、世に出れば富み栄える。富み栄えるのは人が欲することであり、貧しい生活は人が嫌がることである。君子はけっして人の嫌がる暮らしを欲し、人の欲する暮らしを嫌がるのではない。ただ、人の嫌がることでも、必ずしも嫌がるべきではないものがあり、人の欲することでも、必ずしも欲するべきではないものがあるのである。初め貴殿が土浦に到着したとき、藩主は藩校を建てて、貴殿に教授をつかさどらせ、藩内の人々の手本としようとした。それから数ヶ月経ったいまになって、そのことが成就したという話を聞いていない。その待遇は非常におろそかである。これは賢人を侮り礼を捨てることではないか。このような人物とは、ともに事業を行うには足りないであろう。しかし貴殿はなお去るべきではないと考えておられるようである。易経に「君子は様子を見てやめるのが良い」とあり、また「逃れるのを良しとする」という句もある。孔子は初め魯にあったが、魯の大 臣である季子が三日間政務をとらなくなったのを見て魯を去った。孟子は斉に行ったことがあったが、崇の地で斉王に会見したとき、その人物を避けるべきだと考え、ひそかに斉を去ろうと思った。してみると、君子は自身の出処進退を知るべきであろう。さらに貴殿のような才能、清廉さ、文章の美しさを身につけた人物ならば、どこかできっと志を得られよう。わたくしは、貴殿はけっしていつまでも貧賤な生活をしているような人物ではないと考えている。それならば土浦だけにとどまっている必要もあるまい。江戸はもとより大都市であり、天下の諸侯が集まる場所である。貴殿が江戸に居住し、貧しいながらも志を守って、良き理解者を求めれば、三年と経たないうちに志を得られよう。そうなれば、一時隠棲することになっても最後には世に出られ、正しい道が一時行われなくなっても最後には行われる。行われるときもあり行われないときもあることによって、正しい道の広がりすぎないようにし、世に出るときもあれば隠棲するときもあることによって、身の進退を守るのは、古の君子が常に考えていたことである。そしてわたくしが貴殿に願うことも、まさにこのようなことなのである。しかしながら、孔子も孟子もついに世に出て栄光を得ることができなかったのは、天命ではあるまいか。天に逆らうことができないのは、聖賢といえどもいかんともしがたいのである。天がもし貴殿を栄達できないようにしようとなさるならば、何十年土浦に逗留しても、志は得られないであろう。どうかこのことをお考えいただきたい。わたくしは最近目を患っており、それゆえしばらくはなにもせず、静かに過ごして、自身の望む道が行われる か否かを考えている。見たところ、これまでと状況がだいぶ違ってきているように思えたので、このように言わせていただいたのであるが、貴殿はどう思わ れたであろうか。目がよく見えないので、塾生の桜井亥(読み方不明)に代筆させた。どうか悪く思わないでいただきたい。秋であるが、残暑は厳しいので、どうかお大事にされるように。草々。七月五日、長孺が申し上げる。

藤森淳風に答える書
淳風殿へ。貴殿は土浦において、あちこちを歩き回ることを賢明なこととせず、読書能文を重んじておられる。そして貴殿が土浦に到着したときから、すでにそのように考えておられた。そこでわたくしは思う。貴殿はきっと文章を書き上げたら、聖賢と称され、つとめて怠ることがないであろう。先に貴殿から 頂いたお手紙には、日が出るところ、土地の至るところはすべて見尽くし、ほとんどすべての名勝を残らず見た、とあった。わたくしはこれを読んで愕然とし、なんと以前に思っていたことと乖離していることか、と思った。これはわたくしのどうしても解せないことであった。しかしながら、賢人の胸中は簡単には推し量れない。もし貴殿の行楽が、湖や山とともに英気を養い、鍛錬を重ねるためのものであるならば、いずれその英気が文章に現れ、聳え立つ山々のごとく盛り上がり、打ち寄せる波のごとく活発で、読者の心も目も驚かせるようになるかもしれない。してみれば、このたびの行楽が、いつの日か文章となるのであり、これもまた以前の志からくるものと言えるのであろう。そしてわたくしが貴殿に望んでいるのも、このことに他ならない。もし違っていたならば、ぜひ教えを乞い、その疑問を解決したい。お手紙にはまた、学者仲間の集会での談論は以前と同様ではないか、とあった。確かにおっしゃるとおりである。しかしながら以前に比べると、あまり集まらない様子であり。大したことはない。以前を思い出すと、筆をとって認め、たちまち文章を書き上げるものは十数人おり、集会の盛んなことは京都にも勝ろうというものであった。いま、皆集会を去り、各国で独立して一派を成している。良い時は再び戻ってはこない。残念に思わずにはいられない。しかしいまもある何人かとは、ともに古今の 文章について語らっている。貴殿もこのことを嘆かれるのではあるまいか。恵高(漢学者か、不明)の作った一篇は情味にあふれたものである。学者仲間に見せたら、皆異口同音に称賛した。しかしわたくしとしてはまだ満足が いかないのである。一日も早く貴殿の一大文章を見ることができる日を待ち望んでやまない。寒さが厳しくなっているので、お大事にされるように。

秦寿太郎に答える書
四月三日、林長孺が、再拝して秦寿太郎(江戸後期の漢学者。尾張の人)殿にお答えする。昨日お手紙をいただき、急ぎ開封し、非常に感激している。お手紙によれば、貴殿は十年前にわたくしの名を江戸で聞き、いま村民の利蔵という者の言葉で、わたくしの近況を詳しく知ったそうであるが、さらに わたくしが民を治めるのに功績があったと誤解し、三州・遠州が幸いをもたら す者を得られたことをわざわざ祝ったとも言っておられた。わたくしはここを読んで、恥じ入って汗まみれになった。わたくしはもともと浅学で、さほどの才能もない。このようにあまりに大きく期待されるのはなんとも不思議である。わたくしは赴任してから、民を治めることを職分としている。そもそも民を治める道は、まず自身を修めることである。そのために反省し、身を慎む。政治を行うには、民の財を費やさぬようにつとめる。談合を絶ち、賄賂を禁じる。訴えを聞くときは、民が冤罪を被らぬようにする。常日ごろ行っているのはこういったことである。しかしこれらのことは、世俗が遠回りだといって笑うことである。ましてや、三州・遠州の民は狡猾で、人を騙したがるので、教えを施しても、往々にして受け入れられないことが多い。とはいえ、村に長く住んでいる二、三の長老でわたくしを安心させてくれる純朴な者はいる。そして彼らの気風はやはり変えることができないので、村民からもわずかずつそのような者が出てくるのである。利蔵はどのような言葉でわたくしのことを貴殿に伝えたのであろうか。お手紙にはまた、貴殿はわたくしが常に新井白石・ 熊沢蕃山の才学をたたえていると聞いたとあった。貴殿が思っておられるとおりであったのが実に喜ばしい。わたくしは貴殿のその言葉を得て、天下に志を同じくする人がいたことを喜んでいる。白石・蕃山は、実に豪傑というべき人物である。高才博学なること、わが国において、右に出るものはいない。経国済民の議論に至っては、その発案するところは、人の想像もつかないものが少なくない。彼ら以後の人物で、経国済民を語るものは、多くは彼らの思想の範囲から抜け出ていない。いま、わたくしは白石・蕃山の才能や学識を尊敬しているが、実質的な功績は、彼らの十分の一ほどのものもあげられていないのは、恥ずべきことである。ちょうど転任の命令が出たので、来月には江戸に帰ろうと思う。事務が忙しいので、語り尽くせない。長孺再拝。

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