見出し画像

【 説教01 】「静かにささやく声」

  これは2021.10.24に、” 見失った羊 ” のたとえについて、子供と大人が参加する礼拝で、私がお話したものです。

  日曜礼拝の中で、初めて私が担当したときのお話です。何を話せばよいのかわからず、また変なことを子供たちに教えないように必死でした。とにかく、私の言葉を聖書の言葉に替えていけば、聖霊の言葉になるのではないかと、問いと答え、つなぎなど、聖書の主旨にそって文章をつくっていました。

  この聖書の中の疑問は、聖書の中から答えを探すというあり方は、今でも続けています。説教文の中に、聖書箇所が記してあるのは、そのためです。

  「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。  そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、  家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』というであろう。  言っておくが、このように、悔い改める1人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

ルカによる福音書 15章4-7節


【 説教 】

  イエスさまはいろんなたとえ話をされます。今日のたとえ話は、「羊飼いの100匹の羊のうち1匹を見失ったので、羊飼いは99匹を残して捜しに行った」というお話です。

  この話の中の羊飼いはイエスさま、羊たちは私たちのことを言っています。みなさんは、この話を聞いてどのような印象を受けるでしょうか。

  イエスさまは、大勢の正しい人より、特別な1人を愛する、神の偏った愛情ついて説いているのでしょうか。

  そうではありませんね。

  それでは、「正しい人たち、あなたたちはイエスさまがいなくても大丈夫ですよね。それより迷子の1人が心配だ。私がいない間はなんとかうまいことやっておいてくれ」。

  こういう話ですか。
  違いますよね。では、どういうメッセージがこの話には、込められているのでしょうか?

  こういうときには、もし、『マタイによる福音書』に同じ話があるなら、そちらを読むとわかりやすいですよ。

  そこでは、このたとえ話をする前置きに、イエスさまは、「これらの小さな者を1人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われています。

  ” これらの小さな者 ” とは誰ですか?

  その少し前の話では、弟子がイエスさまに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねています。イエスさまは、「私を、そして私を信じる人を子供のように受け入れる人」と答えていますね(マタイ18:1-5)。

  ルカによる福音書の話に戻ります。

  ファリサイ派は、「イエスは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いました。不平を言ったと書いてありますけれども、彼らが言いたいのはこういうことです。

  「神は清いものと清くないものを分けたじゃないか。そして縁を結んではならない、交わってはならないと言われた(申命7:2-3)。それなのにイエスは汚れた者たちと交わるだけでなく食事までしている。あれがメシアのわけがない。みんな騙されてはいけない」

  このようなことを遠回しに言っているのです(ルカ6:7,11,11:53-54)。それに対してイエスさまは、この見失った羊のたとえをされました。

  つまり、「神を子供のように受け入れる人々に対して、ファリサイ派のように嘘の教え、にせの教えを吹き込んではいけないよ」というのが、このたとえ話の主となるメッセージなのです。

  そして、もしそのようなことをすれば、イエスさまは、その人たちから離れ去り、悔い改めた人々を神の家に招いて、家族と一緒に喜び祝います。ファリサイ派のような人たちとは一緒に祝いません。

  ですから、” 悔い改める必要のない正しい人 ” とは、ファリサイ派のことです。

  けれども、少し疑問に思いませんか?

  「あれ、悔い改めいらないんでしょ」
  「正しい人たちなんでしょ」
  「よいことではありませんか」
  「やはり偏った愛情の話ですか」

  イエスさまは、どうしてこのようないい方をしたのでしょうか?ファリサイ派の人たちは悔い改めをしなかったのでしょうか?ヨハネの洗礼を受けなかったのでしょうか?

  いいえ、彼らはヨハネの洗礼を受けに行きました。すると、ヨハネに言われました、「マムシの子ら」と。

 マムシとは蛇ですね、毒蛇です。

  これは、創世記でエバを唆して知恵の実を食べさせた悪魔のことです。「この悪魔の子供たちめ」と言われたのです。それで怒って帰って来た。そのときにイエスさまから「悔い改める必要のない正しい人」と言われたのです。

  このやりとりを見ていると、私は子供の頃を思い出します。私はゲームをやっていました。
  すると、お母さんが言うんです「あんたゲームばっかりやってないで勉強しなさい」。
  ときには、お父さんが言いに来るときもあります。「ゲームがんばってるね。学校の勉強は順調なんだね」と。

  なんとなく、わかりますか?

  どちらも別々のことをいいながら同じことを言っているんです。「あんた勉強しなさい」、「勉強は順調なんだね」と言いながら、「早くゲームをやめて勉強しなさい」と言っているんです。

  お母さんは少し厳しく言った。お父さんは少し優しく言った。そういうイメージです。
  ヨハネは少し厳しく言った。イエスさまは少し優しく言った。

  わかりますか。

  「蝮の子ら」も、「悔い改める必要のない正しい人」も、どちらも同じことを言っているんです。

  あなたに尋ねます。「果たして、神の前において悔い改めを必要としない人が1人でもいるでしょうか」。

  いませんよね。

  「いるよ」と思った人は鋭い、イエスさまですよね。けれどもイエスさまを除いたら1人もいませんよね。

  ですからイエスさまは、「悔い改める必要を感じていない自分は正しいと思い込んでいる大勢の人たち」ということを言いたいのです。

  先週に牧師のお話で「狭い戸口から入るように努めなさい」というお話をされました。「入りたくても入れない人が多い」。

  この話につながってきそうな感じがしませんか。このことも心に留めて続きの話を聞いてください。

  聖書は、これだけ分厚い本ですけれども、言っていることは、たった一言なのです。「あなたは命の実を食べなさい」。

  ファリサイ派のような人たちは言うんです。「そんなの簡単だよ、命の実を取ればいいんでしょ。間違えるわけがない」、そういいながら知恵の実を選ぶのです。

  なぜでしょうか?

  今日の話の中で “ 知恵の実 ” とは、何のことでしょうか?
  それは「悔い改める必要のない正しい人」という神の言葉です。

  では、“ 命の実 ” とは、なんのことでしょうか?
  それは「悔い改める必要のない正しい人」という神の言葉です。

  同じではないですか。

  そうなんです。

  どういうことですか?

  2週前のお話で、『あなたの体のともし火は目』とお話されましたね。そのとき、「この目は身体の目のことではないよ」。何の目のことを言われていたか、覚えていますか?

  そうですね、「心の目、霊の目のことだよ」と言われましたよね。私たちは、心で選びます。だったら、どうすれば “ 命の実 ” を取ることができるのでしょうか?

  私たちは、ファリサイ派の不信仰に学んで、少し先に進みましょう。

  ファリサイ派のような人たちは、少し厳しく言われると、「何だよ、あのいい方、偉そうに」というようなことを言います。だからといって優しくいうと、「ほら、やっぱり俺たち悔い改め必要ない」と受け取ります。

  どんな言い方しても、自分の都合のいい “ 知恵の実 ” を取ります。

  けれども、ほかの群衆は、徴税人は、兵士は、ヨハネにどのように応えましたか?
  「私たちはどうしたらいいですか」と尋ねたのです(ルカ3:10-14)。ヨハネは、こうしなさい、ああしなさいと丁寧に教えてくれるんです。そして彼らはそれに従いました。

  これが “ 命の実 ” です。

  イエスさまの言葉は、少しわかりにくい。けれども、聖書には必ず答えが用意されています。

  『金持ちの議員』という話があります(ルカ18:18-30)。ある議員がイエスさまに尋ねます。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。

  それに対して、イエス様がまずお答えになったのは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。

  ですからファリサイ派の人たちも、「神の前で悔い改めを必要としない者はおりません。正しいのは神おひとりだけです。私に洗礼を授けてください」とイエスさまにへりくだるべきでした。

  これが “ 命の実 ” です。

  私たちの身体の目にとっては、命の実も、知恵の実も、まったく同じに見えます。けれども神は、「あなたは、その見ているものを通してどこを見てますか。その見つめる先にどのような思いを抱いて、行動を選んでますか」ということを見ておられるんです(箴言4:23→マタイ6:19-21、2コリント4:18)。

  そして同時に私たちは、そのことによって救われるのです(2コリント5:15)。

  あなたは、夏にエリヤを学びましたよね。焼き尽くす捧げ物対決で、エリヤの祈りが火を降らせたことによって、イスラエルの民は神に立ち帰りました。

  「エリヤの主こそ、私たちの主だ」

  けれども彼らは、またすぐ不信仰に陥るんです。エリヤは、大勝利の後に大敗北を喫します。それで絶望して、イゼベルを逃れて暗い洞穴の中に隠れた。

  そしたら何が起こりましたか?

  風が起こって、地震が起こって、火が起こった。けれどもエリヤは、その風の中にも、地震の中にも、火の中にも神はおられなかった。そして静かにささやく声が聞こえたと言うんです(創世1:2、列王上19:11-12)。

  神の声は小さいんです。
  周りが騒がしい中で静かにささやくんです。

  「なんだよ、その言い方。せっかくやる気だったのにやる気なくなったよ」
  「はぁ~、そんなの聞いてないし。そんな言い方じゃわからないし、もっとはっきり言ってよ」

  こういった揺れ動いて(ヤコブ1:6、ルカ7:24,8:23-24)、崩れ去り(ヘブライ12:26-27、ルカ21:6)、焼き尽くされる(申命4:24、箴言25:21-22)ような思いの中ではなく、別のところから静かにささやかれます。

  「本当はお父さんお母さんの言ったことが正しいって自分にはわかってるんだ」

  それを取りなさい。
  苦しくても、それを取りなさい。
  それが “ 命の実 ” だよ。

  知っていますか。私たちがイエスさまを信じたとき、私たちの心には、神の指で御心が記されました(創世2:24、出エジ31:18→34:28、エレミヤ31:33→箴言7:2-3、ヨハネ20:22)。

  そのあなたの内側から静かにささやく声に耳を傾けてください(ローマ10:17)。あなたの心に輝く律法の輝きを選んでください(ヨハネ10:27)。

  その声が、その輝きがあなたの人格を、人間性を形造ってくださいます(2コリント3:18)。そうしてイエス様に出会ってください(ヨハネ14:21)。

  いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して(1テサロニケ5:16-18a)、イエス様と出会えることを一緒に喜びましょう。

  お祈りをします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?