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夫婦から、お互いが親になり、家族になるまで

妊娠が十月十日のマラソンだとすると、育児は険しい、ルートも定まっていない山を登るようなものかなあなんてふと思う。妊娠には出産という分かりやすいゴールがあり、壮絶なお産にもあと少しで我が子に会えるという希望がある。直後に待っていた産後の育児がこんなにも、色んな意味合いで大変だとは、覚悟が足りなかった。

想像以上に大変だった産後の育児

「自分のことは完全に後回し」「自分の時間なんて一切なくなるよ」―散々見聞きしてきたその描写が、現実となって私の一日を塗り替えた。シャワーをするタイミング、パジャマから着替えるタイミングを失ったまま日がくれるような日もこの2週間多かった。

産後のふらつく身体に、睡眠不足、体力消耗が堪えるのはもちろんだが、精神面の辛さのほうが大きかった。産後すぐの毎日について、こんなに恵まれた里帰り先の実家の環境で、こんなに上手くいっている夫婦関係で、大変ではあるだろうが悩むことなんてないだろう、と高を括っていた。今日は産後の心の乱れに戸惑った数日間を経て、整理がつくまでの思考の話。

ママとなった孤独感

マタニティブルーや産後の孤独感を、どこか他人事だと思っていたけれど、主人が仕事をしている音が漏れ聞こえてくる寝室での授乳中や、家族が出かけた後の静かなダイニングで残り物を掻き込むとき、赤ちゃんが寝たすきにやっと何かしようか・・・と考え出した矢先に泣き出した瞬間―自分だけが赤ちゃんと2人きりの違う世界にやってきてしまったような寂しさを覚えた。

愛おしくもある2人時間

先に断っておくと、私は恵まれている。主人は、仕事も忙しいなか、無理して実家と行き来しながら、赤ちゃんとの時間、私達3人での時間を精一杯大事にしている。子育てに慣れた母と一緒に子育てをスタートできた安心感は大きいし、何よりも日中も他の大人、つまりコミュニケーションを取れる誰かと過ごせることが有り難い。私は多分とても恵まれている。そんな状況でも、最初の数日間は度々泣いてしまった。

ほとんどの場合、特に新生児の時期は、ママがメインのケアギバーとなって、時間も気持ちも体力も頭の中も、ほとんど全てを赤ちゃんのお世話に注ぐことになると思う。自分だけが、仕事も何もかもストップして赤ちゃん中心の生活になっているのに、世の中は変わらず回っている。そんな感覚に陥ってしまうことが、孤独感の原因なのかもしれない。

分け合うではなく、分かち合う

男性の産休取得に関する支援策がニュースの見出しを飾ったのが記憶に新しい。それも一つの方法論なのかもしれないけれど、全ての夫婦がその選択ができるわけではないだろう。(特に里帰りなど実家のサポートが得られないなら、少なくとも退院後1〜2週間はパパも仕事を休んで貰えたほうが確実に助かるし、パパも仕事への影響を心配せず育児に集中できるのは大きいだろうとは思ったけれど。)

我が家の場合は、話題のパパ産休は取らず、リモートワークができる主人は長崎の実家と職場のある福岡を行き来した。どうしても共働きのせいか、はじめ、無意識に「分担」という捉え方をしてしまった私は、パパは仕事もある、私は育児を頑張らないと。−と、自分の「きつい」「辛い」を飲み込んで少し無理をしてしまった。それこそが孤独、ブルーの引き金になりかねない。

何より、寝不足な中、仕事をこなしながら、帰宅後一生懸命に赤ちゃんを抱いて愛してくれている主人は、十二分に同じボルテージで育児をしている。「分担」と捉えてしまうと、自分の首を締めかねないだけじゃなく、育児は私が主体と思うことは、主人に対してもフェアじゃないなと思った。

ここ数日で思ったことは、私は、主人とは、子育てに専念する負担を「分担」したい、「分け合いたい」というよりも、同じボルテージで育児に向き合いたい、子供と一緒に過ごす時間の辛さも喜びも同じ強度でシェアしたい、「分かち合いたい」のだということ。私にとっては、それはきっと、同じだけの時間を、同じように育児に費やすことにイコールではない。

出産は私にしかできないし、ある程度の母乳育児にしたいと思っているなかで、生理学的違いを無視して、何もかも「平等」にしたいと求める方が無理があると思う。(ジェンダーイクオリティの議論に関しては、よくこの「平等」と「公平」の違いに関して考えさせられる。)

赤ちゃんと過ごす一日にも、仕事をする一日にも、それぞれに違ったきつさ、辛さがあって、それは天秤にかけられるものではない。ママの復職後は、物理的に育児に費やす労力や時間をもう少しパパと分け合う形になっていくのだと思うけれど、少しママへの比重が大きい新生児〜乳児期の育児中は、それぞれの大変さ―そしてそれ以上にその喜びや面白さを―なるべくパートナー同士で共有することが、大切ではないかと思う。一人で子供に向き合う時間の支えになるのは、パパの、 “ママの” 育児を “サポート” する姿勢よりも、パパも一人の親として子供に精一杯向き合って、そしてその中で感じることを言葉にして伝えてもらえることな気がする。

はじめの数日間は、「夫婦」から、お互いが「親」になった新しい関係性や、180°変わってしまった生活への戸惑いもあって、多くの言葉を飲み込んでしまっていた。自分の世話をしたいときにできないもどかしさ。なぜ泣くのかわからずあやし続けながらこっちが泣きそうだったこと。その後の寝顔の可愛さ。この子の変な癖。仕事を休むこと、仕事をしない毎日を過ごす不安。―これからは、些細だなんて思わず、赤ちゃんが中心に回る一日を私は主人に伝えよう。私に対しても、変な気なんて遣わず、主人の仕事の一日について話してほしいと思う。

一対一の「夫婦」という関係性に、子供が加わって、自動的に家族がなるというものでもないのだなと思う。一人の「親」として、それぞれが置かれた立場から子供と向き合って、そして今度は夫婦が「親」同士として支え合えるようになって初めて、「家族」になれるのかもしれないと。微妙なニュアンスの話だけれど。(はて、いっぱいいっぱいだったここ2週間、私は彼を支えられていただろうか。。)

少し文脈は違うけれど、分担と共有の違いについて、パパ目線から語られている素敵な作品にも出会った。子育て奮闘描写も癒やされる。。


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