第3話 悠人、莉愛葉にコーヒーをもらい絵里におちょくられる……1/13(金)17:30頃
1月9日をもって悠人の冬休みは終わった。
それまでの間に何度アウトレットへ足を運んだか分からない。
年始というのは専ら晴れる。別に服など買わずともモールを歩いて体に陽を浴び、すぐ側にある富士山を眺めるだけでも気分は好かった。
3学期が始まるなり、久しぶりに顔を合わせたクラスメイトは部活へ急ぐか、悠人には目もくれず土日の予定を立てた。表立って嫌われている訳ではない。だが、好かれない。誰の関心も惹かない。いや、正しくは見下されていた。
新年明けてもそれは変わらず自席に突っ伏しスマホを眺めている悠人。そこへ「13日からアウトレット館内全店でセール」のDMが届いた。その耳にちらほら「セール」と言っている声も聞こえた。
なら、土日へは行けない。誰に遭遇するか分からない。4~5人で屯したがる少し柄の悪いクラスの連中に出くわせば……挨拶もなしにジロジロ見られ、擦れ違うなり嗤われる。
こうした集団を羨ましいとは思わなかったが「ヤンキーかよ」だの「つるみたがるのは脇役の証」と、心でどんなケチをつけても友のない時点で負け惜しみ。喧嘩をしたって勝てる由無し、そもそも悠人は臆病者で目すら真面に合わせられない。
それを思うと嘆息が漏れた。
舌打ちも。
と、これ見よがしに凹んでみせても……誰も悠人を気に掛けない。直近の土日の予定だけでなく間近に控えた進路についても。それもそのはず、中学2年も残すは三月。多くの生徒が高校受験へ向けて、いよいよ塾へと通い始めた。他人にかまけて人生を棒に振るほど暇でない。
そんな調子で数日過ぎた、ある日の放課後。
教室からすべての背が消えるなり、しぶしぶ立ち上がる悠人。
足取り重い帰路の先には碌にすることのない週末を独り迎える寂しさ。それが待ち構える家の手前で……無料シャトルバスに乗った。乗客は疎ら。座席に着くなり背からおろした無駄に大きなバッグパックには、こんなこともあろうかと常に簡単な着替えを忍ばせている。そこには今、学生服が丸まっていた。
その日————1月13日金曜日。
初春の陽気で昼間はめっぽう暖かかった。
が、アウトレットに到着するなりトイレで着替え、マッシュ・ウルフ・ヘアーを弄るうちに陽が暮れた。前後の変化など悠人以外に分からない。途端に冷たくなった風が手塩にかけた前髪を嘲るように乱して過ぎた。
ところで、髪を気にしても足繁く通ったせいで行く当てなかった。
冬休みの間は毎日のように同じ店へと出入りした。
お陰で顔を憶えられ「いらっしゃいませ」すら言われない。接客もされない。無愛想に押し黙った店員が、まるで悠人を掃き出すように後をくっ付いて回るだけ。いくら金を持たない中学生であれ、それは屈辱だった。これ以上〝買わない客〟だと植え付けるのは耐え難い。
そうして、カフェの外れの席で(誰にも気付かれぬよう、こそこそとスマホのカメラを鏡にして)前髪を気にしてばかりいる悠人。
その手には恰好つけで始めたばかりのブラック・コーヒー。
小さなカップでチビチビと慣れない苦さを喉の奥へと追いやりながら……いい加減にGU●●Iで奮発し15,000円のTシャツを買おうかどうか悩んでいた。それはアウトレット用商材でない(タグにⒼマークのない)昨年の春夏物。悠人の言葉を借りれば「本物」の商品だが、御殿場の寒冷な気候を考えるなら気が早い。
(欲しいけど。でもなァ…)
と、いつまでも逡巡している背へ不意に衝撃。
叩かれたのか、と驚く悠人。
咄嗟に謝る。
「すみません!」
「ごめん。平気?」
振り向く莉愛葉。
乱暴に引いた椅子が後ろの席にいた悠人に当たったのである。
アイメイクと色を合わせたオンブレ・フレンチ・ネイルの指先……で、クリクリとした短い髪に触れながら申し訳なさそうに悠人を直視する。
すらりと伸びた小指にはブシュ●ンのキャトル・リング。
細い手首にはティ●ァニーの18Kチェーンブレスレット。
腕時計はメンズのものでアンティークのカ●ティエ。
イカ胸シャツが開けており(胸は小さいが)見事に灼けた首元で大きなダイヤが揺れていた。
「あ、いえ。すみません」
それらの価値など見当もつかない。
が、眩しいばかりの鎖骨から目を逸らし、素早く顔を伏せる悠人。
異様に背が高いだけでなく、お洒落でお金持ちそうで……と、こんな黒ギャルらしくないスーパーモデル級の上品な色黒美女を初めて目にした。
「…ううん」
長い前髪が俯いた少年の顔を覆っていた。
しかし、ニキビ塗れの赤らんだ頬、真っ赤になった耳たぶまでは隠せていない。膝の上で握り締めている手は凡そ汗で湿っているのだろう。それらを「きめぇ」と思うと同時に、こう何度も先に謝られては……と莉愛葉は持て余した。
そのとき、悠人の拳が幽かに震えていることに気付く。
そこで思いついた。
「お詫びにコレあげる」
絵里の飲み残したコーヒー・砂糖・ミルクを悠人の席に置く(押し付ける)なり、自身のコーヒーと絵里のスマホを持って大股に店を出て行く。
「え?」顔を上げる悠人。「あ、ちょっ…」遅かった。
戸惑う鼻に残るジ●ンシーの香水『●ンジュ・デモン・シークレット』を辿り、莉愛葉を目で追う。
…気付けば窓外に迫る夕闇。
そこで肩を竦めて歩いている莉愛葉と漸く目が合うも、すぐに流された。
と、その隣。
悠人の手もとを指さしている、もう一人の女の顔に気付く。
色黒美女と全く同じ恰好をした……スケバン風の色白美人。それは悠人と目が合うなりニヤリ笑い、真紅の唇を押し広げ、舌を突き出し、白目をむいた。
ぎょっとする悠人、慌てて目を逸らす。
何が起きたか分からなかった。
(え? 何? 今の何? てか、え? 何コレ?)
状況が把握できない。
が、目の前には……今まさに眺めた唇と同じ色の口紅。
それがギラついて妖しい飲み口を眺め、悠人のこめかみが脈打つ。血の上った頭とはチグハグに胸が早鐘を撞く。図らずも股間が疼きだし、留める間もなく騒ぎ始めた。暴れる性器を諫めようと悠人はすかさず貧乏ゆすり……というよりも両肢をバタバタ踏み鳴らす。
これを新しく後ろの席に着いたカップルが眺め、
「きも。何ソイツ。怖いんだけど」
「ツーバス踏む練習でもしてんじゃね?」
声を潜めずに揶揄う。
しかし、悠人の耳には入らなかった。
それどころではない。下半身にはせっつかれる。動悸に眩暈に……切羽詰まって息苦しい。生きた心地がまるでしない。
(え? てか、え? え? どうすればいいの?)
そこで悠人はもう一度、恐る恐るではあったが窓外に目を向けてみた。
既に誰の姿もなかった。
「ぶはぁ」息を吐く。
やっとこさ自由に呼吸できるようになり、ようやく正体を取り戻す。
勃起したところで中指程度の短く細い性器も萎んだ。
と、安堵ついでに尻まで緩み危うく屁を放るところであった。
さて。
御殿場辺りに生まれた人は勝俣か、勝又か、勝間田か、勝亦。
あるいは芹沢か、芹澤。大体それでお里が知れる。
多分に漏れず勝俣悠人も「そうだら?」などと騒がしい親戚連中に囲まれて育った。それでも正月には若松でなく門松を飾るほどの家である。
しかし、気に入らないことがあれば床を踏み鳴らす癇癪持ちの悠人。
〝かまってちゃん〟の自覚はあるが構われれば構われたで……必ず何か気に喰わない。赤子がグズるより性質が悪い。赤子は気が済めば寝る。ところが悠人の場合は虚しさが増し、余計に床を踏み鳴らす。
と、勝俣家では年明け早々この内弁慶に手を焼く父母を眺めることが恒例行事となりつつあった。
「あんなんで、これからどうする気だよ。進路だってまだ決まってねぇんだら? しょうもねぇ。お前が甘やかすから、あの馬鹿がつけあがんだ」と父の悠敬。
「悠人ぉ。自分の部屋に居てもいいけど、後で叔父さんにお年玉のお礼くらい、ちゃんと言いなさいよぉ」と階下から母の明美。
「あっはっは。まぁまぁ。悠人だって考えてるら。兄貴がそんなだから、やりたいことがあっても言いづれぇんだよ。好きにやらせてよ、それで何にもならなかったらウチで働いてもらえばいいら?」と叔父の英敬。
悠人は部活に入っていない。
塾へ通ってもいない。
家ではゲームをするばかり。
とはいえ、eスポーツ選手やゲーム実況者、配信者を目指すほどの熱意も器量も度胸もない。大剣を抱える美少女戦士『カント・デ・フローラ』が震わせる爆乳、どんな防具を装備させても必ず露になる絶対領域……を眺めて漠然と「もし、そうなったときの自分」を空想するだけ。
喋りは下手。ユーモアもない。誰の話に耳を傾けることもなければ相槌ひとつ真面に打てない。本も読めない。アニメも漫画も(理解できずに)すぐ飽きる。歌は苦手。ダンスは以ての外。絵もダメ。文章は目も当てられない。
と、そんなどれにも気付けないほど悠人の暮らす世界は狭い。
人見知り激しく控えめに思われがちだが、穏やかではない。
実際は他責に勤しむ典型的な低能児。やれ「世の中狂ってる」だの「社会が悪い」だのとする割に、そんな仕組みの上っ面ですら解答用紙にバツを貰う。
———「三権分立? 立法、行政、警察だっけ? まァ、最高権力者の俺が神。その他人間。他獣……が正解だけど。ふふん」
当然、成績は並以下。
更には特定されない場所でなら誰であろうと喰ってかかる。
いつだかはn●●eで見つけた〝毒親虐待サバイバー〟を自称する作家志望のメンヘラBBAライターに…
「昨日鬱になってドアで首吊ったんですよね? だったら、なんでそれ今日のネタにしてるんですか? 小便漏らしただけで死ぬ気なんてないですよね? 何がしたいんですか? 生きてても親の悪口ばっかだし、早く4んでくれてどうぞ。それがお前にとっての一番の幸せだし、世のためだし、親孝行にもなりますよ?」
…などと粘着し、開示請求騒ぎになった。
「自宅のPCから、こんなに何度もコメントしたんですか? 家にネット回線引いてます? ああ、ゲームするなら当然ですよね。なら、もう逃げられません。そのうち書類が届くと思います。まぁ50万ぐらい見ておけばいいので。せめて、テザリングでスマホをポケットWi-Fiにしてた…とかなら特定される前に有耶無耶になったかも分かりませんけど」と弁護士。
以来、MMO(大規模多人数同時参加型オンライン)のRPG世界でも暴言だけには敏感になった。
しかしVCで…
「早く。回復役フォローして」だの
「だから、叩かれ役なら突っ込めって。何やってんだよ。使えねぇ」
…だのと一丁前に文句を垂れても、
「うるせぇぞクソガキ。こんだけ人がいんのに何でも自分の思い通りになる訳ねぇだろ。黙るか消えろ。協力できねぇんなら独りでストーリーモードでもやってろや。空気読めカス」
と、その言葉尻をとらえようにもド正論。
頭がなければ何を言い返したところで返り討ち。
お陰で余計に論破され、悔し涙をしたためながら……今度はそこらに大剣戦士のカントを放置し、周りの足を引っ張る始末。
「マジで害悪。手前から突っかかってきといて、ちょっと言われたぐれぇで不貞腐れてんじゃねぇぞコラ。ネット向いてねぇよ生ゴミがよ。ああ、うぜぇ。俺こいつ晒すわ。てか、カント使いって碌なのいねぇ。どうせこいつも童貞陰キャのチーズだろうし」
そんな地元の中学2年。
ゲームの中の世界であっても何かが目立つ生徒ではない。
が、プライドだけは妙に高い。だから攻撃的になる。何もしすますことのない不為な現実から目を背けるために誰かへ不満の矛先を向け、貶めるより他に術がないのである。
こうして己の存在を高めようとするから鼻をつままれ、除け者にされ……それを行為でなく言葉で挽回しようとするから自意識過剰を拗らせる。
「誰も理解してくれない」とは、つまり「普通じゃないから」「天才だから」と脳内変換しなければ悠人は心を保てなかった。そして、いつしか「将来何者かになれる」と信じて疑わなくなった。
ところが、心は現実と理想の乖離に耐えきれるほど丈夫でない。
だから時には癇癪ついでに思いの丈を爆発させた。弱者代表にでもなった心地に己惚れて、常日頃から理不尽に心を傷めつけられている旨をSNSでぶちまける。
「この世界は残酷だ。悲しみは尽きない。生きるのは苦しい。それでも……ッ!! この世界は……ッ!! 素晴らしい……ッッ!!」
まるで闇落ちした主人公。
要は、誹謗中傷もゲームも被害妄想も自涜と同じ。
やれば必ず楽しくなれる。
やれば必ず気持ちよくなれる。
なのに、ほんの少しでも自我を出せば世界はそれきりそっぽを向くか、牙を剥く……と、決めつけなければやってられないだけだった。
そんな男がこの世には掃いて捨てるほどあるというのに、まったく自分だけが特別、選ばれし者だと言わんばかりに酔い痴れるから「馬鹿だ」と嗤われる。「思い上がり」と蔑まれる。余所目には、やることなすこと全て不愉快極まりない。
そのうえ悠人はニキビのできやすい肌質で、せめて額のそれは隠そうと前髪深く目にかかる。近寄れば分かるが、この年頃の男子特有の青く生臭い匂いも拭えない。他人の顔色を窺ってばかりいる目つきもいちいち胸糞悪い。
と、ひと言で「鼻持ちならない男」である。
だが、現世のどんな祝福に縁がなくとも誰の心の壷の中にも希望は残る。
それが悠人の場合はファッションだった。
腕力のない瘦せ型に、こうして服に物を言わせたがる傾向が強い。変身願望。支配欲。努力など要らない。金さえあれば優越感は手に入る。
詮無いことだが……もしも悠人の家に金が無く、それを自分で作るしかない環境であったなら、きっと立派な服飾系のクリエイターになれていたかも分からない。
閑話休題。
カフェを後にした悠人はGU●●Iの周囲をうろつくうちに(客の姿が見当たらなかったために入店できず二の足を踏んでいた)セレクト・ショップ『comma』のディスプレイに惹かれた。
手頃な価格帯、カジュアルな商品の取り扱いが多いせいか、夕方にも係わらず混雑している店内……をひと頻り眺め終える頃、
「何かお探しでしたか?」と店長の佐藤。
「え、あ。い、いえ。何となく」
「じゃあ、もしお時間よろしければ、明日からの目玉にしようと思って80%オフの棚作ったんで見ていきませんか?」
と、明らかに〝その店の一番お洒落でカッコいい人〟に導かれるまま……棚の前へ。そして気付けば、試着室の中で佐藤の話を聴いていた。
悠人はことファッションに関してだけは(自分が認めた年上に限るが)素直になる。負けを認めた訳じゃない。だって、学生とは使える額が違うんだから次の世代に未来を託して然るべき。それが大人の務めであるとすら思っていた。
「———季節感・素材・色を合わせる、ですね…」
試着室内にある自惚れ鏡(鏡面を歪ませているため、肢が長く小顔に見える)に商品を試着した姿を映しながら復唱した。
「そうですね。最近はカジュアル一辺倒から徐々にドレスへ回帰してるじゃないですか?」と佐藤。悠人の答えなど待たずに続ける。「デザインのきつい服が流行るときって大体その節目ですよね。何着ていいか分からないからデザイナーズ着とけばいいや…みたいな」
「そうですよね」知りもしないが張り合った。
「なので、今はカジュアルでも色数を抑えて大人っぽくしないと、だらしなくなったり汚く見えます」
その「汚い」を誰よりも気にするニキビ面の悠人、ドキリとした。
しかし、それを前にして平然と「汚い」と言ってのけた佐藤。いくらアパレル店員の多くが自意識過剰のノンデリ野郎とはいえ、そんなクリティカルに失礼な言葉を浴びせておいて悪びれる様子は一切ない。
これで悠人の気が緩んだ。
雰囲気ある風貌からは期待していなかったが、気取るところのない佐藤の熱心な接客態度に親近感を覚えたせいもある。
「汚い」……それは恐れていた言葉じゃない。
単に避けて通るべき道の異名。お洒落世界での俗語。世代を超えた共通言語。それを佐藤がわざわざ口にしたのも遍く人が陥りやすい〝色数の罠〟から悠人を救うため。この世に蔓延る〝お洒落っぽい〟から引き上げるため。
そうして本当にお洒落な人のアドバイスや後押しを受ければ、悠人の纏う〝神衣〟はより大きな風を孕み、より高みへ飛翔するだろう。よしよし。レベルアップ。また一つ跳躍の兆し。そして選ばれし者は次なる舞台へ————
「———だから全身柄と柄でも、そう見えなかったんだ…」ぽつり呟く。
「え? なんか、そうした格好の方でも見られたんですか?」
「あ、はい。さっきス●バで。モデルみたいな女の人が…なんか、バンダナ柄の上着と革靴みたいなのを白黒で合わせてました」
「ああ。多分それ『ルイ・ボスティーニ』って店の子ですよ。ふたりいませんでした? 同じ格好して」
「えッ? あ、はい。ふたりでした。あ、店員さんだったんだ…」
「あのふたりはマジで可愛い…って言うより、カッコいいですよね」
「はい…」
恥じらう悠人。
試着室の中で俄かに赤らめた頬……を不思議に思う佐藤。
と、刹那立ち昇った青春臭というのか、思春期臭というのか、汗と精液と負の感情との混ざる溝のような匂いに耐えきれず口が滑る。
「た、多分、社販だと思いますけど。でも、それにしたって、あそこのアウター平気で100万超えてきますからね」
「えッ? ガチすか?」GU●●Iよりも高い。
「ええ。他にもムートンとか、キャメルのコートとか着てくるみたいだから貸出じゃないと思いますけど。でも、制服の買い取りにしたって…アウター支給なんて聞いたことないですよ」
客に内部事情を漏らすメリットなどない。
しかし、試着室の外まで漂ってきた悠人の匂いに吐き気を催し、咄嗟に頭が働かなかった。口腔内に溢れた唾を吐き出したい。が、蓄えておくより仕方ない。
佐藤のそんな気苦労などは露知らず、
「そうなんですね」
悠人はまた一つ賢くなった。
レベルアップ。
ふくやの うらじじょう をおぼえた。
「良い物ばっか着れて羨ましいですよね。でも、あんな美人でゴージャスな格好した人と一緒にいたら緊張しそうじゃないスか? お金の心配ばっかしちゃい————」
「あ。なんか、さっきコーヒーくれました」
それをどこで言おうか待ち構えていた悠人、ここぞとばかりにおっ被せる。
と、悠人に試着させた幾つかの服を畳んでいた佐藤の手が止まる。
思わず唾を飲み下して訊いた。
「は? 何で?」
率直な疑問だった。
ところが悠人には佐藤の素の表情・素の声色が些か冷淡に感じた。
「え、あ、わ、分かんないです。座ってたら急に……口紅ついてるやつくれて」
おっかなびっくりではあるが、どうしてもそこまで言っておきたかった。
「へぇ。どっちも急にぶっかけてきそうなイメージですけど……でも、え~。いいっスね。どうでした?」
「え? な、何が?」
「え? コーヒー。いかなかったの?」
「…あ、はい……そのまま捨てました」
「え~。勿体ねぇ」大仰にお道化てみせる。「どっちの口紅か分かんないですけど、どっちにしたって買う人もいそうなくらいなのに」
「え? …い、いくんですか?」
「いくいく。余裕でベロベロいきますよ~」
聞いて、勝利に近いものを感じる悠人。
自分が認めた人物に、まさか劣らぬ部分があったとは。
だが、悠人は嘘をついた。
学校では心身ともに清潔を求められているせいもある。
悠人のように鬱屈とした生徒は「AIに生成させた大剣戦士カント……が凌辱されてチン堕ちする無修正同人漫画をオカズに」などと口が裂けても言ってはいけない。
ところが、どれほど女子に人気のあるクラスメイトであれ実機のビッチのアへ顔を眺めて、その唇の味まで知っている者などいないだろう。コーヒーの慣れない苦さが丁度好く、何度もそこに口を重ねて……実はきちんと飲み干した。
(あんなにお洒落な佐藤でも、別に大したことないじゃん)
と、バスの中。
車内後方は独りで掛けている者が殆どだが、二人掛けの席は埋まって見える。無表情な横顔でハンドルを握り、出発時刻を待っている運転手……のすぐ後ろの縦席で、夕方よりもさらに膨れたバッグを抱えて俯いている悠人。
疾うに19時を回っていた。
結局、閉店時間までcommaで佐藤にくっついていた。
(てか、ベロベロって……きも)
ふと綻んだ口元を誤魔化すため、悠人はすかさず咳をした。
誰も見ていないのにも関わらず。傍に誰もいないのにも関わらず。仮に誰かがいたところで、悠人のことなど気に留めないにも関わらず。
これは気分が好くなることに出会えば、いつまでもそれを反芻して記憶が褪せないようにする。哀れな男。自分に優越を与える者にしか気を許せない小心者。それも若気の至りだろうか。
他方の佐藤は口八丁。
こっちは【あなたの恋愛の発作をも警戒するがいい! 孤独な人間は、たまたま出会った者にすぐ握手を求めるようになる】というニーチェの言葉を知っていた。
それこそが接客の神髄。つまり「依存させるが金になる」と。プライドなんていうダサい服は脱ぎ棄て、さっさと自嘲を纏ってしまったほうが利回りいいとも。
羊の皮を被った何とやら……こうして狙い通り、悠人の自尊心を擽ることで容易に釣れた。口紅コーヒーの件は「どうせ嘘だ」と思い改めたが、それでも信じている態を貫いた。
何より、商品提案をする際には必ず理屈を添えてやる遣り口がきいた。悠人に金を払うための言い訳を立たせてやりさえすればいい。だから、まずは自分が店の商品を着て『やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば』金は落とさじ。
それでも外見を服の魅力で補いきれはしない。
時代よりも年齢に、年齢よりも顔の造りに、顔の造りよりもスタイルに、スタイルよりも内面(自信があるか等)に大きく依存するからだ。
それは誰しも免れない。
が、与えた言葉は客の心を慰める。与えた言葉が「俺は、私はダサくない」理由となって客の心を守るだろう。
畢竟、アパレルも情弱相手の商売。
しかし、たとえ流行が過ぎ去った後でも言葉……いや、知識が褪せることはない。センスは才能、具わるもの。こればかりはどうにもならない。だが、コーディネートは知識。勉強すれば手に入る。その積み重ねである。
と、悠人の匂いこそ受け付けなかったが、独り善がりに阿り始めた眼差しからは逃げなかった佐藤。お陰でまんまと有り金すべて———お年玉の残り2万を使い切らせた。
兎の刺繍も、縫製も雑なシャンパン・ゴールドのスカジャン……15,000円。
カレッジ風の黒いニットは何年前の売れ残りか分からない粗悪なアクリル製……2,000円。
ルーズなシルエットの黒いビニールパンツに至っては、たまたま目についたレディースのサンプル品……3,000円。
靴は……
「そのまま白で抜きましょう。全体的にボリュームのある恰好なので、靴も黒だと重たくなります。オッサン臭くなるって言うか…」
「でも、色は揃えたほうが好いんですよね?」
「ああ、色って揃え過ぎてもダサいんですよ。何にも考えてないみたいじゃないですか?」
悠人にもう少し背があれば靴が黒でも似合ったはずだ。
だが、持たないのならば無難に越したことはない。
「そうなんだ」
お洒落というのは塩梅が難しい。
だからこそ楽しい、だからこそ大人と張り合える……と悠人。
なるほど、なるほど。レベルアップ。
「てか、その白いスニーカーいいですね。アウトレットで買ったんですか? ウチにあるニューバよりいいじゃん」
心にもないお世辞と知らず、車内で再び綻ぶ悠人。
自身の新たな防具———いくつも能力が上書きされた神衣、もとい、トイレで全身着替えた真新しい服を眺めてまだ飽きなかった。とはいえ、白いスニーカーも14歳らしく汚れており踵も随分減っている。
つづく