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かしましかしましまし Vol.23(藤居)〜波を聞いてくれ〜 VII

こんなご時世ですが去る日曜日(昨日です)、川崎のTOHOシネマズへ出向いて映画を観てきました。

孤狼の血 LEVEL 2」という映画です。一昨年くらいに上映してた「孤狼の血」の続編ですね。ヤクザ映画です。かなり楽しめたので今回はちょっと感想なんかをつらつら書かせていただきたいと思います。細かい相関や設定なんかは面倒なので端折っていく予定です.......なので代わりにホームページを貼っときますね

※ネタバレも含むかもなので見る予定の方はご注意を!!

もともと柚月裕子という作家の小説、「孤狼の血」シリーズが原作となっていてそれの二作目ということになります。最近「仁義なき戦い」シリーズを観てたのもあって今作にはその名作の影響というかもはやオマージュってレベルの表現がたっぷり盛り込んであることに気がつきました。

特に広島仁正会っていういわば作中の3大派閥(これと尾谷組と警察)の一つに当たるところに属する下部組織「綿船組」の組長やってる綿船(吉田鋼太郎)っていうおっさんがいるんですが、このキャラクターが「仁義なき戦い」でやはり組長をやってる山守(金子信雄)っていうおっさんにそっくりなんです。

どっちも腰のぬけた、義理だとか任侠だとかっていうよりこれからはビジネスの時代だ!みたいなこと言ってる感じで立ち振る舞いもシリアスというよりギャグっぽい感じのおっさんで、まあ情けないシーンばっかりです笑

めちゃくちゃヤクザ映画見てきたとかいう訳でも決してないので何とも言えませんが、やっぱり美化されたヤクザではなく「仁義なき戦い」以降の現実に即したヤクザ映画になってくると組長ってこんなのばっかりなんでしょうか。

あとはそうですね、チンタっていう主人公の相棒がいるんですが、これがややあって指を詰めるってなった時に、ドスでザクっと行ったはいいけどコロコロっと指の切ったのが転がっていって周りで見てた奴がオロオロするシーンとかも「仁義なき戦い」でありましたねえ。

ただこの作品の面白いところはただそういう「仁義なき戦い」への熱いオマージュだけじゃなく、それに加えて「警察小説」の一面もとても魅力的なところですね。

一作目の主人公は役所広司が演じる不良デカだったのですが、今作はその時行動を共にしていた当時は真面目警官、ですが今となってはコッテリ役所広司に仕込まれてしっかり不良警官の松坂桃李が主人公となります。警察小説というと上層部の隠蔽体質とか警察内での貶め合いみたいなのが定番ですが、その辺りに関しては一作目の方が濃かったですね。

今作はヤクザと手を組んで汚いことやる警察ってよりかは、そんな警察がヤクザに対してなす術がなくなっちゃう映画なんです。それは鈴木亮平がやってるキャラのせいなんですけど、またこの役者がめちゃくちゃにいい演技しててですね...

正直ここまでたれといて何なんですけど、やれ「仁義なき戦い」のオマージュが〜だの警察小説で〜だのという要素よりも、この鈴木亮平の演技を見るために映画を観てほしい、なるたけ劇場で。という気持ちです。

あんまりドラマとか邦画とか追ってる訳でもないので鈴木亮平の演技自体見慣れてる訳でもなかったのです。爽やかマッチョなイケてるタフガイって感じで歯ももちろん真っチロチロで〜ってだいぶ狭いイメージ像しかなかったんですが、今作はしっかり目がイっててよかったです。挙動というより顔ですね。表情の味がとても好みで、もっともっと彼が切羽詰まった人間の役をしてるところが見たいなと思いました。

もう小綺麗なオフィスカジュアルで白い歯を見せる演技はしなくていいので、どんどんこっち路線で突っ走って見てほしいです。

てな感じで血生臭い話もこの辺にしておいてそろそろいつものWaves歌詞解説入っていきましょうか!

ちょっと脱線しますけど、こないだの下北沢Basement barでの「Get Stupid」のライブ映像がかっこいいのでここに貼っときますね!

では、改めて。

前回の記事ではA3の最後の節である「Drown one's sorrows.」という言い回しに込められた意味について探っていきました。

「波」が詩中の主人公とも言える「彼ら」の悲しみを灯台の灯りと共にさらっていってくれる。

そこで現れるBメロの英詩。本日はここからとなります。

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正直ちょっと考えたのですが、なかなかに難しいですここ。

簡単に直訳すると

あなたは私が嘘を知るワケを知っている。ずいぶん長く。
あなたは私が嘘を知るワケを知っている。これはとても長い間のことなんだ。

So long に関しては口語表現で"さよなら"みたいな意味合いもあるんで状況に即して選ぶ必要があるんですけど、まずこれが選べなかったんです...ほんとどっちが適切なのか...なので当てずっぽうで"とても長い"の方の訳で行こうと思います。

lies、ここでは名詞的に使われているので「」と訳すのが正解かと思われます。しかし訳して見たところで「嘘」に関する言い回しが今まで出てこなかったのです。強いていうとそのように読み取ってきた節がなかったのですね。

ただしかし、思い当たる部分がない訳でもありません。

それは先ほども出てきた「彼ら」の同意語である「操り人形」という言葉です。

この歌詞は基本的に客体化されてて淡々とした情景描写が多いのですが、たまに前回取り上げた一節のように、主体、つまり語り手がどこからともなく現れて、受け手に一言説くのです。

そしてこの「受け手」は、文脈からすると「彼ら」のことを指しているように思われるのですが、歌詞という媒体そのものの本質が持つメッセージ性を加味するならば、この「受け手」はこの曲を聴く人そのものとも考えられます。

つまりここで、「彼ら」と「曲の聴き手」に同一性が生まれるということです。
これは大きな意味を孕む転回と言えるでしょう。

従って一旦歌詞に戻ると、あなた(=彼ら、聴き手)は私(=語り手)が嘘を知るワケを知っている、となります。

では「嘘」を、「操り人形」と化し、本質の象徴でもある「太陽」にすら愛想を尽かされる存在である「彼ら」の心にあるものだと考えて見ましょう。

すると文意は、

あなた(=彼ら、聴き手)は私(=語り手)が嘘(=あなたが心についている嘘)を知るワケを知っている

となります。複雑でようわからんですね。

しかし無視できない事実がまたここでも浮かび上がります。

「彼ら」は、いわゆるナレーション、神の目線ともいえる「語り手」の存在を認知しているということです。そして「語り手」が「「彼ら」は己に嘘をついている」ことを知っている事実すらも「彼ら」はすでに分かっているのです。それも長い間ずっと。

ということは、必然的に「彼ら」は自分の心に対して「嘘」をついて生きているということに自覚的であるのもわかります。

ではなぜ「彼ら」と「語り手」はお互いの心のうちに対してここまでわかりあうことができるのでしょうか。本来「彼ら」にとって「語り手」は認識のできない外の領域にいるべき存在なのに、この節では「彼ら」は自身の心が「語り手」に見透かされている、という超然的なことを「知っている」というのです。

なぜこのような不可解なことが起こるのか。

実はこの複雑な図式は逆転の発想を用いて眺めてみると、これしかないと思えるような、単純で、衝撃的な結論へと辿り着くことができます。

その結論とは、「彼ら」と「語り手」が同一の人物であるということです。


次回へ続く

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