第7話 莉愛葉、それと気付かず凜を眺めて絵里を想う……1/13(金)20:00頃 ※準備中
※準備中
8 じき、インター前から続く広い道を逸れる。 広い…と言っても二車線だが、歩道があるだけマシだろう。 と、すぐに やたら立派な外面の日本家屋。その門扉を押し開ける悠人。莉愛葉「ここ? 中まで入って」悠人「…はい」 チャイムを押すなり、摺りガラス戸の内に人影。玄関を開けて出迎える母親。母「——ええ? アンタ、何そのカッコ。またアウトレット? 電話しても出ないから、何してんのかと思った」悠人「……父さんは? 車ないけど」母「今日も「会合」だって。どうせ みんなでお酒飲んでるだけでしょ」
振り返る悠人。…そこには誰の姿もない。 悠人が戸の内に消えるなり、ドウダンツツジの生け垣から頭を覗かせる莉愛葉。 と、家の前——公道か私道かも分からない砕石道を足早に過ぎ、今 来た道の一本奥へ。その薄暗い道を引き返す。莉愛葉(やっべ…) そこは、しばらく茶畑に囲まれるばかりの農道。が、じきその先で……左右に連なるラブホテルの灯りが騒がしい。アウトレット客を狙ったホテル通り。その実 半ばは潰れている。 そこら一帯に連なるブロック塀には、誰が描いたのか……リゾート地を真似た手描きの海の絵。ヒトデの浮く その下手くそな水平線は所々で色が剥げ、辺りを余計に寂れて見せた。 そこを往く莉愛葉。手にはまだ警棒を握り、何度も振り返る。 悠人がつけてこないか……と、それよりも 母親と一緒に追いかけてこないかを気にした。いくら何でも気が急いた。やり過ぎである。今となっては間違いなく、悠人のほうが被害者だった。加えて、銃刀法違反。 …ところで、莉愛葉は不思議に思った。 その道では、新しく綺麗に見えるホテルから順に潰れていくようだった。いかにも「モーテル」な名残のある所は、週末らしく満室。それが塀越しに窺える。車のナンバー隠すより、塀 高くすりゃいいのに……とも思った。
そうして、廃墟となったホテルの他、遮るものを持たない御殿場の夜空に、昭和な雰囲気の漂う『パラダイス』の照明が向けられていた。 お陰で星は見えないが、その背後に莉愛葉の住むレ●パレスの屋根や外壁が見え———咄嗟に振り返る。背後から車が一台近付いてきていた。 …それは、シルバーの旧式プ●ウス。一時期 問題になった「まるで音のしない」車。 すかさずナンバーを見る莉愛葉。「37-76」……地元の人間か。 そして、手描きの水平線の切れ目———道を挟んで『パラダイス』本館と別館との 従業員用連絡口となっている塀の切れ目へ急ぎ、ポケットからスマホを取り出す。 そこに転倒防止用か、現場用の投光器。その下で、スマホを弄るフリをして佇む莉愛葉。警棒を後ろ手に、横目で運転席を窺う。
ゆっくりと通り過ぎる車内に、フェ●ーリ色のジャージを着た中年。それが莉愛葉に、いつまでも不思議そうな顔を向けている。 中年の間抜け面などに用はない。と、莉愛葉がスマホを向ければ、途端に目を逸らした。が、剣道で培った反射神経はその助手席に……兎の縫いぐるみのぶら下がるモノグラム・リュック。それを載せた女の背が丸まっているのを見逃さなかった。
見るからに合皮の厚底ブーツ、レース付きニーハイソックス、ギンガムチェックのコルセット付きスカートパンツは丈が短く、太い腿を露にしている。
フードに巨大なウサギ耳の付いたボアパーカーをやたらオーバーサイズに羽織り……との量産型だか地雷系の女。それが深く被ったフードと一緒にウサギの耳を垂らしている。
売春。
身を伏せる辺り、地元の女学生だろうと察した莉愛葉。中年に至っては社会的地位のない者。あるいは、それが脅かされない者。どの道 碌な者ではない。
しかし「あたしは好きな人としか…」とは言え、それなりに軽いも重いも恋を経てきた。酸いも甘いも人並みに知っている。だが彼氏との行為も 別れてしまえば「ただの何回か」に過ぎない。喉元過ぎれば熱さを忘れる。既に顔すら思い出せない。普段はきつく閉ざした壺に、忘れられない男の影の一つもなければ、墓まで秘めておかねばならない秘密の欠片の一つもない。 …と、アパートの階段を上りながら、莉愛葉はふと 自分が何を守っているのか分からなくなった。理不尽に降りかかる災難の他に、何からこの身を守っているのか。 都内に家もある。両親は健在。「裕子と莉愛葉が俺の生き甲斐」と、父親の稼ぎもいい。育ちにさほどの負い目も感じず、金を稼ぐ事に些かの興味も持てないまま育ててくれた母・裕子。
23歳にして、誰もが羨む高級品を身にまとい、アヤがついたとは言え車もある。これ以上 何が欲しい訳でもない。何がしたい訳でもない。何が不満な訳でもない。 …関わってこない以上は他人のする事に干渉する気はない。誰の稼ぎ方も蔑みはしない。女はそれだけの苦悶を生まれながらに与えられる。きっと男もそうだろう。だが、不潔に直接 触れる気はない。莉愛葉は単に、その覚悟を持たないだけである。その必要などないのだから。 9 狭いシンク。IHコンロが一つしかない台所に、エプロン姿の莉愛葉。 そこでも背筋がいいのは、膝を曲げて腰を落としているせい。そんな間抜けな下半身のせいである。 そうして、鍋底に敷かれたオリーブ・オイルを浴びて踊るニンニクの姿を眺めていた。
じき、手でちぎった唐辛子を鍋へ。 部屋に付属の小さな冷蔵庫。その冷凍室に詰め込まれた……ほうれん草、アサリを引っ張り出し、鍋へと一握り。塩と胡椒でしばらく炒める。 次にトマトのホール缶。缶を洗った水も入れる。 そこにパスタ・燕麦・ローレルを入れ、しばらく煮込む。 …こうすれば、パスタを別鍋で茹でる要もない。時折フォークでかき混ぜるだけで、その間に洗い物も済む。 と、莉愛葉の料理は合理的である。 ニンニク以外はすべて冷凍食材か、袋詰め。それでもイッ●ラの大皿に盛れば、見栄えは申し分ない。味は一定。10分もあれば、できあがる。腹持ちもいい。一食単価も安い。足腰にも効く。 食べたい物があれば外で食べる。なければ、こうして作る。何を食べるか悩んだところで、腹は決して膨れない。悩むだけ時間の無駄である。
テレビはない。棚すら持たない莉愛葉のワンルーム。 ロフトとなったベッドの下はクローゼットになっている。その中ですら綺麗に整っている。掃除がしやすいようにと篭を並べ、そこでは下着もすべて同じ大きさに畳まれた。 服は多いが なるべく吊るす。要らなくなれば裕子へ贈る。滑り止めの付いたハンガーまで、すべて同じ物で揃えた。 湯気の上がるパスタをガラステーブルに置き、三人は掛けられるカウチ・ソファ……ではなく、床に座る莉愛葉。目につく唯一の調度品がそこに敷かれたルイ・ボスティーニの派手な絨毯。それと、姿見鏡が一枚あるのみ。 エプロンを首の下で結び直し、背筋を伸ばしたままフォークを運ぶ。テーブル・マナーは裕子に学んだ。お陰で、食べ方の汚い人間が苦手になった。絵里はその点 問題ない。 だが、よほど暇なときに触れるネトマのせいで、ひとりの飯時には、プロ麻雀リーグの対極動画を眺めるようになった。その都度「ママに見られたら「お行儀が悪い」って怒られんな…」が、頭をよぎる。
食べ始めるなり日下部より着信。「13面待ち国士無双」のリーチを遮られる。も、それを無視してパスタを口に運ぶ莉愛葉。続けて「comma の店長と飲んでんだけど、連絡先教えて欲…」 との、新着メッセージの通知が画面端に。莉愛葉「……」 咀嚼の済んだ厚い唇に、炭酸水のグラスを煽る。 ……かつて、日下部に救われた莉愛葉。 その後に一度、酔った勢いでキスをした。 店の飲み会の後、お節介なのか悪戯か……年増の女性社員の計らいで、カラオケ店にふたり残された。日下部「…はは。ごめん。今の忘れて」莉愛葉「……」 莉愛葉が拒んだ訳ではない。 日下部の酒癖の悪さも、女癖の悪さも知っていた。 が、業績不振の前任が異動となり、ようやくの店長昇進。その肩書が日下部を留めたのか……ともすれば、怒っているとも捉えられかねない真剣な表情で 莉愛葉がまっすぐ見つめたせいか、途端に及び腰になる。日下部「……あのさ。この事は——」莉愛葉「言いません」 と、莉愛葉は口を拭いながら答えた。 それ以来、絵里と飲む酒以外は控えている。 五年も毎日のように顔を突き合わせながら、日下部とはそれきりである。 じき日下部は結婚した。子どもはまだない。そのキスを「男にはタイトスカートで媚び、女にはキャリア・ウーマンぶってヒステリー」な、近所の店舗の厄介従業員である妻に、自ら漏らすとは考えられなかった。 が、男は男で口が軽い。それが巡り巡っていたとして、何ら不思議はなかった。 と、莉愛葉はかつて日下部に貰った『世界服飾史』が、まだ部屋にあるのを思い出した。暇さえあればバックヤードでそれを眺めていた入社間もない時分。それを「貸してください」と言った莉愛葉のために、日下部が自前で購入してくれた本だった。
部屋の壁には、折り畳み式の机が備え付けられている。 それは掃除しづらく、安っぽく、まるで莉愛葉の気に入らなかった。 拡げたままになっている机。その上にノートPC、服に関する本がいくらか……に紛れて『世界服飾史』。今、それらすべての上には「健康器具」の入ったトート・バッグが載っている。
ルイ・ボスティーニでは、独自素材『サン・ライズ』を普及しようと、エコ・バッグを配っていた時期がある。数年前のノベルティだが、未だに ●ルカリでは そこそこの値で取引される。 バッグの中には、絵里の持ち込んだ「吸うやつ」だの何だの、シリコン製の玩具と一緒にビニール・ポーチ。 そこには、改造した煙草用の金属パイプ……フィルターを抜き、代わりに急須の網を押し込んだモノと「野菜」の入ったパケ。
莉愛葉「持って帰れって」絵里「ぁは」莉愛葉「チッ。はぁ…」
……ゆっくりと、まぶたを開ける莉愛葉。 汚れた皿をそのままに、ガラステーブルに足をかけているのが目に入る。足首には、ペイズリーをあしらったレースの下着。 裏にひっくり返したリブ・パンツを 尻に敷いたラグの上で、震えるスマホが…日下部からの着信と分かるなり、莉愛葉は再び目をつむる。 と、まぶたの裏に……絵里の顔。 赤いネイルに舌を這わせながら、うっとり莉愛葉を見下ろしている。 その鎖骨や胸の間には、ミケランジェロの絵画を模した黒墨。左よりも遥かに大きな絵里の右胸の膨らみに沿って座るイブが、知恵の樹に巻き付く蛇と手を取り合っている。 そんなイブが見つめる先には、まるで牛のような……下手をすれば男の平素のソレよりも巨大な絵里の●クビ。それを手にしながら絵里が言う。絵里「…欲しい?」
———「お婆ちゃんに〝いい耳〟だって言われたからさァ。穴開けんの嫌(や)なんだよね。身体に何(なん)かくっ付いてんのも邪魔くせぇし」
いつだか絵里はそう言った。
絵里が自然に「お」を付けるのは祖母に対してだけである。
体は入れ墨だらけだが、耳に限らず臍(へそ)にも舌にも性器にもピアスなどの装飾品は見当たらない。指輪もネックレスもブレスレットも、時計も帽子もストールもサングラスも嫌う。
仲がいいのか悪いのか……時折ブチ猫の三春(みはる)に引っ掻かれた生傷をつけてくるばかり。「また抜けんじゃん」と三春に爪を突き立てられた傷が瘡(かさ)蓋(ぶた)となり、入れ墨と一緒になって剥がれ落ちれば、すっかり顔馴染みとなった彫師のもとへと赴き、また新たな瘡蓋をこさえて帰ってきた。
そして「あ~…クソ。超痒い」と武に八つ当たりする。
武というのは絵里の現・同居人の名である。
由比(ゆい)武(たけし)。じき40歳になる。絵里と比べてひと回りほど年嵩だが、身の回りの世話をすべて武に焼かせている。
———「この子、お行儀悪いでしょ? すぐ乱暴してくるんだもん」
莉愛葉も面識がある。
トランスジェンダーであり、元はプロの格闘家であり、下は未施工のままだが嘘くさい巨乳の武のことは好きだった。
こんな具合に、絵里は自身には金を掛ける。
しかしファッションには疎く、身に着けるものは拘(こだわ)らない。
莉愛葉に出会うまでの絵里は、シミの多いマキシ丈ワンピースに破れたスニーカーと、どこへ行くにもそんな恰好ばかりであった。
ところが絵里の住まい……かつてはリゾートマンションであった築50年にもなるコンクリ造りの古めかしいマンション(外観はクレタ島にあるペンキ塗りの白い住宅を意識しているらしい)には高級ブランドの靴や小物がギフトボックスに入ったままで堆(うずたか)く、三春が寝床にしている玄関横の狭いクローゼットの中にまでガーメントに包まれた新品タグ付き未着用のドレスが隙間なく吊るされている。
「見すぼらしいナリしてたら〝ほっとけねぇ〟って思う奴がいるって、昔お婆ちゃんが言っててさ。それ真理だと思う。まァ殆(ほとん)ど武にやっちまうけど。アイツ、あんなデケぇのに案外着れんの多いんだよね」
それらは絵里が小遣い稼ぎのために誑(たら)しこんだ人間からの贈り物である。
「恵んでもらうのは恥とか言ってる奴ほど金ねぇじゃん。何の取り柄もねぇ癖に、そんなのが見栄張って着飾っても金掛かるだけで1円も得しねぇのに。だったら見れる体にしてさァ———」
だが、肉感強い体型を誇張する服を与えられても、窮屈を厭(いと)う絵里には無用の長物。ましてや、家の中では服を着ない。釦(ぼたん)を留めるでさえ武の手を煩わせる。
そればかりか、
「も~。ワレメちゃんぐらい自分で洗いなさいよね」
「もっと口開けて。奥歯磨けないでしょ」
「あ~もう、また廊下ビショビショにしてぇ。ホラ、拭くから早くケツ突き出せ。てか、なんでお尻は洗ってくるのにウンチ流してくれないのよぉ。それと、莉愛葉ちゃん。前から言おうと思ってたんだけど、あんたニンニク入れ過ぎ。歳取ったら貧血になるよ。ちゃんと火も通ってないから消化できてないし。あんたもそのまま出て来てんじゃないの? …あ、ちょともう、やだぁ。三春もそんなの触んないでよぉ」
と、武の心労は絶えない。
身長190cm、風船のように形よく膨れたGカップの胸以外には無駄な贅肉がないばかりか、未だ筋肉質に引き締まり……と、そんな武も絵里の横では小さく思えた。
また、莉愛葉がリュックを持たせるまで(悔しいかな、まったく絵里の手の内だったが放っておけなかった)絵里はビニール袋に荷物を入れて持ち歩くきらいがあった。
そこには煙草やスマホやルージュに紛れて、万札や小銭が突っ込まれており、その大半を落としてから袋が破れていることに気付くか、あるいはどこかへ置き忘れた。
いつかのタクシー運転手も、札束溢れるビニール袋と猫を手にした入れ墨女に縋(すが)りつかれてしまえば、気が気でなくなるのも頷(うなず)ける。
そんな人間が大切にするものは少ない。
そのうちの一つが三春であり、そして祖母との思い出だった。
ものぐさな絵里が頻繁に美容院……ではなく、禿げ頭の男性客しかいない近所の理髪店へと通うのは(いくら武に洗わせているとはいえ)長い髪の手入れをするのが億劫だという尤(もっと)もな理由からだが、その実、祖母に「綺麗な髪」だと褒められてきたせいだろうと、莉愛葉は踏んでいた。
そして凡そ、何よりも褒められたはずの花弁にも似た絵里の耳。
譬(たと)えるならば———ハクモクレンか芍薬(しゃくやく)か。ラナンキュラスかトルコ桔梗(ききょう)かも分からない。
ところが莉愛葉は真っ先に思い浮かべたはずの〝百合〟という言葉を避けたため、そこから〝カラー〟へ辿り着くまでに随分と時間が要った。
それは今、カフェの雑踏をよそに「清浄」だと思う莉愛葉。
天井から降る照明を受けて産毛を耀(かがや)かし、襞(ひだ)が織りなす複雑な陰影の内に暖(あたた)かな肉色を滲ませ、そこに青い血管が走って深みを増し…と、莉愛葉はそれを眺めることが好きだった。
それにしても清浄とは些(いささ)か大仰に感じる。
まるで泥中の蓮(はちす)とでも言わんばかり。
いくら絵里の影響でルネサンス期の美術作品から『創世記』へ、そうして『失楽園』や『神曲』……は早々に断念したが、マークトウェイン『不思議な少年』や、ディケンズ『クリスマスキャロル』といった比較的読みやすい本を好むようになったとはいえ、23歳の莉愛葉が恋の熱に浮かされるまま「神聖」「神秘」「官能的」などとの失脚した言葉を選んでいても何らおかしくはない。
真意では絵里の耳に性器を重ねていた。
しかし〝百合〟を避けるのも然り、どうやらその辺に莉愛葉の負けず嫌いと元来慎重な性質(たち)が顕れていた。
絵里と恋仲になり…と断言できるか定かでないが、肉体関係を持つようになったある日バッサリ切り落とした。
短くしてほしい旨伝えるなり、
「じゃ、最近のテ●ラーの髪型いっちゃっていいすか?」と、俄かに鼻息を荒らげる理容師。「僕好きなんすよね、テ●ラーヒル。結婚しても推せるってガチの女神すよ。でもテ●ラーって若い頃はオタク少女だったみたいで日本に来るの好きみたいっす。だけど普通にお嬢様だから趣味は乗馬で、モデルになる前は体操選手だったとか…ワケ分かんないんですよね」
異国のスーパーモデルがどうか知らない。だが、御殿場での暮らしが染みついた莉愛葉は、終日(ひねもす)混雑する都内の電車に揺られるたび、人いきれに吐き気を催すようになって以降は「明日も仕事だから」と嘘をつき、高円寺辺りにある実家へも寄らず、髪を切り終えるなり高速バスでトンボ返りすることが増えた。
やがては故郷であるはずの東京へ帰ることすら仕事にかこつけ渋りだし、仕方なく眉唾物(まゆつばもの)のレビュー情報を頼りに、当座はバスで行けるから横浜辺りでいい美容院ないかな…と探していた折、
「それなら腕も確かだし、店も綺麗でオッサンの加齢臭とかもしねぇし、親子でやってっから倅(せがれ)のほうに頼めば?」と、絵里に紹介された近所の理髪店へ来たまではいいが「めちゃくちゃお綺麗ですね」の世辞もおざなりに、今度はやたら「テ●ラー」「テ●ラー」口喧(くちやかま)しくなった倅に閉口しながらも好き勝手に弄(いじく)らせたところ、それが驚くほどよく似合った。
「…へぇ」その晩、莉愛葉の住まいであるレ●パレスに上がった絵里。
絵里の家から徒歩で10分程度と、それほど離れていない。
「まァ、言うほど似てねぇけど」
「あたしが言ったんじゃないから」部屋で寛いでいた莉愛葉。
倅の饒舌に草臥れ、ソファに凭れてぼんやりしていた。
なるほど、毛先を揃えるだけとはいえ絵里が親父さん(パッと見冴えないが寡黙)にやってもらうわけである。莉愛葉が尋ねてもいない倅の恋愛事情…「彼女欲しいけど、できないんすよね」の理由も自(おの)ずと知れた。
若作りこそしているが、どう見繕っても30代半ばで「若い子が好き」な上に「面食いなんすよね」もない。それでも、お客さんみたいに唯一無二な感じで最強スタイルの超絶美人がいいです———云々と褒められるのは悪い気がしなかった。
しかし、「満更でもねぇ顔してんじゃん」と絵里。
見透かした微笑と眼差しを浴び、莉愛葉はそんな自惚れを恥じた。
そして気付いた。絵里は知っていて焚きつけたのである。莉愛葉は絵里から目を外し、虚空を眺めて溜息をついた。怜悧な性根は知っていたが、周到過ぎる。ともに同じ床屋(・・)へと通う〝同胞(はらから)の喜び〟とでも呼ぶのか…そんな心まで所詮は絵里の弄び、そんな絆を裏切るまでが況(いわん)や絵里の前戯であった。
「なんで拗(す)ねんだよ」
莉愛葉の前に立ちはだかり、セットしてきたばかりの髪を掴んでキスをする絵里。唇を押し当てながら訊いた。「つぅか、お前誰?」そこで堪らず鼻で嗤った。「自分のねぇ女」
これを聞き、莉愛葉は口を閉ざしたまま目を剥いた。色素の薄いヘーゼルの瞳はロシア人である母方の祖母譲り。そうして四白眼となった眼光は狼にも似て……と、殺気を纏った莉愛葉を見つめ、絵里はうっとり目を細める。と、髪を捩(ね)じり上げている手に力を籠めた。そうして仰け反らせ、きつく結んでいる口をこじ開けようとする。
「…痛(い)てぇよ」
ようやく開いた莉愛葉の口へ、絵里はすかさず舌をねじ込む。
そこで莉愛葉も貪(むさぼ)りだした。
「作りモンの癖に」と舌を絡める。
その刹那、莉愛葉の舌を絵里が噛んだ。
歯を立てられた舌は戦(おのの)き、咄嗟に奥へ引っ込もうとする。
しかし、絵里の歯はそれを許さなかった。更にきつく噛み締め、食い千切るかのように捕らえた舌を口腔内から引き摺りだす。
「そういう、おつもりは、いけませんねぇ…」
歯を食いしばったまま言い終えるなり、唇を窄め、激しい音を立てて莉愛葉の舌に吸いつく。
「んン」ジタバタする莉愛葉。だが、壁に足をかけ、髪を握り絞っていないほうの手では莉愛葉の利き腕である右の手首をしかと抑え———まるでブールデル『弓をひくヘラクレス』にも似た恰好で莉愛葉の腹に片膝を突き立てられて動けない。
それを突き放そうと躍起になるほど舌に歯を喰い込まされ…己に痛みが返ってくる。意識が痛みに集中し、視界は冴え返る。だが、いくら目を白黒させたところで最早(もはや)なす術のない莉愛葉。肢をバタバタさせるうち、図らずも微量の小便を漏らした。その敗北感、無力感から腰が砕ける。
と、絵里の生暖かい口の中だけが……痛みに区切られた舌先に密着している絵里の温(ぬる)みだけが慰みとなっていることに気付き、莉愛葉は抗うことを放棄した。長い肢を絵里の腰に回して抱え込む。痺れる舌を自ら欹(そばだ)て、莉愛葉は縋る。
その慈悲を懇願するような表情を眼下に、
「あ~あ…みっともねぇ。小便くせぇし」絵里は恍惚の舌なめずり。「でも、そんな顔しても許さねえから。悪い舌は引っこ抜いてやる」莉愛葉を抑えつけていた手を離し、今次両手で莉愛葉の口を押し広げる。というより、歯に指をかけ、力任せに口を割った。
莉愛葉はてんで逆らわず、物欲しそうに涙を浮かべて絵里を見つめ…血の滲む舌を尖らせる。
「あはっ。すげ。めしべみてぇ」その様子に絵里の据わった瞳が潤む。より深い場所へと歯を立てて、莉愛葉の舌をぞろぞろ呑み込む。じゅうじゅう吸い付く。生気を搾り取られる心地に莉愛葉は軽く目を回した。
「がっ」「ごぼ」
喉に溜まった唾液が震え泡(あぶく)を立てる。
飲み込むも、飲み込むも…いくら飲み下しても間に合わず、やがては破れかかった口の端から溢れ出るに任せた。鼻息荒く呼吸するたび、詰まった喉のどこかから奇妙な呻きがか細く漏れる。まるで手負いの獣が月夜に臨み、粗い悲しい唸り声を上げるかのように。こうして戦意を喪失した莉愛葉の瞳には、部屋灯を透かして眩しい絵里の耳だけが映っていた。———
———そこで目を開ける莉愛葉。 苦い面持ちで、自身の長いオンブレ・フレンチの指先を眺める。莉愛葉(…くそ。ものたんねぇ) 初めての●ーガズムは絵里によって迎えた。 気付けば、こうして自分を触る機会が増えた。しかし、果たして絵里の言う通り「経験値が1上がった」だけなのか分からない。
じき「しつこくてごめんね。ちゃんと断って…」とのメッセージ通知を端に浮かべた、スマホの画面が点灯する。 そこでは、頬を並べた絵里と莉愛葉がともに舌を覗かせ 笑っている。 …それを横目に、爪を傷つけないよう 鍋と皿とを洗う莉愛葉。 エプロン姿で膝を落とし、灼けた尻を突き出している。 つづく