見出し画像

銃規制と人民の武装権

銃乱射事件が起きると、必ずと言ってよいほど、銃規制の是非が論議される。いろいろな議論があるものの、銃規制の反対派が口を揃えて言うのが「人民の武装権」である。つまり、銃規制は権利章典(合衆国憲法修正第一条~第十条)で保障された人民の武装権を侵害するので憲法違反だという論理だ。具体的に言えば、次の条文である。

規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。

ここで考えるべきことは、人民の武装権がなぜ権利章典に盛り込まれたかである。まず自分の身を強盗や凶悪犯から守るために武装してもよいと認めているわけではない。

それは近代国家の成立理念に反するからだ。すなわち、人間は自然状態では万人の万人に対する闘争になるので、一定の権限を政府に移譲して万人にとって利益がもたらされるようにするという考え方である。

分かりやすく言えば、自分の身を強盗や凶悪犯から守るために武装すれば自然状態になり、そもそも政府を樹立する意味がなくなってしまう。

さらに権利章典がどのように作られたか考えてみよう。憲法制定会議の後、合衆国憲法は連邦政府にあまりに強大な権限を与えているのではないかと疑念の目を向けられていた。合衆国憲法を発効させるためには諸州で開かれる批准会議で認められる必要があった。妥協として権利章典を付け加えることで何とか合衆国憲法に疑念を持つ者達をなだめて発効にこぎつけた。

合衆国憲法の最も重要な原型である「ヴァージニア案」と権利章典の起草者であるマディソンはどのような思いで人民の武装権を盛り込んだのか。マディソンの国家思想は以下のような図で説明できる。

そもそも合衆国憲法は、連邦政府が持つべき権限を列挙したものである。しかし、同時にアメリカの政治制度全体を包含する枠組みも示唆されている。

アメリカの政治制度全体の究極の目的は専制の防止である。連邦政府の内部には、行政権、司法権、立法権の三権が存在して相互に抑制し合うことで専制を防止している。州政府も同じ仕組みになっている。

ただ三権分立が有効に機能しなかった場合も想定される。連邦政府が専制に走った場合、州政府と人民が連携して抑止する。州政府が専制に走った場合、連邦政府と人民が連携して抑止する。もちろん人民の一部が暴挙に走ることもあり、この場合は連邦政府と州政府が連携して抑止する(アメリカ史上、そうした例は実際に存在する)。

抑止とは強制力である。連邦政府と州政府の場合、それは軍になるが、人民の場合は自ら武装する権利である。したがって、人民の武装権は自分の身を強盗や凶悪犯から守るために武装するという権利ではない。とはいえ人民が武器を持つ権利自体は否定できない。ここで鍵となるのは合衆国憲法の前文である。

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。

前文は合衆国憲法の核となる理念を示している。人民の武装権の濫用によって国内の平穏が乱されているのであれば、合衆国憲法の核となる理念を実現するために人民の武装権の廃止を検討するのもありではないか。

なぜなら人民の武装権が制定された時代は、まだ現代兵器がない時代であり、人民が手にできる武器だけで政府を抑止できたからである。高度な兵器が発達した時代においては人民の武装権は空文化している。


サポートありがとうございます!サポートはさらなる内容の充実によって読者に100パーセント還元されます。