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【 礼拝ノート 】しゅにしたがうことは
これは2023.11.12の子どもと大人が参加する礼拝で、Tさん(女性)がお話されたものを書き留めて、書き起こしたものです。
【 聖書箇所 】
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
【 説教まとめ 】
バルティマイは目が見えませんでした。だから働くこともできず、エリコの道端に座って道行く人からお金や食べ物をもらって生活をしていました。
その生活の中では、優しい人たちばかりではなかったと思います。バルティマイは、誰かに助けてもらわないと生きていけないことを知っていました。
イエスさまは、ナザレで30歳くらいまで大工の息子として働き、それから3年の間、ユダヤの各地で福音を宣べ伝え、数々の奇跡を起こされました。
バルティマイは、目は見えませんでしたが、耳は聞こえました。イエスさまのことは、エリコでも話題になっており、バルティマイの心の支えになっていたのではないでしょうか。
イエスさまがエルサレムに向かい、エリコを通ったときに、バルティマイは、「ナザレのイエス」ではなく、「ダビデの子イエス」と呼びました。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまでが14代である。
『マタイによる福音書』のはじめに、イエスさまの系図があります。バルティマイが「ダビデの子」と呼んだのは、『旧約聖書』で語られる預言者たちの言葉を信じていたからです。
イエスさまは、すべての人の罪を負って救うために来られました。神の憐れみによって人々を救うためです。
憐れみとは、人の苦しみや哀しみに同情し、寄り添うことです。
バルティマイの呼びかけに対し、弟子はうるさいし、迷惑な人だと思ったことでしょう。しかし、イエスさまが呼ばれると、バルティマイは上着を脱ぎ捨ててイエスさまのもとに来ました。
その上着は、これまでのバルティマイにとって大事なものでした。けれども、もうバルティマイには " これまで " は必要なかったのです。
バルティマイは、「目が見えるようになりたい」と求めて、イエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」と応えます。
信仰とは、見たい、信じたいという心です。
イエスさまは、目を治したから「さよなら」される方ではありません。バルティマイはイエスさまについていき、これからも共に歩んでくださる方なのです。
私は、このバルティマイのお話を読むと、この歌を思い出します。だから、今日はみんなで一緒に歌いたいと思います。
『119 主にしたがうことは』
1 主にしたがうことは なんとうれしいこと。
心の空 晴れて 光はてるよ。
(くりかえし)
主のあとにつづき ともに進もう。
主のあとにつづき ともに進もう。
2 主にしたがうことは なんという幸せ。
悪い思い 消えて 心はすむよ。
(くりかえし)
3 主にしたがうことは なんと心強い。
おそれのかげ 消えて 力はますよ。
(くりかえし)
イエスさまは、あなたと共に歩むことを待っておられます。
お祈りします。
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