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【CS礼拝】2024.4.14「神さまでいっぱいにしてください」

  これは2024.4.14、おもに子どもとその保護者が参加する礼拝で、教会員奉仕者Y.Mさん(女性)がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】

  イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。  そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。
 「心の貧しい人々は幸いである
  天の国はその人たちのものである。

マタイによる福音書 5章1-3節


【 説教要約 】

  あなたは本当の「幸い」とは、どういうことだと思いますか?

  この私は本当の本当は何を願っているのでしょうか?

  イエスさまが教えてくださった「幸い」とは、何でしょうか?

  みなさんと一緒にイエスさまの教えについて考えていきたいと思います。イエスさまは、「心の貧しい人は、幸いである」と教えられました。「心が貧しい」とは、どういう意味でしょうか。

  「心の貧しい人」と「心の貧しくない人」の2人が聖書にも登場します。2人の何が違うのでしょうか。

  一緒に聴いてみましょう。


【 説教まとめ 】

  イエスさまは、洗礼を受けて、荒れ野での試練を受けられ、人々をいやし、弟子たちとともに、山に登って来られました。

  この5章から始まる教えは、「山上の説教」と呼ばれます。本日のお話は、その一番最初に話された言葉です。

  幸いとは、何でしょうか。

  私は、大切な人には、健康で、いろんな人と仲良く過ごしてほしいなと思います。

  あなたにとっての幸いとは、何ですか。

  一般的には、お金で苦労しないとか、目標の学校に合格するとか、楽しく過ごすことができるとかでしょうか。

  しかし、一番の幸せとは、何でしょうか。

  私は、牧師に「イエスさまが言われた『心の貧しい』とは、どういう意味ですか」と質問しました。すると、牧師は、「『心』とは、ギリシャ語で霊という意味です」と教えてくれました。

  英語の聖書では、心とは、「スピリット(spirit)」と記されています。

  Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kinfdom of heaven.

N.R.S.V. 5章3節

  霊の部分が貧しいとは、ほかの人の力や恵みがなければ生きていけないということです。

  聖書の中では、霊の貧しい人と、貧しくない人が出てきます。イエスさまのたとえ話の中に、「愚かな金持ち」というお話があります。これは、霊の貧しくない人のお話です。

  そこでイエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。  金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、  やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、  自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』  しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ。今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』児自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」

ルカによる福音書 16章16-21節

  この金持ちは、お金や自分の楽しみでいっぱいでした。命も財産で守ることができると考えたのです。

  この金持ちの心には、神が入ってくる場所がなかったのです。

  東京に住んでいると、何でもそろっていて、不自由なく暮らすことができてしまいます。私たちも、この金持ちのように感じることもあるのではないでしょうか。

  私たちは、働くと報酬が与えられます。畑も、働きの成果も、同じように神から与えられたものです。そのことを、私たちは忘れないように気をつけなければなりません。

  次は、霊の貧しい人のお話です。

  イエスはエリコに入り、町を通っておられた。  そこにザアカイと言う人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。  イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。  それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。  イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」  ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。  これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」  しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰からでも、だまし取った物は、それを4倍にして返します。」 

ルカによる福音書 19章1-8節

  ザアカイとは、徴税人という、ローマ帝国の命を受けてユダヤ人から税金を集める人でした。徴税人は、ユダヤ人でありながら同胞から税金を多めに取り立て、本来、ローマ帝国に収めるものの余分を自分の懐に入れて金もうけをしていたため、同胞のユダヤ人からの嫌われ者だったのです。

  その徴税人であるザアカイは、イエスさまを見たかったのです。ザアカイは、病気やお金で困っているわけでもないのに、イエスさまに会いたいと願っていました。

  このザアカイは、心の深いところで満たされない何かを感じていたのではないでしょうか。

  「イエスさまを見れば、何かが変わるかも」

  そういった思いがあったのではないでしょうか。イエスさまは、すべてをご存じです。そのザアカイに「降りてきなさい」と、イエスさまは言われました。

  イエスさまは、ザアカイの霊的に欠けていたものを満たされたのです。

  イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。  人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

ルカによる福音書 19章9-10節

  私たちの幸いとは、何でしょうか。

  私は訪問介護の仕事をしていますが、その仕事の中で、末期がんの患者の訪問をすることもあります。その人の介護はたいへんで、仕事を終えて、家に帰るときにホッとする自分に気づかされます。

  私は、たった一人の人に寄り添うことの難しさを感じるのです。

  私は、こういった自分の中に欠けを感じて、その欠けを満たそうとしています。イエスさまは、その欠けを満たすために十字架にかかられました。

  私は、「このイエスさまに、神さまでいっぱいにしてもらいたい」と願っています。

  お祈りをしましょう。


【 お祈り 】

  天にいらっしゃいます父なる神さま。復活節を共に歩んでくださる恵みに感謝いたします。

  新年度の歩みがはじまっています。あなたに与えられた新しい出会いを感謝して歩めますように、わたしたちの思いを導いてください。

  この祈りを、イエスさまのお名前によってお献げします。

  アーメン。

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