勝手に同志と思っているアランジアロンゾとお産ドキュメントのこと
思い出す「アランジアロンゾ」との縁
「アランジアロンゾ」が、noteで設立30年を振り返る連載を続けている。「アランジアロンゾ」はかわいさだけでなく、ちょっと毒も持っている愛すべきキャラクター雑貨を作っている会社だ。その会社が1991年に創業してからの歴史を1年刻みで振り返っている。これが面白い。すべて手作りで販売していた立ち上げの頃は、寝る暇もなく大変だったと思うけれど、それを感じさせず、ゆるーく楽しく振り返っているのが、この会社らしい。その後、人気のキャラクターデザインの会社となり、経営的な山あり谷ありを経て、今は、「アランジアロンゾ」を作ってきたさいとうさんとよむらさんの人生が節目にあたる時期に入ってきた。
お二人の知り合いでもなく、単なるファンでしかない私なのだが、いつからか、「アランジアロンゾ」のキャラクターや、ファッションビルの一角などで臨時販売をしているキャラバンに出会うと、心の同志的な存在として、励まされてきた。理由は、「アランジアロンゾ」が「たまごクラブ」「ひよこクラブ」という妊婦さん&子育て中のお母さん向け雑誌のキャラクター、たまちゃんひよちゃんを描いていた頃、私も「たまごクラブ」で毎月、原稿を書いていたからだ。ちなみに今でも付録についていたアランジアロンゾ絵のたまちゃんバンダナを大事に持っている。
noteのヒストリーで知ったのだけど、あの頃、「たまひよ」の誌面に登場するたまちゃん、ひよちゃんのイラストを「アランジアロンゾ」は、すべて描いていたそうだ。当時の雑誌編集を考えれば、そうだろうなぁ的作業なのだけど、雑誌の顔となるメインキャラクターを描くイラストレーターに記事に登場する小さなイラストまで描いてもらっていた、というのは、なかなかハードな話だ。自社でのキャラクター製造・販売も並行しながらとなれば、「本当に大変でしたねぇ」と今さらながら心から思う。
取材だから体験できたお産ドキュメント
とはいえ、我らも若かった。noteで「アランジアロンゾ」のヒストリーを読むと、会社設立と私がフリーになったのが1年違い。たぶん彼女たちと私は、ほぼ同世代。私もあの頃は完徹に近い撮影もできたし、夜中の2時、3時に編集者から電話がかかってくるなんていうのも平気で受けてた。1日5件の取材をしたこともあるし、地方に行けば旅費の節約のため、列車を乗り継いで1日3件、県をまたいで取材したりしていた。出版の仕事とはそういうものだと思っていたし、フリーとして食べていけるかどうか、毎月ギリギリで必死だったし、それ以上に雑誌を作るのはとにかく楽しかったのだ。
「たまごクラブ」の仕事で忘れられないのは、なんといってもお産ドキュメントだ。出産の少し前から産後1週間目まで妊産婦さんに密着取材し、体験した人以外にはブラックボックスだったリアルな出産のプロセスを誌面で展開するという企画だ。どういうきっかけで受けるようになったのかはすっかり忘れたけれど、1年に2〜3本受けてたんじゃないだろうか。分娩室のなかまで同行し、何人も赤ちゃんが産まれる瞬間に立ち会うことができるなんて、取材だからこそできた貴重な体験だった。
私が出版の仕事を始めたとき、編集プロダクションの社長から教えられた言葉がある。社長は「取材の形なら、どんな人間にも会うことができる」と言った。と書くと、今の時代、「相手に迷惑をかけるような突撃取材でも許されるという意味か」みたいな極端な話になりがちなので、野暮ながら説明すると、そういうことではない。世界的な企業の社長だろうが、王族だろうが、ふだんの暮らしでは絶対に出会わないような人とも「取材」という形でなら話を聞ける可能性があるということだ。
実際には取材申込をして許可を取るプロセスが入るので、そう簡単な話ではないけれど、意欲と技術とチャンスがあれば、世界中の誰にでも話が聞ける可能性のある仕事は他にはない。それも、取材がOKになれば、その人の話を独占して聞くことができる。こんな面白い仕事はない、ということを社長は言いたかったのだ。その分、原稿料は安いし、年齢が上がれば上がるほど、これほど辛い仕事はない、という話もしていたけれど。それもほんとにその通り(笑)
一緒にチームを組んでいた編集者やカメラマンと会うと、何年経っても思い出深いお産の話で盛り上がる。当時はポケベルの時代。編集部から渡されたポケベルを持ち歩き、電波が届かない地下にいる間に「陣痛が始まった」と連絡が来ていたらどうしよう、寝ている間に連絡が来て気づかなかったらどうしよう、と、無事にお産を見届けるまでは本当に落ち着かなかった。ときどき、最新のスケジュールを伝えるため、担当編集やカメラマンと連絡を取り合うのだが、「低気圧が来てるからそろそろかもね〜」「満月だから今晩あたり怪しいかも」などと、予想していたのも懐かしい。
そして陣痛の間隔が10分を切った頃に、私たちも産院から呼ばれる。が、ほとんどが初産のお母さんなので、そう簡単には分娩室には入らない。病室で陣痛に耐えることになる。その間、そばにいては邪魔なので、私たちはときどき様子を見にうかがいながら、産院が用意してくれた控え室でおしゃべりしながら、半日から一晩は待機していた。
そんなふうにお産の前後で何度も顔を合わせ、話をしたり、写真を撮ったりしていると、私たちスタッフも妊婦さんの遠い親戚のような気持ちになってくる。妊婦さんも他人の私たちが分娩室にいることが影響するのか、どこかで冷静な目を持ちながら、お産を乗り越えていたように思う。当時は立ち会い出産をためらう男性が多かったが、いざとなると私たちに乗せられて分娩室に入った夫もいた。取材から雑誌が出るまでの短期間の関わりだったけれど、お産ドキュメントは、赤ちゃんを中心にした不思議な連帯感のある現場だった。
その瞬間しか出会えない時間を撮る
お産ドキュメントのスタッフで誰よりも大変だったのがカメラマンだ。ライターの私は最悪、お産に間に合わなくても後追いで原稿は書けるが、写真は撮り逃したら終わりだ。また妊婦さんを新たに探してお願いし、イチから取材のやり直しになる。私は幸い、そんな予想もしたくない事態に遭遇せずに済んだけれど、かすったことはある。
その産院は関東圏にあり、東京から新幹線で行くこともある距離にあった。前夜は、出産まで数日かかりそうという話だったのに、翌日の午前中に電話が鳴ったときには、「もうすぐ子宮口が全開になりそう」というくらいの進行の早さだった。慌てて私たちは産院に向かうことになったが、どう考えても到着まで3時間はかかる。新幹線と車のどちらが早いか迷いに迷って、車を選択した。そのほうが早く着くと判断したからだが、カメラマンの都合もあった。当時はフィルムで撮影していたので、撮影器材がデジタル化した今よりずっと多くて重く、列車での移動は大変だったのだ。
あの土曜日の午後、晴天の太陽を浴びながら、病院の駐車場に車を斜めに突っ込み、看護師さんに誘導されながら、カメラマンが猛ダッシュして先に分娩室に向かうという警察ドラマみたいな光景は、今だに忘れられない。ギリギリで間に合い、赤ちゃんが出てくる瞬間だけは、数枚、なんとかカメラに収めてほっとしたのだった。
時が流れても変わらないもの
今はお産の現場に近い仕事からすっかり離れてしまったので、以前と違っている部分もあるだろう。振り返れば、1990年代末から2000年代初めは、出産に関わる環境が変化しつつある時期だった。妊娠期間や出産時の入院期間の過ごし方が変わり、自立した産む体を作る話よりも、妊娠を楽しむ話が増えていった。不妊や不育症に関する記事が増えていったのも、あの頃だ。でも、変わらないこともあると思う。
今、再々放送くらいで「透明なゆりかご」がNHKで放送されているけれど、ドラマの時代は私が毎月、産婦人科の取材をしていた頃じゃないかと思う。先生や助産師さん、たくさんの妊産婦さんから教えてもらった話と重なることが多く、「そうなんだよなぁ」とエピソードの一つひとつに命が生まれ出る産院という場所の愛おしさを感じている。
その後、自分も歳を取り、妊産婦さんより年上になってしまったことや、仕事の方向性が変わってきたことから、編集部とはご縁がなくなったけれど、駆け出しだった私をライターとして鍛えてもらったこと、こんなわがままな人間を長年、使ってくれた編集部には感謝しかない。
「アランジアロンゾ」は、そんな思い出深い雑誌で同時期に仕事をしていたことと、ほぼ同年代の女性として、社会のあちこちにぶつかりながら生き抜いてきただろうことを遠くから商品を通じて感じていたので、noteでヒストリーが読めるのは、なんだか同窓会のようで、毎週水曜日をとても楽しみにしているのである。
仕事に関するもの、仕事に関係ないものあれこれ思いついたことを書いています。フリーランスとして働く厳しさが増すなかでの悩みも。毎日の積み重ねと言うけれど、積み重ねより継続することの大切さとすぐに忘れる自分のポンコツっぷりを痛感する日々です。