2024年度春セメ 研究書評


4/11 研究書評

樋口美雄「コロナ禍における社会規範と価値観の多様化」『ワークアンドライフ:世界の労働』6号、2~8頁、2022年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げた文献は慶應義塾大学名誉教授の樋口美雄による考え方の多様化と社会規範の変化、意見の衝突に関する評論文である。この論文ではコロナ禍のマスク警察や自粛警察などの同調圧力による社会規範の負の側面と、その同調圧力による社会秩序の維持という正の側面を持っていることが述べられている。また、社会規範という暗黙のルールはその考えに反発する人が増えることで次第に変化していくことがあるが、その根源には個人の考えが大きく影響を与えており個人の考えの変化のための外圧について述べられていることがこの文献を選択した理由である。

【内容】
コロナ禍において、外出自粛をしてウイルスのトレードオフを抑制することと積極的に経済活動を活性化させることという両者の考えはどちらも不正解ではなく、どちらを優先させるべきかは個人の考えに左右されていた。このように人々の行動はどちらが自身や社会にとって合理的かによって変化し、同様の意見を持ち合わせた人間が複数人集まることで社会規範として形成され始める。社会規範という暗黙のルールが社会に蔓延することでその傾向に従うべきという同調圧力が働き、ルールに逆らうような行動は取り締まられるようになってきた。その一例が自粛警察やマスク警察である。規範によって人々の行動が縛られるようになり、負の側面として規範が機能していることがわかる。一方で規範とその同調圧力によって社会秩序が維持されていることも事実であり、正の側面として機能していることも理解できる。
また規範は常に同じ状態であり続けるのではなく、現存する規範に対する反対意見を持つ人が増加することによって次第に規範は変化してくることが分かっている。働き方改革もその一例である。以前は多くの人が仕事ファーストという考え方でありそれが社員のあるべき姿として企業規範とされていたが、近年ではワークライフバランスを考慮することが企業規範と変化してきた。規範を変化させるためにはそれを実行する個人の考え方の変革が最重要であるが、その変革のために表面的な制度の構築なども重要である。つまり、政府による啓蒙的な法令によって社会の大まかな流れを変化させていく必要があるということである。

【結論】
社会規範が同調圧力によって正の作用も負の作用も発揮することができることが明らかとなった。さらに規範ライフサイクル論とは異なり、一人の指導者が大衆を導くのではなく類似した個々人の考えが集積することで規範の形成とカスケード・内面化を同時に行っているようにも感じられた。さらに、規範を変化させるには個人の考えが最重要であり、その考えの変革のためには政府による外圧が必要であることが明らかとなった。しかし、政府の政策に対して反発する動きがみられる可能性もあり、どのような状況下で反発されるかは未だ明確ではない。


4/18 研究書評

加藤幸信「人権論の基盤に何を据えるか」『宮崎県看護大学研究紀要』5巻1号6~17頁2003年~2005

【選択理由・内容総括】
今回選択した論文は加藤幸信の「人権論の基盤に何を据えるか」である。この論文は「自分の権利」と「他者の権利」という根本的な矛盾の調和の道の模索として人の本質や、人権について哲学者の思想からこうさつされたものである。多様化社会の人権問題を考える上でそもそも人権とは何か、その基礎は何かということを知る必要性があり、この論文においてヘーゲルの『歴史哲学』を用いて人権の本質を説いていることが選択理由である。
 
【内容】
人権を考える上でぶつかる壁は「自分の権利」と「他者の権利」の両立である。自分の権利を守ることによって他者の権利を侵害することもあれば、他者の権利を擁護するために自己を犠牲にするのかということである。このことからは一人一人の人権を確保することは限りなく不可能と考えられるが、筆者は社会の発展が人権の尊重に寄与した歴史から実現が可能と考えている。しかし、どこで働くか、趣味を優先するかなどの個人レベルの権利は他者が口をはさむべきことではないがそれらを尊重しなければ社会全体の豊かさを維持することが不可能となり社会の発展すら危うく、同時に人権の保障にも影響が出かねない危険な状態に日本は立たされている。
そもそも人権の基盤は何であるのか、ということに関してはロックやルソーといった哲学者が大きく貢献した。しかし、彼らの理論「自然法思想」では、人間を個として切り離しそれらを寄せ集めた状態を自然状態としているため、そこに法的状態=社会が存在しないことから当時のアンチテーゼの面が大きく、現在の人権論において必ずしも正しいとは言うことができない。一方ヘーゲルは人間の本質は自由=主体性を持つこととしており、自分が主人公として生活していくこととしている。この考えを基に権利と国家の関係を考察すると、発展しきっていない古代文明においてはごく少人数の人間の主体性のみで運営することができたが、社会の発展によってより多くの人間の主体性が必要とされそれが権利として確立してきたことがわかる。また反対に、自由や平等といった権利を求める過程が人類の社会を大きく発展させたとも考えることができる。本文の例のように、女性の社会進出についてキャリアウーマンなどして女性をピックアップすることは女性の力を発揮させうるかに社会の発展がかかっている段階に差し掛かっているということだろう。
 
【結論】
例示されたように女性の権利が発展してきた要因が文明社会の発展であるならば、細分化された人類それぞれの権利についても加藤の考えによると文明の発展によって実現が可能であるとされており、発展により多くの人間が主体性を持つことを必要とされることにつながる。つまりは文明社会の発展と人間の主体性の確保=権利は相互作用的な関係であると考えられる。個人個人が主体性を持つためにはその個人のオリジナリティを発揮し社会に寄与し発展させるだけの力が必要であることの裏返しであるかもしれない。


4/25 研究書評

長谷部恭男「国家の暴力、抵抗の暴力:ジョン・ロックの場合」『法社会学』54号116~129頁2001年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文は、「シンポジウム・法と暴力」の報告書の一部である。この論文は多様化し比較不可能な価値が対立する現代社会で人々が平穏で公平に社会生活を享受できる枠組みをいかに構築するべきかという問いに対して、ジョン・ロックの思想からアプローチしている。多様な人間が国家に存在する限り、国家への抵抗は免れないが、一体どういった原理で国家に抵抗しているのか自然法思想を基に考察されている。

【内容】
ジョン・ロックの思想である自然法思想では、自然状態を社会的存在である人間を個として切り離し、それを寄せ集めた状態を社会と呼んでいる。この時点では国家・法は成立しておらず、自然法のみが存在する。そこでの基本原則は人はみな自己を保全すべきであり、自己保全が脅かされない限り他の人々をも保全すべきというものである。したがって、自然法違反者を処罰する権限は全ての個人にあるということになる。しかし、自然状態にはいくつか困難が存在し、善悪の判断基準である法が存在しないことや中立的な裁判官が存在しないことなどが挙げられる。自然状態では自己の利益に偏った判断と執行を行いがちになるため、より確実な保障を求めて人々は政治社会を構成しそこに政治権力をゆだねた。しかし、政府が持ちうる権力の範囲を逸脱して行使した場合人々は自己に復帰し政府に対して抵抗することができるというものがジョン・ロックの主張である。ところが、政府が適切にその権限を行使しているか否かは国民一人一人が判断し、抵抗する権利を持っているという考えは個々人の主観的判断による政府への反抗を常に正当化することになる。抵抗する場合自然状態に帰結するため、無政府状態をもたらす可能性があるということであるが、ジョン・ロックは人々が反抗する場合次の3つのポイントがあるという。①人は現状維持的に行動するため、すぐに反乱を起こさない。②反乱を成功させるためには多数の人の参加が必要であり、過半数以上の参加の見込みがあること。③人は自らの行動が正義にかなうと確信がなければ反乱を起こさないはずである。したがって反乱する場合は政府が多数の人々を虐げている場合のみに限られるはずであると主張している。このようなジョン・ロックの抵抗権論を応用し多元的な価値への寛容をどこまで認めるのか、いかなる場合に適切に実力を行使することができるのかを考察する必要がある。

【結論】
自然状態の困難を解消するために政治社会を構成したが、それに対して抵抗する場合には政府が影響を及ぼしているアクターのうちの過半数以上を味方につけなければ抵抗できないならば、マイノリティという枠組みの解体は難しいかもしれない。筆者も「個人の人権を尊重すべきだとする一方、国家の自立性についてはこれを相対化する方向に歩みだしている」と述べている。個人の人権を尊重すること、またそのために抵抗することは自然状態に帰結してしまう矛盾を生じさせる。
 

5/2 研究書評

吉田道代「同性愛者への歓待」『観光学評論』3巻1号35~48頁2015年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げるのは、商業的・政治的価値からみた同性愛者への社会待遇に関する論文である。近年の性的マイノリティに対して社会や企業はホスピタリティとして彼らを扱っており、今まで差別の対象であった性的マイノリティが今や歓迎すべき「お客様」となりつつある。この論文ではその待遇に至るまでの背景が記載されている。ここで言うホスピタリティは無条件に相手を迎え入れるものではなく、受け入れた場合の損益計算が大きく影響している。したがって、4/18に投稿した加藤(2003)内容を踏まえて、性的マイノリティの商業的・政治的価値から成る権利確立について考察していく。

【内容】
同性愛者は中世から存在しており、当時は多くの国で病理として扱われていた。このように病理として扱うことで同性愛者というカテゴリーを生み出し、同性愛者というアイデンティティの形成を促進させたのである。また、1960年代末以降はそのようなアイデンティティを共有する人々が結束し、市民的権利の獲得を求める運動が展開されるようになった。現在では差別や偏見が無くなったわけではないが、以前に比べ寛容に扱われるようになってきた。また、冒頭でも述べたように「お客様化」してきているが、それには次のような同性愛者(特に男性)が持つ次のような特徴が大きく関係しているとされる。①平均収入が高い、②服飾・飲食・旅行などにおける消費意欲が高い、③文化的エリートである。①の特徴に関して特に男性同性愛者であれば、ダブルインカム+子供を持たないことで可処分所得が増大するのである。したがって同性愛者の高い経済力・購買力(「ピンク・マネー」「ピンク・エコノミー」)によって優良な顧客としてみなされるようになったのである。また、②③の特徴では彼らのライフスタイルや文化的センスが地域経済に貢献することが研究によって明らかになっている。例えば、差別を受けずに済み同じアイデンティティを持つ人が集まれる環境を求めた結果、ゲイ・シティやゲイ・リゾートなどが生み出され、そこに同性愛者の顧客が集中することで地域経済を潤している。このように、同性愛者らは経済力を味方につけたことで間接的に政治的な影響力も獲得したのである。その結果政治家は彼らを無視することができなくなり市民的権利を確立せざるをえなかったのである。しかし、今やマイノリティに対する寛容な政府の動きは彼らから受ける経済的利益に加えリベラルなイメージを獲得することができるため、政府にとっても悪い話ではないはずである。ただ、問題であるのはその恩恵を受けることができるのは富裕層に限られるというところである。自分たちが経済的利益をもたらすことができる存在であると示唆することで市民的権利を獲得・拡大を図る戦略は経済的に余裕がある場合のみ有効なのである。経済的な価値の創出では対等な市民としての地位の確立にはつながりにくいだろう。

【結論】
自らが経済的価値を持っていることを示すことで権利の獲得・拡大を図ることは対等な地位の確立にはつながりにくいが、その入り口にはなると考えられる。加藤(2003)では文明の発達が権利の発展につながることが示されている。例えばキャリアウーマンとして女性が注目されるのは、女性の持ちうる能力(ここでの言い方に寄せるなら資本価値)が今後の社会の発展への希望になっているということである。したがって今回の論文と加藤(2003)から、個人の能力が社会に対して価値のあるものであると証明されたときに権利が発現してくることが分かった。「何をしてもOK」な個人個人のオリジナルな人権を獲得しようとするならば、社会的価値を見せなければならず「人類超人化計画」が必要になるだろう。


5/9 研究書評

数土直紀「公共世界と非公共世界を同時に生きること」『現代社会学理論研究』11巻126~130頁2017年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げるのは、『ロールズと自由な社会のジェンダー』(金野2016)を踏まえて、雇用・婚姻の観点から人々の権利や共生について数土によって考察された論文である。公共世界と非公共世界を同時に生きている我々にとって、様々な権利をどちらか片方の世界のみで議論することは共生に目を背けることと同じである。そこでロールズの提言する公共的理性が重要になってくる。公共的理性とは「相互性という価値を具現化する共生にむけた対話」を意味し、この公共的理性を人々が共有することで異なる価値観であっても対等な存在として認め合い、互いの利益の実現に向けて協働することが可能になるという。最も大切なのは、人々は公共世界と非公共世界の二元世界を生きていることを自覚することである。

【内容】
人々は公共世界と非公共世界(=私的世界)の二元世界を生きている。権利や共生を考える際にどちらか一方のみで考えることは批判の対象である。例えば、女性の権利の問題において公共世界のみでの議論は非公共世界を軽視しそこでの女性の抱える様々な問題を無視することになるためフェミニズムから強く批判されている。様々な人の権利と共生を考えるときに重要になってくるのは公共的理性であり、これは「相互性という価値を具現化する共生に向けた対話」である。この公共的理性は公共世界のみに適用されるのではなく、公共的理性に基づいた対話によって構成される協働のビジョンから非公共世界にも間接的に適用される。この公共的理性を基に雇用・婚姻の問題について考察していく。
まず雇用問題に対して、公正な雇用機会を実現するためには「成功の見込み」を平等にする必要があるが、それは雇用機会の問題を単なる技術的な問題に還元し協働のための対話を放棄してしまう可能性があるという。また、企業は早期離職リスクや能力などの何らかの基準から採用者を選別するため、公正な雇用機会という観点のみでは統計的な差別は排除されない。(女性は婚姻によって早期離職のリスクがあるため、訓練費用を無駄にしないために雇用しない。決して女性の能力を軽んじているのではなく、企業利益を最大化しようとしているに過ぎないということ。)このような問題は公共的理性による対話で解決が可能であると筆者は主張している。
次に婚姻問題であるが、婚姻制度の問題を個人の選択の自由に落とし込むと非公共世界のもんだいとして扱われることになる。しかし、家族形成の問題で人格的ケア関係のサポートや次世代の適切な育成として公共的価値を見出すことで、公共世界と非公共世界の両面から議論することが可能となる。

【結論】
個人の自由や権利であっても、我々市民は非公共世界のみを生きているのではなく公共世界も同時に生きているためその両側面からの対話が必要になってくる。公共世界における利害と非公共世界における利害の均衡点を見つけることで初めて自由や権利が確立されてくるため、非公共世界の問題を公共世界に押し付けることは問題の解決にはつながらない。逆もまた同じである。しかし、公共世界と非公共世界は互いにどこまで介入しても良いのかは解明する必要があるだろう。対話・協働が必要とは言えどある程度の公私の分離は必要であるからだ。
 

 5/16 研究書評

米原優「危害原理における『危害』とは何か」『静岡大学教育学部研究報告.人文・社会・自然科学篇』65巻29~35頁2015年

【選択理由・内容総括】
今回紹介する論文はJ・ミル『自由論』における「危害」とは何かを考察したものである。ミルの危害原理は現代において法や法的処罰の限界を定め、乱用を防ぐことで一定の評価を受けているが、「危害」が何を意味するのか不明であるという批判も存在する。危害原理の「力の行使」で挙げられているものは「法的処罰」と「世論による道徳的強制」である。私の研究において自身の権利と他者の権利の対立を危害原理を用いて考察するならば、危害が何を指しているかを明確にする必要があるとともに、危害を犯した場合の処罰についても考察する必要がある。

【内容】
ミルの自由論ではイスラム教徒が豚肉をたべることにたいしてかんじる嫌悪感は危害ではないと見解を述べており、そのような嫌悪感を理湯に法的措置をとることはできないとしている。では、何が危害と判断されるのか。明確な記述はないが危害とは権利侵害を意味すると考えられ、また権利として各個人に保障されるのは「安全性」であると米原は指摘している。「危害」=「権利とみなされる特定の諸利益の侵害」と捉えることができるからだ。また、他者の権利を侵害することは「大変重要で強い印象を与えるような類の功利性」を奪うということであり、功利性=「安全性という利益」である。ここで言う安全性とは、法や法が失効する警察や裁判所などの社会制度によって他者の危害から保護されていることを意味する。法によって守られているのは身体、財産の安全性の他、名誉の安全性が存在する。また、ミルも指摘するように多くの人々が受け入れられない意見を表明する人に対する最悪の行為として、不道徳な人であると汚名を着せることであるとしている。つまり、名誉棄損も危害の一種だと考えられるのである。ここまでの考察において、危害とは身体を傷つけること、財産に損害を与えること、名誉を棄損することの3種類存在することが明らかとなった。しかし、利巧主義においてはもう一つ危害に含まれる行為が存在する。功利主義では人々が互いに危害を加えあうことを禁止する。つまりは個人の自由に対する不正な干渉も危害の一つとなりうるのである。
米原の考察によって危害原理における危害は①身体への損害、②財産への損害、③名誉棄損、④個人の自由に対する不正な干渉を指すことが明らかとなった。ミルが危害に何が含まれるかを明らかにしなかったのは、安全性=法的権利である以上は危害が何を指すのかは法を参照すれば誰でもわかるからである。

【結論】
危害原理における危害の③から考えると、発言権を行使したマイノリティへの中傷やスティグマをつける行為は禁止されるべきであると考えられる。しかし、禁止された側からすれば個人の発言する自由への干渉とも捉えられ、危害の④に当てはめられる可能性もある。両者の異なる真実を追求しすぎると、「どちらが正義か?」といったジレンマに陥る。客観的事実のみを観察し、危害の線引きをする必要があるだろう。ミルが危害とは何か法を参照せよと暗示しており、法とは客観的事実に基づくものである。したがって、利巧主義に基づいた危害の④は干渉されたか否かは当事者の価値判断に大きくゆだねられる各個人の真実に基づく割合が大きいため危害として扱うべきかは慎重に判断すべきだろう。
 

5/23 研究書評

下川玲子「日本における『権利』概念の形成—『武士道』と仁論とロックの寛容論—」『愛知学院大学文学部紀要』42号208~222頁2013年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文は日本において権利が根付いてきた起源を探るためのものである。権利が根付いてきた歴史を追うとともに、ジョンロックの権利概念『寛容論』について解説がなされている。論文自体には武士道や仁論も取り上げられているが、今回は寛容論の部分を抜粋する形とする。人権の尊重の根本とは何かについて寛容論を通して考察していく。

【内容】
日本で権利の思想が入ってきたのは、西洋的な近代国家の樹立を目指して明治政府を立ち上げたときから徐々に日本に根付いてきたものである。また、福沢諭吉は『学問のすすめ』において人間は本来平等であることを説き続けた。福沢のいう平等とは権利の平等であり、主に人権であり、生命・財産・名誉・尊厳を指す。それらは日本国憲法にも引き継がれている。福沢が人権を説くのに依拠したものがジョンロックの権利思想を簡潔に集約したアメリカ独立宣言である。独立宣言では人間には平等に天賦の権利があり、それらは生命・自由・幸福追求の権利である。まず生命権は政府批判などをしても、政府や国家権力によって殺されない権利である。次に自由権は身柄の自由を意味し、宗教などの違いをめぐって国家権力による不当な殺戮や投獄が繰り返された歴史からこのような概念が生まれた。この生命権と自由権が保障された上に「人間らしく生きるための物質的基礎が必要」でありそれを保障するのが幸福追求権である。これらの権利を有効に守るための手段として人々は人為的に政府を作ったのである。これが権利が根付いてきた大まかな歴史である。
次にジョンロックの寛容論であるが、これは隣人を愛せという人類愛を指すのではなく、理解しがたく嫌悪感を抱きながらも人々と共存しなくてはならないという意味である。理解できない他人と我慢しながら共存するだけでよく、嫌悪感を持つ相手を愛する努力は求められていないのである。また、ジョンロックが言うには人は自分がこだわっていない問題に関しては異なる意見を持つ相手に対して「寛容」であるが、自分がこだわり、正義だと信じているものに関しては「不寛容」となる。特に彼が生きた時代は宗教戦争が激しく、人々は違った慣習を持つ異教徒を迫害したり段あるしたりしたのである。ユダヤ迫害もその一例であるが、東ヨーロッパにおいてどの国でも約5%のユダヤ人が生き延びたという背景には彼らが非常に金持ちであったことが関係している。つまり、人権を守るといった時に若く、美しく、お金があるような場合には不寛容の対象であったとしてもその前提を見失い寛容となるのである。

【結論】
自分のこだわっていない問題に関しては「寛容」となり、自分がこだわり、正義だと信じているものに関しては「不寛容」という言葉を言い換えると、他者への興味の有無が他者に対して寛容であるか不寛容であるかを決定づけているということができるだろう。つまり、他者に興味がなければそれはこだわる必要がないため寛容となり、他者に興味を持ってしまうことで自分なりの正義が働き不寛容となってしまうということである。他者に対する興味が無くなればそれぞれ個人が好きなように生きる権利を対立することなく行使できるだろう。しかし、それこそ完全なる個人主義化に陥る危険性があるためあまり良い状態とは言うことができない。寛容論だけでは安全性を含んだ人権保護は難しいだろう。
 

5/30 研究書評

石川涼子「インターセクショナリティをめぐる不正義と多文化主義の政治理論」『立命館言語文化研究』34巻3号85~96頁2023年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文は、インターセクショナリティの分析が示す集団内の差異を誠実に受け止めようとするなら、集団別権利の承認に基づく多文化主義では不十分であり「中立性の政治」を採用すべきかを考察したものである。多文化主義の政治理論では特定の文化集団を特別扱いする施策であり、大まかなカテゴライズされた枠組みへの権利付与であるため集団内での多様性が十分に考慮できていないのである。したがって、中立性の政治によって集団への権利付与でなく個々人の自由の保障、あらゆる人を同等に処遇することが政府に求められるのである。

【内容】
インターセクショナリティの概念を普及させたクレンショーは、ジェンダーと人種をそれぞれ個別に捉える枠組みには限界があり、その例としてジェネラル・モーターズ(以下GM)の雇用に関する人種問題を取り上げている。GMでは黒人も女性も差別なく雇用していると主張していたが、実際にGMで働く黒人工場労働者のほとんどが男性であり、事務職員は白人の女性がほとんどであった。つまり黒人の女性は差別され雇用されていなかったのである。「黒人」あるいは「女性」という一つのカテゴリーだけ取り上げると一見差別されていないように思われても、両方のカテゴリーが交差する「黒人女性」は排除されてしまっているのである。このような複数のカテゴリーが交わることで生じる独特の差別をインターセクショナルな差別と言う。また、インターセクショナリティは多文化主義への問題にも結びつく。多文化主義の特徴は、ある国の中でマイノリティの集団に文化を維持するための特別な権利を認める政策をとることである。カナダのケベック州ではケベック独自の文化が存続できるように、在住する児童はフランス語教育が行われている学校に通わなければならない法律が存在する。しかし、この法律によって学校選択する自由が奪われているだけでなく、在住する人の人種や移民などのカテゴリーへの圧力を無視している。つまりマイノリティの中のマイノリティの自由や権利が保障されていないのである。
このような多文化主義の欠点から、バリーは多文化主義の恩恵を最も受けるのは、一部のニーズを上手く掬い取って動員するのに長けた人であり、人々の多様性を尊重するためには集団別の権利を承認するのではなく、個人の権利を保障することが不可欠であると述べている。また、ヨプケは集団でなく個人レベルでの多様性の保証を目指す「個人の多文化主義」の必要性を述べている。つまり、彼らは政府がすべての人を文化的背景に関わらず同様に処遇する中立性の政治こそが多文化社会における多様性を保証すると主張しているのである。
しかし、インターセクショナルな差別を是正するためには中立性の政治だけでは達成できず、社会の包摂性を高める必要がある。なぜなら、中立性の政治には以下の2つの問題が存在するからである。1つ目にリベラルな価値に適合しない文化を持つ集団がいた場合に必ずしも自由を保障できない可能性があるからである。2つ目に中立性の政治は市民の同質性を高める機能があり、マジョリティ側の市民に資する者であるからである。1つ目の問題に関して、リベラルな価値を受け入れるか、それができないのなら抑圧的な文化にとどまるかのいずれかを選ぶことを強要することになるのである。2つ目の問題に関して、文化集団内のマイノリティのきめ細やかな要望に応える策を政府が実施しようとするとき、限られた予算の中で策を投じる必要がある。その場合サブカテゴリーを作る必要があるため、どの集団のニーズにこたえるか答えを迫られるのである。このような決断によって集団の差異を際立たせ、亀裂を生む可能性がある。
このような人々の間の違いをブンダンでなく連帯につなげるために著者の石川は、多文化主義の政治理論は文化的アイデンティティの本質的理解を放棄することと、集団を実質として捉えるのではなく関係的に理解することが必要であると結論付けている。

【結論】
集団内の差異、つまりマイノリティの中のマイノリティの権利を保障するためには、多文化主義の政治理論のみでも、中立性の政治のみでも実現が難しいものである。恐らく、問題の本質はカテゴライズすることであり、そもそもカテゴライズされずに個人として尊重されアプローチすることができればよいのである。しかし、政府や企業などの大きな組織はある程度カテゴライズした(まとまった標的)が無ければアプローチできないという問題を抱える。どこまでの大きさのカテゴライズなら、どちらもが納得のいく権利自由とアプローチが可能なのだろうか。
 

6/6 研究書評

大貫挙学「D.コーネルにおける『自由』の再検討」『現代社会学研究』10巻128~140頁2016年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文はコーネルにおける「自由」について社会理論的な再検討を行ったものである。コーネルの提示する「イマジナリーな領域」の概念の再解釈を行いイマジナリー領域でのアイデンティティの再想像が社会構想の在り方といかなる関係にあるかを明らかにすることが論文の目的である。その中で、自由・平等・差異に関してそれぞれが反発する側面について言及されているため私自身の仮説を補強する材料として取り扱いたい。

【内容】
リベラリズムの基本原則は個人の自由を尊重することにあり、同時に平等に扱うことも求められている。一方で差異への配慮を求められる側面もある。近代市民社会においては各人を平等に扱うことが原則とされているため、普遍的シティズンシップ構想は全ての市民に等しく「同じ」権利と義務を割り当てている。他方でマイノリティへの「特別な」配慮が必要だという意見もある。既存の差異を考慮することなく形式的に平等を適用すれば社会的格差を再生産することになるため、集団別権利の構想が導かれる、しかし、マイノリティを有利に扱う集団別権利の構想は平等の原則に反しているのである。つまり自由・平等・差異は時に矛盾するのである。このようなジレンマはアファーマティブ・アクションをめぐる議論において先鋭化されている。アファーマティブ・アクションは従来、平等を達成するために自由を制限するものとされてきたが、ロールズの議論によって社会秩序の外部に自由が存在しない以上、もはやアファーマティブ・アクションを自由と対立するものとして考える必要はない。一方で、ヤングの主張では社会集団の実在性を認めることを拒絶することは、集団の抑圧を強化するとされている。
これまでの議論を通して筆者は格差是正のためにはアイデンティティ・カテゴリーを長期的に脱構築していくべきと述べている。アファーマティブ・アクションは理念としての平等のために既存の差異を脱構築し続けることでイマジナリーな領域における自由を希求する実線として理解される時その正当性が発揮されるという。

【結論】
格差是正のためにはアイデンティティ・カテゴリーを長期的に脱構築していくべきという筆者の主張は私の仮説の補強となるだろう。また、一律で平等や自由が認められる際に差異が無くなる危険性をどのように回避するかが重要となるだろう。アイデンティティの本質は他者との差別化、自身のオリジナリティの発揮であるため一律の平等や自由の付与のみではその差異が無くなり、マイノリティがマジョリティの「普通・一般」に今よりも抑圧される可能性がある。
カテゴリーからの脱却、一律付与の危険性を考慮すると個々人の自由や権利を「獲得」するだけならば政府・社会が何にも介入しないことが一番かもしれない。しかし、何も介入しない無政府状態では社会が混沌となる。混沌とした社会では弱肉強食の危険性があり権利の「保障」はなされない。万一、無政府状態でも市民が自主的な格差分配、富の再分配を行う善良性を持っているならば権利の保障も可能なのだろう。

6/13 研究書評

上柿祟英「『ポストヒューマン時代』における人間存在の諸問題-〈自己完結社会〉と『世界観=人間観』への問い」『総合人間学会』16号162~190頁

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる記事は現代の科学技術の発展によって人間の概念が通用しなくなる時代=ポストヒューマン時代において人間存在の本質とは何かと言う問いについて書かれたものである。今までは現代とは程遠い社会における「人間とは何か」「自由・権利とは何か」という問いをロックなどの哲学者の主張を通して考えてきたが、哲学とは哲学者の生きた時代や社会構造に大きく左右されるため必ずしも現代に当てはめて考えることができない。そのため、現代における人間の本質についてこの記事を通して再確認する。今回は特に第3章以降を重点的に考察していく。

【内容】
高度に発達した市場経済や行政機構、インターネットなどの「社会的装置」に依存しながら生きることで、一人一人の生の文脈において他者との関りを持ちながら生きることの必然性が失われていくという。このような社会を自己完結社会といい、自らの行為の帰結やその意味について想像することができなくなるという。また、社会的装置に接続されサービスや財を得る手段を確保すれば、究極的には直接的な関係性、または人格的な関係性をなおざりにしても生きていくこと「生の自己完結化」は可能となる。それどころか、人との関係を負担やリスクとして感受しやすくなり、心理的な障壁を展開する。社会的装置は各々の人間が動かしているにも関わらず、その障壁によって関係性も社会的装置の維持も困難になっていく。しかし、このポストヒューマン時代は社会的装置への依存を加速させるもののその代償として自己決定と自己実現の機会と幅を拡大させ、理想としての自由・平等・多文化共生を拡大させることができる。つまり自由・平等・共生といったあるべき人間社会を実現するためにはポストヒューマンな存在になる必要があるのである。
あるべき人間社会の探求=無限の生は理念によって現実を制圧しようとする一方で、意のままにならない生の肯定=有限の生は現実世界を精一杯生きようとするという意味がある。そのため無限の生では常に「この世界は間違っている」と否定し続けなければならない為無間地獄へ突き落されるという。例えば我々がある「自由」を獲得するとき、同時に新たな「不自由」を発見するため完全無欠なあるべき人間社会の理念の道に終わりはないということである。ここで問題なのが個人化される無限の生である。自己決定や自己実現が極大化することで「かけがえのない存在」としての「あるべきこの私の生」という無間地獄が誕生する。自己決定・自己実現ができない生を誤った生、失敗した生として認識(おそらくスティグマ、セルフスティグマかと)されるため、個人はますます無間地獄へ陥るのである。

【結論】
個人の自由・平等・共生を実現するためにはポストヒューマン化は必須であるが、その一方でゴールなき問、無間地獄へ陥ってしまうことが分かった。私の研究では「私らしく」生きられない人のジレンマを解消するという目標があるが、そもそもその課題設定はポストヒューマン時代による弊害によるものであるということが分かった。
 

6/20 研究書評

菊池洋「多文化主義条項を持つ憲法の意義と可能性(1):カナダ型多文化主義の憲法学的考察」『成城法学』80号142~63頁2011年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文は憲法学における多文化主義条項の検討意義について仏、米、日とカナダの比較が書かれたものだ。今回は文化的・民族的マイノリティに焦点を当てたものだが、応用すればすべてのマイノリティやその他類似した事象に当てはめることができるだろう。また、長い論文であるので1章のみを書評する。(残りはまた後日書評)

【内容】
日本の憲法学では文化的・民族的多様性に関する問題を意識した議論があまりなされてきていない。その理由の一つに従来の憲法学が抽象的・均質的な個人像を前提としてきたからである。この前提がしばしばジェンダー論などから批判を受けているのである。公的領域における普遍的個人(=抽象的・均質的な個人像)を重視する解釈に従えば、諸個人が享受する権利が保障されれば十分であり、何らかの権利を上乗せして付与する必要はないというが、マイノリティ側からすると公的領域において自身のアイデンティティを否定されていると感じるのである。それゆえに公的なアイデンティティの承認を求めるのだ。この、諸個人を普遍的個人としてではなく、それぞれの属性を持つ個人としてどのように保障するのかという問題は近代立憲主義を彩る多くの国家において問題となっている。
憲法学の観点から諸個人の属性の保証について検討する場合、諸個人の属性を公的領域と私的領域のどちらにおいてどのように扱うかが問題の髄になる。伝統的リベラリズムの考え方では普遍的個人像のもとで諸個人の差異は捨象され、諸個人の属性はあくまで私的領域に押しとどめられる。国家はこの個人の差異を考慮しない好意的無視を貫くことでその中立性を保ってきた。一方現代的リベラリズムでは、諸個人が実質的な自由を享受するために国家が市民生活の領域に介入し社会的弱者を救済することが求められるようになったのだ。次に各国における諸個人の属性への対応についてまとめる。
仏では、自立的個人という普遍的規範に依拠することで抽象的・均質的な総体としての人民を創出している。この均質性は多様性を否定するものではなくあくまで、特定の集団に集団的権利のような法的地位を付与することを否定するものである。つまり、全ての人の同じ処遇を与えるタイプの中立性である。また、米では、公的領域において忠誠を誓う「アメリカ市民」として集うことさえできれば、文化多元性が存在しても構わないという好意的無視タイプの中立性を保ってきた。つまり、仏・米・日(日本の説明は割愛)における公的領域と想定される個人像は普遍的かつ抽象的なのである。一方、カナダの憲法上における個人像では、図のように普遍性、特殊性、抽象的個人像、具体的個人像を大まかに包括できている。これを前提にカナダの憲法学から見る多文化主義条項を持つ意義と可能性について検討していく。(1章終わり)

図1
図2
図3
図4

図1,2,3,4
引用:菊池洋「多文化主義条項を持つ憲法の意義と可能性(1):カナダ型多文化主義の憲法学的考察」『成城法学』80号116~113より


【結論】
国民の属性、アイデンティティを守るための国家の役割の変化や、中立性と言っても、仏と米のように万人に同じ処遇を施すものと好意的無視と2種類想定することができることが分かった。また、私が想定する理想状態は恐らく図のⅣになると考えられ、前回までは哲学的視点が多かったが今回以降は憲法学的視点や政治学的視点など現代に寄り添った視点から考察していきたい。


6/27 研究書評

菊池洋「多文化主義条項を持つ憲法の意義と可能性(1):カナダ型多文化主義の憲法学的考察」『成城法学』80号142~63頁2011年
菊池洋「多文化主義条項を持つ憲法の意義と可能性(2 完):カナダ型多文化主義の憲法学的考察」『成城法学』81号366~277頁2012年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文は前回に引き続きカナダ憲法について書かれたものである。多様な属性を包摂する手段としての多文化主義の可能性とカナダ型多文化主義の日本への適用可能性について考察されている。今後の研究ではシビルロー、コモンローにおける人権の位置づけを考察していくため、イギリス、アメリカの影響を受けているカナダの憲法を学ぶことは大いに役立つだろう。

【内容】
〈カナダ憲章について〉
カナダ憲法において重要なのは1867年憲法と1982年憲法の2つである。1867年憲法はカナダが連邦を形成した際に制定されたものであり、統治機構について関する規定がなされている一方で、1982年憲法では主に人権憲章としての性格を持つ。1867年憲法は英領北アメリカ方(BNA法)のことであり、イギリスとアメリカの性格を持ち合わせている。この憲法において、イギリス型の人権保障システムを採用した結果、基本的人権の保障に関する規定が欠如しておりそれらをカバーするように1982年憲法が形成されている。1982年憲法の特徴は、人権憲章は最高規範性を有しそれに抵触する法規を無効にする効力を有している点である。この人権憲章が規定されたことでカナダの人権保障制度は伝統的イギリス型からアメリカ型へと移行したといえる。

〈人権憲章27条について〉
人権憲章27条は他の条項の解釈指針であり、それ自体に法的拘束力はない。また、人権憲章27条は本論が検討する多文化主義条項のことである。

〈人権憲章27条の意義〉
多文化主義において重要なのは、諸個人に対する実質的な平等を保障するのではなく諸個人のアイデンティティに関わる文化的・民族的差異や特殊性を維持することである。差異を維持するために特定の集団に特別に権利付与を行う方法があるが、それは他の集団からも同様の処遇を求められて権利のインフレ化を招く。しかし、人権憲章27条(多文化主義条項)を設けることによって憲法上では特権を付与されていないマイノリティに対しても抽象的レベルでの権利性を保障できるのである。普遍的人権の枠組みと憲法上の特権として認められる枠組みのどちらにも当てはまらない属性に対する権利保障を可能とするのが27条である。

〈日本への適用可能性〉
日本のように属性差異がそれほど問題とされていない現状において多文化主義を導入することは議論となるだろうが、諸個人のアイデンティティを保障することは必要とされている。その中でカナダ型多文化主義の手法は多様性の保障を集団的権利の構築に結び付けるのではなく、諸個人の普遍的権利の実質化として読み込むことで権利保障の可能性を示している点で日本でも有効な手段となる。

【結論】
憲法が想定する普遍的人物像にも、特別な権利付与で保障されるマイノリティにも当てはまらないカテゴリーに対して抽象レベルでも権利保障を行うために人権憲章27条があれば細分化される全人類を包摂的に取り扱うことができるだろう。しかし、自身の権利や自由に対して貪欲になりつつある現代人は抽象レベルでの保証で満足するのだろうか?そのような人は自身を「特別扱い」してほしいだけで特に自分の権利や自由についてはそこまで追い求めていないのだろうか?権利や自由を求めている人の本質を究明する必要があるだろう。
 

7/4 研究書評

三成美保「マイノリティの包括的権利保障に向けた法的アプローチ」『日本労働研究雑誌』63巻10号24~36頁2021年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文はカナダ憲章のような包摂的な権利保障を目指したとき、法的にアプローチがなされているため参考になると考えた。筆者はマイノリティのニーズを汲み取りあらゆる選択肢を用意することが企業や政府の責務と考えている。つまり、マイノリティの囲い込み的な保護を求めていると考えられる。しかし、私はマイノリティの囲い込み保護が進むほど反対にマジョリティの苦悩が発生すると考えているため、筆者と対立する部分が存在する。

【内容】
マイノリティの中でもジェンダー(男女間)や障害については女性差別撤廃宣言や障がい者の権利宣言など、テーマ別に宣言が作られ条約へと発展してきた。その中で権利保障が追求されてきたが、特にLGBTQについては条約はなく声明にとどまっているのが世界の現状である。日本でも、障がい者差別解消法やアイヌ施策推進法など、マイノリティの権利保障がなされつつあるがLGBTQに関しては消極的な側面が強い。マイノリティの権利保障の中でも、包括的差別禁止法の制定が自由権規約委員会から求められていたが日本はそれを却下している。日本政府の言い分としては名誉棄損罪などの既存法律によって対処が可能であるとして包括的差別禁止法は必要ないと主張しているのである。しかしながら、近年になり属性が複合的・重層的に組み合わさることで生じるインターセクショナルな差別を撤廃するには包括的差別禁止法が必要であると筆者は言う。朝倉(2016b)は複合差別を①通常の複合差別(黒人という理由で昇進拒否、その後女性という理由で昇進拒否)、②付加的差別(黒人であり女性という理由で昇進拒否)、③交差的な複合差別(黒人男性も白人女性も昇進するが黒人女性は昇進拒否)の3タイプに分けた。①②に関しては差別されたカテゴリーを選択し訴訟できるが、③は差別の立証が難しいという。この3番に当たるのがインターセクショナルな差別であり、既存の法律や条例では救済が難しいことがわかる。この差別を救済するにはやはり差別を包括的に禁止する必要があり、そのような方には3つのモデルがある。①差別自由を限定的にリスト化するモデル(英国平等法)、②憲法上の平等保障というモデル(アメリカ憲法修正14条)、③差別自由を例示するモデル(カナダ人権憲章)である。
複雑化するマイノリティの権利を保障するためには、日本においても包括的に差別を禁止する法律を制定することが求められる。また、マイノリティのニーズを汲み取りあらゆる選択肢を用意することが企業や政府に求められる。ただ、ダイバーシティ施策により統合を行うのではなく、「同じではないことの連帯」を目指すように設計する必要がある。

【結論】
差別を包括的に禁止する法律を作ることでインターセクショナルな差別を手πする必要性に関しては筆者と同意見である。しかしながら、マイノリティのニーズを汲み取りあらゆる選択肢を用意することが企業や政府に求めることはあまりにも人任せすぎるし、マイノリティに配慮することでマジョリティの苦悩が生まれると考えられる。マジョリティの気疲れも起こさないことが真に包括的だと言えるだろう。
 

7/11 研究書評

榎透「人権規定を私人間に直接適用しないことの意味」『比較社会文化研究』7巻1~10頁2000年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文は、価値多元論者のバーリンの思想を踏まえ憲法上の人権規定を私人間に直接適用しないことの意味について検討されたものである。私の研究では憲法の私人間適用も一つの手法となるだろうが、なぜそれが行われないのか考察する必要があると考えたためこの論文を選択した。

【内容】
まず、バーリンの思想では「消極的自由」の考え方が重要となってくる。消極的自由は干渉・強制の欠如を意味する。消極的自由では自分の選択肢を妨害される範囲が狭まるにつれ自由が増すということだ。言い換えると、公的領域と私的領域を区別し公権力からの侵害を受けない私的領域の確保を要請しているのである。価値多元的な社会を維持するためには必要不可欠な考え方である。
次に憲法を私人間に適用する考え方を意味する直接適用説と言うが、なぜ取れが注目されるようになったのか。その理由として挙げられているうちの一つが憲法の保障する自由の意味の変容である。元来憲法は強大な社会的権力つまり国家からの人権侵害から個人を守るためのものである。しかし、現代になって「私人による侵害の排除を国家に要求する」ことが自由の一部に含意されるようになった。そうすると、私人も憲法の人権規定に拘束されるようになり、国家は国民の権利が他者から侵害されないように配慮・積極的な助力をするように義務付けられることになる。つまり、国家は私的領域にまで入り込むことが求められてきたからである。
一部ニーズがあったにもかかわらずなぜ、憲法上の人権規定が私人間に直接適用されないのか。第一に直接適用することで私的自治の原則が害されるからである。もし適用される場合、多様な価値に基づく私人の行動の許容範囲が狭まり、普遍的価値で許容されている範囲内でしか行動できなくなる。これが私的自治=消極的自由の消失を意味する。第二に私人による人権侵害の危険性が増大しているとは言えど、人権にとって最も恐るるべきものはやはり国家であるからである。憲法による国家からの自由=消極的自由により価値の多元性が承認されていたが、直接適用することにより人権規定の持つ国家からの自由という本質が希薄になってしまう。
このように、憲法の人権規定を私人間に直接適用しない理由は、多元的な価値を許容する社会の領域の消失を防ぐため、対国家用の消極的自由の獲得のためであった。どちらにせよ、多様化社会において調和不可能な価値を複数存在させ、それぞれ保障するためには私的領域の自由、消極的自由が必要であるのだ。

【結論】
多元的な価値観を保護するために、憲法の人権規定を直接適用しないというのは確かに一部納得である。私人間による直接適用により、自由を守るために自由を拘束することは本末転倒である。消極的自由によって私的領域における選択の自由の「曖昧さ」を残すことで多元的価値観を維持することが今の段階では得策なのだろう。だが、しじんかんにおける権利侵害は年々問題になっているため、直接適用でなくとも国家による介入は必要なのではないだろうか。
 

7/18 研究書評

安枝伸雄「『憲法学における人権』の学習(導入段階)」『人権を考える』19巻126~132頁2016年

【選択理由・内容総括】
今回取り上げる論文は、憲法学における人権の学習導入段階において留意すべき点について述べられたものである。今までなんとなく憲法と人権についての論文を読んできたが、基礎があやふやで読むことが困難になってきた。改めて憲法学における人権についての基礎知識を蓄えることで、今後の書評に活かしたい。

【内容】
「憲法学における人権」で主に扱われるのは、「人権という考え方」特に個人の尊重の原理を前提に、「公権力」が個人の権利を侵害していないかという問題である。もちろん人権侵害は公権力だけでなく私人から受けるものもあるが、それは啓発や教育の結果として筆者は捉え今回は割愛している。また、人権問題で取り扱われるテーマは①人権という考え方(価値観)と②他人の権利侵害問題である。
第一に「憲法学における人権」では「個別の人権」は絶対的ではなく、他者を傷つけてはいけない等の理由により制限される。これはミルの危害原理に基づくものである。しかしながら公権力はどうやってどこまで人権を制限できるのか?不特定の集団に対する名誉棄損的表現を規制する新たな刑罰法案の例で考える。まずに人は憲法第21条で保障される表現の自由がどこまで許されるのかその価値について考察するおことで規制の射程が決まるだろう。
憲法学における人権は先ほども述べたように基本的には公権力から市民を守るために学習されるが、必ずしも私人間における人権侵害を顧みないわけではない。それが憲法の私人間効力や直接適用というものである。しかしながら、実際には私人間における人権侵害問題が発生した場合、それは刑法や民法の解釈問題とされ憲法は使用されない。例えば、AさんがVさんの名誉を傷つける事実をネット上に書き込んだ場合、現行の「名誉棄損罪」が憲法第21条の保障する表現の自由の侵害であるとして憲法違反であるとは検討されない。Aの名誉とVの表現の自由を調整する必要性から、刑法230条(名誉毀損罪)や民法709条(不法行為)問題として検討するのである。
このように憲法は公権力が守るもの、法律は市民が守るものという原則から、筆者は私人間における人権侵害において憲法を直接適用する必要がないと考えている。

【結論】
初心に立ち返り、憲法と法律の拘束する対象が違うことから私人間効力の議論が巻き起こっていることが整理できた。人権侵害は公権力によるものもあるが、現代においては私人間における人権侵害の深刻さからやはり憲法の私人間効力を考えていきたい。しかし、憲法における前提知識や、私人間効力、直接適用説、間接適用説など用語の意味や概念について混濁しているため、夏季休暇中に学習しておくことにする。
 

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