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【 主日礼拝ノート 】旅人としての人生

  これは2023.11.12の主日礼拝で、牧師がお話したものを書き留めて、書き起こしたものです。

【 聖書箇所 】
( 旧約 ) 創世記 12章1-9節
( 新約 ) ヨハネによる福音書 8章51-59節

【 説教まとめ 】

  先週は、1人の過ちによって罪が人々の中に入り込み、死が人々を支配するにいたったことを確認しました。

  罪とは、犯罪のことではなく、神に背くことです。その罪は、人々の不幸のもととなり、人々は争い、分裂を呼び、滅びを迎えることとなったのです。

  しかし神は、ノアの洪水のときに「もう二度と洪水で滅ぼすことはしない」と約束されました。そこで神は、神に従う者を生み、民の導き手となさいました。

  ここから、アブラハムから始まるイスラエルの歴史が始まるのです。

  アブラハムは、父テラとともにカルデアのウル(現在のイラク南部)に住んでいました。ウルとは都市国家であり、ユーフラテス川流域のとても豊かな土地でありました。

  テラには、子どもにナホル、アブラム、ハランがいましたが、ウルの地で末の子のハランが死んでしまいます。その後、テラは、ナホルとアブラムを連れて、故郷のウルを離れ、カナンの地に向かい、1000キロ離れた途中のハランにとどまります。

  なぜ、テラがウルを離れたのかはわかりません。いろいろな説によれば、当時はアモリ人がユーフラテス川流域を侵略していた時代であり、テラはアモリ人から逃れるためにウルを発ったのではないかということです。
  そして、末の子ハランと同じ土地の名をもつハランにとどまり、そこで死を迎えたということです。

  主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 / 父の家を離れて / わたしが示す地に行きなさい。」

創世記 12章1節

  テラがなぜカナンの地を目指したのかはわかりませんが、ハランの死やテラの行動も、すべては神のご計画に導くためのできごとだったのではないでしょうか。

  ところでアブラムには妻サライがおりましたが、不妊の女でした。当時の人々にとって子は、幸せのしるし、神の祝福を表すものと考えられていました。

  そのときアブラムは75歳、サライは65歳であり、子を産む年齢をはるかにこえていました。ハランやテラのようにいずれ死ぬことはわかっていましたが、アブラムには跡継ぎがいない。

  つまり、アブラムには滅びしか残っていません。どんなにつらいことであったでしょうか。

  わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める / 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し / あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて / あなたによって祝福に入る。」

創世記 12章2-3節

  祝福の源とは、子を授かるという神の約束です。条件は故郷を旅立ち、父の家を離れることです。行先は告げられていませんでした。それは安全・安心な旅ではなく、行く当てもなくさまよう生活です。

  実際、アブラムはカナンの地に着いても苦しみました。飢饉に遭い、人々が身内を守るために冷たくなります。そうして飢饉を逃れてエジプトに行きますが、ファラオに妻を奪われることとなるのです。

  私たちの人生も同じではないでしょうか。有名大学を出ても先行きが見えない。環境問題の不安もあり、近年では病気の治療が困難な伝染病など広がっています。
  キリスト者の人生も、洗礼を受けたからといって必ずしも豊かな祝福を受けるわけではありません。

  私たちの人生も、アブラハムがカナンの地で試練を受けたように、旅人がさまようようなものです。

【 牧師の回想 】
  私も東京神学大学を卒業して、学長から「どこの教会に行きたいか」と質問を受けました。本心は「地方の教会に行きたい」というものでしたが、「どこにでも行きます」と答えました。

  すると、東京のある少し大きな教会に行くこととなりました。そこには幼稚園もあり、主任牧師の支えを受けながら、礼拝では名誉教師となられた方も参加されており、大きなプレッシャーを抱えながら、いろんなことを学びました。

  そこでの働きを終えて、次にまた学長から「どこに行きたいか」と尋ねられましたが、「どこにでも行きます」と答えました。すると、島根県の小さな教会に行くこととになりました。

  その後は、今のこの教会からの招きを受けて参りましたが、コロナの影響で教会に集まることが困難な状況となったところからのスタートでした。

  私も行先を知らずに、ここまでやってきました。みなさんも、それぞれ似たように思い起こすことがあるのではないでしょうか。


  アブラハムとサラは、たった一人のイサクを授かります。祝福の源となるという神の約束を見ないまま死にました。しかし、神の約束は自分の死後に成就されることを喜んで死んだのです。

  イエスさまが、「わたしは世の光である」というお話をされたとき、ユダヤ人たちは、そのことを信じました(ヨハネ8:30)。しかし、本当の意味では信じていませんでした。

  ユダヤ人たちは、どのような救いをもたらすメシアであるのかわかっていませんでした。

  イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ヨハネによる福音書 8章31-32節

  罪の奴隷からの解放は、主キリストを信じることにあります。それは当時のキリスト者たちに対するヨハネ福音書の記者のメッセージでもありました。

  当時のユダヤ人たちは、キリスト者を迫害し、キリスト者は身をひそめて生活していました。このようなキリスト者たちに、「本当の自由を得よ」と、記者は呼びかけているのです。

  すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

ヨハネによる福音書 8章33節

    それはユダヤ人たちがイエスを殺そうとしているからです。

  彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」

ヨハネによる福音書 8章39節

  ユダヤ人たちは、本当はイエスを信じておらず、自分たちを否定されたことで、イエスを殺すようになっていくのです。

  イエスさまが、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない(ヨハネ8:51)」と言われたの対し、ユダヤ人たちは、「アブラハムは死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか(ヨハネ8:53)」と問いつめます。

  あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」

ヨハネによる福音書 8章56節

  アブラハムは、たった一人の子イサクから空の星、海辺の砂のように増え広がる子どもたちを見て喜んだのです。アブラハムは、まだ見ないものを信じていました。

  その旅の果てに、イサクを見て、神の約束の成就を見ていたのです。

  ユダヤ人たちは、まるで見てきたかのように語るイエスさまに、「50歳にも満たないのにアブラハムを見たのか」と皮肉をこめて問いかけます。

  イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

ヨハネによる福音書 8章58節

  これは『出エジプト記』の中でモーセにご自身を現された主が言われたことです。イエスさまは、天地創造の前からおられたことを明らかにされました。

  私たちの人生も旅のようなものです。私たちは、何をたよりにするべきでしょうか。

  自分の思いや考えを1番にするならば、ユダヤ人たちのようにイエスを殺すことになります。

  アブラハムは神をたよりに生き、苦労もありましたが、その試練からは恵みを受け、奇跡によってイサクを与えられました。

  イエスさまの十字架が完成することによって、今は、アブラハムの祝福を共有する神のご計画が成就しています。

  神は、この旅人のような人生の中で、アブラハムの祝福を共有するように私たちを招いておられるのです。

  お祈りをします。

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