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抵抗の道を歩く人々へ〜コリントの信徒への手紙一12章31節後半―13章13節 

ペンテコステはイエスの復活、そして昇天後に、かつての習慣に則ってイエスを信じる人々が「一つになって集まっていた」(使徒2:1)ところ、一人一人の上に霊がとどまり、「ほかの国々の言葉で話し出した」出来事が教会で祝われてきたものです。
 使ったことも聞いたこともない言葉に晒される不安、戸惑いは計り知れないでしょう。理解するのになんの苦労もない相手、いつも同意してくれる人の間にとどまり続けていれば安心安全です。ペンテコステの日、人々は扉を閉め、文字通り閉ざされた場で散らされることがないように、扉の外の人々ではない一つになっていました。そこに霊は降り注ぎ、人々を揺るがしたのです。風が吹きつけ、音を鳴らしました。予定外の音でした。これまで接触しないでおこうと思っていた人々の言葉を自分が話すことになったのです。これまで蔑み、否定してきたことに、自ら身を置くことになる、これがペンテコステです。

 パウロはコリントの教会の信徒の間で仲間を軽んじるなことが生じていることに直面しました。2千年前のローマ社会に限ったことではありません。今でも同じ、いやローマ時代以上に酷いのではないでしょうか。何人として一括りにし、出身国に帰属させて眼差し、指差しているではありませんか。自分はそうしたくなくても、日本の法律がそうやって異質なものとして差別するのであれば、その中で生きている特権を持っている側のものは、やはり差別する側に立たされてしまうのです。そして、意識の中に何人は〜という差別が組み込まれ、何か不穏なことがあれば〜人がという話にするのです。ペンテコステの出来事を根底から理解する必要があります。
 ミャンマーで支援をする人が反体制側だとして軍から暴力を受けるというのも、これと同じです。ビルマ語を話していても、同じ国にいたとしても権力を握る側は支配する者たちを、

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