【主日礼拝】2024.1.28「生きるために」
これは2024.1.28の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。
【 聖書箇所 】
(旧約)詩編49編13-21節
(新約)ヨハネによる福音書 4章43-54節
【 説教まとめ 】
本日の聖書箇所のお話では、王の役人が息子をいやしてもらうためにイエスのもとを訪れます。
御言葉だけでは不安ですが、この役人は、イエスの言葉を信じて帰りました。けれども、本心は、息子を治すために、イエスに来てもらいたかったはずです。
この役人のお話は、私たちの命にもなる、私たちが生きる者となるための出来事でもあります。
私たちの教会では、2月には『私のみことば』と題して、この1年で各自が心にとめる御言葉を募集しています。
私も年末年始にずっと祈って御言葉が渡されました。御言葉を探し、投稿するのもたいへんなことでしたが、その先が始まりなのですね。この御言葉とともに生きていけるように歩んでいかなければなりません。
本日のお話は、その恵みが与えられた人のお話なのです。
本日の聖書箇所は、1つの話のようですが、2つの区分に分けられます。役人の息子をいやした後半の話と(4:46-54)、主イエスが故郷の人たちに歓迎される前半の話です(4:43-45)。
ここで言われている故郷とは、ナザレか、もしくはその地方一帯のことを指していると思われます。本日のお話の舞台は、以前、主イエスがぶどう酒の奇跡を起こされたカナですが、この地も主イエスの故郷の一つに数えられています。
この『ヨハネによる福音書』では、ガリラヤの人々はイエスを歓迎したと書かれています。それは2章13-25節で記されている過越祭の出来事を人々が見ていたからです。
しかし、ほかの福音書では、主イエスを敬わないだけではなく、殺そうとまでしています(ルカ4:16-30)。
こういったことから、ガリラヤの人々は、本当の意味でイエスを受け入れたのではなく、人々はイエスを自分たちの思いどおりに利用しようとしていることがうかがえます。
彼らは、主イエスに従う気はないのです。
主イエスのもとを訪れた役人は、部下に任せることをせず、自らカナに赴いて、へりくだりました。この役人は、カファルナウムからカナまで30kmの山道を急いで駆けつけたのです。
しかしこの言葉から、この役人も主イエスに従わない者の一人であることがうかがえます。だからイエスは、このような人の言葉をお聞きになることはないのです。
しかし役人は、権力をつかわずに乞い願いました。
役人は、イエス自身に来てほしかったが、与えられたのは言葉だけでした。翻訳では、「帰りなさい」と少し丁寧な言い方になっていますが、原文では、「行け」と命令形で書かれています。
役人は、この言葉を信じることにかけたのです。
私たちも御言葉を信じて生きています。しかし、本当に信じているでしょうか。私たちは、この疑う心と戦いながら、御言葉と向き合っていくのです。
本日のお話の前では、『サマリヤの女』の話があります。そこでは、サマリヤの女の話を受けた町の人々が、このように答えます。
本日のお話は、この『サマリヤの女』の話の後にあり、またトマスの不信仰に見られる「見ないで信じること」を『ヨハネによる福音書』は勧めています。
主イエスの言葉は、人を生かすことができます。この御言葉が私たちの力になるのです。
主イエスと役人とのやりとりでは、「生きる」という言葉が繰り返し告げられています。『ヨハネによる福音書』では、「生きる」という言葉に特別な意味が告げられています。
生きることで喜びを知ります。
永遠の命とは、その喜びが続くことです。
イエスを見たのは役人だけでしたが、その家族がすべて信じました。このように、すべての人が命にあずかります。生きる力が、喜びが、このようにして、私たちに与えられるのです。
お祈りをします。