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第2話 絵里と莉愛葉、悠人と邂逅……1/13(金)夕方カフェ

「その頃にはもう刺されたヤクザの死体なんか転がってなかったけど」
 と絵里。コーヒーをすすりながら続ける。
「2代目の頃の加賀尾かがおにいた阿部隈川あべくまがわとかいう……今は自分の組の親分やってんのが藪千里やぶせんりと話つけて、3代目との抗争を手打ちにしたとかで」

 聞いて「へぇ」莉愛葉は素っ気ない。
 甘いコーヒーの好きな絵里がブラックのまま飲むのをただ珍しく思っていた。わざわざ用意した砂糖やミルクと一緒に絵里のルージュもテーブルに転がっている。

「赤羽で顏触ってる・・・・とき藪千里のお抱え多かったからさァ…そんな話ばっか聞かされてたんだよね」そこで声色を変えた。「一斉摘発いっせいてきはつダメ。それで手打ち、もっとダメ。アイヤ~。前はもっと稼げたヨ」忍び笑いしながら続ける。「そこで有名だった奴が今日もアウトレットにいんの」
 と、レジに並んでいる客の一人を目でうながす。
 持ち前の狐目きつねめ以外は顔のほぼすべてに美容整形をほどこした絵里。鋭い目尻へ寄せた、いやに重たい瞳が指し示すほうへ顔を向けながら莉愛葉はコーヒーを啜った。

 どうやら中国人観光客……にしてはトロリーバッグも持たず、浮足立った様子の見当たらない3人組がそれらしい。若い男が2人。ともにダウンジャケットを着用、トラックパンツにトレッキング・ブーツを履いているのも珍しい光景ではなかった。
 
 いてマフィアらしさを挙げるなら、目つきが悪い。どちらの男も張り詰めた表情をして口数少ない。が、単に寒気かんきにいたぶられてきたせいに思える。暖を取ろうにもしばらく並ばねばならず、それが不満なだけかも分からなかった。

 そんな男らにまぎれ、とあるメゾンの展示会場から逃げ出してきたマネキンよろしく奇抜きばつ衣裳いしょうの———宇宙服にも似たそれが全く似合っていない「いかにも」な顔の女。極端に背が低く(150cmあるのだろうか)それでいてすこぶるガタイが好いのも妙だった。

「……」
 莉愛葉は無関心な目を戻すついで、カップの飲み口を親指で拭った。
 指の腹についた榛色ヘーゼルのリップバームがコーヒーのしずくを弾いている。
 それを眺め、一様いちように提供されるコーヒーと自身のこだわりが相交あいまじわらないことを確認した。確認とは安心するために行う。それからテーブルに敷いたウェットティッシュで指をぬぐった。

 こうしてたて一筋ひとすじずつなすり付けていき、新たに触れる場所がなくなれば折り畳んで面を返し……を小さくなるまで繰り返すだろうと、そんな癖を眺めた絵里の口元がほころぶ。悪戯な視線を莉愛葉へもたげ、
「あれ、男」
 と言った。いで尻ポケットからスマホを取り出す。
「持ってきてんのかよ」呆れる莉愛葉。
「あのチビ、頭いててさ…」と気にせず絵里。「これからは〝男のの時代だから〟とか言って課金済み・・・・の女見るたびにブン殴ろうとしてくんの」スマホをいじりながら続ける。「でも全顔ぜんがお2周のときで1発30万からだったかなァ…それで予約待ちとか言ってたし、もうハイスペックのなんでもサセコ・・・より稼いでんじゃねぇの」
 と、今度こそ絵里自身のスマホを莉愛葉に向かって滑らせる。

 目を落とす莉愛葉。
 そこに映っていたのは藪千里の女顔・・ではなかった。
 美容外科クリニック内か……誰かが点滴のふもとで横になっている。フルフェイス・ヘルメットにも似た分厚い包帯をほおかむりに、鼻には大きなガーゼを当て、まるでほうけた眼差しをカメラへ向けていた。
 麻酔のせいで意識が朦朧もうろうとしているのか、見覚えのある狐目にいつもの覇気はきが感じられない。しかし、墨にまみれた腕を伸ばして中指を立てていることからも絵里であるのは間違いなかった。

 そのそばに———やたら顔の丸い女。
 れ上がった両頬に絆創膏ばんそうこうを貼り、目の周囲や小鼻周りに血のにじ縫合糸ほうごういとのぞかせ、唇を奇妙に引きらせた女がピースしている。察するに、絵里が赤羽で同棲していた乃亜のあという女だろう……そこで画面が暗くなった。

 莉愛葉は目を上げた。と、気付いた。
 絵里がコーヒーを飲もうとうつむいた拍子ひょうし、額へ髪が垂れてきそうになっていた。つと腕を伸ばす。絵里の髪を耳にかけ直しながら訊いた。
「あの人どうなってんの?」
「竿も玉もついてる」と絵里。「顔と声以外は男のまま。ステロイドやってるから、すげぇマッチョだし」
 絵里の髪に触れながら「向こうは絵里だって気付いてんの?」と莉愛葉。
「墨見せりゃ分かんだろうけど…」客らのほうへ顔を向ける。「乃亜がアイツにからまれっから、ウチら結局韓国行ったし」そこで思い出した。「そういや、藪千里の連中ってみんな親指に虎の顔入れてんのかなァ」
 しかし、若い男らはポケットに手を突っ込んでいたため定かでなかった。
 絵里の耳をつまみ、顔を引き戻す莉愛葉。
「インバウンドの相手しに来てんの?」
 入れ墨には関心を示さず訊いた。
 ところで、絵里の耳から手を放す気配はない。
「さァ」と絵里。「てか、あれ、ただのゲイになんの?」と考えるついで「なんか、アイツらの世界ってたけしに訊いてもよく分かんねぇんだよね」と言った。
 しばらく間が空き「うん」と莉愛葉は生返事。
 諸々もろもろたずねたはいいが、まるで興味が持てなかった。そうしてなんとなく絵里の耳を引っ張ったり、ひねったり、揺すぶったり……するうち思いせ、とっくに上の空だった。

 それは一風いっぷう変わっており、絵里の耳はどちらも正面を向いている。
 平生へいぜい誰も気にしない。しっとりした黒髪に縁取ふちどられた小さな頭に真っ白な耳はいっそう大きく映るはずだが、そこに入れ墨もなければピアスもないなら何千万円と掛けた美顔(インプラント治療費含む)ばかりに目を奪われて猶更なおさら誰も気に留めない。横から眺めてしばらくすると耳が無いように思え……そこで初めて気付く。それほど垂直だった。

 耳をつままれるに任せ、じき思い入れたっぷりに耳のひだをなぞりだした莉愛葉の指もそのままに、
「こないださァ」
 と絵里。先にほうったスマホの暗い画面を見つめ、
「乃亜から連絡あって」
 顔色一つ変えずに言った。

 夢現ゆめうつつから我へと返り、それを悔しく思う莉愛葉。
 これが逆だったら「くすぐってぇよ」身震みぶるいしてるのに……と、絵里の耳からようやく手を引く。しかも再び乃亜の話題を切り出されるとは落胆も落胆、幻滅も幻滅、実に興醒きょうざはなはだしい。

 だが「それで?」平静を装って尋ねた。
「結婚してガキ生まれたから〝三春殺したのは許してあげる〟だって」
「はぁ?」とがめるように莉愛葉。「気持ちりぃ」そして「てか、どうでもいいんだけど」己に言い聞かせた。

 …三春は元々もともと、乃亜のマンションにいたブチ猫である。
 そこで何をされてきたのか絵里も全ては知らない。
 喉を鳴らすことはできる。だが、鳴こうとしても声が出せなかった。物音には過剰な反応を見せる。音が止んだ後でもしばらくは物陰ものかげに姿を隠して震えていた。

 話によれば、息も絶え絶えの三春を獣医に診せるたび「同棲してる彼氏に虐待された」だの「絵里による飼育放棄」だのとシラを切り、それから乃亜は「私のことも分かんないくらいおびえちゃって…」と泣いてみせたらしい。お陰で絵里が警察署へと呼び出され、事情聴取を受けている。

 以降、出掛けるときには必ず三春を連れて出た。
 三春も絵里にしがみつき決してそばから離れようとはしなかった。
 それを眺めて「私の猫なのに」乃亜が突っかかって来れば、絵里は三春を抱いたまま再び外へ出ていった。住まいの近所にあった駄菓子屋のベンチで、猫を抱いてボンヤリ煙草をんでいる絵里はやがて「猫娘ねこむすめ」と呼ばれ……つまりは入れ墨の不審者として、また警察を呼ばれた。

———「アンタも来る? つっても、まだどんな家か分かんねぇけど。それか、折角だから野良になったら?」
 やがて赤羽を去ろうとした際も三春は迷わず絵里を追った。
 こうして絵里に愛想を尽かされ、三春にも見放された乃亜はマンションの屋上から投身自殺を図る。しかし、転落防止さくから上体を乗り出すなり、恐れをなして腰が砕けた。

 じき「監禁されてる」「私を独りにして、いつ飛び下りるのか調査してる」「どうやったら誰にもバレずに死ねるか分からない」と行きつけの精神科で吐露とろした。またたく間に乃亜の両親へ連絡がいった。そうして和歌山県へと連れ戻され、今では生家せいかで心を療養りょうようしているはずだった。…

「アイツ統失とうしつだからさァ」と絵里。「赤ちゃん見せてつったら、それはそれはたまのように可愛い白菜はくさいだったし」力なく笑う。「結婚したってのも、どうせ幻覚なん———」
「だから」遮る莉愛葉。「どうでもいいって」き消すように言った。

 …乃亜は元来がんらいASD(自閉スペクトラム症)であり性依存症でもあるのか、所謂いわゆるメンヘラ気質の恋愛依存体質だったが、絵里と出会う以前に交際していた男から一方的に別れを告げられ、それが「納得いかない」と散々さんざ粘着した挙句ようやく居場所を突き止めるもしたたか殴られ死にかけた。
 右の眼球は破裂。脳挫傷のうざしょうを負い、昏睡こんすい状態からは醒めたが……意識障害と極端に視力の落ちた右目、原形を留めていない顔、そして三春だけが残った。

 だからといって……と気が済まない莉愛葉。
 絵里が三春を奪ったのではない。三春が自分で選んだのだ。いくら虐待の出処でどころが愛情であったとしても、三春を殺しかねない女の傍に置いておくわけにいかない。

 ただでさえ「あんまり私を避けるから」餌や水を与えなかった女だ。「あんまり私を怒らせるから」しばり付けて殴っていた女だ。弱り、苦しむ三春を眺めて「ほら。私がいなきゃ駄目じゃん」と笑っていた女だ。

 絵里は初めのうち、乃亜の暮らすマンションに三春がいるのを知らなかった。最近まで猫飼ってたのか……とは思ったが、乃亜の部屋のすみで今まさに死にかけているとは思わなかった。
———「あれ? まだ生きてたんだ」

 そんな女であれ、絵里は見捨てなかった。
 赤羽駅前にある美容外科内でたまたま出会った(藪千里の女顔に詰め寄られているところを絵里が救った)だけであるのに、
「住ませてくれたし。それなりに楽しかったから」
 と、ただそれだけで2年弱も。
 三春の世話を一手いってに引き受け、しかも、あらぬ嫌疑けんぎをかけられながらも、だ。

 やるべきことはやった。
 後ろめたさを抱える必要などない。
 何も間違ってはいない。

 だが、莉愛葉はそう信じきれずにいた。
 絵里が三春に祖母の姿を、乃亜には母親の姿を重ねているのも明らかだった。それでも…

「どうしようもねぇじゃん」と莉愛葉。「絵里に何ができんだよ」感情がせきを切る。「てか、二度とソイツの話すんな」
 気分を変えようとそぞろに店内を眺める。
 藪千里の連中はうにカフェから消えていた。
 それでも行列は絶えない。

 と、そこに莉愛葉をしきりに気にしている若い女の姿があった。
 高校生……いや、中学生だろうか。発育の好い小学生かも分からない。
 見るからに合皮の厚底ブーツ、レース付きニーハイソックス、ギンガムチェックのコルセット付きスカートパンツは丈が短く、太いももあらわにしている。
 白いフリルブラウスに黒のボウタイをリボン結び。
 フードに巨大なウサギ耳の付いたボアパーカーをやたらオーバーサイズに羽織り……との量産型だか地雷系の女。それが深く被ったフード越しに、いつまでも莉愛葉のほうをうかがっていた。

「ふぅぅ」息をつく莉愛葉。
 女の視線もさることながら、乾燥しきった粉拭こなふき肌……をむしった跡が幾つも残る太腿も、そこに幼女趣味丸出しのキャラクター絆創膏を何枚も貼っているあざとさも、すべて気にさわった。

(乃亜ってのも似たような恰好してたけど、お前らみてぇな女はいつまでガキの振りするつもりなんだよ。てか、みぃんならげぇパンツ穿け。馬鹿かよったねぇ)

 そんなものなどわずかであれ目にしたくない莉愛葉。
 結局のところ絵里の他には見たいものなど何もなく、しかし顔を戻すのも腹立たしく……以降はコーヒーを啜るたびに飲み口を眺め、指でいらいらぬぐうばかりとなった。

 この始終しじゅうを不思議そうに眺め「それ———ヤキモチ?」と絵里。
 実際は「それ、指で触るほうが汚くね?」と言いかけた。
 これでも随分ずいぶんマシになったが、莉愛葉は無理をおして歯に金を掛けたせいで神経質になった。一時期はペットボトルの水を注いで飲むたびに、いちいち紙コップをてるほどだった。

「違う」ぶっきら棒な横顔で莉愛葉。
「へぇ」絵里は訊いた。「じゃあなんだよ?」
「…知らね」慳貪けんどんに吐き捨てる。
「ふっ」呆れる絵里。「てか、ブラック飽きた」飲みかけのコーヒーを突き出す。「これも飲んで」
「あたし、そういうの無理」見向きもしない。
「知ってる」
「……」莉愛葉は太い眉をひそめた。
 
 確かに絵里はコーヒーであろうと飯であろうと、酒であってもよく払う。
 莉愛葉に金を使うことに対して寸毫すんごう躊躇ためらいも見せない。
 だが、莉愛葉の浮かべたその顔は、たといおごっていようとも冗談では済まされないときのものだと知る絵里。たちまち意地の悪い衝動に駆られる。

「構ってもらえなかったからって…」テーブルに身を乗り出す。「別に、ウチはここでおっぱじめてもいいけど」鼻先が触れ合うほど顔を寄せて続ける。「誰かさんなら〝この辺5G回線だから奇形児生まれる〟って、とっくにその指ぶち込んできてんのに…」
 と、ねっとり開けた唇に舌を這わせた。
「チッ」
 顔を背け、ウェットティッシュで親指を拭う莉愛葉。
 それから角をそろえてたたみ、新たな面を上にしてテーブルに敷き、また指を拭い……とせわしない。

 どうやらいよいよ本気で怒ったらしく鼻根びこんに一本の横皺よこじわを寄せ、鼻翼びよくをひこつかせている。その、澄ました美貌をむざむざほうりだした先に潜む獣の形相ぎょうそう。ひと皮めくれば莉愛葉こそ本能と直情の塊であった。

 と、形振なりふり構わずうとましそうな莉愛葉を見つめ、
「あは…」
 吐息を漏らす絵里。
「その顔大好き」
 莉愛葉の髪を掴もうと手が伸びる。
 が、己の口もとにあふれた唾液を拭うにとどめた。
 それからルージュをつかんで立ち上がる。
 にじみだした愛液のせいで尻が気持ち悪かった。絵里は下着を嫌う。莉愛葉にイカ胸のニットシャツを着せられているのには〝目立たないように〟との事情があった。
「そろそろ行こっか」
 絵里自身のスマホも、ろくろく減っていないコーヒーも、莉愛葉も残して店を出る。

「…クソ」
 自身でも聴き取れないほどの小声で言った。
 むしゃくしゃ頭を掻きながら、乱暴に椅子を引いて立ち上がる。
 と、後ろに座っていた客の背に当たった。
「あ」
 莉愛葉が振り向くのも待たず「すみません!」まだ幼さの残る男の声。
 肩を強張こわばらせ、前髪にすっぽりと顏の覆われた中学生らしきを目にした。
「ごめん。平気?」
「あ、いえ。すみません」
 莉愛葉の顔色をびくびくうかがいながら、少年はまた謝った。
「…ううん」

 後藤莉愛葉と勝俣かつまた悠人ゆうと邂逅かいこうは、こんな偶然からだった。
「そこで初めて会ったの?」
「はい」
 その日———1月13日17時過ぎ。
 それからたった55時間余りのうちに、絵里と莉愛葉の周囲から一体何名の死傷者と逮捕者が出ただろうか。

つづく