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3(終)


 それがEX咲綾のどこの部位かは分からない。
 だが、肉を巻いたしめじ———ボスカイオーラは美味だった。

「あの部屋絶対ダニいんだろ。絶対背中赤くなってるよ。だっていィもん。クソ。てか、写真見たけど絶対あんな女知らねぇ。咲綾って誰だよ」

 助手席でブツブツ言いながら背を搔く咲綾。
 角付きウィッグに羽つきサキュバス衣装、タータンチェックのミニスカートを巻き、ヒョウ柄ブーティを履いている姿も見慣れた。

「あ、そうだ正樹、これどうだ? この格好に合うと思って、こないだポチっといた。お前意外にうるせぇもんな」

 その夜の咲綾は、そこにフリル付きレースグローブ(手袋)をはめていた。
 よく似合っていた。
 相変わらず、今の咲綾は美しい……と運転席の正樹は目を細める。
 それからナイフとフォークをより深くへと差し込むために座り直した。

 月曜23時、咲綾と正樹は御殿場にあるEX咲綾のアパートを出発。
 二人を乗せた黒いセダンはやがて東名高速道路をまたぎ、山道沿いに広がる茶畑のなわてに侵入。そこで降車。しばらく佇み、闇に目が慣れるのを待った。こうして地名でいうなら小山町おやまちょうに到着したのは23時半。

「ンじゃ、ブチ殺すか」
 後部座席からチップソー草刈り機を手に咲綾。
 それを肩に掛け、EX咲綾のスマホをライト代わりにして歩き出す。
 正樹は草刈り機のエンジン燃料であるガソリン携行缶を手に後を追う。

 ところで、それらは咲綾が事前に準備していたものでない。
 道中でタヌキ爺———これが「まだ青い惑星にいるの?」「今もアンダーワールドで永遠の一日を繰り返してるの?」「もう変身しにきてくれないの?」などと未だしつこく連絡してきていた。それを適宜てきぎあしらい続けるEX咲綾にならい、EX咲綾がどこか遠くへ旅立って以降も咲綾がなりすまして返信していた———の家へ寄った。

 そこでタヌキが(EX咲綾の遺品となったことも知らずに)コスプレ衣装に囲まれて寝ているのを窓から確認した。
「ふっ。コイツさァ…月の光に導かれたらまた巡り合うから、カーテンは開けといて。ごめんね。素直じゃなくて…ってメッセ信じてやんの。いい歳こいてアホ丸出しだな」
「く、くく、糞ビッチ」
 ここまで金に見境のない女だった……と初めて知った正樹。呆れた。いや、心のどこかでは、そのがめつさに安堵していた。お陰でEX咲綾は淫魔に目をつけられたのだ! 死んで然るべき。新生咲綾が受肉するための生贄に捧げて然るべきだ、と。 

 正樹がタヌキを見張るなか、咲綾は堂々と物置を漁り、
「いいのあった」
 とチップソー草刈り機やらを持ち出してきた。
「そ、そ、そそ、それが、ほ、ほほほ欲しか、か、かったの?」
「いや。でも、木を隠すなら森の中だろ?」
 これを聞き、イカレているが馬鹿じゃない……と改める正樹。
 そんなことより「白手袋と草刈り機」に興奮した。
 萌える。「セーラー服と機関銃」を遥かにしのぐ、この斬新なサキュバス姿!
 期待に胸が張り裂けそうだった。
 まさか、マゾ心をここまでくすぐる姿と———
「でも、お前の軍手なかったから。てか、もう素手でべたべた触ってるからせぇか。ま、そのほうがスリルあっていいだろ」

 さて、咲綾が3Dマップで調べた通り、橋川造園(つまりは橋川の家)周辺に人家はなかった。ヒノキやスギや……背の高い雑木林と茶畑が広がっているだけである。

 お陰で道に灯は乏しい……のではなく、まるでない。
 顎を上げ、それを探していた正樹は内心ホッとした。
 今の世の中、そこらの電柱に監視カメラが設置されている。角付きウィッグ・サキュバス衣装・白手袋の咲綾と違い、普段着のままの正樹は怯えていた。

 それは拭いきれない。
 勝手に階段から転がり落ちて死んだ先輩を眺めるのとは訳が違う。
 既に骨となったEX咲綾を砕いて棄てるのとは訳が違う。
 この手でヤニカスの命を奪うのだ。正樹の意思、正樹の覚悟、正樹の決断で殺すのだ。別に大した理由もなく。

 命乞いして泣くかもしれない。
 血が出て、この手に垂れるかもしれない。
 だが、もの凄い剣幕でまくしたてられたり、唾を吐きつけられたり、噛みつかれたり、殴られたり蹴られたり……すれば怒るだろう。

 いや、マゾだ。
 別にそんなの屁でもない。
 勃起することはあっても殺意が湧くとは到底思えない。
(…何をビビってる)
 そんな性根を即座に恥じる正樹。
 いや、ある。
 理由がある。
 たった一つ、しかし最も大きな理由が。
 しあわせになる。
 そのために、咲綾が自らの足元を照らしているスマホの灯を見つめ、ただまっすぐに追っているのだ。

 そう、別に指紋やカメラなどどうでもいいのだ。
「今日までの正樹」はじきいなくなる。
 生まれ変わるのだ。
 咲綾同様、まだ見ぬ姿に孵化するのだ。

 それにはリスクを冒さねばならない。監視しなければ成立しない「平和」という名の仮初かりそめのエデンなどに未練はない。居場所などなかっただろ! 未来などない。幸せなど見えなかった。

 ただジメジメと暗いばかり。そこで黴のように生きては疎まれ、邪険にされても死にきれず……もう懲り懲りだ! ならば、自らの手で地獄門をこじ開け、人であることすらやめてやる。
 それもこれも咲綾の傍にあるために!
 咲綾に認められ、咲綾とともに遥かな高みへ飛び立つために!  

 そこで正樹は数歩先往く咲綾……その背で揺れている羽に向かって手を伸ばした。
(もう少し)
 それにしても暗かった。
 再び空を見上げる。
 そびえる木立のに覗く、細い夜空は薄曇りだった。下弦かげんおぼろにその背で微睡まどろみ、星を探せど見当たらない。

 御殿場・小山辺りはもっぱら湿度の高い土地柄で、冬季以外はきりやらもややら……やたらと肌にまつわりついて昼夜を問わず不快であるが、その夜は随分ずいぶん澄んでいた。
 静けさまでもが冴え渡り、時折、東名高速道路を駆ける大型トラックのエンジン音が虫の音を押し退けて轟くばかり。

「ひと足早い焚火日和だな」
 と、立ち止まっている咲綾。
 空を眺めて呆けていた正樹の足もとを照らしながら続ける。
「前見て歩かねぇと転ぶぞ」

 アスファルト舗装されてはいるが、それも昔のことらしく道はえぐれて穴ボコだらけ。
 そして何より狭かった。初めは橋川邸の真ん前に車を乗り付けるつもりであった咲綾も諦めざるを得ないほど。もし向かいから車が来れば擦れ違えない。横着おうちゃくのせいで退路をせばめるのは避けたかった。また、そんな時ほど間が悪く、パトカーが巡回したりするものだ。

 だが、EX咲綾の部屋の中でさんざ練習していた甲斐もあり、ブーティで歩くことにはもう慣れた。そうして得意気にツカツカ…と再び闊歩かっぽしながら咲綾は続けた。
「つっても、まだ寝煙草で全焼するような時季じゃねぇけど。てか、やっぱ田舎の家は無駄にでけぇな」
 とはいえ、咲綾も闇に紛れた橋川邸を視認できない。
 地図で眺めた通り、二階建てのそれがポツンと佇んでいる広大な敷地を山茶花さざんか生垣いけがきがぐるり…囲んでいるのが分かっただけである。

「いいい家、も、も、もや、燃やすの?」
 ただでさえ、もう今日でも明日(火曜)でも変わんねぇだろ。暇だし、さっさとやっちまおうぜ……とのことで飯を喰い終えるなり駆り出され、気構えも何もないまま咲綾に従っていた。

「ああ。あのヤニカスの他に誰が住んでっか分かんねぇもん」
 つまり、ガソリンさえあればいい。
「…じゃ、じゃあ、そそ、その草刈り機は…」
「これ? これでお前殺して、俺が死んだことにすんだよ。で、俺はお前としてお前の母親と生きる」
「……」
「てか、これさァ。こんなデカい刃してんのに骨切れねぇって知ってる? 喰いこんじまうだけで、そこまでの負荷に耐えられねぇんだよな」
「……じゃあ、ど、どど どうす、するの?」
「でも足の指は飛ばせる。そんで、お前を動けなくすんだよ。で、凶悪な無差別放火魔は住人の必死の抵抗に遭い、家と一緒に焼け死にました……って算段」

 それを聞き、顔を伏せる正樹。足を止める。
 その髪を掴む咲綾。引き摺るように正樹を歩かせる。

「お別れだな」
「……」
「寂しいか?」
「…はい」
「俺は誰だ?」
「咲綾ちゃんです」
「ふっ。お前に会えて楽し———あ。通り過ぎた」

 闇のせいで、生け垣の切れ目に気付かなかった。
 後退りし、そこから庭先に見えている軽トラックの影を指差す咲綾。
 そのまま敷地に入る。
 まっすぐ近付いていき、荷台のアオリに「橋川造園 0550ー○○―●●●●」とあるのを確認。
 と、正樹の髪から手を放し、今度は正樹の手を取った。
 手を繋ぎながら、闇の直中ただなか鎮座ちんざしている家屋へ向かって大股に歩を進める。

 土庭つちにわだった。
 まるで「頑固一徹こそ美徳」を体現したのか、真砂土まさつちも砂利も芝生もなければ、いかにも旧時代的に土を固めて雑草対策してあるだけ。
 あるいは何種類もの庭石にわいし沓脱石くつぬぎいし……を展示している一角もあった。が、それらは余さずカビていたため、たとい昼間に眺めたところで最早もはや大した違いなどない。

 この調子では客など寄り付かないだろう。
 しかし、ドウダンツツジ、アジサイ、シャクナゲ、モミジ、ヤマブキ……庭木だけなら、やたらと手入れが行き届いていた。とはいえ、何を見るでもなくキョロキョロしている正樹、夜業の完遂かんすいをしか眺めていない咲綾が、庭木の様子など気にするはずもないのだが。

 と、ふいに足音を忍ばせる正樹。
 家屋の側に生えるスズカケの樹の麓に、どうやらもう一台車が駐まっていることに気付いた。
「ん?」
「あ、あああ、あれ」
 咲綾の手を解く正樹。それから、
「すすす、ス、スマホか、か、貸して」
 と、足早にそちらへ向かった。

「…ふっ」
 鼻で嗤う咲綾。
 正樹を追わない。正樹の好きにさせた。
 だが、いくら控えめにライトを向けていようと、特徴的なフロントグリルが光のことごくを反射したため、遠目にも黒いミニバンであることは分かった。

 ところで、先に通り過ぎた車庫のシャッターは閉まっていた。
 どうせ、いちいち開閉するのが億劫だから出しっぱなしにしてあるのだろう。あるいは暇で洗車でもしていたか。そんなことはどうでもいい。
 橋川の屋敷は目の前。
 近付くほどに立派な造りの日本家屋であるのが分かり、感心していた。
(これじゃ、センサーライトも付けらんねぇよな。市販の安っぽいのなんて付けたら景観台無しだもんな。瓦しか残んねえけど。てか、アレしゃちほこか? だっせぇ)
 気を好くしたついで、また綻ぶ。
(ふ、ふふ。あの馬鹿テンパり過ぎだろ。ドラレコあるって考えらんねぇのか? まァ、きちんとそのつら晒しておけ)

 と、車を巡り終えた正樹。
 ようやくライトを消し、慌てて戻ってくる。
「さ、さささ、咲綾ちゃん」
「アルファードだろ? いかにもヤニカスが好きそうな———」
「ち、ちち違う。あ、ああ、あのくる、車、こここ子ども乗ってるってシ、シシ、シールついて、てた。ち、ちちちゃ、チャイルドし、し、シートも」

 聞いた咲綾。
 橋川邸を見上げながらブーティを脱ぎ、靴下になる。
 手袋と一緒に買ったレース付き白いニーハイソックスだった。

「明日火曜だぞ? それなのに孫なんて泊まりに来るか? クソ。面倒くせぇ。靴忘れないようにしなきゃいけねぇじゃん」
「ど、どどう、ど、どうしよう…」
「開いてる窓探すぞ」
「え?」
「どこも開いてなかったら、台所の外から燃やす」
「こ、こ、こここ子どもは?」
「正月になるとさぁ、よくジジババが孫にうつつ抜かしてガバるから、火とか消し忘れて大火事になんじゃん?」

 これを聞き、面喰らう正樹。
 まるで答えになっていない。

「で、大体孫だけ死ぬんだよな。あれ、ジジババは自分たちだけ〝死にたくない〟って逃げんだろ? じゃ、ガキ預けて帰ってきた親はどんな気持ちなんだろうな」

 うつむいている正樹。
 知らないよ……と思った。

「まァ、恨みがあんのはヤニカスだけだもんな。じゃ、お前はサポートしてくれればいいよ」
「え?」
「俺がやるから、お前はそのままスマホ持ってろ…ってこと。灯りが欲しいときは言うから」
 スマホを握っている正樹の手首をしかと掴む。
 そうして手を引き、ニーハイソックスで家の周りを巡り始める。
 携行缶の中でガソリンが波打つ音に怯えながらも、引っ張られるまま咲綾に付き従う正樹。

(まぁ、ほぼ計画通りかな。なんとかなんだろ)
 楽観的な男である。
 そして自信家でもあった。

 靴を脱いだのは誰も逃がさないつもりだった。
 ヒョウ柄ブーティははなから置いていく気だった。
 そして、タヌキ爺の家に寄ったのも然り「恋人に持たせたスマホ」しかり、この場にEX咲綾がいたことにする。

 いずれは誰よりも先に死んでいたことが分かるだろう。
 だが、それまでは「現場から消えた女」……即ちEX咲綾の行方を追うはずだ。あるいは『死人に口なし』で、すべて正樹の犯行に仕立て上げ、さっさと事件解決ということにするかもしれない。

(おい。AI学習しておけ。これがほぼ完全犯罪のやり方だってな) 

 咲綾と正樹は、まず玄関横にある応接間らしきを通り過ぎ、風呂場の窓の下を過ぎ、勝手口を過ぎ、台所を過ぎ……開いている窓がないか探した。
 しかし、どれもが閉まっていた。
 それを確認しながら、角を曲がって家の真裏に差し掛かる。
 そのときだった。何やら聞き覚えのある声がした。

10
 家の裏へ回った咲綾と正樹。
 唯一灯りの点いていた最奥の居間らしき部屋の外で身を潜める。
 窓枠の形に滲む部屋灯りが、そこに舞う無数の羽虫を照らしていた。
 掃き出し窓から続く縁台が半ば朽ちているのも見える。
 家の真裏は雑木林が広がるばかり。お陰で間もなく、家屋の外に漏れ出た光は闇に呑まれて消えていく。

「何度言ったら分かんだ!」
 カーテンを開け、網戸にしているせいか……その部屋からは煙草の匂いがしていた。そしてヤニカス爺・橋川のしゃがれ声。それに驚いた赤子が泣きだし、続いて橋川の娘らしき女の金切り声が続いた。

「うるさい! 大きな声出さないでよ」
「何だと! 誰に向かって口きいてんだ! お前が、あんな後先考えられない半端モンとコンビニの残飯ばっかり喰ってるから癌になったんだら?」
 娘以上の大声で橋川。
 耳をつんざくような赤子の泣き声に向かっても、
「うるせえ。泣くな」
 と怒鳴った。

「はぁ? それと子宮頸がんに何の関係あんの? 別にもう二人も子どもいんだし、これ以上子どもなんかいらねぇっての。馬鹿かよ。それより急に大声出すな、老害」
「何ィ? お前が〝早く真面な男と再婚して家庭を持ち直す〟〝コイツらはさっさと向こうの親に引き取ってもらう〟って言ったんだろうが!」
「ちょっと! 子どもっちたちの前で余計なこと言ってんなよ!」
「ああ? 都合が悪くなったときだけ〝子ども〟〝子ども〟言いやがって。こんぐらい言わねぇとコイツらも分からねぇら! 俺の財布から金抜くようなド腐れなんだからよ。早く出ていけや! 独り身になるまで戻ってくんな」

 こんな口論を聞き、犬も食わねぇ……と必死に笑いを堪える咲綾。
 角付きウィッグの麓で、目尻を細めて笑みを噛み殺す横顔は美しかった。
 部屋から漏れる幽かな灯りを受け、額や鼻筋や頬が儚く闇に浮かんでいる。

 一方の正樹。
 そんな咲綾の顔を眺めて気を紛らそうとしていた。
 が、いつまでも悲痛な赤子の泣き声のせいで気が滅入り、鬱へ入った。
 突然の眩暈に襲われ1分間に心拍数140回を超える動悸と無気力に襲われる。目を白黒させ、形振り構わず「今すぐ横になりたい」と思った。
 と、縁台の傍に屈ませていた身が大きく揺れる。

 そうして外壁に倒れ込もうとする正樹。
 大きな物音を立てるすんで、異変に気付いた咲綾によって正樹は肩を抱き寄せられた。
「落ち着け。まずはこれ放せ」
 正樹の指から携行缶を取り上げ、地面に置いた。
 スマホも取り上げたかったが、あまりにきつく握り締めていたため、叶いそうになかった。無理に取り上げようとして、まさか騒ぎ出されても困る。

  どうやら、橋川と橋川の一人娘・緑の口喧嘩によれば……緑の旦那である隆文たかふみは甲斐性なしで喧嘩っ早く、自分よりも弱いと踏んだ相手にはすぐ手をあげる嫌いがある。そして、その日も警察の厄介になっているのだとか。

「これで何度目だ!」と橋川。
「何で俺が食い潰されなきゃなんねぇんだ! あいつの親に泣きつきゃいいだろ!」と橋川。
「いい加減別れろ! どうせコイツらもろくな大人になりゃしねぇら! お前が苦労するだけだ!」と橋川。

 …かつて18歳そこいらで、幼馴染との間に妊娠が発覚した緑。
 高校卒業後、たった数ヶ月間だけ派遣社員として御殿場のアウトレット施設内にある下着屋に勤めていた。が、
「派遣は休職できないから、一度退職してまた戻って来ればいい」
 と、辞めたきりだった。
 しかし、入籍前に流産。
 そして互いに「もう思い出したくない」と破局。
 この悲しみに暮れ、更にはその頃に交通事故で母を亡くし……と、緑は無気力になった。

「誰のせいで苦労しなきゃいけねぇと思ってんだよ!」と緑。
「お母さんが居れば、もっと頼れたのに。この子っちらだって、もっと真面に育てられんだよ!」と緑。
「お父さんがお母さん殺したから苦労してんじゃん! 何回言っても危ない運転辞めないから。あの事故で手前が死ねばよかったんだよ! 何のために高い保険に入ってんだよ。お母さん返せよ馬鹿野郎」

 以降は父である橋川の財力に頼り、気付けば10年が経った。
 28歳になった緑は、その頃たまたま橋川邸のある小山地区担当となった食品や日用雑貨の宅配ドライバーをしていた配達員の隆文と懇ろになった。

 隆文は痩せ気味で背が高く、神経質で綺麗好き、そして対等ではないことを何よりも嫌うASD気質のせいで、勤めに出るたび諍いを起こす。
 そんな素性を知らずに緑は隆文と交際2カ月で結婚。
 間もなく隆文は職場で暴力事件を起こして逮捕された。

「真人間になるから」
「心を入れ替えるから」
 留置場での面会時、緑を眺めた隆文は涙を流した。
 これを真に受けたのが悪かった。
 緑と結婚してからは初だが、暴力沙汰での逮捕は何度目か分からない。
 だが、そこで緑が妊娠していることを知った隆文は留置場を後にして以降、しばらくは猫を被って働いた。
 ここでも、もう大丈夫そうだ……と思ったのが悪かった。
 緑も緑で「愛の力」などというものを信じてしまったのである。

 そして緑が30手前で一人目を出産。
 それが2歳になる頃、隆文は再び問題を起こした。
 他責思考同士による悶着から、その当時の職場である和菓子製造工場内で大立ち回りをしたのである。上司に、
「なんでミスする前に訊いてこなかったんだよ? 分かんねぇなら訊けよ」
 と言われた隆文。
「なんで俺が、わざわざ手前ぇごときに訊きに行かなきゃなんねぇんだよ。阿保が。手前ぇから言いに来い。阿保がよ。先に言っとけば済んだ話なんじゃねぇの? 阿保が。だから手前ぇは無能なんだよ。阿保。死ねバカ。俺のせいにしてんじゃねえよ。阿保」
「はいはい…」
 その上司は呆れた。腹も立たない。むしろおかしかった。
「コイツやば…」
 そこでくすくす嗤った。そのまま立ち去ろうとした。
 が、相手にされなかった隆文が逆上。上司の後頭部を狙って「死ね。阿保が」とパイプ椅子で襲撃。何度も頭部を狙って椅子を振り下ろしたため、殺人未遂で逮捕される。

 これにはさすがに懲りた緑。
 隆文と離婚する決意を固めた。
「パパの仕事も減ってきてるし、いつまでもパパに頼ってばかりいられないから」
 しかし、子どもを預けて働こうにも保育園はどこも空いておらず、更には10年以上振りに連絡した派遣会社への復職間近で……2人目の子の妊娠が発覚。こうして派遣会社の社員であり、古くは小中高の同級生であり、かつての元カレであり、死産した子の父親でもある幼馴染の男にも、

「お前の旦那に関わりたくないから、もう、こういう連絡は勘弁してくれない? お前と何かあったって知られたくないし。仕事は別に気にしなくていいから。代わりは幾らでもいるし。じゃ、さよなら。とりあえず妊娠おめでとう。しあわせになってね」

 と突き放された。
 お陰で隆文と離婚する決意が薄れた。
 そうして仕方なく緑は独りで出産した。

 11
 そんなある日、2人目に与える緑の母乳が絶たえた。
 妙に思って診察してもらうも「年齢のせいかもしれない」と曖昧なことを言われるだけ。だが、じき子宮頸がんになっていることが判明した。

 病院への不信感を募らせながらも、早期治療のために入院。
 しかし、粉ミルクを飲もうとしない2人目に手を焼いた。
 そうして苦心する母の姿を眺めていた1人目がヤキモチを妬き、緑の目を盗んでは2人目の頭を叩いてより泣かせ……と緑は心底辟易した。

 ところが看護師らの手に渡るなり、2人目は泣くのをやめて笑いだす始末。そればかりか、あんなに嫌がっていたはずの哺乳瓶を自ら咥え、粉ミルクを綺麗に飲み干すなり、すやすや眠った。それを眺めて、緑は腑に落ちない。
「焦っちゃだめよ。すぐに慣れるから」
 そう言って、微笑む看護師にも腹を立てた。
 と、造園仕事が済むなり見舞いに来た父・橋川に「この子、悪い子だから連れてって。いると意地悪するから」と言った。

 聞いて1人目は嫌がった。が、
「無理。泣いたって駄目。アンタがあの子叩くからでしょ? 全部自分のせいじゃん」
 そうして無理やり1人目を橋川に連れて帰らせた。
 孫とふたりになった橋川は、何だかんだで可愛い孫に気を遣い「煙草吸ってくる」と縁台に出た。しかし、しばらく目を離した隙に居間に放り出していた財布から金を抜かれた。

「知らない」
 ポケットから万札が見つかった後でもシラを切り続ける1人目。
 癇癪を起した橋川は、そこで1人目の頭に拳骨を見舞った。
 以来、1人目は橋川を睨みつけるばかりか一切口をきこうとしない。

 無事に手術を迎えた緑。
 それに点滴を打とうとした看護師は、緑の腕にある数多の横筋———細い傷痕を眺め、点滴の針を刺す場所を探して刹那固まった。
 それを目にした緑。俄かに怒りが込み上げる。
 そして「お母さんが死んだせいだ。いや、元をただせば全部一番最初の出産がうまくいかなかったせいだ。あいつの種が弱いせいだ」と屈辱の原因を幼馴染へ向けた。…

 「お母さん、お母さん……いつまでも過ぎたこと言ってんじゃねえ! そんなことより早く別れろ! あんなのと一緒にいるから、幼馴染の家の周りウロチョロしてストーカー騒ぎまで起こしやがんだら? 隆文とお前に車で追われて殺されかけた…って話じゃねぇか! 家名に泥塗りやがって、この恥曝しどもが!」

 橋川の大声が夜空に響く。
 それに一瞬泣き止むも、再び大きな声で泣く2人目の赤子。

「うっさい! いつまでも同じことばっか言ってんなよ!」緑も叫んだ。
「お前が先に同じことばっか言い始めたんだら! いつまでも俺を責めやがって」

 肌に集る虫を払いながら、ここまでを聞いていた咲綾。
 鼻で嗤う気力もない。
 最早もはやうんざりしていた。
「あ~あ。やっぱ親が終ってれば、その子どもも終わんだな」
 未だ震えている正樹の肩をあやしながら、小声で続ける。
「よくさァ。少年漫画とかで女・子どもが〝助けて〟って出てきて、それを盗賊団とか海賊とか……ほんとは悪党設定の主人公一味が助けたりすんじゃん?」

 聞いてはいるが思考が追いつかない正樹。
 咲綾は構わず続ける。

「あれ、いつも思うんだよな…〝なんで助けてくれると思ったんだ?〟って。現実だったら、そんな連中に声掛けた時点で終わりなのによ。鴨が葱背負って来るようなもんだろ」
 そこで正樹を抱いていた手を離す。
 咲綾は立ち上がり、背に回していた草刈り機を腹の前で構えた。
「お前はここで待ってろ」
 エンジンワイヤーに手をかける。
 そして縁台に片脚を掛け、窓の外に姿を現そうとした。
 そのとき、うずくまっていた正樹が腕を伸ばす。
 咲綾のスカートの裾を掴む。Tバックビキニの喰いこんだ尻の先で巨大な金玉がブラリ…と揺れた。

 それを眺めて、正樹は覚醒した。
 突発躁転。
 正樹は自分でも驚くほど急速に頭が冴え、脳がフル稼働し、堰を切った思考が取り留めなく、とめどなく溢れる———

 正樹は小学校に入学した時点でつまづいている。
 緊張しいだから、手に汗が凄かった。そのせいで、隣の席の女子に「汚い」と文句を言われた。見られただけで、何に触れたわけでもない。だが以降は、誰からも揶揄われるようになった。

「鼻息が煩い」
「目ヤニついてる」
 気付けば、監視されていた。
 事ある毎に正樹を揶揄するためである。
「溜息つきすぎ」
「気の滅入る顔」
「こっち見んな」
 …もう意味が分からなかった。
 お陰で瞬く間にどもり始めた。

 身に余る仕打ちと孤独は小学校だけに留まらず、中学、高校と続いた。
 直接耳にすることはなかったが、大学でも陰で言われていたのだろう。とまれ孤独に変りなかった。

 その代償にネットでの立ち居振る舞い方を獲た。
 同級生との会話に疎くなる代わり、社会・政治・経済・思想・宗教……やりもしないスポーツや、パソコンの仕組み、そしてプログラミングについて詳しくなった。ゲームをやり込み、乱数調整だの状況再現だのも身につけた。

 そして気付いた。ゲームは常に本能的快楽とともにある。
 目を愉しませて夢中にさせることよりも、手を動かし、自分の意思で操ることが重要だ。何故なら、現実世界で人に許されたことなど限られているのだから。

 だから、欲望を解放してやらねばならない。
 だから、ゲームには戦場か、無法地帯か…欲望のままに振舞うことが許された舞台が要るのだ。暴力が赦される世界でなければならない。

 だって、人命が至上だからこそ、人命を軽んじることに需要が生まれる。欲求が生まれる。そう、人命に価値はないのだ。何も持たない平凡な人間にも、持つことが許されたものが命なのだから。

 しかし、この世には要らない命が多すぎる。誰もがそう思って生きている。だからゲームは売れる。できれば、思いのままに殺したいのだ。だから、ゲームで現実を覆う必要があるのだ。

 自分なんて、自分の力では変えられないという心理を引っ込めてやる。
 その悲しい真実に気付いてしまわぬように、それを一時でも忘れられるように、現実と地続きの世界で他人の命を粗末にさせてやる。
 変身願望を満たす。
 自分以上の何かになりたい人の慾望を満たす。
 …それは裏を返せば悲しい悟り。この世界では自分の居場所も、才能も、存在意義も自らで見限ったのだと証明している。失敗作だと証明している。

 ———そこまでを一瞬間のうちに考えた正樹。
 そして次には未来……とでも呼ぶのか、奇妙な光景を目の当たりにした。

「もっと、咲綾ちゃんを下さい」
 茶畑のあぜに駐めた黒いセダンの車内で、咲綾に尻を犯されている。そして、あの作業着姿の中年の死を眺めた男児がヒョウ柄のブーティを胸に抱き、窓から正樹らの行為を覗いている。そのとき雲が晴れ、月光に照らされた正樹は微笑む。
「見て。もっと見て、もっと僕を見て!」

12
 それらすべてが正樹の目には見えた。
 と、精気と全能感と心地よい緊張に頬が震える。

 一方、まさか怖気づいたのでは……と、振り返る咲綾。
 焦点の合わない眼で、何とも言えない笑みを浮かべるばかりの正樹。
 それを眺めて、面倒くせぇ…と思った。
(もう先にコイツ殺しちまうか。つっても音出せねぇしな…)

 そこで、小声ながらにもハッキリと正樹が言った。
「僕がやる」
 この日、このとき、この瞬間。正樹は「新しい正樹」に生まれ変わることを確信した。天啓とでも呼べばいいのか、初めて迎える使命感に満ちていた。

(神は人を特別な存在として創造したんじゃない。神に似ているだけの獣として創造した。でも、自分が大好きな神は、話し相手が欲しくて、人間に神の力である言葉を与えてしまった。そのせいで人は神に嘘をつき、その身を滅ぼした。その身を罪で穢したんだ)

 正樹の思考は続く。

(そうだ。僕もサキュバスになった咲綾ちゃんの傍が相応しい存在になるんだ。咲綾ちゃんは神の力を使う。人から言葉を奪うために殺す。恐怖で人を罰し、躾けて、獣であると分からせる。逆らわなければ、いつまでも咲綾ちゃんが作る神の国で、神の庭で、天上世界で逸楽を享受していられる。奴隷として、家畜として、獣としてじゃない。僕はそれを超えて、神の伴侶になるんだ)

 それを咲綾に伝えたかった。
 知ってほしくて、理解してほしくて堪らなかった。
 だが、口にしたくても言葉に詰まる。
 たとえすんなり話せたとしても「リチウムのせいか?」「統合失調症も併発したのか?」と、そんな俗っぽい些事の中にこの大いなる覚醒———いや、開闢かいびゃく、再生、新生……何と言うのか分からないが、そこにくくられてしまうのは癪だった。

 正樹の選ぶべき選択は一つ。
 行動で示す。
 簡単なことだ。咲綾に相応しい何かに生まれ変わったのだと、咲綾に見せればいいだけだった。

 未だガミガミやっている橋川の声。
 それに対抗するかのように泣き叫ぶ赤子の声。
 そんな喧噪の中、徐に立ち上がった正樹に一抹の恐怖を覚える咲綾。足を引っ張られることもさることながら、暴走されるのは尚好ましくない。
 だが、その落ち着き払った正樹の様子は「果たして本当にコイツを殺して、一緒に燃やしていけんのか?」と考えるには充分だった。それを上回る興味も湧いた。「コイツ、何する気なんだ」との期待に呑まれ、

「じゃ、俺が外で張ってるから、中の奴らが逃げてきたら、コレで片っ端から刈り取って————」
「あ」
 そこで、軒先に出てきた裸足の子どもの姿を目にした正樹。
 やはり、スーパーの店先で眺めた男児だと思った。
 …が、実際は違う。
 正樹の目には見たいものしか見えていなかった。
 すぐさま振り返る咲綾。そこで……3歳か4歳か、ついでに男か女かも分からない、おかっぱ頭の肥った子どもと目が合った。

「名前は?」咲綾は自分の口にひとさし指を当てながら、静かに尋ねた。
「ひかる」小声で答える。

 聞いて、どっちだよ……と思う咲綾。
 が、そこは冷静に尋ねた。

「女の子?」
「うん」
「お爺ちゃん嫌い?」
「パパもママも弟も嫌い」
「じゃあコッチおいで」手を差し出す。

 ひかるは咲綾の手を掴んだ。
 緑と橋川はまだガミガミやっている。

「皆が死ぬとこ見たい?」ひかるを抱きながら訊く。
「見たい」咲綾の顔を見つめて答える。
「弟も死ぬよ? いい?」
「うん。あの子、パパの子じゃない」
 聞いて、吹き出しそうになる咲綾。
「じゃあ、人質の振りしててね」
 それから、正樹に顔を向ける。
「合図するまでここで待ってろ」

 正樹が何処を見ているか分からなかった。
 そこで咲綾はひかるの手を引き、窓から堂々と侵入した。

 …カーテン越しに二つの影が揺れている。
 咲綾が橋川と緑を縛り終えたらしかった。
 それから、草刈り機の「チュン」「チュン」という音と、橋川の呻き、緑の呻きを聴いた。赤子の泣き声はうに止んだ。

 正樹は言われた通り縁台で待った。
 再び咲綾が姿を現すのを正座して待った。
 尻をモゾモゾやりながら。やがて堪らずズボンを下ろし、己のイチモツを扱きながら。

「お母さん、僕しあわせになるね。産んでくれてありがとう」

 そうして空が白んだ。
 正樹はそこで何度射精したか分からなかった。
 亀頭が摩擦にけて傷み始める頃、ようやく気が済んだ。
 と、汚れたオムツを縁台に放置して立ち上がる。
 痺れた足を引き摺り、居間を覗く。
 ひかると咲綾はいなかった。
 草刈り機と遺体が転がっている。
 正樹はそこで頭からガソリンを被り、橋川のライターで己の性器に火を点けた。

(了)

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以下、未使用文
●「く、く、くる、車で、ししし調べたんじゃ、な、な、ない、ないの?」
「お前さァ……今の世の中、そこらの電柱に監視カメラあることぐらい知ってんだろ。こそこそ運転してるだけで、すぐ目ぇ付けられんぞ。まァ、それに映らないようにするなんて無理だから、気にするだけ無駄だけどな」

● これを聞くなり、途端に落ち着かなくなった正樹。
 思い出したのである。「ごう」の付く犯罪と放火の罪は重い。

●なるほど、正樹は見当づけた。
 咲綾は多分こう言いたい。
 だったら、親も一緒に死ねるほうがいいだろ?

●迷彩柄のシートを車体に被せて

●俺が突っ込んで、返り討ちに遭って、死んだことにしなきゃいけねぇんだけどな…。もう先にコイツ殺しちまうか