世界で最低のコミュ喪主爆誕

皆様ごきげんよう。二日連続の投稿は久々になります。
私事ですが入院中の母が逝去したのでプロフィールの所の『家事手伝い』
が『家事手伝わず』になってしまいました。でもまあ『家事手伝わず』は少しばかりカッコ悪いので、とりあえず今後は『セルフ家事手伝い』と称させていただきましょう。ドーゾヨロシク。
中学校時代だったか高校時代か忘れましたが、国語の授業で『咳をしても一人』という俳句がありました。今載ってるかは知りませんが『五七五じゃねーから俳句じゃねーだろ』と思いますが、自由律と言って尾崎放哉と言う歌人の作だそうですが、それはそれとして話を進めます。私の実生活は母と二人暮らしで、ずっと料理上手の専業主婦の母が料理してくれる料理を食べさせてもらって仕事をさせてもらっていた自分にとって、母が大きな病気で料理をできなくなってから勝手に自称家事手伝いを称して数年間。物忘れがひどくなって、会話もちぐはぐになりつつも、どんなことがあっても、そこにいてくれることが嬉しかった。
4月から今どきのコロナに罹って自宅待機、その数日後に自分も感染させられたので外出せず一緒に待機して待機明けに病院に行って外出OKと言われた後、帰り際に病院のトイレで倒れて近所の大きな病院に救急車で運ばれ即、入院。その時は一週間で退院したけれど、5月に体調を崩して再入院して、即入院。元々悪かった肺炎が悪化してかなり危ない状態とのことでした。二回目の入院で、一人しかいない我が家で咳をしても誰もいない家。私はコミュで人と話すのは大の苦手、でも家族とだけは話せたんだ。話しかけても誰もいない。いつだって、外ではそうじゃん。そう思っても、学生時代から何年?咳をしても一人の意味がやっと分かった。帰ってこない家で毎日奇跡を信じたけど、奇跡なんてどこにもない。入院して5日目に医者から「残り2、3日。今日亡くなるかもしれない」と宣告されてからさらに5日目。宣告されてから二日も頑張ったのに母は旅立ちました。
今は何も考えたくないのに、コミュな私が喪主として葬儀をさせられるという、コントにもならない事態。母は誰からも愛される、自分とは違った素敵な人でしたが、病気で入院して数年間、週数日施設でリハビリする以外は、誰一人会いにも来ず、年賀状の数も、自分の住んでいる町で色々な貢献をしていたのに、市内の人間からは1枚しか年賀状も来ないという、異常な事態になっていました。年賀状には来た相手だけスタンプを押して、あて名は私が書き、かろうじて直筆で覚えている文字だけ書いてもらって送らせていた自分のせいなんかなと自己嫌悪にもなったけど、誰も会いに来ないのはそれだけじゃないよね。来た相手を追い返した記憶全くないし。離れた町の知人や遠くに住む子供の頃の友達はたまに心配して電話があったけれど、市内の人間からは何もない日々が数年。ならいいやと自分は喪主権限で身内だけで葬儀を選択しました。有名人の人だって最近はやってますよね。でも愛されてたはずなのにごめんね。今後何があろうと生涯喪主など務めるはずのない、世界最低の喪主の爆誕ですね。喪主としての自分は誕生日が命日になります。
一応、この話はフィクションでなく実体験の日記です。この話の続編は明日へ続く。お楽しみにと言いたいけどいい話は一つもないです。


頑張ります。