院政期の伊勢神宮式年遷宮と行事弁


はじめに

 中右記は、白河院の院政期、堀河天皇の御代、寛治8年6月13日の除目により、正四位下侍従から同右中弁に遷任され、同23日に伊勢遷宮の行事弁に任じられた藤原宗忠の日記であり、伊勢神宮の式年遷宮に関する朝廷側の官人の記録として、第一級の史料である。また、同時に、伊勢神宮役夫工の草創期の重要な史料でもあり、当該論考に多く参照・引用されてきているが、その他、行事弁に関する考察は殆どされていないように思う。そこで本稿では主に中右記の記述から行事弁からみた伊勢神宮式年遷宮について考察し、その実態を解明することにする。

1.行事弁の役割

 中右記にみえる行事弁の役割は次の通りである。
・遷宮の運営費の確保
・遷宮の要員の確保
・神宝・神殿の金物、装束作成の監督
・神宮への神宝奉遣使の派遣
・神宝奉遣使上下向間の供給の確保
・神宝行事所及び神宝奉遣時の警備

 まず、遷宮の運営費は当時、主に造宮の役夫の糧食である役夫工米と、神宝や装束・遷宮に伴う祭祀等に使用する行事所召物によって賄われた。役夫工の糧食については、延暦年間に記載された「皇大神宮儀式帳」には、その記述がないので、延暦年間当時は自弁であったと考えられる。その後課役に対する糧食の提供が定着すると(1)、それは神税ないし正税によって賄われた(2)と考えられる。また、神宝・装束や祭祀に使用する用物は「皇大神宮儀式帳」によると神税と官庫の物である調庸とによって賄われていた。しかし、律令体制の弛緩により調庸の徴収が滞り、また荘園制の発達等により正税の徴収も律令制下のようには行かなくなると、諸国の不動正税が運営費に充てられるようになった(3)。その後、承保3年(1076)の内宮の式年遷宮の際までには、役夫工米と行事所召物によって運営されるようになった(4)とみられる。この役夫工米と行事所召物については次章以降で詳しく述べる。
 次に、遷宮の要員は造宮の役夫工と神宝や神殿の金具を作製する「道々細工」と神殿に備える装束を作製する女工である。この内、役夫工は、「皇大神宮儀式帳」に記載の伊勢・美濃・尾張・参河・遠江の五カ国に加え、伊賀(5)、近江(6)に宛課されたとみられる。行事所は右記諸国に対して、役夫工の割り当てを行っていたとみられる。
 また、神宝・神殿の金物、装束の作成に関しては、神宝行事所の開所に先立って、嘉保2年(1095)6月15日、神宝の金物寸法を測るために、官掌史生中臣則貞、細工四人及び支部に、翌日伊勢に下向するように命じている。更に神宝行事所が開所された7月1日の翌日には、道々細工等に神宝・金物の支度をさせている。7月23日には行事史の盛忠に装束を作成する女工の送迎をさせ、女工たちに女官料清衣を送り、饗饗膳でもてなしている。9月1日には天皇より神宝が揃ったか否かを問われ、紫革が不足している旨を奏上し、紫革二枚を賜り、すぐにそれを行事所に送った。9月4日に神宝を勘納し、9月5日には神宝の最終確認を自ら行い、金物の一部が落ちていることを発見した。これは実検使史生則貞の見落としであったが、責め咎めることなく、鍛冶国吉に命じて作り加えさせている。
 神宝奉遣使の選任は、嘉保2年9月2日に行われ、前例から左大史ではなく右大史の例もあるということを院(上皇)に伝え、行事史の盛忠に参宮させることを院(上皇)が決定した。それを上卿に報告の上、祭主に下知した。
 神宝参向事の供給は近江国と伊勢国の担当であったが、当初は両国とも難色を示していた(7)。伊勢国は嘉保2年8月10日に(供給役として)官使を出すことにした。一方で近江国は9月4日に至って供給役の官使を出すことを申請してきが、近江国の供給役は既に無裁許ということで、院から供給役の官使を出すことになった。
 最後に神宝奉遣使出発の翌前日の最後に神宝奉遣使出発の前日の9月6日の晩は行事検非違使府生忠重に候門外の警備を命じている。神宝奉遣使出発の当日には郁芳門下で同じく検非違使府生忠重に内容は不明だが指示をしている。

(注)
(1)弘仁13年(822)閏9月20日官符「応給食徭丁事」
   (類聚三代格 巻六 公糧事)
   に糧食を支給す役目と定員が明示されており、この頃以降、糧食の提   
   供が一般化したと考えられる。
(2)延喜式 伊勢神宮式に
   「丁匠役封戸人夫糧食 使用神税 若神税不足用正税」
(3)本朝世紀 天慶8年(945)
   「伊勢豊受宮去延長四年廿年一度宮移後、今年至廿年可右宮移事、
    仍自先年以大中臣滝良定其使、給諸国不動正税」
(4) 役夫工米については小山田義夫氏が承保3年開始説を唱えており  
   (伊勢神宮役夫工制度についてー院政期を中心としてー
   【流通経済論集VOL2 No.2 流通経済大学学術研究会編
    1967年9月】)、定説化しているが、氏とは理由は異なる。
   氏は役夫工米が嘉保2年(1095)の内宮の式年遷宮時、新規に 
   導入されたのならば、宗忠はその事を日記に記した筈であると述べて 
   いるが、遷宮の行事始めは、永長2年(1097)の外宮遷宮の際の 
   例にもあるとおり(中右記・寛治8(1094)年9月16日条)、  
   遷宮の三年前であり、内宮の年遷宮の行事始めの行事弁は宗忠ではな
   く源師頼である。よって役夫工米の制度が嘉保の内宮遷宮時に新規に
   設けられたとして宗忠はそれに直接関与していないので、その辺のい  
   きさつを日記に記していなかったとしても何ら不思議ではない。要は
   中右記・嘉保2年5月17日条の次の文である。
   「新造宮使親仲申諸国残物欲申請事、取御気色處、仰云、件親仲已申 
    受領功、残物強不可尋、但尋先例可量行」
   ここで、諸国残物とは役夫工米の残物で先例とは承保度の造宮使親定
   と公輔の受領功事の事(中右記・永長元年正月5日条)であるとみら
   れる。承保時に役夫工米の税制がなければ前例などないので、承保の
   内宮遷宮までには役夫工米が始められていたことの傍証に成り得ると
   考える。
    また、小右記・治歴元年(1021)9月8日条に豊受神宝発遣の
   記事に、行事道方卿、右中弁章信の名があり、この時期には伊勢神宮
   の式年遷宮に際し行事所を組織していたとみられ、遷宮行事所召物の
   存在が想起されるが、遷宮行事所召物の史料上の初見は春記・長暦4  
   年(1040)9月17日条である。
(5)大津透 伊勢神宮役夫工 律令国家支配構造の研究
   (第2部・第3章・第3節・1)岩波書店 1993年1月
(6)長承2年(1133)3月1日官宣旨案(平安遺文 第2266)
(7)中右記・嘉保2年8月6日条に近江国解、神宝参向之間、供給宛行権 
   門庄園事、伊勢国供給不叶事とあり、伊勢国が供給役に難色を示して
   いるのは明らかだが、令進近江事、無先例者難裁免とあるので、近江
   国解についても供給役の免除を求めるものであったと推測される。

2.役夫工米の確保

 役夫工米は行事所より各国司に割り当てられ、各国司が行事所に弁済するのが筋であった。しかし、国司が特に理由(1)もなく、役夫工米を弁済しない場合、造宮使催使を各国や荘園に派遣し、住人より直接徴収することがあった(2)。造宮使催使は役夫工使、役夫工催神民、神民とも表記され、派遣先で、濫行を働いたり(3)、物を取ったり(4)することもあったが、度々住人に凌礫されることも多かった(5)。主にこうした造宮使催使への不法行為を取り締まるためか、造宮使催使に検非違使を随行させることもあったが(6)、その検非違使に造宮使催使が殺害される事件も起きていた(7)。役夫工米の徴収は造宮使側の半ばこうした自助努力によってなされていたが、こうした住民と造宮使催使との間のもめごとは、造宮使の解状や国司等の解状として行事所に送られてきており、その数は夥しいものであった(8)。また、役夫工米は不諭権門荘園を建前とし、一国平均の役と称されもしたが、例外的に一部で免除も認められていたため(9)、荘園側から免除を求める申請もあった(10)。行事弁はそれらを行事上卿に報告し、その指示によって関白や院の沙汰を得なければならず、それだけでも激務であったと思われる。
 各地の住人の造宮使催使への不法行為は犯罪として処罰の対象になった(11)が、反対に造宮使催使の不法行為について、是正措置はとられたものの、罪に問われることがなかった。造宮使催使に遣使し、不法行為を止めるように指示するのも行事所の役割であった(12)。場合によっては対面で行事所官使と造宮使催使が対決することもあった(13)。
 内宮の造宮に関しては造宮使親長のもとで作業がなかなか進まなかった(14)。折しも嘉保2年5月3日に親長の妻が死去し(15)、喪に服さなくなければなくなり、造宮使を改捕することになった(16)。行事弁と造宮使催使の努力にもかかわらず、祭主親定の長男の親仲を新たに造宮使に任命し(17)、内宮に関しては彼の受領功により私力造宮を成し遂げようということになった。

(注)
(1)伊予国が国守初任年の上、国内亡弊を理由に造宮使催使の下遣を差し
   止められている。(中右記・寛治8年7月7日条)
(2)外宮の(役夫工米の)官符を諸国に付けたが、特に美濃・近江は早々
   に弁済しなければならないのに進済しないので、早く(造宮使催使)
   を遣使して(役夫工米を)責め求めるよう行事上卿より沙汰があっ
   た。(中右記・寛治8年11月28日条)
(3)信濃国申神民濫行事の記事がみえる。
   (中右記・嘉保2年11月13日条)
(4)駿河国解庄園役夫工事、又同国解為催使所押取物事の記事が見える。
   (中右記・嘉保3年11月11日)
(5)美濃国住人陵礫神民事の記事有り。
   (中右記・寛治8年12月8日条)
(6)又所渋国々注文、付検非違使可催之由の記事が見える。
   (中右記・嘉保2年正月22日条)
(7)是備前役夫工催神民、為廰下部被殺害時
   (中右記・寛治8年12月4日条)
(8)伊勢遷宮行事、史惟宗盛忠文書持来、此中諸国解状巨多也
   (中右記・寛治8年6月26日条)
(9)長承3年(1134)正月20日官宣旨案(平安遺文 第2297)
   によると、「除神社仏寺領官省符庄」とあり、官省負荘は元々除外で
   あったと考えられる。
   また、長承2年3月1日官宣旨案により、不輸租田についても免除を  
   申請すれば、認可されることもあった。
(10)伊勢国中宮御庄鹿取役夫工可免除否事
    (中右記・嘉保2年3月5日条)
(11)為役夫工使成濫行事、依前日仰尋問明法博士範政之處、申云、但馬
    国太田庄住人、美乃国米田庄住人、信濃国住人、已上為盗犯殺害時
    不可會赦(中右記・永長2年2月6日条)
(12)所渋国々又催使非法、縦雖不申上、直従行事所遣官使
    (中右記・寛治8年11月28日条)
(13)棚橋光男 遷宮行事所 中世成立期の法と国家(第1章 第2節)
    塙書房 1983年11月 
(14)親長の造宮懈怠は寛治八年十一月二十三日以降度々問題となってお 
    り、具体的には史生光憲の注文の三分の一に及ばなかったというこ
    とである。(中右記・嘉保二年六月十一日条)
(15)中右記・嘉保2年5月6日条
(16)中右記・嘉保2年5月7日条
(17)造宮使に親仲が決まるまでには紆余曲折が有った。まず、祭主親定
    は三男の親能を含め三人を注申してきたが、三人は前例がないとい
    うことで親能一人を造宮使に補任することになった(中右記・嘉保
    2年5月7日条)。翌日、宗忠が親能を召して確認したところ、年
    齢が12、3歳程で片足がとても短いことが判明した。そこで関白
    や院、女院とのやり取りの中で祭主親定の長男の親仲を造宮使に補  
    任することになった(中右記・嘉保2年5月9日条)。

3.行事所召物の確保

 寛治8年(1094)7月28日に内宮と別宮の地鎮祭が行われることになったが、同月二十四日に行事所が地鎮祭の祭物を造宮使へ受け渡した。地鎮祭の祭物が全て揃った上での事と考えられる。それでもなお、未済の明衣料庸衣の弁済を信濃国に促すために、同国に苛法使を放つなど、行事所は諸国に所定の召物を弁済させるための努力を惜しまなかった。
 そういった努力にも関わらず、召物の諸国の未済不弁は甚だしく、料物の一部を栄爵の任料で賄うことになった(1)。それでも召物の一部を免除することなく、未済の諸国に苛法使を放ち、弁済を促した(2)。
 嘉保2年6月2日には、絹布類以外の神宝の部材の数量の目途が付いた。そこで神宝の部材不足が明確になったためであろうか、翌3日に行事弁宗忠は行事上卿へ「諸国不弁済、極不便也」という報告を行っている。とりわけ権勢を張っていた院を後ろ盾とした院司受領に対しては、院に直接願い出て召物の弁済を請うのが常套手段であり、院に請うて因幡国を始め、十名の院司受領の召物を進済すべきとの裁許が下りた(3)。それにも関わらず、淡路国については全く弁済せずといった事態となっていた。ここでも苛法使を放ち弁済を促すよう院より指示が下りた(4)。諸国への召物の割り当ては前例を踏襲して行われたと考えられるが、勝林寺領芹生庄の大原刀禰が召し出すことになっていた炭については、この庄は元は少将家の所領だったのが、勝林寺に施入されたため、この類の公事は免除となっていたとして炭を不進とする不都合が生じていた(5)。(この炭については八月二日に召進すべきとの沙汰が院より下りている。)
 また、不足の部材については大臣の負担も求められた。例えば糸鞦については大宰府に進上するように求めていたが、これが不進の場合、大臣進とされた(6)。それでもなお、部材が不足した場合、天皇や院が負担するのが慣例となっていたのか、9月1日、行事弁宗忠は天皇に神宝は揃ったか否かを問われ、紫革不足を奏上し、革二枚を下給された。その上、9月3日には申請により院より紫革八枚、小吹玉六千顆を下給されている。
 以上、神宝、装束、祭物に必要な部材は諸国の召物により調達するのが、基本原則であったが、それを諸国が進済しない場合、苛法使を放つなどの措置はとられたものの、役夫工米の時と同様、決まった罰則は特になく(7)、不足した場合、栄爵の任料によって賄い、それでも不足した場合、大臣や天皇、院にも負担が求められた。

(注)
(1)中右記・嘉保2年4月8日条
(2)中右記・嘉保2年5月27日条
(3)中右記・嘉保2年7月5日条
(4)中右記・嘉保2年8月6日条
(5)中右記・嘉保2年7月12日条
(6)中右記・嘉保2年8月2日条
(7)受領功過定で不利になることはあった。

4.院の関与

 院政期の行事所は、政務の実務処理、政務の簡略化と連結性を実現するための組織形態として、自由裁量権が拡大されていた(1)が、院の関与も次の点で認められる。
・行事所の人事に関する事
・行事所召物の免除に関する事
・役夫工米の免除に関する事
・召物未進の時の措置に関する事(栄爵、大臣進)
・院司受領の召物の進否の報告
 まず、行事所の人事に関しては、服喪が出来た造宮使親長の後任の選定において、院と女院の関与がみられ(2)、院の承認が必要であったが、祭主親定の長男親仲を選任し、彼の受領功により造宮の遂行を図るという最良の結果を得た。また、神宝奉遣使の発遣に関して、行事所から誰を参宮させるかという事案に関しても、左大史と右大史のどちらにするかを院の差配で右大史の行事史盛忠が任命され(3)、上卿への報告と祭主への下知は事後となっている。
 召物の免除に関しては、阿波国が法勝寺御塔造営の間、臨時召物が免除されているので、遷宮行事所の召物を進済しないという申請について、先例を引いて、遷宮時の臨時召物は不免とし、阿波国に進済すべきとの沙汰を院が下している(4)。
 権門勢家荘園不諭を建前として宛課された役夫工米の制度に関しても、免除を求める荘園側の申請について、関白より院に申すべきとの沙汰が下っている(5)上、時には院宣による宣下もあり(6)、役夫工米の免除の許可は院宣により処理されたことが伺える。
 諸国の召物の未進については、既述のように、苛法使を未済諸国に放ち住民に諸当済物の上納を促すといった措置が採られたものの決まった罰則がなく、神宝等の材料不足が懸念されたが、こういった場合、栄爵の任料でもって賄うことが多用されていた。栄爵は官位、官職に関することなので院の許可を必要とした(7)。それでも不足が想定された場合、院の意向により大臣進とすることもあった(8)が、最終的に欠品があった場合、院が負担する(9)など、結果責任の一部を院が負った。
 院司受領の召物の進否は、院から召物の進済を働きかけることを期待した行事所が自発的に行った面もある。
 以上のように関白、行事所の自由裁量を認めつつも、人事、課役の免除等、利権に関することは抑えて、肝心なところは院の意向が反映される仕組みになっており、院政にとって簡略化・最適化された政治機構であった。

(注)
(1)棚橋光男 遷宮行事所 中世成立期の法と国家(第1章)
        塙書房 1983年11月
(2)中右記・嘉保2年5月7日、8日、9日条
(3)中右記・嘉保2年9月2日条
(4)中右記・嘉保2年5月21日条
(5)中右記・寛治8年12月12日条
   (中宮大夫申文【遠江庄役夫工事】)
   中右記・嘉保2年正月30日条(中宮御庄鹿取役夫工済否之條)
(6)中右記・嘉保2年正月5日条 裏書
(7)中右記・嘉保2年5月27日条
   関白より天喜の例により諸司属栄爵任料を用いるべきとの提言があ
   り、院に申すべきとの沙汰が下っている。
(8)中右記・嘉保2年8月2日条
   糸鞦については大宰府に進上するように求めていたが、院の意向によ 
   り、これが不進の場合、大臣進とされた。
(9)中右記・嘉保2年9月3日条
   行事所の申請により院より紫革八枚、小吹玉六千顆を下給されてい
   る。

おわりに

 皇位を始めとした人事権を上皇のもとに獲得することこそ、院政が始まった動機であり(1)、伊勢神宮式年遷宮行事についても最大限、行事所の自由裁量を認めつつ、人事や荘園の課役免除の特権については、院に帰着するものとし、その裁定及び承認を必要とした。
 しかし、かかる院の関与は必要最低限のもので、行事所の中核である行事弁は行事所と関白、院との橋渡し役であり、諸国や造宮使、荘園等から送られてくる解状の処理等のため、関白、院の間を往来する日々を送ったことが中右記に綴られている。それに加え、行事の運営費である役夫工米や召物の管理、神宝製作などの監督もおこなわなければならず、相当の激務であった。
 また、役夫工米制度については、草創期には中々定着せず、殊に内宮の造営では造宮使の受領功による私力造営に依る事が多かった。神宝等の部材を賄うための行事所召物も不進・不弁が多く、栄爵の任料で一部賄われていた。言わば位階と引き換えに20年1度の伊勢神宮式年遷宮等の大規模行事を成功裡に遂げたのである。

(注)
(1)美川圭 「院政ーもうひとつの天皇制」 中央公論新社 
       2006年10月

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