「新山君が求めているのは、きっと母親なのね」とその人は言った。そんなことはない、と僕は言ったのだが、彼女はテーブルに頬杖をついたまま、「ううん、きっとそう」と言った。「新山君はいろんなものを求めている。母親、恋人、友達、仲間、先達……それらがぜーんぶごちゃ混ぜになって、自分でも分けられなくなっちゃってる。でも、新山君が最も欲しているのは、きっと母親」
 そんなふうに彼女は言ったけれど、僕は認めることができなかった。ただ、指摘されたくないことを指摘された時に沸々と湧き上がる苛立ちだけがあった。

 彼女の言ったことは、正しかったのかもしれないと今では思う。いや、たぶん、正しかったのだろう。僕は自分の倍くらいの年齢の女性がタイプなだけだ、と自分に弁明してきたけれど、僕がそこに求めていたのは母親の像だったのかもしれない。成熟していて、聡明で、精神が安定している。そういう人に抱かれている時、僕は確かに安らぎを感じていたし、その安らぎは暖かな家庭の話を聞くたびに——聡明で優しい母親について見聞きするたびに——心の底から羨ましく思わずにいられない何かだった。認めてみよう。僕は暖かい家庭が羨ましい。特に、そこに母親がいる時には。

 僕がこの世にこうして生を受けられたということは、僕に生物学的な母親がいることを意味する。でも、僕がその母親について抱いている最も古い記憶は受容されているという感覚とはむしろ正反対のものだった。言葉というものを手にする以前、僕はその女性に絞殺されそうになったことがある。この記憶は断片的で、本物なのかどうかは確信が持てないけれど、確かめることもできない。いずれにせよ、その記憶は僕の心の中心にまで乱暴に食い込んでいるので、今さら嘘や間違いだったと明らかになったところで取り除くことも中和することもできない。

 僕が覚えているのは眼前にはらりとかかった黒い髪、脂汗にテカった女性の顔、開いた鼻腔、突っ張った唇の間から漏れる何かしらの声、首の皮膚に食い込む指の感触、そして暗くなる視界、バラバラになっていく四肢の感覚くらいだった。
 僕は何度かその出来事の前後を思い出してみようとしたのだが、うまくはいかなかった。だから、僕は代わりに推測でその前後を埋めることにした。おそらく、神経質で何かとメディアの影響を受けやすい僕の元母親はテレビか雑誌で紹介されていた赤ん坊の”知能判定テスト”みたいなものを実践し、僕に何かしらの重篤な先天的障害があると思い込んだのだろう。それで、パニックになって僕を絞めてしまった。
 そんな母親だったから、僕は幼い頃、彼女がとても怖かった。彼女の意図する”こうあってほしい息子像”から逸脱した途端にまた絞められて、今度こそは殺されてしまうんじゃないか。そうビクついていた。だから僕は早いとこ家出しようと画策し、寮付きの中学校に進学することでそれを達成した。以降、僕はほとんど家に帰っていない。

 中学校の三年間を過ごした寮は八人部屋だった。一年生が三人、二年生が三人、三年生が二人。そこで僕は他の寮生たちと様々な衝突を繰り返しながら、なんとか生きていった。僕は彼らにひどいことをしたし、彼らにひどいことをされもした。特に、僕が目の敵にしてしまっていたのはホームシックになる子たちだった。
 僕は意味もなく彼らに辛く当たったし、時には本当にひどいことを言った。僕は、「いざとなれば帰ることのできる暖かいホーム」を持っているという幸福の中にありながら、「家に帰りたい」と訴えて泣く彼らが感情的に許せなかった。
 「さっさと帰れよ」と僕は言ったし、もっとひどいこともたくさん言った。学校の成績で僕に劣る彼らに、「生きているのが惨めだ」と言い、それを認めさせようと躍起になった。その結果、彼らの半分くらいが退学して実家に帰り、残りの半分くらいが僕に歯向かった。ある夜、僕は同室の少年に「寝首をかっ切ってやる」と脅された。そして彼は枕元にカッターナイフを置いたままベッドに就いた。そのせいで僕はまる二晩眠ることができず(彼なら本当にやりかねないと思ったのだ)、根負けして表面的な仲直りをした。中学二年生になったばかりの頃だ。

 恋人ができたのをきっかけに、僕のそうした無意味な攻撃性は和らいだ。彼女は小学校の頃の同級生で、僕が離れた街に引っ越した後にも定期的に手紙を書いてくれていた。正直に言って、僕はその子のことを好きだったわけではないけれど、やがて、彼女が送ってくれる手紙の文面の中に、「無理しなくてもいいんだからね」という優しい言葉を見つけ出し、温もりを求めるようになった。はじめ、彼女はそれをむしろ喜んで僕に与えてくれていたし、僕もそのおかげで心やすらかに過ごすことができたわけだけれど、あまりに際限なく僕がそれを求めるので彼女はやがて疲れ切るか、あきれ返るかして僕の元から離れていった。そうして僕は再び冷たい世界に一人ぼっちでいる自分に気づき、死んでしまいたくなった。

 高校生になり、一人部屋の寮に住むようになってから、僕は生まれて初めてプライベートな空間を得た。そこで僕はこれまで書きたくても書けずにいた長編小説を書くようになり、それと同じくらいのペースでよからぬ秘密をこしらえていくようになった。僕はその時期から年上の女性に恋をするようになった。例えば近所の町立図書館の司書のお姉さん(当時僕は16歳、彼女は36歳だった)などだ。一方で、僕は特待制度を用いて入った塾の女の子と浮ついた遊びをしたりもした。特に高校三年生の頃は酷かったと思う。僕はこれまで生きてきた中でその時期から大学一年生にかけての自分が一番嫌いだ。駅のホームの反対側に見かけたら、わざわざそちらまで出向いて引っ叩いてやりたい。

 大学生になった以降、僕は年上の女性と何度か恋愛じみたことをしたのだけれど、なかなかうまくは行かなかった。それは、確かに僕が母の像を求めていたからなのだろうと思う。
 やっと今頃になって、僕はそんなものは求めても手に入らないし、求めれば求めるほど余計に渇きがひどくなっていくのだということが”実感として”分かってきた。そして何より、いい歳してそんなものを探し求めているのは、と・に・か・くみっともなくてダサい
 おそらく、母というものは、はじめからそこにあるか・ないかのどちらかで、「求めることによって手に入る」という種類のものではないのだろうと思う。だから僕は、おかしな発想かもしれないけれど、「はじめからそこにあるもの」を母として捉えなおそうと思った。それは、僕にとっては”死”だった。かつて、本当に死にたくなった時、僕は生と死の曖昧な境目にまで歩いていって、その先にいる誰かと手を繋いだ。あらゆる自分を放棄した静けさの中、僕はたしかに”あの安らぎ”を感じることができた。僕らはその場所からやってきたし、その場所こそが、僕らが最後に帰ることのできる暖かいホームなのかもしれない。

 ただ、その扉は向こう側からしか開かないし、開いてはならないらしい。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?