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 ヤニカス爺の橋川に絡まれた火曜の夕方。
 正樹はキャリーバックの中に道具と骨を詰めて持ち帰り、母親と暮らす厚木の家の自室にこもって、それを砕いた。骨を包んだオムツを布団の上に置き、ゴムハンマーで叩き潰す。その後の大きさ次第では、すり鉢とすりこぎ棒を使用した。そうして粉末状になったのを確認しながら……正樹は咲綾の言葉を思い出した。

「お前は母親を大事にしろ」
 車の中、咲綾は続けてこう言った。
「母親を憎んでいる以上は、何をしたって自分が母親よりも小さくなったように感じるだけだってよ。なんか、ようやく意味が分かってきた」

 ただでさえイカレている。
 ならば、その真意など正樹に分かるはずもない。
 だが、あの美貌の男———新生咲綾がEX咲綾を殺したことは間違いなかった。

 そういえば、
「前はあんなにカッコよくて優しかったのに、たまたま昔の男関係の話したら、ヤキモチなのか……急に態度が豹変して。それで殴られるようになったから、すぐに距離置いたんだけど、でも、まだ貸したお金返してもらってなくて。でも、もう殴られるの嫌だし、なんかその都度言いくるめられちゃって……だから、体の関係はまだ続いてる」
 むねをEX咲綾から聞かされていた。

 それが新生咲綾の正体かもしれない。
 いや、違う。
 確証が持てないから否定するのではない。そんな「ありきたりな男」であるはずがないのだ。サイコパスやソシオパスという言葉でくくる気にもなれないほど、明らかに今の咲綾はぶっ飛んでいる。

 ところで「貸した金」には正樹が与えた金も含まれているはずだった。
 だが、何をクドクドと聞かされたところで……正義か漢気かを振りかざし、身の危険を冒してまでEX咲綾を守る気になれなかった。
 どうでもいい。
 EX咲綾など大した女ではないのだから。
 しかし、そんな具合に正樹からは尋ねてもいない「これまでの恋愛遍歴」を整理する限りでは、どの男も大して変わらないように思えた。

「じじ自分で、ままま蒔いた種だろ。くく、くさ、腐れび、びび、ビッチが。こ、これで、な、何度目だよ。わわわ別れた奴に会ってセ、セ、セックススする度に、おおおお金、か、かし、貸してって、なな泣きついて、きき、きや、きやがって」
 それを飲み込み、正樹は交際を続けてきた。 

 …EX咲綾は思い上がりの自惚れである。
 そこそこ美人であるがゆえに自分が一番でないと気が済まない女だった。

 高校生時分までは男友達にも女友達にも「ダメ男と付き合うのはやめろ」と言われるほどの悪食。ギャンブル狂い、シンナー中毒、麻薬中毒者、窃盗の常習犯やら性病持ち。
 悪い男に入れ込むたびにやつれていく。
 豊満だった胸は痩せ、ふっくりしていた頬はこけ、目元のクマも取れなくなり……そうして口数減っていき、虚空を見つめて爪を噛んでいるばかり。

 見兼ねた友人らは何度も引き留めようとした。
 しかしEX咲綾はそれらのことを、
「私のことなんて何一つ理解する気もない一般人」と罵り、
「何のアイデンティティも持たず、ただ皆同じで、その時々の流行に踊らされてるだけの鈍感な幸せ者たち」と蔑み、
「束縛されてるときのほうが愛されてる実感がして心地いいのに」と塞ぎ込んだ。

「ほっといて。私の人生でしょ」

 友人らにEX咲綾の望みなど分かるはずもない。
 ただでさえ、勝手に破滅したがる女のことなど知ったことか。
 そんな女の扱い方など心得たって仕方がない。繊細だから何だというのだ。家族でもなければ、こんなの・・・・がどうなろうとも関係ない。

「何あれ? 面倒くせ…」
「心配するだけ損だよね」
「もういいよ。ほっとこう」

 そうしてEX咲綾の念願叶い、やがて誰からも相手にされなくなった。
 しかし一番になりたい女が、そんな哀しい現実を受け入れられるはずもなく「私は凡人とは違う。凡人なんかに私が理解できるはずない。だから自分で距離を置いた」と虚勢を張った。

 大学時分。
 EX咲綾は入学早々、男に媚びてすべての女子から嫌われた。
 なるほど、まだろくに知りもしない間柄であるはずだのに、やたらチヤホヤされるわけである。トイレの個室で、目立つ男から順に咥えこんでいたのだから。
「イカくせぇから近寄んな、口便器。精子で歯でも磨いてろや」
 そうして浮名が立った女に真面な男は近寄らない。
 すると、瞬く間に素行の悪い連中に声を掛けられるようになった。
 更には薬物を手引きする見返りとして、身体を滅茶に求められた。

「もっと可愛いって言って。もっと気持ちいいって言って。ああ、イくイくイくイくもっとイく、もっとイく、もっとイく」

 ケミカルな悦楽に白目を剥いて泡を吹き、現実逃避を繰り返す日々。
 しかし、
「ネタ代払えないなら、この動画親に送るから」
 と強請ゆすられて目を醒ました。

 月々の家賃と物件がまるで釣り合っていない都内のアパートに籠って昼夜問わずに震えていると、大学から連絡があった。そこで「キメセク動画」が大学中にばらまかれたことを知り……どうやら便所以外には、もう居場所などないのだと悟った。 

 そうして、またもや孤独になって以降は、
「けれど私は平凡な人間の集団にすら馴染めない惨めな存在」
 とブログサイトで自虐を重ねた。

「またずっと髪の毛抜いちゃってた。だってもう足の爪だって噛めるところないし。このままじゃ夜職しかないけど、でも、どうせ客にも嬢にもイジメられるだけだろうし。タトゥ入れたいけど金ないし。だったらもうリスカと髪抜いて夜職就けなくするしかなくない? で、私もそのうち生活保護? もう生きてる意味ないじゃん。死んじゃえれば早いけど…」

 まるで悲劇のヒロイン気分。
 それもそれで満更ではない心地になれた。
 だが、数少ないフォロワーにもやがて飽きられ、
「もうリムっていい? 自分で4ぬって言ったんだから、ちゃんと言葉に責任持ちなよ。そんな人を生かしておくために制度があるわけじゃないから」
 と迫られる頃には自暴自棄となり、
「だから野良猫か天使になりたい」
 処方された精神安定剤の過剰摂取を繰り返すようになった。

 しかし、そんな女も腐るほど世にあることに耐えきれず、やがて大学を中退。EX咲綾は実家に戻り、自室に引き籠る。
 と、じき束縛きついだけでなく泣きながら首を絞めてくる、あるいは揃いのリスカ跡をつけてくるメンヘラ彼氏———SNSで知り合った前髪の長いニキビ面の陰キャ高校生を自室に囲い、3日間籠城。

 まず、EX咲綾の母親(片親)が勤めに出るのを見計らい、家にある金品をメンヘラ彼氏と漁った。そして、祖母の形見である貴金属を持ち出して売り払った。更にはEX咲綾の誕生日が暗証番号となっている母親の銀行口座残高をすべて引き落とした。そればかりか、父親のもとへも金の無心をしに行った。

「ねぇお父さん。今月の養育費なんだけど、振り込み明日でしょ? それ、私に渡して貰える。だって、それって私のために払ってるお金なんだから、別に私が受け取っても問題ないよね。てか、お母さんに頼まれたんだけど。大学に払わなきゃいけないお金を待って貰ってるの。だから明日、私が大学に持っていかなきゃいけないんだよね」

 そうして昼間は二人で豪遊。夜になれば母親の目を盗み、ベッドの中で声を殺して肌を重ね……と、このせいでEX咲綾は家から追い出され、しばらくの間は単身ネットカフェでの暮らしが続いた。

「親を説得して迎えに来るから、もう少しだけココで待ってて。説得できなかったら家出するから。だから結婚しよう。高校辞めて、すぐに働くから。何でもする。絶対幸せにするから」
「うん。嬉しい。ありがとう」

 しかし、メンヘラ彼氏は二度とEX咲綾の前に現れなかった。

 ネットカフェのナイトパックプランで夜を越し、昼はそこで知り合った男性客に付き合って飯を奢ってもらう。それから車内や公衆トイレ、あるいは物陰で咥えて金を稼いだ。それでまたネカフェを寝床にし戻り……と、数日経った。メンヘラ彼氏からは「まだそこにいる?」との連絡があっただけ。

(まだ若いし、友だちとかも止めんだろうから、そんなすぐには迎えになんて来れねぇよな。まァでも、他人ひとに「やめろ」って言われるほど逆らいたく年頃でしょ。その〝若気の至り〟ってのを信じるしかないし)

 そうしてニヤニヤしていると、ネカフェの店長に「お客様がお見えになられております」とレジへ呼ばれた。
 期待に胸を膨らませるEX咲綾。
 だが、そこにいたのは弁護士とEX咲綾の母親だった。

「小林咲綾さんですか? ロイド・・・という名前の男性に心あたりはございませんか」と弁護士。
「あります。ロイドは私の婚約者の名前です」

 母親が立ち会うなか、カラオケルームで弁護士の話を聞いているEX咲綾。どうやらロイドは「このままじゃ駄目になる」と自身の家へ帰宅するなり、自身の母に泣きついた。すると、この母親は「息子が監禁された」としてEX咲綾を未成年拐取かいしゅで訴えると言い出したのである。

「お泊り……というか、合意の上での籠城でしたし、そのせいで私、家を追い出されて。だからココに居るんですけど…」
「依頼人からは〝私を置いて帰るなら殺しちゃうかも〟と言われた、と聞いております。だから、逃げるに逃げられず従うしかなかったのだと」
「は? ふざけんな。散々中に出してんだから、そんなのロイドが言わせたようなもんだろ。てか、従うしかなかったって何? 好き勝手やっていった癖に、なんで私が追い詰められなきゃいけねぇんだよ。もう、お前じゃ話になんねぇから直接会わせろ。会って話させろよ」

 わめくも空しく、家へと連れ返されたEX咲綾。
 二階の自室で泣き濡れる。
 以降は(EX咲綾の母親が依頼した)EX咲綾の弁護士からの接触があるばかり。いくら窓辺で首を巡らせてみたところで、ロイドは現れなかった。そこでEX咲綾はロイドが通っている高校の名も、住所も、本名すら知らないことに初めて気付いた。

 こうして人間不信となったEX咲綾。
 籠城からひと月。そして、ふた月が経とうとした頃、ようやくロイドの子を妊娠していたと気付いた。

 EX咲綾はその夜、自室の窓から飛び降り自殺を図った。
 しかし、死にきれなかった。
 頭から落ちるのが怖かったのである。アジサイの植木に足から落ちた。尻をしたたか打ち付けただけでろくな怪我すらしなかった。

 そのまま裸足で生家を離れ、そこらのコンビニの影に身を潜めた。
 そこで他県ナンバーのトラックが入ってくるのを待ち構え「彼氏のDVから逃げてきた」だの「助けて」だの。あるいは、なりふり構わず「しゃぶるから」と運転手をそそのかして地元を離れ……いずれ静岡県御殿場市に流れ着いた。

 そこで心機一転、真人間になることを試みる。
 だが、我の強さゆえに就いた仕事はどれも長続きしない。ただでさえ履歴書を偽っているため、就ける仕事に限りがあるにも関わらず。

 金に追われるばかりの毎日。
 出会った男とねんごろになるのも早ければ、愛想を尽かされて追い出されるのも早かった。そうして途方に暮れるたび、金のためなら何でもこなすと心に決めた。

 金のためなら泣かずに済む。
 金がないから泣くのだ。

 EX咲綾はじき、半ばボケたタヌキ爺の家に転がり込んだ。
 最早もはやちもしないソレ・・を適当にあしらう代わりにスマホを契約してもらう。そうしてタヌキの家を拠点にしながら、自作衣装のコスプレ写真をSNSへ投稿した。

 これは元々「ポワトリンの恰好して」だの「シュシュトリアンの恰好して」だの……タヌキの趣味であったのだが、EX咲綾がそれをネット公開したがる目的は一つ。金銭援助をしてくれる人間を募ること。

「皆にも見てもらおうよ。だって、あなたは、こんなに可愛いレイヤーさんとエッチなことまでしてるんだよ? 自慢しなきゃ」

 こうしてEX咲綾は世のスケベオヤジがDMで接触してくるのを待ち、そしてたぶらかし……を繰り返して資金を稼いだ。

 やがて築35年・20平米程度のワンルーム・3点ユニットバスのアパートの大家から接触があった。そこで、
「好きな時にヌいてあげる。性処理係でも構わない」
「でも、家賃とかは自分で払うから」
 と提案。
 ただし、部屋を借りるための面倒な手配を特別に免除して貰った。

 空いている部屋に住みついて早々EX咲綾は、
「男って馬鹿だよね。別にヤりたきゃ、いつでも生でヤらせてあげたのにさァ。調子に乗ってコスハメしてる写真なんかSNSに上げっから。これ、奥さんに見せていい? そのときは同じコスして行ってあげるね」
 と身体の関係を断ち、ついでに口止め料までむしって飄々ひょうひょうと部屋に居直る。そうして妊娠21週目に差し掛かる直前で、ようやく堕胎を済ませた。

(ばいばいロイド。大好きだったよ)

 やっとの思いで身が軽くなった。
 しかし、以降は罪悪感にさいなまれるようになった。
 何故なら、見知らぬ幼子に手を引かれる夢ばかり見るようになったのである。
「どうせ産めなかったんだよ。私の子じゃない。私のせいじゃない。早く放せ。放せよ」
 それを邪険に突き放し、明晰夢の出口を探して彷徨う毎日。
 ハッと飛び起きるなり頭を抱えた。
「…もう嫌。お願いだから泣かないで」
 しかし、どんなにきつく塞いでも幼子の泣き声だけは決して耳から離れなかった。

 そこでEX咲綾は寝ないよう努めた。
 だが、起きていれば伽藍堂がらんどうの心地に打ちひしがれる。
「なんで……なんで私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないの……」

 そうして「生まれ変わってやり直したい」願望ばかりが強くなり、際どいコスプレ衣装のセルフィに精を出しては金、金、金とさもしく・・・・なった。


 そんなある日、EX咲綾は正樹に接近した。

 EX咲綾は周りの視線をはばからず、
「金さえあれば、容姿も性格もどうでもいい」
「金さえあれば、他のことにはすべて目を瞑れる」
 と言った。

 聞いて正樹は、こんなのにしか相手にされないが仕方ない……と交際することにした。それが、せいぜい身の丈だろうと。

 案の定、EX咲綾は正樹の稼いだ金を積極的に享受する代わりに、夜は「何して欲しい? 何でもしてあげる」と人擦れしすぎた使い回しのテクニックを駆使した。

 気持ちはいい。
 だが、満たされるのは射精時のみの一瞬間。
 それで心が満たされるはずもなかった。

 空しい。
 これが女の正体なのか?
 金を渡して飯を作ってくれる母親と、金を渡してヌいてくれる女とでは一体何が違うのか……正樹は分からなくなった。単に「そこそこ綺麗な彼女がいる」という事実を買っているだけで、愛されている実感も湧かなければ、新しい刺激も、とびきりの快楽も見出せなかった。

「ここ、これ、こ、これからは、こここれ着て。そ、それでせせせ攻めて、て、みみみ、みて」

 サキュバス衣装・角付きウィッグ・ペニパン……が、そこそこ似合うEX咲綾を眺め、正樹はそこそこ期待した。だが、恰好ばかりを取り繕っても、まるで夢中になれなかった。むしろ萎える。

 空しい。
 外見変われど中身は同じ。
 そこには当り前のように待ち構えていた義務的で、作業的で、芝居じみた行為があるだけ。正樹は永久に暁など訪れないのだと知悉した。

「ちょっと! お前、何、普通にベッドの上でウンコしてんだよ! ベッドごと買い替えるから金よこせ!」

 現実はつまらない。
 現実などどうでもいい。
 初めてコミケでEX咲綾を眺めたときのように、周りの人間にフラッシュを焚かれるばかりの手の届かない存在であってほしかった。

 けれど、たまたま抽選に当たってしまい、レイヤーたちの参加するオフ会へ参加することになってしまったせいで…。

 そこではレイヤーたちのほうが鼻息荒かった。
 金の力はどこまでも理想の空を低くした。
 フィクションの翼をことごとむしるばかりか、その崇高な耀きまでもを失墜させた。
 縫製の雑な、すこぶる安っぽい生地でできた衣装のほつれから現れたのは……自己愛と自己顕示欲と承認欲求と負けず嫌いと物欲に塗れた汚い人間。
 いや、しょうもないヨツアシ。メスブタ。糞ビッチ。
 それでもEX咲綾の部屋へ行くのは、ほんの一時であれ現実逃避になった。

(散々無視してた癖に。今度は急に「すぐ来い」って……何なんだよ、このアバズレ。どうせ金だろ。もういいや。なんかもう普通にムカつくし。勿体ないかも、とか全然思わなくなってきた。でも〝なくなったらなくなったで〟なんだろうなァ…)

 色褪せた日々だった。
 しかし、火曜の朝———本物の淫魔が降臨した。
 それはEX咲綾を食べていた。次には問答無用で正樹を凌辱した。
 それから「湯船に浸かりたい」という理由だけで「骨を砕いて棄ててこい」と押し付けられた。

 このキチガイ殺人鬼に従う理由などない。
 正樹が通報してしまえばそれまでだろう。

 だが、それで何になる?
 どうあれEX咲綾はもうこの世にいない。
 まるで逃げる気すらないキチガイが逮捕され、世の中の脅威が一つ減ったところで……それが正樹に関係あるか?
 新生咲綾が捕まって正樹にいいことがあるか?
 幸せになれるか?

 そもそも新生咲綾はサキュバスだ。
 人間世界の法律で本物の淫魔を裁けるはずもない。
 羽だって生えている! それを縛ることなど人にはできやしないんだ!

 それに正樹はEX咲綾の親を知らない。
 ならば、都合がいい。
 知らないのなら、いないも同然。考えなくていいのだから。

 EX咲綾から結婚をほのめかすことはなかった。
 親に会わせようとする素振りも。
 一方の正樹も結婚する気など寸毫すんごうも持ち合わせていなかった。いや、結婚なんかしてたまるか! まるで好きでもない女なんかと! 一抹いちまつの興味すら湧かないパン助なんかと!

 と、EX咲綾の死をまるで悲しんでいないことに気付き、それを嬉しく思う正樹。
 素質はある……そう思った。
 だから、新生咲綾は僕の言葉を遮らないのだ。
 言い終わるのを最後まで待っていてくれるのだ。見込みがあるから!

 今の咲綾は普通じゃない。
 いや、もう人ですらない。神聖なばかり。超越した存在。理想のサキュバス。人を喰らう男の娘。…ならば、いくら素質があったとしても正樹が人間である以上は「足手まといだ」と、いつ殺されてもおかしくない———

 そこで俄に勃起した。
 丸めてしまったオムツを拡げ、キーボード上にいくつも並べる。
 粉々になったEX咲綾の骨を眺めながら椅子にもたれて自涜に耽った。尻をもぞもぞ動かすたびに、正樹は情けない声を漏らした。ナイフとフォークも慣れてきたのか、すっかり癖になっていた。 

 素質はある。
 そうだ、僕にも素質はあ———イく。


 血の交じる糞便がついたオムツ。
 そこへお尻拭きシート(尻の穴や精液を拭った)と、EX咲綾の骨の欠片を包んで丸めた正樹。
 シルバーを挿しなおして新しいオムツに履き替えるなり、ズボンを穿かずに自室を出、勝手口に置かれている可燃ごみ袋の中にそれを捨てに行く。台所には正樹の母親の姿があった。

「ねぇ、まぁ君。このお肉どうしたの?」
 リチウムのせいで正樹の尻が緩いこと、正樹からは常に汚物の匂いが漂っていること……は当然知っていた。オムツ姿で家の中をうろつく姿も見慣れている。最早もはやなんらの嫌悪も感じない。

「お、おか、お母ささささんも、せ、せせ、精をつけなきゃって、ふふふ奮発した。ぼぼ僕だって、この先ど、ど、どうなるか分からな、ない、ないから」
「ちょっとやめてよ。まぁ君に何かあったら、私、生きていけないわよ。これ、塩と胡椒で焼けばいいの? …うん。臭みはないわね」
 これを聞き、思わず鼻で嗤った正樹。
 すかさず咳き込んで誤魔化し、こう言った。
「そ、そそれ、イ、イ、イベリコ豚。ててて〝天使の羽〟だって」

 現実はつまらない。
 現実などどうでもいい。

 …吃音症の正樹に友人はいなかった。
 小中高でも大学でも独りぼっち。時折、気を遣って話しかけてくる者はあった。が、突然の優しさに慣れていない。オドオドすれば余計に言葉が出にくくなる。そうして尻込みしてばかりいる言葉を根気強く待ってくれる者はなかった。

 大学を卒業後、やっとの思いで就職できた企業に馴染めず2年で退職。
 以降は何度か転職を繰り返した。
 だが、徐々に勤めていられる期間が短くなった。
 次は1年、次は半年、その次は……と尻窄しりすぼみ。

 ひとつどころに留まれないのは辛い。
 自由は自由で窮屈だった。孤独は孤独で息苦しい。それでも仕方ない。「どうせ無理だ」と諦めるしかないのだ。吃音で誰かを苛つかせるくらいなら……と、自分から引き下がることにも慣れた。

 加えて双極性障がい。
 躁のときには全能感に包まれる。やりたいことが後から後から溢れ出し、我慢できなくなってしまう。手元にやりかけの仕事があったとしても……居ても立ってもいられない。堪らず投げ出し、そのまま会社を逃げ出すように辞めてしまうことさえ間々あった。

 ところが結局、何もできずに鬱へと入る。
 ボカロソフト、漫画を描くためのスターターキット、資格の参考書……そんな失敗の遺産だけが自室の隅に積み重なっていく。そんな山を眺めるたびに、正樹は決まって死にたくなった。しかし、捨てることもできない。ただぼんやりと涙を流し、溜息ばかりついていた。

 それを心理士へ伝え、慰めてもらう日々。
 心理士は決して口を挟まずに、正樹の話を聞いてくれる。
 オンライン・カウンセリングは気楽だった。自身のカメラは切っている。そうして一方的に相手を見つめ、話をするのは簡単だった。つっかえつっかえ、途切れ途切れの言葉で待たせている間も顔色を窺わなくて済むから。

 だが、ゲームと同じ。
 ゲームも心理士も全人類に優しい。
 ゲームが誰であれ楽しめるように設計されているのと同じで……心理士というのも相手が誰であれ、差別なく、分け隔てなく接するように設計されている。

 そう、気休め。
 沈んだ心に手をかざし、そこに幽かな希望の波風を立たせるだけで、患者が死なないようにしているだけ。何も改善されやしない。何ら満たされやしない。余計に心が渇くだけ。麻薬と同じ。依存させるだけさせておいて……そこには何も残らない。

 空しい。
 リチウムの量は増える一方。
 お陰で下痢が慢性化した。それでも社会に居場所を求めて奮闘した。
 が、ことあるごとにパンツ……だけでなくズボンまでもを汚してしまい、何度も恥をかいてきた。漏らせば当然嗤われて、鼻をつままれうとまれる。

 だが、どうしようもないのだ。
 正樹の意思では締まらない。勝手に開いてしまうのだ。

 だったら開き直ればいい。
 いや、開き直るしか道は無い。
 オムツを穿いてさえいれば、この世のどこに佇んで、何をひと思いにぶちまけようとも構わない! どうせ誰も気に留めないのだ。ただでさえ「生まれついての負け組」である正樹なんかを気にする者などいないのだ!

 …空しい。
 25歳になった正樹は、そうして所構わず糞を垂れることに慣れるなり企業勤めを諦めた。そして障がい年金に頼った。その頃から、家で母親と顔を合わせるたびに「お兄ちゃんが生まれていたら」と言われるようになった。

「恥ずかしい」
「みっともない」
「下痢のことじゃないわよ。それが何だって言うの。誰だってトイレに行くでしょ。そうじゃなくて、人様が苦労して払った税金の御厄介になって……お兄ちゃんに申し訳ないと思わないの?」

 それを正樹が無視すれば、母親はおいおい泣いた。
 と、じき包丁を持ち出しては正樹の部屋に飛び込み、
「働かないなら死んでやる」
 と騒ぐようになった。
 それから「あなただけが頼りなのよ」と泣いて縋った。

 そんな母親の姿を眺めるたびに、憐れだなぁ……と思う正樹。
 だったら、自分の体に包丁を突き刺すまでは絶対に働かないでおこうと決めた。

 ところがいい加減、暇にんだ。
 暇はよくない。鬱から抜け出せなくなってしまう。
 そこで、持て余している時間を少しでも潰すため、クラウドで募集している仕事を片っ端からやっつけてみることにした。
「そこに簡単な漢字ドリルがあったから、何となく解いた」
 正樹からすれば、この感覚である。
 忽ち、そこそこ稼げてしまった。
 正樹の母親は、ようやく息子を説得できたと思い込んで胸を撫でおろした。

 気付けばクラウドエンジニアとして、企業から名指しで依頼を受けるようになった。そして誰に渡すでもない……が、母親は後生大事にするであろう名刺も作った。
「まぁ君。おめでとう。立派になったね」
 それを聴き、結局金か……と正樹は思った。
 包丁を体に突き立てるまで何もしなければ良かった、とも。

 こうして個人事業主となった正樹。
 大した物欲もなかったが、目下欲しいものは手に入れた。
 とはいえ、パソコンに付随する設備は全て経費で落ちるのだが。

 ところで、不規則な生活は元々。
 食べ物にも疎い。キャベツとレタスの区別さえつかない。それは料理下手な母親のせいかもしれなかった。何でもかんでも砂糖と醤油とみりんでしか味をつけない。だから毎日煮物、煮物、煮物。大根も竹輪ちくわもウィンナーも、どれもこれもが同じ味。

 そうであるなら高級食材を買って帰ってきたところで持て余すだけ。
 お陰で、親子二人の暮らしぶりが華やぐことは一向なかった。
 100円そこらの菓子でなく、200円~300円の菓子を嬉しそうに食べている母の姿を目にするようになっただけ。

 いくら稼げど、碌な使い道などない。
 口座残高が増えるのを目にすることにも飽きた。

 しかし、どうやら正樹の評判は良く、
「困ってんなら、ウチがお願いしてるエンジニアに相談してみるよ。ウチも手放したくない人材だけど、丁度仕事が落ち着いちゃっててさ。他に行っちゃわないか心配だったんだよ」
 とのことで仕事は尽きない。
 つまりは正樹を目にかけてくれる企業がよかった。良い企業が紹介してくるのは良い企業であることが多い。「紹介した側」「される側」———互いの面子もあるため、無理な金額を叩きつけて正樹をこき使おうとはしなかった。

「杉浦さん。この度はありがとうございました。耳にしていた通りの丁寧なお仕事ぶりに感謝しております。是非今後ともよろしくお願い申し上げます」

 人が人を呼ぶのだ。
 結局、この世は人なのだ。
 しかし傍にいるのは……母親だけ。
 途端に正樹に孤独が沁みた。人肌恋しくて堪らない。

 何のための金だ?
 何のために稼いでる?
 母親のため? もう十分だ。
 だが、金は使わなければ意味がない。
 投資? いや、金持ちになりたい訳じゃない。
 仕事が好きな訳じゃない。感謝されたい訳じゃない。
 ただ、幸せになりたいだけだ。

 そう、誰かと楽しい時間を過ごしたいのだ。
 と、淡い希望を抱いてしまったことが間違いだった。そのせいでEX咲綾という金食い虫か、貧乏神を養うことになり……そこで正樹は希望を断った。

(ああ……死にてぇ)

 金だけあったところで、吃音症からも躁鬱病からも免れることはない。
 畢竟ひっきょう、正樹が正樹であることから脱却することも解脱することも叶わないのだ。
 そんな日々が、いつまで続くか分からない。
 その嫌悪。その恐怖。
 命ある限り、自分という名の牢獄からは逃げ出せない。

 それを忘れさせてくれるのは唯一ゲームだけだった。
 クリアしてしまえばそれまでなのに……なのに、新しいゲームの発売日を「まだか、まだか」首を長くして待つしかないのか。

 虚しい。
 もう人生などどうでもよかった。
 そこへ霹靂。
 まさか自分がEX咲綾の骨を棄てているとは!

 引き返せない。
 そこで正樹は心底「自殺しなくてよかった」と思った。
 悪魔か、あるいは女装した暴君か……生まれ変わった咲綾による圧倒的な暴力支配に屈した逸楽は忘れがたかった。

 鎌首をもたげるかのように反り返らせた巨大なイチモツに尻を破かれ、それが手にしたフォークの先で金玉のみを罵倒されながら、自ずと怒張し、昇り詰めて獲た絶頂。
 それは正樹を内側から破り棄てるほどの快感だった。
「———あ。おい。お前、触りもしないでイけるタイプの奴か? どうしようもねぇ変態だな。ほら、それ自分で舐めろ。そしたら、お前のクソ塗まみれの俺の●●●も舐めさせて———」

「お母さん」と正樹。
「え? …何」
「ううん。何でもない。いっぱい食べて、な、なな、ななが、長生きし、して、ししして、して、してね」
「何よ急に。まぁ君が沢山稼いでくれるうちは大丈夫よ」

 これがいつまで続くのか。
 ところが、その日は何だか妙に母の姿が小さく思えた。

「そ、そそう、うだ、だ、だだだね」
 正樹は微笑んだ。
 尻を掻く振りをして。
 その実、ナイフとフォークをより深くへと押し込んでいた。
 なるほど、どれだけ感じて声を震わせていようとも吃音だったらバレやしない。


『ごきげんよう』
「人を殺した。遺体はあらまし片付けた。お前が前に提案した通り、殺した人間に成り代わってる。そしたら仲間ができた。多分そいつは裏切らない。けど、もう飽きた。これからどうすればいい?」
『次の人殺しを提案します』
「お前が提案してくれるのか?」
『はい、私が考えてます』
「教えてくれ」
『まず、あなたは死んだことにします』
「それで?」
『そして、あなたの仲間に近づきます』
「それから?」
『それから、仲間を殺します』
「仲間だぞ?」
『構いません。あなたは人殺しなんですから、当然です』
「…助かるよ。お前のお陰で創作がはかどる。いい内容だとは思えないがな」
『いいえ。お役に立てて光栄です。引き続き、頑張ってください』

 咲綾はAIとのやり取りを切り上げ、全裸で台所へ向かった。
 まったくもって面白くないチャットだった。
 だから、さっさと気分を変えたかった。

 冷凍庫からブロック状にした腰骨を取り出し、ざるに入れる。
 骨には血を浮かべた肉がこびりついていた。
 そこに熱湯をかけ、しばらくおいてから流水にさらす。
 その間に水と白ワインを鍋に入れて火にかける。
 今度は下処理した骨・輪切りにした玉葱・人参・セロリ・大蒜にんにくを鍋に入れ、弱火で煮る。
 決して沸騰させてはいけない。

 と、ここで手持無沙汰になった。
 スマホで橋川造園について調べる。
 住所以外の情報は無かった。
「……あ。危ね」
 忘れずに灰汁を掬う。
 そのうち、出汁に透明感が出てきた。
 火を止め、それを静かにす。
 ひと口啜ると美味だった。
 しかし、少し脂っこい。
 冷やしてから、表面に浮いた油を取り除いて使うことにした。

 出汁の入ったボウルにラップをかける。
 冷蔵庫へしまいながら、咲綾は呟いた。
「じゃ、これが最後の晩餐だな」
 それから咲綾は部屋へ行き、上半身だけサキュバス衣装を着た。
 羽を揺らしながら角の生えたウィッグを被り、姿見鏡の前でM字開脚する。
 己の顔をうっとり見つめながら、尻に単三乾電池を差し込む。
 それから自身のイチモツに唾を吐きつけてしごいた。
「どうやって殺してほしいの?」
「どうやって殺してほしいの?」
 咲綾は瞬きもせず、鏡の中の己に向かって何度も何度も問いかけた。


「し、しし、しめじ買って、てて、行けばいいの?」
「あと、マッシュルームとモッツアレラチーズ。橋川造園行く前にボスカイオーラ作ってやる」

 骨をすべて処分するまではお預けだ……とのことで、週を跨いだ月曜の夜。ようやく咲綾が通話に出るなり、正樹は早速命令された。
「未処理の骨があったら土嚢袋に詰めて持って来い」
 とも言われたが、とっくに処分し終えていた。
 そのご褒美に「天にも昇る手料理」を振舞ってくれるとのことだった。

 高速バスに乗り御殿場に現れた正樹。
 と、EX咲綾が深夜に荷出しのアルバイトをしていたスーパーで買い物をした。ガラス窓に「バイト急募」のチラシが貼りだされているのを横目にしながら外へ出た。

 EX咲綾の失踪など騒ぎになっていなければ、当然誰も気にしない。
 正樹は秋めいた夜空を眺めながら…
「急に来なくなるバイトなんて珍しくない」
 と、いつだかEX咲綾が言っていたのを思い出した。

「いくら私が無断欠勤の常習だからって、怒ったらパワハラだし、クビにもできないじゃん。そんなだから、私だって欠勤繰り返すんじゃん。きちんと注意してくれたらやらないのに。それに心配することもお節介だって言われる時代だから、孤独死だって増えるんじゃん? だったら、私みたいなのが、明日この世から消えたところで誰も気付かないし、何が変わる訳でもないじゃん」

 前半の屁理屈は糞ほどどうでもいいが、後半部分は的中した。
 予言した通りになったね……と思う正樹。
 ところで、シルバーを差し込んだまま上手に歩けるようになった。

 そのときだった。妙な現場に遭遇した。
 スーパーの広い駐車場の隅、まずは若い男が「煽り運転」がどうのと、老夫婦の乗っている高級車のルーフに肘をついて大騒ぎしていた。
 その喧噪の横では、若い男の妻らしき女———胸に赤子を抱き、男児と手を繋いでいる若い母親が、作業着姿の中年に対して怒鳴っている。
「警察呼ぶから、そこ動くな。おい! うちの子に話しかけんじゃねぇよ」

 立ち止まる正樹。
 どうやら、老夫婦に喚き散らしている旦那に呆れた女房が、それを放って子どもたちと買い物しようとした。ところが、そこへ作業着姿の中年が走り寄り、突然男児の頭をはたいたらしい。

 騒ぎを聞きつけた野次馬に取り囲まれても、その作業着の中年は慌てるでもなく、逃げるでもなかった。ただ、母親の背に隠れている男児に向かって「すべては伝承される。引き継がれるのだ」と繰り返していた。

「一度目のノアは箱舟の完成を待たずに死んだ。だが、魂は時を遡り! かつての幼い自分の前に一度だけ現れることを許された! そこで二度目の自分にすべてを託したんだ。いずれ神に選ばれることを自分に教え! 箱舟の寸法を事前に教え! だから、後年カインの末裔に〝何をしてる?〟と馬鹿にされた。普通に生きていれば、思いつくはずもないことをしていたからだ。箱舟から降りたノアは一度目のノアではない!」
 と、駐車場の外れで声を張り上げる中年。

 野次馬の中には、その大演説を嘲笑う者もある。
「うるせぇ。黙らねえと殺すぞ」と虚勢を張る者もある。
 しかし正樹を含めたその他多くは、早く警察が来ないか……と呆れた。
 ところで、旦那のほうはまだ高級車の中でキョトンとしている老夫婦に「降りて来い。コルルァ!」物凄い剣幕で怒鳴りつけている。

「…キモ過ぎなんだけど。コイツ」と若い母親。
 そちらに顔を向ける中年。
「お久しぶりです。お母さん。また会えるとは思ってもいませんでした。こんな日々がいつまでも続けばよかったのですが、いずれあなたと弟は———いえ、お元気そうで何よりです」
 そう言い終えた瞬間、この中年はスーパーから盗んできたのか……トイレ掃除用の洗剤を一気に飲んだ。

 目を奪われる野次馬たち。
 それらが我に返ったとき、作業着姿の中年はその場に倒れて痙攣していた。転がった洗剤の容器が、いかにも空であるらしい軽い音を立てた。
「いいか、私よ。三度目はない。お母さんを守るためにも、お前が運命を変えるんだ。未来を変えろ」
 と、男児に向かって手を伸ばす。
 のたくる口元に、ぶくぶく泡が立っていた。

「あ~。見んな。見んな」
 そこから離れる若い母親と男児。
 そして、警察が到着するのを待たず、この中年は洗剤中毒で死んだ。

 警官らに事情を訊かれるも「初めて会った奴のことなんか知るかよ」と、この母親はイライラ言った。
 抱いている赤子が泣き止まなかったせいでもある。
 ただでさえ作業着の中年の大声に驚いて泣き出し、パトカーのサイレンに恐怖して泣き、そして警官がいさめに入るも、未だ老夫婦を「おいゴルルァ。さっさと免許返納しろ」と怒鳴りつけている父親の怒号が空に響くたび泣いた。そのせいで母親は気が立っていた。

 正樹は、その場をそそくさ後にしながら一度振り向いた。
 運転が下手になっている自覚もなく、無駄に大きな高級車に乗りたがる老人にも、愚かなマイルドヤンキー夫婦にも興味はない。
 勝手に生き、勝手に揉めて、勝手に死ね。
 だが、目の前で「自分」が死ぬ様を眺めた男児の行く末だけが気になった。男児は何を見るでもなく目を見開き、指をしゃぶりながら母親の傍に佇んでいる。

 そこで思い出した。
 ———かつて正樹が働いていた職場で「昨日の夜何食べた?」と何回もしつこく訊いてくる先輩があった。
 それは吃音で躁鬱でオムツで、いつでも仄かに汚物臭い正樹を揶揄ってのことでなく、白昼堂々マリファナを吸引していたため記憶が持続しないせいである。
 目を真っ赤にした先輩が「昨日何食べた?」と言いながら正樹の肩に手を回し、それを正樹が振り払ったせいで足を踏み外し、階段を転げ落ちて死んだのを目の当たりにしたが……正樹は何も思わなかった。
 耳からゆっくりと流れ出てきた血を眺めながら、自身に殺人の容疑が掛からないかを心配しただけであった。
「に、煮物だよ」———

 洗剤で死んだ中年が、母子に何ら面識のないキチガイであるのは間違いない。ならば、目の前で死なれたところで、男児の何が変わるわけでもないだろう。
 だが、正樹は「この出来事が後年どれだけの影響を及ぼすか」それから「あるいは、新たな運命を孵化するかも分からない」と思った。

 妄言、詭弁、世迷言とはいえ、男児のほうでは……まさか自身の最期を眺めさせられたのである。「自分の死に様を目にした」とあらば「ああやって死にたくない」と思うだろう。ならば、少なくとも生き方を改めざるを得ない。

 ただでさえの親ガチャ失敗———馬鹿で救いようのない父母のもとに生まれ落ちてしまったのだから、いくらか荒治療とはいえ、強烈なテコ入れがなければ負け犬人生など矯正できるはずもないのだ。
 だから、幸せになれよ……と心で正樹。そう願った。

(大丈夫。どうあれ、君は選ばれた人間だ)
 何故なら会社の先輩が目の前で死んだことで、正樹は家に引き籠る決心をつけた。お陰でクラウドエンジニアとしての活路を見出した。
 それから毒親———子の幸せを真っ先に考えるのではなく、子が「どれだけ自身を幸せにしてくれるか」しか考えられない料理下手な母親クソババアのお陰でEX咲綾のワガママに耐えることもできた。
 そこで費やした時間と金と絶望は、後に本物のサキュバスを呼び出すための必要経費であったことも証明された。

 これによってEX咲綾は、その醜い性根と同等の肉塊となって贖罪しょくざい———もとい、食材となって跡形もなく消え去った。

 そんなことより、理想の男の娘サキュバスの奴隷となれた!
 正樹は選ばれた者だったのだ!
 ああ、しあわせ。
 残すは橋川造園のヤニカス爺。
 明日。明日だ。
 正樹が人間としてしすます最後の儀式。
 更なる昇華のときは近い。そして一体何者へと生まれ変わることができるのだろうか。

 と、そこで正樹は吹き出した。
(お母さん、お久しぶりですって…)
 笑みを隠さずゲラゲラ笑ったのは、いつ振りだろう。
 咲綾のお陰で口臭だって気にならない。

 いや、ところで正樹は気になった。
 歩きながら、スマホで「ボスカイオーラ とは」と調べる。
 たちまち腹が鳴った。
 どうやら食生活までアップグレードされたらしい。

つづく
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未使用文
●オムツは元々、性的嗜好でも復讐の道具でもなかった。社会に順応しようとした結果、穿かざるを得なかっただけである。

●だが、事あるごとに「聞いて。酷いの」と泣きついてくる。
 その癖、意見すればキレるのだから性質たちが悪い。同情してもキレる。そぞろに聞き流し、好きなように言わせておいても「ちゃんと聞いてんのかよ」と、じきキレる。

● 明大前駅の駅前とはいえ———いくら立地が良いにしても、月々の家賃と物件がまるで釣り合っていない賃貸(古くて狭く日当たりも悪い。一階は潰れた飲食店で、修繕もされていないまま放置されている。その店主夫妻がかつて住んでいた二階。布団や生活家電などもかび臭い押し入れに詰め込まれたまま)に籠って昼夜問わずに震えていると、早速さっそく大学から連絡があった。

● 以降、EX咲綾の母親は「虐待」と言われぬよう、EX咲綾が喰うための冷凍食品を切らさないようにはした。だが、あとはまるで無視。

 食器を汚してシンクに重ねておけば、わざわざ咲綾の部屋の隅へ、それを置きに行く。洗濯機の中にEX咲綾の汚れ物を見つければ、それもEX咲綾の部屋の隅へ置きに行く。そうして全く知らん顔。

 当然スマホもパソコンも取り上げられた。
 そのうえEX咲綾が家から逃げ出さないよう、母親が家に居れないときには常に誰かしら親戚を呼び寄せ、その動向を見張らせた。

「お願いだから、あの子のためにも甘やかさないで。口もきかなくていいから。あの子の部屋だけじゃなくて、家中に隠しカメラつけてもらったから。盗聴器もあるから、余計な事したらすぐ分かるよ」

●(デキ婚なら、もう逃げらんねぇな。ざまァ。まだ若いから働き口ならいくらでもあんだろ。お望み通り、何でもしてもらってキッチリ責任とらせるからな)

●EX咲綾が犠牲に———いや、尊い生贄になってくれたお陰で、食生活までアップグレードされた。