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かしましかしましまし Vol.16(藤居)〜セカイ系ってたまにみたくなるね・・・〜

なんか無性に摂取したくなる時ありませんか?セカイ系...

「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」(波状言論美少女ゲームの臨界点、波状言論)
https://dic.pixiv.net/a/セカイ系 より参照)

セカイ系ってだいたいこんなイメージです。はっきりした定義とかがあるわけではなく、僕個人としては「キミ(ヒロイン)とボク(主人公)」と世界(社会ではなく)が並列で語られる作品はおおよそセカイ系に当てはまると思っとります。

大事なのは「キミとボク」っていう閉じた特別な関係性で、ここが弱いと展開によるカタルシスがあんまりなかったり説得力(そもそもこのジャンルに求めるものもお門違いかもですが)に欠けてなかなか没入できなかったりしますね。

特別な関係って言ってもその大半は恋愛関係です。しかもお互いにとって入れ替え不可能な「特別な人」ってくらいの設定や微熱感がしっかりあります。

何故この「特別な関係」が求められるのか、上記の理由ももちろんなのですが、構図的にみるともっと重要なワケがあって、主なセカイ系ヒロインは世界の在り方に直接関係する能力または機会を持っています。そしてそんな女の子に愛されることによって主人公は間接的に世界からの承認を得て一人前の男になることが出来るのです(!)

はあ?って思うかもしれません。でもそうなんです、例を挙げればわかりやすいかもしれません。

有名どころで言えば、エヴァ、涼宮ハルヒシリーズ、天気の子とかでしょうか。個人的にはFateの正規シナリオもそんな感じします。

綾波レイとかハルヒとか陽菜ちゃんとかみんな社会を超えて直接世界の存亡に関わるヒロインですよね。これらのヒロインに愛されたり、はたまた彼女らを守るために頑張ったりすると同時に世界レベルで肯定を得ることに繋がるのです。大義名分です。

{世界は社会を内包していてイメージで言うと共同体のルールに則った時間を社会というならば世界は生物としての人間そのものである時間(時間って概念自体社会なんですがそこはなんとなく雰囲気で...)って感じかもです。}

こうやっていうとやらしい見方ですね。でもこの構図は上手い作品だと凄まじい中毒性を引き起こします。特に男性にとっては観終わった後の喪失感もえぐいです。

何故なら主人公であるボクは、社会生活のどちらかというと不得手な観客が没入しやすいようになんの変哲もなかったり彼らが抱えているようなコンプレックスを持っていたりするから、女の子に愛されながら成長させてもらって、時には自らの判断(実はそれすらも女の子によるもの)で守ってあげたりすると、そのボクに同調しきった人たちはそのあまあまな自己実現の味を占めてしまうワケです。

かくいう僕も中学の頃に涼宮ハルヒを観終わったあと死ぬほど落ち込みました。そして現実世界では絶対に感じることのできない気持ちだと思い込んで、割と本気で3次元はクソ!みたいなふうに思ってる時期がありましたね...

今の所歌詞解説の要素皆無なんですが、ここまではいつも通り無駄に長いだけの前置きです。なんでこんな話をして来たかというと、最近Twitterで無尽蔵に炎上を繰り返す野田洋次郎さんがいらっしゃるRADWIMPSをたまたま聴きまして、それがこの曲でした。

これ天気の子の主題歌なんです。

最近の発作的なセカイ系欲によって新海誠の「ほしのこえ」を観てたこともあって、最後までじっくりこの曲聴いてみました。

すると歌詞もやっぱりセカイ系でした。今回の解説ネタに採用しました。

歌詞はこんな感じです。

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まず頭から2行。いい感じですね。

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これらの節だけでもうわかりますよね。セカイ系です。

そして「あの日の君」とあることからキミがボクと直接関係していたのは既に過去のことであると読み取れます。つまりボクの自意識の世界に在るキミはボクを通り越して世界の在り方に関係することによって、ボク自身も社会を通過して「キミに何をしてあげられるのか」という問題に終始することができます。

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こちらはちょっと飛んで後半の歌詞なのですが、世界のあり方に関係するキミとキミに愛されたボクは世界によって与えられた気まぐれや理不尽に問いかけます。この辺りは「天気の子」の内容とも合致しますね。ヒロインの陽菜は降り止まぬ雨(世界のきまぐれ)をその命をかけて止めようとします。そしてそれが出来るのは世界で陽菜ひとりなのです。

主人公は人々ひいては自分の生活を守るために死のうとする陽菜に対して葛藤(先ほどで言うところの問いかけ)します。ここで世界を犠牲にして陽菜と共に過ごす日々をとるか、陽菜を犠牲にしてこの理不尽な世界の救世主になるのかという選択が主人公に可能になるワケです。

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歌詞に戻ると、結局世界はそんなボクらの問いかけに応えることはありません。なので「そんな荒野(雨に飲まれた世界」の中で「僕の全正義のど真ん中にいる」自意識の中のキミが「くれた勇気」と共に、「分け合って」「育てた愛」を「君のため」に使うことに決めます。「愛にできることはまだあるよ」。自分自身でそう答えを出すのです。

少し話を戻すと、何度も話して来た通り「セカイ系」と言うジャンルは「キミとボク」との特別な閉じた関係が世界の在り方に直接関与することが出来ると言う特性を持ちます。ただ大事なのは「キミ」と言うヒロインがあくまでその特性の源であり、主人公であるボクはそんな女の子と特別な関係を築くことによってしか世界に関われないと言うことでした。

ここからさらに進めると、最終的なボクの目標は自己実現であり世界からの肯定です。言い換えればこれは「大人」になることです。もちろんこれは作品を享受する観客に向けた目標設定です。

つまり「愛にできることはまだあるかい」の歌詞や「天気の子」は、「キミ」に関わって世界に触れることができたボクがその進退を選ぶことができる、そんなある種世界からの肯定の証で在る選択権を得たのちに、あくまで自分自身でその答えを選ぶことによって「大人」になるという物語だと考えることができます。

今回も例によってかなりざっくりですがこんな具合でセカイ系に絡めたRADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」の解説を終わろうと思います。今回は突発なのでこれでこのテーマは終わりです。

終わりですとか言いながらですが最後に一つだけ。いまさらですがぼくは「セカイ系」に関して作品のジャンルとしては優れたテーマだと思わないんですよね。

何故ならナチュラルに社会をすっ飛ばしてる分本当の意味で生きなきゃいけない僕らの生活に真に迫ることがないからです。(あくまで私見です)

どんなに辛くても現実は社会を見つめないといけない...ここがセカイ系を観終わった後に苦しい...ってなる大きな理由の一つですね。泣

それではまた次週。





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