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第5話 悠人、莉愛葉にストーカー扱いされる……1/13(金)19:30頃

 莉愛葉は23歳。
 かつて莉愛葉の母・裕子ゆうこ(現在42歳)は娘を連れて歩きたがった。
 確かに幼い頃から母娘仲おやこなかは良好。大きないさかいもなく過ごしてきた。しかし、高校へ上がるなり莉愛葉は家でゴロゴロしてばかり。裕子が外へと連れ出さなければろくに家から出ようとしない。

 おかしい……と裕子。
 従順じゅうじゅんすぎる。与えている小遣こづかいの額に不満を漏らしもしなければ(外へ出ないのなら大した使い道もないが)高校教諭にも「真面目で直向ひたむきな生徒」と評価され、どうやら悪態ひとつついた試しがないらしい。

 それすら裕子には不穏ふおんに思えた。
 腹の中では一体何をたくわえているのだろうか。
「顏も見たくない」「家に居たくない」「自由になりたい」
 いつ反抗してもおかしくない年頃としごろであるのに……とくつろいでいる娘の姿を眺めるたびに裕子はたまれなくなった。それは高2、高3となっても変わらなかった。

 子育てというものは上手くいけばいったで落ち着かない。
 一回性であるため間違いに気付いたところでもう遅い……のは言わずもがな。多くのことが生まれた時点(環境)で決定するのも致し方なし。だが、とどのつまり成功したかは判断できない。たで食う虫も好き好き。「何が幸せか」など人それぞれ。

 だから、目の黒いうちは「新聞に名さえ載らなければ」と願う。
 いくら可愛い我が子であれ、己のあしで歩き始めてしまった以上はいずれ己の道をく。道中「あれだけ言ったのに」と共に嘆くか慰めるか……最早もはやそれしか叶わない。余程の家柄であろうと、先祖のわだちかせることすらままならない。

 唯一の救いは多くの場合、子よりも先に親が死ぬこと。
 何がこたえか分からないまま気にせず逝けることだろう。

 なるほど、1982年生まれの裕子らしい悩みである。
 所謂いわゆる「キレる世代」であるせいか、人の心の奥底には必ず闇が潜んでいるものだと疑わなかった。それもそのはず、同年代の人間が起こした事件はそれほど世間を震撼しんかんさせ、平和な日々を脅かした。

 これにより社会の様相ようそうが大きく変わった。
 てんから信じ込んでいた他人を疑うようになったのである。
 親切心や善意……すなわ性善説せいぜんせつ。その美徳が崩壊した。

 もう他人を信用してはいけない。隣人は常に自分を狙っているものだとして疑わねばならない。挙動に目を光らせていなければならない。隙を見せてはならない。己の身は己で守らねば。誰も守ってくれやしない。何故なら、己の子ですら安心できなくなったのだから。

 いつ・どこで・自分や身近な誰かが犠牲者に(あるいは加害者に)なるか分かったものではない———神戸連続児童殺傷事件、秋葉原通り魔事件、岡山金属バット母親殺害事件など、すべて1982年生まれの人間が起こした凶行きょうこうである。

 ところで、莉愛葉が出不精でぶしょうなのはナンパだの、スカウトだの、隠し撮りだの……がわずらわしかっただけである。事前に避けて遠回りしていようとも向こうから寄ってきて、追ってきて、しつこい。うっかりすれば住んでいる家の場所までバレてしまうか分からなかった。鬱陶うっとうしい。出歩くたびにたかはえ。そんな苦労に絶えない世なら自然しぜん出掛けたくもなくなる。

 しかし、莉愛葉はそれを語らなかった。
 ろくに口すら開かない。
 母親に余計な心配を掛けたくない一心いっしん、そして(余所目よそめには綺麗に並んで見えたが)にわかに内側へり組み始めた上顎歯列じょうがくしれつを気にしてのことであったが、裕子のほうでは気をんだ。何を考えているのか測りかね……つまりはおびえていたのである。もしかして良からぬことを考えているのではないか、と。

 莉愛葉はあまりスマホに触れない。
 しかし、いつでも電話には出た。
 彼氏が出来れば連れてきた。そこで裕子は「やはり、とびきり目立つ可愛い子ほど容姿ではなく力の強さで男を選ぶものなんだな」と改めた。
 時には泣いているようだった。
 が、それもながくは続かなかった。

 莉愛葉の部屋にあるノートPCは検索に使う程度。
 そうしてWordやPowerPointで課題のレポートを書くのみ。
 マップを調べても、こそこそと何処かへ出掛けているような痕跡は見当たらない。SNSに精を出している履歴もうかがえない。いや、丁寧にその都度削除しているかもしれない。パスワードも誕生日と安直……ならば、これも裕子に見られている前提のパフォーマンスかもしれない。
 と、これこそまさに「窃鈇せっぷの疑い」そんな全てを疑いだしたらキリがなかった。部屋のどこを探しても日記や手紙や妙な写真も出てこない。

 だから裕子は共通の話題を欲した。娘の真情しんじょうを探るために。
 ところがドラマも映画も眺める程度。恋愛物に身を入れて頬を震わせている様子もなければ、残酷なシーンでは顔をしかめる。熱っぽく感想を語ることもない。アニメは観ない。ゲームはしない。バンドにもアイドルにもYouTubeにも、その他の動画アプリにも夢中にならない。小説も漫画も最後まで読まない。

 いつ覗いても……学業に関係する教科書や参考書を眺めているか、ポスターひとつない簡素な自室にてミシンを踏んで課題をこなしているか、あるいはヨガをしているか、あるいは「お母さん味見してくれない?」と台所で料理しているか、居間で寝そべっているか。

 人並み外れて派手な容姿を誇っているのに恋に夢中になるでもない。
 人気者にもなろうとしない。その癖、誰にもはばからない。真っ直ぐな視線で他人の目を見据みすえる。これは一体、糞真面目なのか何なのか……明け透けでとらえどころがなかった。
———「特に何がしたいわけでもないし」
 と、莉愛葉が家政科に強い女子高へ通ったのも学力の都合からではない。
 だったら花嫁修業じゃないけど……との打算からだった。
 お陰で被服製作和服、被服製作洋服、食物調理技術検定の〝三冠獲得〟を果たして卒業している。

 これでは反抗期など訪れるはずもない。
 莉愛葉がゴロゴロしていたところで裕子は何も言わない。いや、言えない。「勉強しろ」と言うまでもなく勉強しており、そして結果を出している。日常もそぞろに夢ばかり描いてふけることもない。ならば「どうせ叶わない」「どうせ無理だ」と立ちふさがることもできない。

 だから、せめて〝引き籠る〟を悪者にして遠ざけない限り、裕子の不安はまぎれなかった。こればかりは仕方ない。青天の霹靂へきれきを目の当たりにしたのだ。同年代の凶悪犯が世に与えた不条理の恐怖。身勝手で突発的で無差別で……その衝撃は裕子に限らず、誰の心の中にも恐怖のすみしたたらせた。

 一方で、かつて親に反発して家を飛び出した裕子自身のように傍若無人に振舞われるよりはマシだろうとも安堵した。
 家出してからいうもの裕子はまるで金が無かった。寝る場所を探して友だちに頼ってばかりもいられない。援助交際するしかなかった。そこで何度か身の危険と、性病にかかおそれと、後悔と絶望とを感じて途方に暮れている。

今の子・・・なんてそんなもの。自分のときとは時代が違う)

 けれど、二度と戻ってこない貴重な時間———即ち、若さを何に費やすでもない。ただなんとは無しに裕子の買ってくるセレブ向けファッション誌をめくっている。
 そこで裕子はすかさず、
「ねぇ。週末買い物行かない? この先どうするにしても折角そういう学校に通ってるんだから良いモノは沢山見といた方がいいよ」
 わざわざ、こんな大義名分を掲げなくとも莉愛葉が必ず「いいよ」と言うのも知っていた。

 従順すぎる。
 年頃にしてはそつが無さすぎる。
 それを不思議に思うたび、幼い時分は共働きで忙しく、どこへも連れて行ってやれなかったことを恨んでいるのかもしれない……と裕子に自責が膨らんだ。その反動か、家でチンマリ・・・・大人しくしている姿を見せつけ、まさか苦しめようとしているのではないか、とも。

 …当時は「デキ婚」に対する風当たりが強かった。
 18歳そこらで妊娠したのもマズかった。
 結婚の許しを得るための挨拶だとして家出から一年ぶりに男を連れて帰宅するなり(ロシア人である裕子の母は泣いて喜ぶだけであったが)大工の父に早速さっそく頬をはたかれた。
「合コンで知り合った」大型トラック運転手の響きも好くない。

 そのうえ…
「自分だって飲み屋で知り合った癖に」
「いい歳こいて若い女口説くどいてんじゃねぇよ」
「ハーフだからって散々馬鹿にされたんだよ」
 …と裕子もわめいて大喧嘩となった。
 お陰で裕子の母は「ごめんね。ごめんね」泣き崩れ、裕子の父は怒鳴るばかりで聞く耳持たず、更には向こうの両親にも反対された。しかし、周囲が面子めんつ世間体せけんていを気にしてばかりいるうちに入籍は済み、莉愛葉が生まれた。

 結局、いくら反対したところで裕子に堕胎する気がなければ認めるしかない。だが、親が文句を言うのも腹が大きくなるまで。孫の顔を目にしてしまえば、つぐむどころか「会わせろ。会わせろ」ほころぶばかり。
「今度はいつ莉愛葉ちゃん連れてくるんだ?」
 それどころか、まだ若いふたりに任せておけない……と、そうして裕子は「莉愛葉ちゃんの今後のため」を理由にパートへ出され、代わりに互いの祖父母が連日れんじつ孫を可愛がった。

 こうして昼は両祖父母に甘やかされ、夜は父母に愛され、北戸田あたりでぬくぬくと育った一人っ子の莉愛葉。

 やがて裕子を「負け組」とののしってきた仲間たちも気付けば皆30歳を過ぎた。若さにかまけてメンテナンスを怠った肌にはツケが回り、シミやらしわやらほうれい線やら……顔には早くも老いがきざした。
 頬の肉も、顎の肉も、腹の肉も落ちない。乳首や性器も黒ずんだ。それを鏡で眺めるたびに溜息をつき、そして結婚に急いだ。口では「そろそろ落ち着いてもいいかな」などとうそぶきながら。

 そうした者の多くは2024年現在(妥協に妥協を重ねたにもかかわらず)転職を繰り返してばかりいる「毎月の手取りが20万いくかどうか」なロストジェネレーション世代の旦那を持つか。

 それが見栄やら卑屈をこじらせたのか、人間関係に亀裂が生じてんだのか、あるいは「こんなはずでは」「俺はもっとできるはずなんだ」ムキになって空回りしたのか……鬱となり、全て投げうち、胆力たんりょくまでもが抜け落ちた背を眺めながら「何のために結婚したんだろう」悩んでいるか。

 あるいはモラハラやDVの絶えなくなった甲斐性なしの旦那と離婚しているか。高齢出産により障害を抱えた子を持つも生活苦で満足に療育りょういくさせてやれないか……と、明日も明後日も続く気苦労をうれいている。

 いまだ独り身のまま40歳を過ぎた者はSNSにはげむしか能がなくなった。
 男叩きに躍起やっきとなるうちフェミニスト活動が過激化し、ありもしないハラスメント被害を捏造ねつぞうして同情を誘うか。誰にも相手にされないからと成功者をねたんでばかりいるか。不平等やら不公平やら、事あるごとに社会を憎むか。「死にたい。死にたい」ただ嘆くか。年甲斐もなく〝し〟だの何だの……娘気取りをやめないか。

 どうあれ、今となっては誰しもが裕子のことを羨むばかり。
「裕子? 今度の土曜暇?」
「あ。ごめん。娘と出掛けるんだよね」
「…じゃあ、今ちょっと時間ある?」
「あ。これから用事あって急いでてさ。ごめん。また連絡するね」
 古い仲間のどんな電話も長ったらしい愚痴を聞かされるか、金の無心をされるかでうんざりしていた。

 ところで裕子は莉愛葉の買う服を否定したことがない。
 シンプルなマリンボーダーのカットソーにリジット・デニム……など自分には何が似合うか、それを莉愛葉が俯瞰ふかんしていたせいもある。
 しかし、その個性の無さ。
 それが裕子に物足りない。
 目にする姿は至極しごく普遍ふへん。お陰で顔やスタイルは映える。が、だからこそ見えない心を不気味に思った。

 そもそも莉愛葉は学校の課題で製作する被服———限界までゆとりをいだ原型ですら着用できるほどスタイルが好かった。そうであるなら、装飾を施して視線が向かう先を誤魔化したり、余計な意匠デザインせて体型を覆い隠したりする要もない。

 と、じき訪れたジェンダーレス・ファッションの潮流ちょうりゅう
 フーディパーカー。
 ダッドスニーカー。
 マウンテンパーカに、ウールコートに、コーデュロイ素材のジャケットパンツのセットアップに……それらは「男物か?」と思えるほどたっぷりとした身幅に加えてドロップショルダー。

 これにより人一倍背の伸びた娘の服を着ることができると知った裕子。
 それは、まだ乳離れしない莉愛葉を(自分の娘であるのに引き剥がされ、ろくろく乳すら与えてやれないまま枯れたが)眺めていた時分に感じた歓喜の再来に近かった。

 掛けがえのない時間を、掛けがえのない存在とともに共有する喜び。
 要は親子の絆、目に見える繋がりが欲しかったのである。

 すると、なぜ裕子の母が宝石や時計をのこしたがったか……それがようやく分かった気がした。それまでは手放すことを惜しんでいた母の遺品を棚の奥から取り出して、すべて莉愛葉の手に譲る。
———「私のは旦那ちゃんが買ってくれるから」
 18歳になったばかりの莉愛葉はそれを喜ばなかった。
 裕子の目にはそう見えた。
 が、その実どれも肌身離さずつけていたためホッとした。

 …裕子は日々に追われてきた。
 18~19歳で結婚出産。青春半ばの道を断ち、以降は友人らに、
「あんな旦那の何がいいんだよ。大型つっても免許取りたてで全然稼げてねぇじゃん」
「ウリしてるとき、このままじゃヤバいってりたんだって」
「だからってコンビニのレジ打ちかよ。アイツ、もう終わったじゃん」
 などと陰口を叩かれながらも、ただ莉愛葉のために尽くしてきた。

 そんな時期もうに過ぎた。
 事故も大きなミスもなく一か所の運送会社に勤め続ける裕子の旦那———莉愛葉の父・後藤啓介けいすけ(41歳)は既に役職持ちの内勤となり、もはや誰にも馬鹿にされない。それほど「お前みてぇな奴は、どうせすぐ辞める」「どうせ碌な娘に育たない」と言われることが悔しかった。

 ただでさえの就職氷河期。しかも高校中退の啓介。
 数年間は土木作業に従事していたが(啓介の親が足場屋を経営しているための縁故えんこ入社)腰を壊してやさぐれた。そこで裕子に出会った。早速妊娠が発覚した。
「俺、何してんのかな」
「金もねぇのに、このままでいい訳ねぇよ」
「裕子と俺たちの子のためにも」
 裕子に幾らか遅れて18歳になった日、啓介は大型免許を取得。
 それでも十数社渡り歩いて……やっとあり付いた仕事であった。そこで先輩らに、
「何だこの弁当。コンビニ弁当詰め替えただけじゃねぇのか?」
「どうせ残飯みてぇな顔した馬鹿女なんだろ?」
 と揶揄からかわれ続けながらも、しかし傍目はためには「勘弁してくださいよ」へらへらしているように思えた。

 ところが、その実はらわたの煮えくり返る思いで「絶対に見返す」「絶対に幸せにしてみせる」と一意専心いちいせんしん業務に打ち込み、愚痴はらさず顔にも出さず……と、みるみる出世した。周りが勝手に辞めていったせいもある。お陰で今や随分な余裕と時間ができた。

「ウチの実家改装するから、そこに裕子のお父さん呼べるかな」と啓介。
「え? 何、急に。御実家どうしたの?」と裕子。
「いや、親父おやじがさ……もう飯場はんば使う奴いねぇから取り壊して、ソッチに俺たちの家建ててやるってよ。莉愛葉も社会人になっちまったから今更いまさらマンション買っても仕方ねぇだろって」
「…うん」
「でさァ、莉愛葉の部屋作ろうとしてたから、裕子のお父さんの部屋にしてくれって頼んどいた。飯場が済んだら次は母屋おもやリフォームすっから頭回ってねぇんだよ」
「どういうこと? 意味分かんないんだけど」
「足場屋は莉愛葉が結婚したら、そいつに継がせんだって。だから、いつ莉愛葉たちが住んでもいいように綺麗にしときたいんだと。いくら何でも気がはえぇっての」
「ふふ。ありがとう。今度伝えてみる。お父さんも〝独りじゃこんな大きな家いらない〟って言ってたし。つぅか、旦那ちゃん大ちゅき」
「ははっ。全部、奥ちゃんが支えてくれたお陰でしょ?」
「でも、もう歳なんだから腰に無理しないでね」

 目下の金の心配がなくなったせいで……というより「母」という憑き物が取れ、裕子は身が軽くなった。それは単純にひと仕事終えた心地に似ていた。思い返せばあっという間の18年。

 だが、子育ての——いや、娘が母へと与える喜び。
 莉愛葉が裕子にもたらした幸福。
 それを既に獲てしまった者の目には18Kの輝きも、ダイヤのきらめきも、価値の変わらぬ時計も、憧れだった「天下のルイ・ボスティーニ」も色褪せた。裕子も裕子で歳を取り、手当たり次第に欲をかく体力が衰えたせいかも分からない。

 そうして高3時分の莉愛葉にペイズリーのみで彩られた豪奢ごうしゃな世界を触れさせたのは、かつて自分を馬鹿にした友人や、少子化によってしれ・・っとてのひらを返した世相せそうへのささやかな復讐心からかもしれない。それが裕子に残る最後の意地だったかもしれない。

———「水族館行きたい」まだ幼い莉愛葉。
 祖父母の家に送り届けるなり、パートへ行こうとする裕子の手を放そうとしなかった。
「うん。そうだね。もう少ししたらみんなで行こうね」———

 遠い日に残してきた数々の約束。
 その罪滅ぼしだったかもしれない。
 だが、そうして莉愛葉がルイ・ボスティーニを気に入るのなら、裕子がそこにあやかればいい。

 と、何を買うでもない裕子に付き添い「莉愛りあが着てみて。いらなくなったら私が着るから」と試着室から顔を覗かすなり…
「え? 娘さん、まだ進路決まってなかったんですか? もうじき卒業ですよね? じゃあ、ウチで働きませんか?」
 …という話に出迎えられた。
 そして莉愛葉は百貨店内にあるプロパー店舗でアルバイトを始める。

「今は新卒採用も厳しくて。だから、もし後藤さんがよければだが……アウトレットで販売の勉強をしてみる気はないか? そこでなら社員にすることが出来る。一年間はこちらで寮も用意する」

 やがてルイ・ボスティーニ・ジャパン本社へと呼び出された制服姿の莉愛葉。並べられた「社員」や「寮」の響きはいいが……紋切もんきがたの解雇通告。しかし、勤務を開始して1~2カ月。販売に係る資格を持たないアルバイトにしては特別待遇だろう。
 と、そこで莉愛葉は即決し———御殿場に移り住んで5年経つ。

 性急にも思える決断をして帰ってきた莉愛葉に啓介も裕子も驚いた。
 が、8つの頃に始めた剣道を(裕子の母を早くに亡くした裕子の父の影響。悲しみを断ち切るため、大工仕事のないときは一心不乱に手製の竹刀を振っていた)中学卒業と同時に辞めて以来、何をするでも「何がしたい訳でもない」と無為に過ごすばかりの娘を北戸田あたりに引き留めておく理由などなかった。

 初めこそ「5%」の魅力に取りつかれ金がなかった。
 が、莉愛葉は元来慎重な性質である。
 啓介が出世するまで狭いアパートで身を寄せ合い、余裕のない暮らしぶりが続いたせいかも分からない。正社員となって2年目には金を貯め始めた。3年目には免許を取った。プジョー207も買った。

 気楽な一人暮らし。
 2年目以降も引き継いだレ●パレスの支払いこそあれ、日々に何を我慢するでもない。人間関係の和を乱すことを恐れ、業務には忠実。説得力のある容姿、落ち着き払った物腰で着実に顧客を獲得して売上を伸ばした。危惧きぐされていた「若さ」であったがアウトレット店・店長の日下部くさかべの口添えもあり、特例で家賃補助の給付が今も継続されている。

 ところで、莉愛葉は定価6万の服を3千円で手にすることができる。
 シーズン遅れの物に限るが、アウトレット価格(定価の4割引き)から更に10%オフセールでも1万する靴下は……定価が約2万円の5%、即ち1千円程度。なら、余所よその服屋に金を落とす機会もなくなる。そのうえ1千円で覚えたシルクの暖かさには、どんな技術テックも及ばなかった。

 こうして上質素材を体が知れば、来店する富裕層に対して身構えることがなくなる。背伸びすることがなくなる。決して対等ではない。だが、払う額こそ違えど着ている服は同じ。お陰で毎日目にするペイズリー……即ち「うるさい柄」をどう扱えばよいのか、それを我が身のこととして考える。

 ファッションを楽しむ者の声に客は耳を傾ける。
 ファッションを楽しんでいる者の手に客は身をゆだねる。
 すると、迂闊うかつなことが言えなくなる。
 そこで、ちゃんと勉強しているかが露見する。
 自ずと従業員間に差が生まれ、熱心な従業員に客がなびく。
 これが給与に反映される。

 そして自社製品への愛も感謝も深まり、また5%で服を買う。
 服が増えれば着回しを考え、新たなコーディネート案が生まれる。
 それに客が耳を傾け「あなたじゃなきゃ駄目ね。またお願いするからお名前教えて」と金を落とす。
 その成果が給与に反映される。
 と、従業員同士の競争が生まれ、互いに切磋琢磨せっさたくまして———この円環えんかん。それこそが「THE Lungimiranza先見の明」エン氏の狙いであった。いくら繊維業界が在庫や廃棄処分費用に頭を抱えているとはいえ、5%で原価が補えるはずもない。

 と、莉愛葉はいよいよ歯並びが気になり始めた。
 正規ディーラー店の展示車だった200万円程度のプジョーの支払いは済んだが、両親に借りたセラミック費用の返済が残る。
「ローン組んで知らない人に金利払うくらいなら、お父さんとお母さんに払いたいんだけど」
 お陰で再び貯えもないが毎月6万(返済5万。金利という名の仕送り1万)それだけ返済していれば、じき終わる。それを裕子が「必要になったときのために」と莉愛葉名義で貯蓄しているのも知っていた。……

「しつけぇって」と莉愛葉。
 抱きついたまま離れようとしない絵里を引きずり、御殿場インター前で下車する。ロータリーの外れにある待合室前に降り立つも……美しい顔を向かい合わせて尚もじゃれている。
「あれ?」辺りを見回す絵里。それから「武いねぇじゃん」莉愛葉の耳に囁く。
「ちょっ。くすぐった」肩を強張こわばらせる。
「ぁは」と絵里。吐息交じりに言う。「舌いれたげよっか?」
「ふっ。きも」絵里を振りほどき、白い歯と笑窪えくぼを覗かせて言う。「じゃ明日ね」
「送ってくのに」
「いい。てか、キメすぎて明日遅刻すんなよ」背を向け歩き出そうとする。
「じゃ、チュウして」その背に飛びつく。
「悪いことする奴には無理」振り向かずに言う。
「あ、わり。電話」莉愛葉からパッと離れる。「じゃね」
「…うん」らしたつもりが袖にされ、少しへそを曲げた。
 立ち止まり、振り向く莉愛葉。
 その表情に気付いた絵里。
「ふっ。ネコの癖に素直じゃねぇから」
 口の端に舌を覗かせる。
「チュウは明日までお預けな」
 覗かせていた舌をしまい顔を背ける。
 スマホを取りだし耳に当て、
「おい穂乃果ほのか。おめぇさァ、死ぬ死ぬってラインしてき過ぎ。面倒く———ああ?」
 待合室へ入っていく絵里……に、ぶつからないよう悠人が過ぎる。
 目の前でイチャイチャされていたせいで、そこらに佇んだまま動けずにいた。

 こうして莉愛葉の背を追う形となった悠人。
 一度、莉愛葉が白いリュックから何かを取り出しているのを眺めた。
 その際に短く目が合っている。
 だが、困ったことに……歩く速度が思いのほか遅い。
(あんなに肢が長いのに)
 うつむいて気にしないよう努めるも、気づけば目前に莉愛葉の背が迫り、咄嗟に足を緩めて逡巡する。
 それを何度か繰り返した。
 完全に不審者だった。行動すべてが裏目に出ている。悠人は焦った。そして、いつまでもそこで「さっさと追い抜けばよかった…」という後悔に留まらせた。

 なるほど、悠人は自惚れである。
 そうしてオドオドしてさえいれば、心が通ずるものだと思っている。向こうが気に掛けてくれるのを期待している。新しくした装いにいくらか自信を持ち直してもいた。「ス●バに居たよね?」と気付いて貰いたい。だから追い抜かずにモジモジしていた。

 と、立ち止まる莉愛葉。
「何?」
 突然向けられた声に顔を上げる悠人。
 目にかかる前髪の中から……冷たい視線、冷たい顔が行く手を阻んでいるのを見上げて足を止める。
「え?」
「なんでついてくんの?」
「あ、いえ。す、すみません。え、あの、うち、こっち…」俄かに膝が震えてきた。
「へぇ。嘘だったら警察呼ぶから」そして何かのつかで道をうながす。「この道?」
「え? あ、はい…。あ、あそこ…に少し見えてる家…」
 莉愛葉の白い手袋が握っているのは、先にリュックから取り出したジャンプ式警棒のそれだろう。
 と、ようやく見当をつけた悠人、慌てて道の先を指さす。
「前歩いて」その指先でなく悠人を見据えて言った。「逃げても通報するから」
「…はい」そうして歩き出す。
 その背について歩く莉愛葉。
 悠人はこの事態に戸惑った。動揺していた。やがて幾らか怒りが湧いた。
(え? 何これ? 俺、何にもしてないら? なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ)

 しかし、一度ひとたび女に身構えられたら何を言っても仕方がないことなど……たとい中学へ通っていない者でも知っている。悠人に友がいないのは中1時分、クラスの女子に「言いたいことがあんならハッキリ言えよ。チラチラこっち見て笑うんじゃなくてよ」と詰め寄ったせいでもある。

 終わりだ。
 悠人のほうでは「まさか気があるんじゃ」と思っての照れ隠しだったが、実際は…
「オタクの癖に肢だけバタバタ早く動かすからキモくて。それ、やめてくんない? 目障りなんだけど。てか名前なんだっけ? 初めて声聞いた。てか、顔きったな。こっち見んなし」
 …と、お陰で以降しばらくは誰からもわらわれた。

「これ、誰の真似か分かる?」
「あ~、やんなくていい。どうせひっくり返ったゴキブリみたく脚カサカサやるだけだら? 考えただけでキショいんだけど」

 そんな悠人が、もし不審者として警察沙汰になったらどうなる?
 狭い町だ。中学には近所の奴しかいない。噂なんてすぐに広まる。今だって誰に見られてるか……と不安が悠人の胸を巡る。
 ところが、その実満更まんざらでもない。後ろから続く足音に耳を澄まし、再び鼻腔びくうくすぐった莉愛葉のかおりを思い返しながら、
(でも、もしかしたらワンチャン…)
 と、この状況下ですらも〝出会い〟として発展しないか期待してしまう、世間知らずな淡い心を浮き彫りにしていた。

 他方、遠回りする羽目に陥った莉愛葉。
 確かに悠人が示した家は近所、その外観に見覚えもある。が、とっくに自身のレ●パレスは過ぎた。ここまで歩く時間があるなら既に玄関戸を開けていてもおかしくない。

 ところが目の前には———知りもしないガキの後ろ姿。
 如何いかにもスマホばかり眺めていそうな猫背。いや、猫にも申し訳ないほどの背虫せむし。そこでポリバケツよろしく膨らんだバッグパック。それが重く揺れるたびに莉愛葉は車通勤していないことを悔やんだ。 

 …プジョーを購入してすぐのこと。
 一度もの凄い勢いで後ろから追突され、すぐさま降りてきた中年男に襲われそうになって以来、莉愛葉は車での通勤を控えていた。
 たまたま他県から「買い物をしに来た」らしいが本来の目的は強姦。コロナで職を失い、その腹いせに目立つ女を泣かせては世直しだとするキチガイだった。

 自衛隊の飛行機が富士の近くを舞うたびに「今すぐ電磁波攻撃をやめろ」だのと呟き、γガンマ線測定器を片手に作業着姿でモール内をうろつく。
 ひと通りの店を測定した後、最も数値の高かった店……から出てきた莉愛葉がそれに待ち伏せされ、後をつけられた。
 アウトレット施設の裏にはゴルフ場と稲田しかない。街灯も人家もない。従業員用の駐車場から出てくる車は、そうして時にいのししの飛び出してくる暗い山道を家へと帰る。

 その道すがら、土手に乗り上げているプジョー207。
 車体後部には年式の古い軽自動車が突き刺さっており……エアバックを押しのけながら、窓を割られた運転席を開けられないようあらがっている莉愛葉。
 と、じき退勤してきた日下部くさかべやcommaの佐藤、他の店の従業員たちによって中年男は取り押さえられた。

 軽いムチウチ。爪が二枚はがれた。そして、歯を食いしばったせいで余計に上顎歯列が入り込むこととなる。が、他に大きな怪我は無かった。中年男の母親がすぐに莉愛葉の車を買い替えた。これで本当の新車となったが、示談金までは受け取らなかった。と、勾留期間中に中年男の余罪が発覚。大きなニュースにもなった。

ごう」のつく罪は重い。
 しかし、刑務所内カーストは最下位。力では到底及ばぬ荒くれ者や、ヤクザの下っ端である薬物中毒者や……に囲まれさげすまれ、しかし、どこへ逃げだすこともできない。が、ピンク性犯罪者は総じてプライドが高い。そんな悔しさに耐えきれず、自ら命を絶つ者が多い。

 それから数年。未だに恐怖はえていない。
 莉愛葉の肌が灼けているのはジム通いを始めることとなった、そのついでである。中学以来の運動。なまった体には愕然がくぜんとした。それは今、より美しく引き締まった身体を築く一方で絵里以外の人間———すなわち、心を許していない者らに対しての神経質を亢進こうしんさせる要因ともなった。

つづく