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視聴覚教育の需要に応え、教育現場に広く普及。 柳宗理 による日本初のインダストリアル・デザインを採用 〜 『H型』テープレコーダー

『ソニー技術の秘密』にまつわる話 (14)

家庭への普及を目標に、東通工の技術者・木原信敏の手によって開発された『A型』テープレコーダーを原型として開発された『H型』テープレコーダーは、熱海の旅館によりすぐりの技術者を缶詰め状態にすることで、短期間で完成、国産初のテープレコーダー『G型』発売から一年を待たずに、1951 (昭和26) 年3月に正式に販売が開始されました。

「家庭に入る品物は、
デザインとしても秀逸であって欲しい」

というポリシーの元、『H型』テープレコーダーは日本初のインダストリアル・デザインを採用し話題を呼びます。

このデザインを担当したのは、当時民芸調の色彩豊かな工芸品のデザインで有名だった新進デザイナーの 柳宗理でした。

私は、自分の作った機械としてのデザインが、工業デザインとしてどのように生まれ変わるのか大変に興味がありました。操作上の問題で、例えばヘッドのところにテープをどのように通すか、機械を操作する回転ツマミのポジションでの動作の意昧、またそれによって手の動作にいちばんフィットする形はどれか、等々について何回か打ち合わせを行いました。
 討議の結果、ヘッドカバーの部分は、テープを挿入しやすいような丸みをもった流線型のプラスチックのモールドになり、転換機ツマミはやや長めの角のない紡錘状の形で、しかも手が滑らないように細かいひだの筋がほどこされている、という芸の細かい、センスのあるデザインでまとめられることになりました。
 全体の形も斬新で、まとまっていましたが、色合いも、パネルの薄緑色に対してツマミとヘッドカバーの濃い茶色の配色は、落ち着いた機械のイメージが出ていて大変よいと思いました。


ソニー技術の秘密』第3章より

当時の日本にあった電化製品と言えば、海外製品の模倣が普通で、国産の家電で外観にこだわったものは、この時期にはまだなかったのです。

東通工 (現ソニー) 独自の「本格的な工業デザイン」を取り入れようという発想自体が画期的なだけではなく、実際に出来上がった製品は、形も色合いも斬新で、センスも良い。
さらにはトランクにすっぽり入る、家庭用のポータブル機器で約13kgと軽く、価格も 84,000円と『G型』テープレコーダーの半分。

当時の東通工としては、かなりの覚悟の上での大増産によるコストダウンで、販売当初は月産200台を決めていました。
いわば東通工の運命をこの『H型』テープレコーダーの販売にかけていたともいえます。

『H型』テープレコーダーは、1951 (昭和26) 年3月に発売。

実際には月産100台という月も続くのですが、全国の小学校や新聞社、通信社などに売れ始め、東通工でのテープレコーダーの売り上げを飛躍的位伸ばすことになるのです。

これには理由があり、当時の日本では進駐軍政策の一環として、視聴覚教育が盛んに言われるようになっていた時代で、学童への視聴覚教育が奨励されていたものの、16㍉のトーキーを見せるだけの本格的な視聴覚教育と言えるものではなかったようで、『H型』テープレコーダーはこの視聴覚教育の需要に大きく応えることになり、学校を中心に教育現場で広く活躍し、テープレコーダー普及の立て役者となったのです。

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【受賞】
1951 (昭和26) 年10月、
第3回中小企業輸出振興展覧会にて通産大臣賞を受賞
1952 (昭和27) 年2月、
発明協会主催「東京都優秀発明展」にて一等賞に入賞

盛田昭夫 は自ら率先して『H型』テープレコーダーを学校に無料で貸し出すと同時に、視聴覚教育の重要性や教育の場での録音機の使い方を説いて回りました。

教育現場のほうからも、さまざまな活用法についての提案が出され、テープレコーダーの存在が教育現場で広く認知されていき、最良の市場の創造・開拓を期せずして行なっていたのです。

これまでに『G型』『A型』『H型』と立て続けに発表されたテープレコーダーはやがてマスコミでも話題になり、海外にまで伝えられました。

1951 (昭和26) 年6月にはアメリカの総合ビジネス誌『フォーチュン (Fortune)』の記者により、当時の東通工のテープレコーダー工場が取材され、これが掲載されたことから各国からの問い合わせが殺到し、東通工は国内市場のみならず、海外へとその目先を向けるチャンスをも得たのでした。

文:黒川 (FieldArchive)


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