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かしましかしましまし Vol.5 (藤居)

最近「ワンダーエッグ・プライオリティ」ってアニメと「ツイン・ピークス」ってアメリカドラマを見ています。前者の方は今年の1月に放送が始まった新しいアニメで、かつて90年代に巻き起こった一大ドラマブームの立役者と言われる野島伸司が、初めてアニメ作品で監督を務めるという元々かなり話題性のあったもの、らしいです。(ぼくは完全にこの情報見逃してました...)

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14歳の少女・大戸アイはある日の深夜、散歩をしている途中で謎の声に導かれ、"エッグ"を手に入れる。未来を変えたいならエッグを割れ――言われるままにエッグを割ったアイを待っているものとはいったい何なのか。悩み、もがく少女たちの青春が紡がれる。

(U-NEXT,"ワンダーエッグ・プライオリティ", https://video.unext.jp/?td=SID0052923&ps=5, から引用)

内容はこんな感じです。大概の少女が社会との齟齬に苦しんでいたり、大切な人を失った後悔の念に苛まれていたりします。見てる印象としては「まどマギ」に近いものを感じました。野島伸司ぽいですね。

一方でツインピークスの方はというと、これまた90年代にアメリカで大流行りしたサスペンスドラマで、デヴィッド・リンチという映画界隈でカルトホラーの王様みたいな人が初めてドラマ作品の監督を務めるという、こちらも話題作だったそうです。犯罪なんてほとんど起こらんようなほのぼの片田舎で、ある日ローラ・パーマーという女子高生が死体で発見されたことにより村社会の暗部が次第に露呈していく...という内容で、個性的なキャラクターたちや謎が謎を呼ぶ展開の数々がマジでおもろいです。(このFBIのクーパー捜査官が好き)

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死ぬほどざっくり説明しましたが、なんとなく共通項みたいなもの感じませんか?
本当にたまたまこれらの作品を同時期に見始めたんですが、内容にもなんとなくシンパシーを感じる部分が多いんです。

たとえば、これらの二作品、どちらも「」がめちゃ重要なんです。寝てる時に見る方のやつです。ワンダーエッグ・プライオリティの方は、作品の半分ほどが少女たちの「夢」のなかで進みます。少女たちは「夢」のなかで、自分たちの苦しみを乗り越え、未来を作り替えるために毎度死にかけながら戦います。
ツイン・ピークスは、いくつかのキャラがいわゆる「予知夢」のようなものを見ることでストーリーが進みます。

「夢」の中で何かを成し遂げることって本来意味のないことだと思うんですが、こういうフィクションにおいては、同じくらいの重みで現実にも作用します。たとえばワンダーエッグの方だと、社会生活からドロップアウト(=自殺)してしまった少女たちを、「夢」の中でその原因となった存在から守り抜くことで、現実に生きる主人公らは自分の未来を少しずつ変えていけるようになります。

ぼくはこういう「夢」の世界が現実との反転世界的にというか、時に現実を立ち回るための「予知夢」的アドバイザーとして描かれるのが好きなんです。

このようなフィクションにおける「夢」の描かれ方...。

「夢」が現実世界で感じたことの集積なのだとすると、やはりそれは、歌詞と似てると言わざるを得ないのではないでしょうか。(!?)

つまり、現実が「夢」となり「夢」が新たに現実となること(予知夢的)と、現実を歌詞とし、歌詞で現実を知ること。この行程にシンパシーを感じないという方が無理があるのではないか。


歌詞を書くということは、夢を見るということだ。


数年後に名言扱いされることを祈ってこの駄文イントロダクションの結びとします。かしましかしましまし Vol.5 始めます。

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怒涛です。
前回はこちらサビ2の「喉の奥〜」から続く2行を解説しました。
言葉をあえて「使わない(形容しない)」ことによって曖昧にすることは楽である。しかし、そのまま「飲み下」さずに、向き合って正しい用法で使える時を待つのだという歌詞でした。

ではその後の歌詞にいきましょう。

青灰色ってあんまりみなれなくないですか?ぼくはせいかいしょくと呼んでます。(あおはいいろでもいけるぽいです。)こんな色です。

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ちょっと本来より暗めなきもします...(良い見本がありませんでした...)

「青灰色の箱庭」というのは1番Aメロに出てくる「冬の荒野」とほとんど同じ意味合いです。ただ今回強気なのが、「荒野」という単語に対して「箱庭」と言い切ってしまっています。(「鏡」の中の世界も、「転がり続け」て摩耗した心も、全部「自分」の中の箱庭ですね)

これも1番サビで解説したように、「自分」を俯瞰的に見たポーズで、「自分」からの超越可能性みたいなものを信じたくなってる表れのような一説です。

つまりおそらくこの曲を通して唯一、自分(写し鏡であるところの「他者」も含め)という枠組みの外の世界、言い換えると「鏡(他者)」に映したことのない世界を「眩暈のような外側」とし、渇望するフレーズになっていると思います。(社会学者宮台真司大先生いわくの「内発性」だと捉えております。外なのか内なのかかなりややこしいですが)

「めまい」というフレーズはヒッチコックの映画のタイトルでもありますね。壮絶な刺激にクラッときてしまう感覚です。でも感情的な刺激というのは中々自分の中からだけでは生まれないものだと思います。メチャメチャにナルシストな人とか、強い自傷癖のある人など生活の中で感受性の豊かな人は自分の気持ちや、身体一つで恍惚とできたりするのでしょうかね。もしそうならば、やはり天才と呼ばれるアーティストの人たちにこのようなタイプがいるのも頷ける気がします。「自分」の中から「眩暈」に到達することはぼく自身まだまだ到達できない境地だなとしみじみ思います。本当に日々是精進、感性を研ぎ澄ませ続けることが大事ですね。

話はそれますが、ぼくは貧血でめまいを起こすことはしょっちゅうです。誰か助けてください。

今回もながながと垂れまくってしまいました。
言い訳ではないですが、深夜に興が乗って書き込んでるせいで、文体とか雰囲気がいつもと違うかもしれません。頑張って読んでくださってありがとうございます!
今回いろんな作品を取り上げましたが、まじで全部面白いのでオススメです。特にツイン・ピークス!

そんな感じで、月曜日、みなさんお疲れ様でした。ありがとうございます。

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