「ことばの教室」とユニバーサルデザイン

私の通っていた小学校には「ことばの教室」があった。ことばの教室とは、通常の小学校に通いながらも、何らかの理由でことばの習得や発音・聞き取りに不安のある子どもたちが放課後などに少人数あるいは個別でサポートを受けられる場所である。

この何らかの理由とは、例えば発達障害であったり、両親ともに外国籍で日本語を話さなかったり、難聴や吃音であったりするが、私の小学校の「ことばの教室」には難聴を抱えた児童が多く通っていた。

低学年のときに「学校探検」というイベントが有り、校長室や視聴覚室など、普段の授業で使わない教室を回った中に、ことばの教室も含まれていた。少人数・個別のサポートのため、教室は小さなブースに分かれているのだが、各ブースに「ひなんしなさい」という表示灯があったのが子供ながらに印象的だった。難聴の子たちは火災警報機などのサイレンが聞こえにくいから、サイレンが鳴ると自動でその表示灯がつくようになっているのだ。

なるほど!私は難聴の友達が「言葉が聞こえづらい」ということは認識していたので、ゆっくり口の動きが見えるように話す、紙に書くといったことまでは思い至るが、「サイレンが聞こえない」ということまでは、その表示灯を見るまで思い至らなかった。

そもそも「非常ベル」とか「サイレン」は、ユニバーサルデザイン(的)な考え方のもとにある。「火災が起こった」とか言葉で伝えても、お年寄りや子供、外国人など日本語の意味を理解しづらい人には伝わりにくい。サイレンが鳴れば、どんな人にも異常を伝えることができる。非常にユニバーサルである。

しかし、その非常ベルも、耳が全く聞こえない人にとっては何の意味もないのである。このように、あまねく万人に伝える手段としてデザインされたものから「漏れてしまう」人がいることに、どれだけ真摯に向き合えているだろうか。本当に万人が使えるものなど存在しないのに、そちらの方向を向いて、一歩、ないしは半歩進んだだけで、「ユニバーサルデザイン」を名乗るのは驕り高ぶりが過ぎやしないだろうか。

もちろん、ユニバーサルデザインが悪だと言いたいのではない。むしろ善である。しかしながら、ユニバーサルデザインを採用しただけで、これは万人が使えるものだと「思考停止」してしまうのはよろしくない。建物を設計したときに、入り口にスロープと手すりをつけました、これで誰でも入ってこれます、で終わりではいけない。私達が想像もできないような「バリア」がそこにはあるかもしれない、という可能性を留保しておくことは重要である。

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