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【 説教15 】「私は人による証しは受けない」

  これは2023.12.17、おもに子どもとその保護者が参加するクリスマス礼拝で、ね羊さんがお話した全文です。
  本文では、『聖書協会 共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】

  さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたとき、  彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。  彼らがまた、「では、何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「そうではない」と言った。さらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「違う」と答えた。  そこで、彼らは言った。「誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事ができるようにしてくださいあなたは自分を何者だと言うのですか。」  ヨハネは言った。
 「私は、預言者イザヤが言ったように
  『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である。」
  遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。  彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアではなく、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、  ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。  その人は私の後に来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」  これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

ヨハネによる福音書 1章19-28節

【 説教要約 】


【 説教全文 】 約19分00秒

  クリスマス、おめでとうございます。

  今日は、こんなにたくさんの人たちとクリスマスをお祝いすることができて、とても嬉しいです。

  残念ながら体調を崩されたお友だちもいますが、私たちの教会にはライブ配信がありますから大丈夫です。いつでも一緒にお祝いすることができます。

  さて、町中はクリスマスの備えがされていますね。クリスマスと言えば、何ですか。

  サンタクロースですよね…

  私の思いで答えてますけど。

  私は、保育園のときに、サンタからポッキーをもらったことが、ものすごく嬉しかった思い出があります。「僕のポッキーが一番大きい」と、みんな同じポッキーなのに言ってました。

  私のポッキーが一番大きかったんですけどね。

  このクリスマスというのは、神さまが私たちに贈り物をされた日ですよね。何を贈られましたか。

  そうです、イエスさまです。

  クリスマスは、イエスさまの誕生をお祝いする日です。それで、今日のお話ですが、洗礼者ヨハネのお話です。

  ファリサイ派の人々がヨハネの調査に来ています。しかし、ヨハネは「メシアでも、エリヤでも、モーセの言ったあの預言者でもない」と言います。

  なぜ、ヨハネは、このような答え方をするのでしょうか。今日は、そのことについて御心を深めていきたいと思います。

  ファリサイ派の人々は、なぜ、ヨハネのもとに来たのでしょうか。ヨハネを神の使いとして受け入れに来たのでしょうか。

  そうではないようです。

  どうして、そのようなことが言えるのでしょうか。

  イエスさまがお生まれになったとき、東方の学者たちがヘロデ王のもとを訪れて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねます。

  そのとき、聖書には、このように書いてあります。

  これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

マタイによる福音書 2章3節

  待望のメシアが誕生したのに、みんなは喜ばずに、不安になりました。

  このときヘロデ王は、祭司長たちや律法学者たちを集めて、「聖書では何と言っているのか」を尋ねます。

  この律法学者と、ヨハネの調査に来ているファリサイ派は、仲良しです。

  この人たちは、自分よりも偉い人たちに取り入って、今は安定した生活を送っているので、「メシアが来て、これを壊されるのは嫌だな」と思ったのです。

  けれども、「ヨハネだったら支持してもいいよ」とは思っているのです。

  なぜでしょうか。

  それは、ヨハネが「律法を守りなさい」という教え方をするからです。

  ファリサイ派の人々は、律法を利用して、貧しい人たちから「がんばってください」と、お金や物を献げさせて、それを元手に聖書の学びをしています。そして、私たちは「神の教師だ」と言っているのです。

  だからヨハネのように、「律法を守れ」、つまり、「献げ物をしっかりするのですよ」、「神の言葉を知る人を敬いなさい」という教えを広げてくれる人は、大歓迎なのです。

  ちょうど民衆も支持していますから、「ヨハネがメシアだったらいいよ」と思っているのです。

  それに対してイエスさまは、「私の父は今もなお働いておられるから、私も働くのだ(ヨハネ5:17)」と、安息日や律法を破るし、「ファリサイ派の人々に災いあれ(ルカ11:37-54)」と、口答えをする。「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ(マルコ7:1-23)」と、敬う心が足りない。

  だから、ユダヤ人たちは「こいつは殺す」となるのです。自分たちの信用が落とされて、食い扶持が危うくなっているからです。

  そして、この使い走りのユダヤ人たちが来たのは、調査ではありません。この人たちは、「自分たちをよこした偉い人たちにとって満足する答えをもち帰ること」という任務を負っています。

  だから、「自分たちを遣わした人たちに返事をしないといけない」と言っているのです。

  そのことは、あなたが大人になってお仕事を始めるようになると、よくわかるようになります。

  そのユダヤ人の偉い人たちは、「聖書で預言されていたメシアが、預言者エリヤさんが、モーセの言うあの預言者が、『律法を守れ』と言っているんだぞ」と言いたいのです。

  ヨハネの肩書が欲しいのです。

  けれども、ヨハネは「『荒れ野で叫ぶ声』である」とか言うから、また困るのです。

  ファリサイ派の古い人たちは、ヨハネのような新しい人が伝えたいことがイマイチ通じないのです。それは、おじさんが若者の感覚にイマイチなじめないのと、似たところがあります。

  私が中学2年生のときに、仲の良かったお友だちが大好きな歌手について、一生懸命に話しをしていました。

  そのとき私は気になって気になってしょうがないことがあって、申し訳ないけど、その子の話をさえぎって尋ねたのです。

  「えっ!一人で活動している歌手なのに… えっ!!T.M.Revolutionというグループ名みたいな感じなんですね… えっ!!!それって… 西川 貴教(にしかわ たかのり)ではダメなんですか」。

  すると、「ダメだ、横文字の方が格好いい」と、お友だちは言うのです。けれども、おじさんにとっては、「一人なのに、T.M.Revolution」というのは、よくわからないのです。

  同級生なのですけれどね、この人。

  だから、「『荒れ野で叫ぶ声』さんが、こうと言っているんだぞ」と言っても、「…それ名前ですか」、「声から、声が出てくるのですか」といった感じで、イマイチおじさんたちにはピンとこないのです。

 こんなのは、報告できないのです。

  それで「何で洗礼を授けるのですか」と、何かしらもち帰ろうとします。

  このヨハネの答えをていねいにやると、すごく時間が長くなるので、結論だけ話します。

  ヨハネは、「この水の洗礼が救いのために何かしらの意味があることは知っているけれども、それがどういう意味があるのかは、自分には知らされていないからわからない。あとから来る方に聞きなさい」と言っています。

  それがヨルダン川の向こう側での出来事だったということです。


  ファリサイ派は、「あなたは誰ですか」、「何で洗礼を授けるのですか」と、自分の都合に合わせたことばかりを尋ねます。

  けれどもヨハネは、「もう大切なことは教えた。そんな意味のないことばかりしていないで、悔い改めに必要な実を結びなさい」と言います。

  それは、「ヨハネは、メシアではないだろうか」と思っている人には、ファリサイ派たちに見えていないものが見えているからです。


  神さまは特別なお方です。


  けれども、聖書の言葉に耳を傾けていると、聖書の教えとは、普通のこと、当たり前のことしか言っていないことに気づきます。


  ヨハネは、洗礼を受けに来た人々に、「持っている人がいたら、持っていない人と分け合いなさい」と教えます。それに人々は、「アーメン」と感動して応えました。


  ヨハネが言っていることは、普通のことですよね。

  日常的にいうと、たとえば、お友だちが勉強や習い事、趣味のことなどで「教えて」と言われたら、「いいよ」と教えてあげなさい。遊んでいたり、おしゃべりしているところに、「仲間に入れて」と来たら、「いいよ」と仲間に入れてあげなさい。

  だいたいそういうことです。

  普通のことですよね。


  税金を取り立てる人たちには、「法律で定められている以上の税金を取ってはならない」と教えます。


  普通ですよね。

  兵士たちには、「人から物を奪わずに、自分の給料で満足しなさい」と教えます。 

  もっと普通ですよね。

  けれども、人々は「アーメン」と感動して応えます。


  私たちが聖書のことでわからないことは、天の国の教えではありません。

  私たちがわからないのは、天の国の教えを受け取った人たちが、どのような思いで受け取ったのかがわからないのです。

  「この人たちは、このような普通の教えに対して、どうして『ヨハネは、メシアではないだろうか』と思うほど感動しているのか」、「それは、なぜなのだろうか」ということがわからないのです。


  そうではありませんか。


  イエスさまは、このように言われました。

  あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。

マタイによる福音書 7章2節

  この『裁く』とは、分けるという意味です。

  たとえば、私が小学3年生の頃、お友だちが風邪をひいて学校に来ました。私は、「近寄らないで。風邪をうつさないでよ」と言いました。

  そのお友だちは苦々しそうな顔をしました。だから私は、「なんだよ冗談じゃないかよ」と言いました。

  別の日に、私が風邪をひいて学校に来ました。すると、お友だちから、「教室に入らないで。みんなに風邪がうつるから」と、ピシャッと、教室のドアを閉められました。

  私は仕返しをされたのでしょうか。

  そうではありません。

  お友だちは、私を笑わそうとしてくれたのです、「なんだよ、笑えよ。笑うと免疫力が上がって治りが早くなるらしいよ」。

  やられて初めてわかることありますよね、「そんな冗談では笑えない」、「病気が苦しくて、それどころではない」、それよりも「優しくしてほしい」、「いたわってほしい」。

  けれども元気になると、そのことも忘れて、「風邪をうつさないでよ」と、また同じことを、私は繰り返していました。

  そうやって知らず知らずのうちに、「これがこの人たちにとっておもしろいことなのだ」ということを受け入れていっているのです。

  この一週間を振りかえってみて、あなたがよく一緒にいる周りの人を思い浮かべてください。

  あなたは、どのような人たちと一緒にいますか。

  また別のときに、私が公園で遊んでいると、お友だちがお菓子を食べていました。私が「いいな、一個ちょうだい」と言うと、「いやだよ。自分で買ってきてよ。これ僕のなんだから」と言われました。私は、「なんだよ、ケチ。一個くらいいいじゃん」と言いました。

  別の日に私が公園でお菓子を食べていました。すると、お友だちから「一個ちょうだい」と言われました。私は、「嫌だよ。これ僕のだから、自分で買って…あれッ」と、だんだん気づくようになります。

  何に気づくのですか。


  自分がやっていることを周りの人たちもやっているし、周りの人がやっていることを、同じように自分もやっている。その人たちが仲良しグループとして集まっていることに気づくようになります。

  それがよい関係であるのであれば、そのままでよいのです。けれども、もし、あなたに何かしら少し引っかかることがあるならば、何かを改めなければなりませんよね。

  ヨハネの教えに感動していた人々は、何を見ていたのでしょうか。

 「あなたが知識や立場を利用して奪い取る人だから、あなたの周りにはあなたから奪い取る人が多いのではないですか。

  あなたが誰かに助けてもらいたいと思っていながら、肝心なところで裏切る人だから、あなたの周りにはあなたをだましたり、隙があればかすめ取ろうとする人が多いのではないですか。

  だから、奪い取ることをやめて、分け合う人になりなさい。

  律法を守って、行いを正しなさい」

 このことに人々は「アーメン」と応えました。

  私は賢い人たちに話すように話します。私が言うことを自分で判断しなさい。

コリントの信徒への手紙 Ⅰ 10章15節

  ヨハネの教えを受けた人々は、「あなたは、誰ですか」と尋ねなくても、ヨハネが誰かを知っています。

  イエスさまの教えを受け取るために大事なことは、「生活を振り返って、自分で判断していくこと」です。

  イエスさまは、「人々は私のことを何と言っている」と尋ねます(マタイ16:13-20)。ペトロは、「水の洗礼のヨハネだ、エリヤだ、エレミヤだ、モーセのいう預言者だという人もいます」と答えます。

 イエス「あなたは、私を何者だというのか」
 ペトロ「あなたは神のメシアです」
 イエス「あなたは幸いだ。それは天の父が、
       あなたに言わせたのだ」



  自分で判断しなさい。

  私は人による証しは受けない(ヨハネ5:33-34)。



  ほかの人たちが何と言っていようとも、私にとって、あなたは救い主であり、主です。誰が何と言っていようとも、聖書には、神の言葉が記されています。

  そのことを信じる人にしか、神の思い、御心を受け取ることができないようにできています。


  世の中は、クリスマスです。

  クリスマスと言えば何ですか。

  クリスマスは、イルミネーションだ、豪華なランチやディナーだ、クリスマスパーティだ、セールだ、限定品だ特売だ、好きなアーティストのクリスマスライブだ、慰安旅行だ、いろいろあります。

  あなたは、クリスマスをどのように過ごしますか。

  私は今、教会で、ライブ配信でお祝いをしています。

 「あなたは幸いです。それは天の父が、
    あなたと共におられるからです」。

  今いないお友だちも、
    神さまの時に集められます。

  私たちはイエスさまに直接お会いしたことはありません。聖書の言うこともわからないことが多いです。私は救いと言われても、ピンとこないこともあります。

  けれども、クリスマスは教会に、日曜は礼拝に出ないといけない気がするんですよね。

  何もないところから、その思いがわき上がってきます。その思いが私を教会に行くように引き留めます。

  あなたも、なんとなくそのような思いを感じておられるのではないですか。

  私は、荒れ野で叫ぶ声である



  このヨハネは、旧約聖書のエリヤです。エリヤは、どうやって来ますか。

  「主が神であるなら、主に従え」と言って来ます。

  私たちの望みは、なんでしょうか。言い方は人それぞれあると思います。けれども、一番大事にしていることは、「良い人たちと共に過ごしたい」ということではありませんか。

  だから、もし、あなたが「優しい人たちと共に過ごしたいな」と思うのであれば、あなたが優しい人になることですよ。

  「安心できる人と共に過ごしたいな」と思うのであれば、あなたが先に、安心できる人になることですよ。

  すると、同じように分けられた人たちがあなたのもとに集められます。そして、あなたの人柄、あなたの人生は慈しみと平穏の秤で量り返されます。



  主が神であるなら、主に従え

  あなたの願いがあるのであれば、その願いに従った忠実な人になりなさい。その願いにふさわしい人でありなさい。

  あなたの願っていること、その思いと、あなたの行い、その行動を一つにしなさい、一致させなさい。

  主の道をまっすぐにせよ

  言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。  しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。  この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。

ヨハネによる福音書 1章11-13節

  クリスマスは、この地上にイエスさまがお生まれになったことを、みんなで喜ぶ日です。それは同時に、聖書の言葉、イエスさまの教えを受け取ったあなたが、新たに生まれることを喜ぶ時でもあります。

  主と共にいるあなたは日々新しくされます。私たちは礼拝に参加することで、日々新しくされていることを確認します。

  2024年も、私たちがキリストのもとへと成長していくことができますように。あなたと共にクリスマスをお祝いします。

  お祈りをしましょう。



【 お祈り 】

  天の愛するお父さん、あなたを信じる人たちのことを教えてください。あなたの言葉を受け取った人たちが見ているものを、私にも見せてください。

  目が見えるようになりたいのです。

  私たちは、いつも正しさを探しています。良い人とは、どのような人かを求めています。幸いな人生とは、どのようなものかを知りたいと思っています。

  私の幸いは、あなたの幸いと同じでしょうか。あなたの誕生が「いかに幸いなことか(詩編1章)」を、私に教えてください。

  2024年も、あなたご自身が共にいて、私たちを守り、導いてくださることを、何よりも喜び、感謝いたします。

  この祈りを私たちの救い主であり、主であるイエスさまのお名前によってお献げいたします。

  アーメン。

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