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【 主日礼拝ノート 】すべてのものは造られた

  これは2023.10.29の主日礼拝で、牧師が話したものを書き留めて、まとめたものです。

【 聖書箇所 】
( 旧約 ) 創世記1章1-5、24-31節
( 新約 ) コロサイの信徒への手紙1章15-20節

【 説教まとめ 】

  初めに、神は天地を創造された。

創世記 1章1節

  『創世記』というタイトルは、ギリシア語の ” ゲネシス(起源・誕生)” を意味する言葉が、中国語に翻訳されるときに『創世記』となりました。けれども、ユダヤ人の間では、はじめの言葉を取って ” ベレーシート(初めに) ” と呼ばれています。

  この神が初めに創造された天地とは、生物を含めた万物すべてのことです。ところが、2節を読むと疑問がわいてきます。

  地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

創世記 1章2節

  まるでその創造の前から地が混沌であったような印象を受けます。そのため2節は、天地創造の前の様子を表していると考えられがちです。しかし神は、なにもないところから天地を創造されたはずです。

  それならば1節のあとの地の様子を表しているのかというと、神はよいものを造られたのに、混沌や闇があるとはどういうことか。これもまた、読み方として合わないような気がします。

  これを知るためには、『創世記』が作成された歴史的な背景を知る必要があります。

  聖書の物語は、口伝えで語り継がれてきたものです。それが、なぜ文字に書き起こされ本にまとめられてのか。それは、バビロン捕囚からの解放がきっかけとなっています。

  ソロモン王の時代に繁栄したイスラエル王国は、その子レハブアム王の時代に南北に分裂します。その後、まず北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国もバビロニアに滅ぼされてしまい、ユダヤ人は捕囚の民となってしまいます。

  その後、ペルシャがバビロニアを滅ぼし、ユダヤ人たちは解放され、エルサレムに帰ることが許されましたが、ユダヤ人たちは絶望しました。

  なぜなら、バビロニアによって破壊され、エルサレムは廃墟となっていたからです。また、捕囚から50年ほど経っており、バビロン生まれのユダヤ人にとっては、エルサレムが故郷であるとも思うのは難しかったのです。

  その荒廃した都を新しい世代のユダヤ人たちは見て、復興の希望も見出せず、絶望のうちにあったからです。

  2節の混沌や闇とは、捕囚から帰還したユダヤ人たちの心情を表しているのです。

  これはすべて神に背いた結果なのです。

  地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

創世記 1章2節

  神は、” 混沌 ” や ” 闇 ” さえもお造りになられます。

  この ” 神の霊 ” とは、” 風 ” とも読むこともでき、それは吹き荒れる暴風、神の怒りのことです。神は、混沌や闇さえもお造りになられることで、イスラエルの背きの罪に気づかせ、悔い改めに導こうとしておられるのです。

  ここに、神の愛があります。

  神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。

創世記 1章3節

  神は滅ぼされるだけでなく、その立ち直らせるために、励ましと希望も与えられます。

  廃墟となったエルサレムからは、とても復興の希望は見いだすことはできそうもありませんでした。しかしエルサレムが再建されていく姿に人々を希望を見いだし始めます。

  『創世記』とは、このような歴史的背景をもとにして、聖書のはじまりの言葉としてまとめられていったのです。

  現代の科学者たちは、聖書の天地創造の物語を科学的な観点で、そのようなことは不可能であると批判するものもあります。けれども、聖書とは、信仰をもつ者に与えられる神からのメッセージを受け取るためのものです。

  今の時代にも、この当時の人と同じように、それを求める人には、新鮮なメッセージを与えてくれます。


  ところで、教会には、教会歴というものが用意されています。これは、福音のはじめから終わりまでの救済史を表しています。

  クリスマスに向けては、" 降誕節 " に入ります。そして、この節には天地創造の物語を振り返りながら、御子イエスさまの誕生をお祝いします。

  神が天地を創造されたとき、被造物はすべて神に仕えていました。神は、人に祝福を与え、生き方の指針、人の生き方を示されたのです。

  人は共に生き、お互いに支え合い、共存して生きる幸いのもとにいました。それが神の似姿に造られた理由なのです。

  しかし、神に背いたことによって、破壊が起こり始めます。

  今の時代でも、戦争によってお互いを傷つけたり、環境の破壊によって動物たちが人の住まいに降りてくるということがありますね。

  こういったことも、私たちが神に背いて、罪に捕らわれている結果なのです。人だけでなく、動物たちにも迷惑をかけています。私たちは現状が悪化しているような滅びに向かっているようにも感じます。

  けれども、聖書を知っている私たちは、死の先に、神から問われるということを知っています。この神の怒りを避けることはできません。

  そこで神は、御子を世に送って救おうとされたのです。滅びゆく歴史を、救いの歴史に変えられたのです。

  このことを降誕節では、創世記を通して見ていきます。

  御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

コロサイの信徒への手紙 1章15節

  神は天地を創造されましたが、すべてのものが生まれる前にイエスさまは生まれておられたのです。創造されたのではありません。イエスさまは、被造物ではなく、お生まれになっていたのです。

  天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

コロサイの信徒への手紙1章16節

  天地は御子のために造られました。これは、すばらしい福音です。
  天地万物のために造られたとは、天地万物の救いのために造られたということです。

  今の時代、子どもが幸いの中で生きる姿を思い描くのが難しいように感じます。しかし、このような現状であっても、御子によって救いの道が開かれているのです。

  ルターは、福音、聖書の言葉を大事にするように呼びかけました。そのルターは、「明日、世界が終ろうとも、りんごの木を植える」と言っていたそうです。終わりの日の先の希望を見ていたのです。

  この教会では水曜に祈祷会を開いています。そこで、今は『ヨハネの黙示録』を読んでいます。そこでも、神は、次のように言われます。

  神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

ヨハネの黙示録 1章8節

  終わりの日は、終わりではありません。完成のときなのです。それは、イエスさまが天の国を完成され、私たちの幸いが始まるときなのです。

  神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

コロサイの信徒への手紙1章19-20節

  十字架の贖いによって、創造主は被造物との平和を打ち立ててくださったのです。

  この神の救いの業、福音に思い巡らせながら、御子イエスさまがこの地上にお生まれになったクリスマスに向けて、お祝いしていきましょう。

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