わたしと権威主義

正しいことより強いものはないと思っていた自分がただの権威主義だったことに気づけたのは、大学生活の最大にして唯一の学びかもしれない。

中学の公民だか高校の日本史だかで『あたらしい憲法のはなし』という戦後すぐの教科書が取り上げられたとき、興味を持って図書館に原本(厳密には復刻版)を借りに行った。大きな図書館であれば1冊は置いてある。薄い本なのでぜひ一度読んでもらえればと思うが、よく抜粋されるのはこの部分。

これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

「世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」と言い切った教科書を見たのは初めてだった。道徳の教科書でさえそんなことは言っていなかった。結局日本はその「心ぼそさ」に耐えきれず陸海空を再び揃えることになるので内容としては「嘘」なのだが、あまりにも綺麗な嘘であった。

絶対的な正しさなど無いとしても、正しい方向というか、そういうベクトルはあると思っていて、そこを目指したいと。地平線に向かって走り続けるように、絶対にたどり着くことはなくても「正しさ」に向かい続けること、それこそが正しいのだと思っていた。今でも間違ってはいないと思っている。

ただ結局、先の言葉が私の心に刺さったのは「(当時の)文部省が」「教科書で」書いたから刺さったのであって、新聞や本に同じことが書いてあってもまともに取り合わなかったであろうことを考えると、これはただの権威主義に過ぎない。

法学という学問も権威主義そのものである。法律は公布されたものが全てだから、一端の学者が「今まで誰も気付かなかった法律を発見した!」とか「新しい法律を発明した!」という下剋上は有り得ないし、法律の解釈も様々な学説はあれど結局最高裁の判断が絶対だし、それは判例として一定の拘束力を持つ。

刑法は正しさを説かない。「人を殺してはいけない」とは言わずに「人を殺したらこの罰だ」というのみである。逆に民法は「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」と正しさを説く。なぜなら刑法は国家対私人の関係を規定し、民法は私人対私人の関係を規定するからである。

国家権力が私人と対峙するときに、そこに「正しさ」は要らないのである。

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