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すっぱいぶどうの例え

木に連なる小さなみどりいろの球体を見て、口をついて出た言葉は

「あ、ぶどうだ」

流れ星を待ち構えていても、いざ現れたら、願い事ではなく「あ、流れた」と言ってしまう。
予想外のものや、探し求めていたものが急に視界に入ったとき、口をついて出るのは素っぽいことばなのかもしれない。

玄関裏の人の背丈ほどの木に、ぶどうがなっていた。
みどりみどりしすぎていて、全然気づかなかった。

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思いのほかたわわ。玄関開けたら秒でぶどう。

雷が鳴っていても雨が降らない不思議な山なので、なぜそこにぶどうが生えていて、なぜ今年いきなり実ったのかは考えない。

と言いつつ調べてみたら、実がなるまでに2~3年かかるらしい。
ということは、このみどりいろの忍者は数年前から忍んでいたのか。

何ぶどうかな…

むらさき色になるのかな…

袋とかかけた方がいいのかな…

すっぱいかな…甘いかな…ぶどう狩りできるかな…

でもきっと、知らない間に鳥に食べられてしまうな。
おやまの鳥類合唱団、元気だし。

と思ったところで、イソップ童話「すっぱいぶどう」を思い出した。

お腹を空かせたキツネがぶどうを見つけて獲ろうとしたが、木が高くて届かず、「あのぶどうは酸っぱくてまずいに違いない」と悔しまぎれに自己正当化した話。

転じて、すっぱいぶどうは、

自分の能力や地位に見合わない物を得ようとして得られない時、人はその物の価値を貶めて心の平安を図ろうとする。

ことを意味するという。英語では負け惜しみを意味する慣用句。

少しネガティブな印象を受けるが、ある意味《心を守る行動》だと思う。特に、人に話したり相談したりするまでもない、もしくはできない内容の場合、自分の心は自分で守らざるを得ないときもある。

すっぱいぶどうも、捉え方によっては悪くない。

玄関裏のリアルぶどうが、おやまの鳥類合唱団にさらわれ、忽然と姿を消していたときのために「どうせ大味だから」と先にショックを和らげておく。

自分の地位や能力に見合うか、という壮大な話は置いておいて。

そもそも地位や能力に見合うぶどうって何だ。

ところで連日、諸悪の根源あるいはスケープゴートを叩きのめすような報道を見聞きして、さすがに心身ともに熱く重たい。見なければいいのに。

ここ2~3日、わたしはあの国際的な大会のシンボルマークである5色の輪っかが、突然変異のすっぱいぶどうのように見えてしまっていた。

その作品と作品に向き合う真摯な姿勢に心を奪われて、十数年前から強い関心を抱いていた人は、過去の公演内における不適切なセリフで開幕前日に職を解かれた。

処分に異論はない。ただただ、色々ひっくるめて、悔しい。

足の不調で昨年すでに表舞台は退かれたが、流れ星はかならずどこかに現れる。そのときは「あ、見つけた」と素っぽいことばで出迎えたい。
過去が現在を覆っても、未来まで覆うかどうかは、誰もわからない。

それにしても、うちのぶどう。
そもそもすっぱかったら鳥も食べないなあ…
観賞用かな。

初年度はおやまの鳥類合唱団に酸い甘いのジャッジをゆだねるとして、アイスの実で心身ともに冷やそう。
わたしの地位と能力と職に見合う、ぶどう糖。

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