【説教13】2023.9.24「知恵が巷で呼ばわる」
これは2023.9.24に、” 天の国で一番えらい者 ” について、子どもと大人が参加する礼拝で、私がお話したものです。
【 聖書箇所 】
【 説教要約 】
【 説教 】 約18分00秒
今日の聖書箇所では、弟子たちの争いの答えとして、「すべての人の後になり仕えるものとなりなさい」と言われました。これは、どういう意味でしょうか。
このことについて、主が私たちの後になって、どのように仕えておられるのか、ということを見ながら、御心を深めていきたいと思います。
まず、弟子たちの議論の的である一番偉いということについて、イエスさまは「あなたがたは諸民族の支配者のようであってはならない」と言われました(マタイ20:25-28)。
では、イエスさまの言われる一番偉い者とは、どのような人でしょうか。
聖書の中に『詩編』があります。『詩編』は150篇あり、神をたたえ、賛美する詩です。その第1章の始まりは、「いかに幸いなことか」と始まります。
何が幸いなのですか?
イエスさまが、「先になる者」と言われているのは、神と共に生きる喜び、その幸いへと導くための模範的な人のことを言っておられるのです。
『出エジプト記』で、モーセは、エジプトの王家で育てられました。王家の者としての気品を養うためです。次にミデヤンの地で、羊飼いとなりました。
なぜか。
モーセは同胞のヘブライ人を守るためにエジプト人を殺しました。モーセの中にある考え、思いは正しい。けれども、やり方が良くない。だから、肉の王としての人生を終えて、新しく羊飼いとなって力によらない人々の導き方を学んだのです。
それから、荒れ野で人々を神のもとへと導きました。主は、私の羊飼い(詩23: )。これがイエスさまの言われる神の国の一番偉い王さまの姿なのです。
では、次にイエスさまが私たちにどのように仕えて、神のもとに導いてくださったのかを見ていきます。そのために『サムエル記上』のサウルの話をします。
サウルとは、イスラエルの民が異邦人のような王を求めたときに、神がイスラエルに与えられた最初の王です。けれども、イスラエルの歴代の王の一人としては数えられてはいません。そのサウル王のお話です。
サウルは、お父さんから言われて迷子の雌ろばを探しに出かけます。その旅の中で、サムエルと出会い、王の油をそそがれます。サウルのお話は、こうして始まります。
聖書の中には、いろんな動物が出てきます。今回は”ろば”ですけれども、それを「ろば、性質」などと検索して調べながら、聖書を読んでみると、よいですよ。
それがキーワードになって、聖書を読み解いていく助けになります。これを話すと、少し話が長くなるので、かいつまんで話をします。
今回のろばは、悪い意味で使われています。ろばの代名詞として“怠け者”とか“愚か者”という意味があるのです。
サウルは、ろばを探しに出かけたけれども、若い従者に導かれて、サムエルと出会うのです。サムエルの名前の意味は、何ですか。
「その名は神」という名前なのです。
サウルは、怠け心で愚かな生活を送っている中で、聖霊(若い従者)の導きによって神と出会ったというお話なのです。
たとえば、学校で出される宿題って、やりたくないじゃないですか。
私が小学校3年生のときです。算数の宿題が出ていて、めんどうくさくってやりたくなかったのです。集中してやれば10分くらいで終わる。けれども、やりたくなかったのです。それで机の上にプリントを置いて、腕組みして考えていたのです。
何を考えていたと思いますか。
「宿題やるのも嫌だな、でも先生に怒られるのも嫌だな」とやっていると、イライラがどんどん募ってきますよね。それで「んー…宿題なんてやらない」っていう心を育ててたんです。
そうやって、私が闇の儀式をやっていると、部屋のドアがカチャッと開いて、「おっ、勉強しているのか」と、お父さんが嬉しそうにやってきたのです。
顔を見られると悪いこと考えていたのがばれますよね。
だから「まずい!」と、プリントの方に顔を伏せたのです。傍から見ると、問題を考えているようにしか見えないのです。
けれども、親は子供のことはわかるんですね。
しばらくじーっと後ろから様子をうかがって、「かけ算で、0に何をかけても0だからな」と言って帰って行ったのです。
それで「宿題をやろう」と思いました。
こういう風に、サボろうと思っていても、何かのタイミングで、それを引き留めてくれる誰かが必ずいるんです。
サウルの話に戻ります。
この後、サウルのことは、サムエルが導きます。けれども、神の言葉に背いたために、王の役割がダビデに渡されてしまいますよね。
だからといって、サウルが神から見捨てられてしまったのかというと、そうではないのです。
サムエルが去って行っても、ダビデがいるのです。ダビデがサウルに殺されそうになって去っても、ダビデの姿に神を見て契約を結んだ息子のヨナタンがいるのです。
サウルの物語は、ろばを探す旅から始まりましたよね。
このろばを探す旅がサウルの人生を表しています。
こうやって、神に背く愚かな心を求めに行こうとするサウルを、神のもとに導こうとする誰かが引き留めようとするお話なのです。
けれども、最期は息子のヨナタンが死んでしまうことによって、神の守りを失ってしまい、自分の剣、自分の言葉によって滅びを迎えてしまうのです。
あなたも、こういった引き留められたり、注意を促されたり、機会を与えられたりしたことはありませんか。
思い返すといろいろあると思いますよ。
たとえば、ほかにも宿題を忘れている友達はいっぱいいるのに、なぜか自分だけ怒られることはありませんか。
普段は忘れ物をしないのに、たまたま忘れたその日に忘れ物チェックをされたりしませんか。「先生、いつもはもって来ているんですけど…」と言いたくなりますよね。それ嘘つきの言葉だから言わない方がいいですよ。本当のことでも嘘つきにされてしまうので、黙って怒られた方がいいです。
ほかにも人からではなく、注意を促される出来事もあったりしませんか。
たとえば、私は友達と嫌なことがあって、それでも一日我慢しようと思ったのです。明日も怒りが治まらなかったら、文句言ってやろうと思いました。
それでも、やっぱり次の日も怒りが治まらなかったので、学校で会ったら怒鳴りつけてやろうと、朝の準備をしていました。
すると、朝のニュースで殺人事件が取り上げられていたのが耳に入ってきます。アナウンサーが「被害者は、加害者と小学校以来の友人関係にあったそうです」と読み上げました。
考えさせられますよね。
怒鳴りつけるのをやめました。「今度から気をつけてね」くらいの注意にしました。
悪いことばかりではありませんよ。
たとえば、「こういう友達を探しているんだよ」と思っていたら、ある日、友達の友達から急に紹介されることはありませんか。
また、面倒くさい仕事をやらせられて、嫌々やってたのに、やってみると楽しくて、自分のライフワークになっていたとかありませんか。
または、その仕事は本当につまらなかったけど、それをきっかけに新しい出会い、新しい気づき、それが行き詰まっていた現状の解決の糸口になったりしたことはありませんか。
こういった出来事は、全部、偶然だと思いますか。
裁くとは、「分ける」と言う意味だそうです。
7の70倍赦しなさい。
自分を愛するように隣人を愛しなさい。
迫害する者のために祈りなさい。
イエスさまはいろいろ言われます。
もしあなたが、「そういう人間になりたい」と自分を分けて、神の前に立つなら、あなたは神から赦され、愛され、祝福を送られる者になります。
そして、あなたの周りには、同じことを望む人が集まるようになります。
同じように、その人が「偶然だ」、「たまたまだ」と思えば、それはただのラッキーな、また運の悪かった出来事になります。その人がそうしてしまうのです。
その人は、自分の身に起こる出来事を自ら偶然という秤にかけたことによって、その人の人生は偶然によって量られるようになります。
けれども、あなたが「これは誰かが私のことを引き留めたり、機会を与えて導いたりしてくれているのだ。そしてそれは主である」と、そのことに目を向けるのであれば、あなたの人生に偶然はなくなります。
そのすべては、あなたに与えられた主からのメッセージとなり、その言葉によってあなたを建て上げられます。そして、同じような人たちがあなたの周りには集まります。
こういう風に、霊のお方であるイエスさまは、神と共に生きる幸いへと私たちを導いてくださっています。
そのイエスさまは、子供を12弟子の真ん中に立たせて、抱き上げられました。
それは、「すべての中心に、イエスに招かれた子供が、イエスと共にいる」。そして、「キリストは、私たちの頭であり、私たちはその体の一部だ」ということです(エフェ5:23,30)。
私たちは、聖霊を通して9つの賜物を受け取り(Ⅰコリ12:8-10)、神が与えてくださった特性を用いながらイエスの働きを担います(エフェ4:11)。
その働きに高い低いはなく、教会生活が長いか短いかは、問題ではありません。ただ、あなたがどれだけ求めたか、それによってどれだけ鍛えられたか、あなたの中の働きにおいて差は出てきます。
その中で自分の現状に不平や不満を抱くこともあるかもしれません。けれども、あなたがほかの人と自分を比べるなら、あなたは死にます(創世4:3-7、ヨハネ3:15)。
死ぬとは、神との関係が切れるということです。
イエスさまが罪人たちを招いて食事をしたとき、徴税人に「私に従いなさい」と言われると、その徴税人は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従いました。
そしてイエスさまは、「私が来たのは、誤って偽りの主人に従っている者たちを招いて、神の方に目を向けさせるためだ」と言われました(ルカ5:31-32)。
こうして集められた子供たちが、あなたであり、私であり、私たちなのです。
そのあなたを礼拝の真ん中で立たせ、抱き上げられた主は、「私の名のためにあなたを受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われました。
それは、私たちは、神から任された範囲でそれぞれ働いて、自分の任された範囲で、お互いに神のもとへ導き、またお互いに導かれながら、キリストに向かって成長していくということです。
たとえば、私は子供の頃から部屋の片づけが苦手なんですよ。だから、お父さんから「部屋を片づけろ」と監督されながら、やってたんです。
でもね、お父さんも部屋の片づけが下手なんですよ。ただ、きれいの基準が知りたくて、「お父さんの部屋もそんなにきれいとは言えないような気がするけど、これはいいの」と尋ねたんです。
すると、「お父さんは仕事のものがあるからいいんだ……」と言うんですね。
大人は、子供の前ではなかなか自分の非を認められないものなんです。
でもね、私は知っている。
その後に、お父さんがこっそり部屋の片づけをしていたということを。
それを見て、私も部屋を片づけようと思ったんです。
こうやって私たちは、お互いに足を洗い合って、主キリストにあって一つになっていくのです。
だから私たちは、「ほかの人のことを気にせず、今、私にはどんなことが神から任されているだろうか」ということに目を向けるべきですね。
この主のもとに一つであるというのは、まだ教会に招かれていない人たちも含まれています。その、まだ囲いに入っていないイエスの子供たちのために、どうやって私たちは後になって仕えることができるか。
まずスタートは、ここからですね。
信仰とは、聖霊さまと通して与えられる9つの贈り物の中の1つです。私たちは、礼拝に参加することによって、確かにイエスさまから聖霊を通して贈り物を受け取っていることを人々に証しする意味もあるのです。
イエスさまが今日のお話をされたのは、十字架の贖いについてご自身の死を告げられたことにあります。
弟子たちは、それがどういう意味かわかりません。わかりたくもなかったから、尋ねたくもなかったのです。
同じように、まだ囲いに入っていないイエスの子供たちも、私たちが礼拝に参加している意味がわかりません。
なぜなら、多くの人は、旅行に行かないと新しい発見はない、いろんな資格の勉強、セミナーに参加しないと新しいことを知ることはできないと思っています。
遊園地や映画館など、そういうところに行かないと楽しいことなんてないと思っています。
時間があるならウーバーやって隙間時間で稼ぐことが今の生き方、時間を管理してこそ、人との人生の差をつくると思っています。
そのような人たちからしてみると、毎週の礼拝は無駄な時間を費やしているように見えます。その中での献金がお金をどぶに捨てるように見えるのです。
私も言われました、「休みの日に何やっているの」、「聖書を読んだり、礼拝に参加したりしています」と答えると、「お前もっとやることあるだろ」と言われました。
彼らは知らないのです。
知恵とは、イエスさまのことです。そのイエスさまが町中で喜び歌われています。
なんと歌われているのですか。
「いかに幸いなことか(詩1:1)」と、歌われるのです。
こんなにいろんなところで、イエスさまが語っておられるじゃないか。私たちを神と共に歩む幸いに導いてくださっているじゃないか。
このことを知ると、生きていること、生活していることそのものが楽しくなるのです。
そのうえで、旅行に行ったり、いろんなことを学んだり、隙間時間にウーバーやって、私たちも楽しむのです。
けれども、神の時が来ると、彼らも目が開かれて気づきます。そのときに、真っ先に心が向くことは、「あなたが礼拝に参加していたな」ということなのです。
まず始まりは、こうして礼拝に参加することによって、私たちは、人々に仕える者となります。
サウルの物語を戒めとして、私もあなたも神と共に生きる幸いの先に立って歩んで行けますように。
そして、まだ理解でしかない神の言葉が、私たちの思いとなって降りてきますように。御国がきますように。
お祈りをします。
【 お祈り 】
天の愛するお父さん、あなたの導きにより、今日もまたあなたの家族とともに賛美できることを嬉しく思います。
聖書の言葉を通して、あなたが生活の中でも、こんなに語っておられることを知りました。私たちは主を探していましたが、インマヌエル、主はいつも私たちと共におられました。
まだ聞き逃していること、至らない思いもありますが、そのこともこれからあなたが明かしてくださることを楽しみにしています。
あなたと共にあることが、何よりも嬉しく、楽しい。
その生活を土台として、まし加えて神の国の喜びを与えてくださること、この私たちの心にあるあなたの言葉が、これからも記されていく幸いに感謝しています。
アーメン。
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