第6話 絵里、武と別れ桜とともに穂乃果のもとへ向かう……1/13(金)19:45~ ※推敲中
東名高速・御殿場インター。
小さな料金所の前には送迎の一般車両が3~4台駐車できるスペースだけを設けた簡素なロータリー。付け待ちのタクシーも見当たらなければ灯も乏しい。
そこにある高速バスの待合室。
その中で独り座っている絵里。
横浜へと向かうものは既になく、バスタ新宿(新宿駅新南口)へ向かうバスを一本残すのみとなった。莉愛葉と別れて10分。と、3代目タコマが待合室の前に駐まり、クラクションを鳴らしていることに気付いた。
「遅せぇよ」待合室から姿を現し「莉愛葉帰っちゃったじゃん」と絵里。
助手席に乗り込むなり、運転席にいる人間へ白いリュックを投げつける。
そこいらでは未だ、警棒を握り締めた莉愛葉が悠人と歩いているのも露知らず続ける。
「てか、この車誰の?」
「ごめ~ん」猫撫で声で武。「三春がなかなか爪切らせてくれないから」
踏ん反り返る絵里……とは打って変わり、武は艶やかに身を捩って後部座席へリュックを置く。空になった弁当箱と歯ブラシ、ハンドタオル、都合3万円程度の現金(裸の札が数枚と小銭)しか入っていないため、それは軽かった。が、赤子を寝かせるかのような丁寧さだった。
「あっそ」ペイズリー柄のスリッポンを履いたままボンネットに足を上げる絵里。「アイツに引っ掻かれて、墨抜けたらお前持ちだかんな?」
「だから、遅れるの承知でやってきたんじゃない」と武。「怒られるほうがマシだもん」
「はッ。こないだネタに回す金飛んだもんな」
「そうよ。だからもう指とか手の甲には入れさせないからね。ただでさえ家じゃ裸なんだし、こっちは気が気じゃないわよ」
「じゃ、掌にしよ」
「この天邪鬼……てか絵里、一番手前の棟の角部屋のオヤジ分かる?」続けて言った。「ほら、よく大声出してんじゃん。〝何だお前ら待ち伏せか〟って」
武は絵里の現・同居人である。
由比武。じき40歳。絵里と比べてひと回りほど年嵩だが、身の回りの世話はすべて武が焼いている。
黒目を大きく見せるコンタクト。緩いパーマのロブ。首に至るまで厚く塗ったファンデーション。ハッキリとしたラインを描く柳眉。目もと・口もとにホクロを描くのも忘れない。
と、武はトランスジェンダーであり、元はプロの格闘家であり、下は未施工のままだが嘘くさい巨乳。身長190cm。風船のように形よく膨れたGカップの胸以外には無駄な贅肉がないばかりか未だ筋肉質に引き締まり……しかし、そんな容姿も絵里の尊大な態度の横では小さく思えた。
「ああ。あのやべぇのか」絵里も思い出した。「たまたま顔合わせただけなのに〝俺を狙えば金になるんか? 110番すれば金になるんか?〟って騒いでたもんな」
「そ」と武。「私らにモデルガン乱射しながら〝助けてぇ。集団ストーカーに襲われていまぁす。警察呼んでマジで〟って」そこで堪らず吹き出す。「あれで自分が警察呼ばれてんのマジウケる」
「笑い事じゃねぇだろ」絵里は呆れた。
「そいつ岩門って言うんだけどさ。たまに私が抱っこして寝かしつけてやってんの」
「なんで?」
「インポだから何もしてこないし、財布から金抜くついで。でも、こないだ安定剤効いてるときに〝この車好きに使っていい〟って鍵預かったのよ。アイツ普段は自転車だから」
「しょうもねぇ。金は勘弁してやれよ。バレて困んのお前だろ」
「……へぇ」俄かに信じがたい発言だった。
「何だよ、へぇって」気怠そうに訊く。
「ううん。もうやらない」
武に拠れば、岩門は官僚の嫡男である。
と、まず岩門の母が宗教関連者に目を付けられた。
次いで幼い岩門がどっぷり染まった。
そうして早いうちから唾をつけ、やがて宗教団体にとって都合の良い人材となるよう目論んでのことだった。
が、国家公務員採用総合職試験に受からず、その後、壁に何度も頭を打ちつけるという壮絶な自傷行為の末に気が触れた。
以降は絵里らの暮らす人気ない古びたマンションで療養……とは名ばかりの遁世を強いられている。
「つぅか、莉愛葉ちゃん冷たくない? 最近会ってなかったのに」
そうしてタコマは東名高速道路(上り)に乗った。
いくら手術を施し、半年間かけて女性声帯を定着させたとはいえ、武の声にはどこか調子っぱずれな違和感が残る。
「いつでも会えるよ」スマホを眺めながら絵里。「それより足柄のサービスエリアで穂乃果待ってるから、悪りぃけどウチはそこで降ろしてって」
「え~。折角ドライブだったのに」言い終え、ふと真顔になる。「あのメス嫌い」
鼻で嗤うなり「ゲイの鑑だな」と絵里。
「ゲイじゃないし。てか、あの豚、今日は何の用なの? …あ。先に言っとくけど、帰ってきて家にいたら私また手ぇ出すから」
「死ぬんだって」煙草を咥え火を点ける。
「フン。またかよ。私が殺してやるって言ってんのに」助手席の窓を薄く開ける武。
「てか、しつけぇなァ…」
絵里が手にしているスマホにはメッセージの通知が絶えなかった。
ひっきりなしに「寂しい」「早く来て」などと同じ文言ばかりが送られてきている。
それを横目に「で? 今日は高速に飛び込むつもり?」と武。如何にも馬鹿にした調子で続ける。「こないだは、家のバルコニーから飛び下りるって言ってたはずだけど」
「ああ」と絵里。煙草を喫み込み、吐き出すついで「どうだろ」と車内の床に灰を落とす。
「ねえ。不思議なんだけどさ」と武。鳴りやまないスマホを見つめている絵里の横顔に訊く。「なんで、あんなしょうもねぇ奴を目に掛けてあげるわけ?」
「ツレだから」
「ツレって……タメで地元が一緒ってだけでしょ? 莉愛葉ちゃんと違って、アイツはただのクソ汚ねぇヤリマ———」
「おい」
喫んでいた煙草をハンドルを握る武の拳に押し付けて、揉み消す絵里。幽かに皮膚の焼ける匂いが立ち昇るも、武は微動だにせず前だけを見ている。が、口は噤んだ。
その拳には、絵里に焼かれるより以前に自らでつけた根性焼きの跡が幾つも残る。
「よく回る舌だな」
吸い殻を車内に抛るなり、リブパンツのサイドポケットに手を突っ込む。そこで何やらカチカチ……と音を鳴らした。武の顔を覗き込みながら続ける。
「居候の分際でベラベラ煩せぇよ。そんな危なっかしい舌なら、とっとと切っといたほうが身のためだな」
「ごめん。だけど、莉愛葉ちゃんのせいかもしんないけど、絵里も変わったなって」
「どう変わったんだよ」再びカチカチ……どうやらポケットの中で握っているカッターナイフの刃をしまった。「お前だって、そこまでウチのこと知らねぇじゃん」
「優しくなった」灼かれた拳にフーフー息を吹きかけながら言う。
「気持ち悪りぃ」
「だって」
「でもアイツ、ほっときゃエイズで死ぬのにな。それがガキできた途端に〝男は裏切るから子どもと一緒に死にたい〟とか言って道連れにしようとしてんだから」流石に笑うしかなかった。
「…ごめん。やっぱ穂乃果嫌い」
金さえかければ女の姿に近付くことはできる。
だが、容姿だけでは満足いかない。色恋なんかで誤魔化したところで物足りない。武は一生それに堪えて生きてゆかねばならないことを知っていた。
胤として生まれた以上、完全に畑となれる日などこない。
運命の悪戯か、まさか容器を間違えられたせいで……子どもだけは欲しくてもできない。
男であれば実に恵まれた体だったろう。その鬱憤を晴らすために始めた格闘技、狂暴なファイトスタイルでどんな相手ものしてきた。
だが、そんなことで心は決して満たされなかった。
姿どうあれ女であるのに、どうして母になれないのか……しかし、そう思って拳を振るうたびに武の勝利数は嵩み、お陰で誰もが男の花道に就かせようと躍起になった。
そのせいもあって、もう産めないと知りながらこさえた穂乃果の性根に武は心底我慢ならなかった。
「はッ。穂乃果を好きな奴なんていねぇよ。莉愛葉なんて露骨にウンコ見るような顔するもん。〝寄んな〟とか言って」
「きゃはは。莉愛葉ちゃん大好き」
「それに、ツレなら止めんのが普通じゃねぇの?」
「え? 絵里が止めてあげてるんじゃないの?」
「まさか。死にたきゃ勝手に死ねっての。アイツがビビってるだけ」
「…だから、不思議なの」窺うように続ける。「構って欲しいだけじゃん。なんで、そんなの相手にすんのよ?」
「なんでだろ」窓外を眺めて絵里。
立ち並ぶオレンジ色の道路灯が流れていく。
「…アイツさァ、もう真面に歩けねぇからよく転ぶし、記憶も途切れ途切れだし。だから、せめて死ぬとこくらい見届けてやんねぇとな」
「横浜行くついでだから今日は別にいいけど。でも今度、穂乃果が待ってるって聞いても送ってってあげないから」
何だかんだ言って、やっぱり絵里が気に掛けてくれるから死なねぇんだよ……と思う武。ついでに、まぁそんなところが憎み切れないんだけどね、とも思った。
「でけぇナリして、小せぇ男」
「男じゃないから」絵里に比べて仕草は余程女性らしい。
「じゃ、アイツ死んだらSAの風呂入ってるから」
「あそこ入墨お断り」
「嘘つけ。トラックの運ちゃんしか来ねぇんだから平気だろ」
「バレた」白状する。「そう言えば一緒に横浜行ってくれると思ったの」
「今度な。どの道今日は足柄に用があんだよ」
そうして3代目タコマは高速本線を逸れ、足柄SAに入っていった。
さて。
足柄SA(上り)のフードコートには桜がいた。
「悪り。遅くなった」
慌てる風もなくソールをツカツカ踏み鳴らして絵里。
桜が韓国から帰国し、成田空港から足柄まで高速バスを乗り継ぎ、今度はSAまでタクシーに乗り……と、しかし存外道が流れていたため、そこへ着いて1時間以上が経っていた。
ペイズリー柄のスリッポンが目の端に入るも、桜はスマホを眺めたまま顔を上げない。
「いいよ。別に」
本名、松平桜。
もとは子役として13歳から日本での芸能活動に従事していた。
が、鳴かず飛ばずのまま10年が過ぎた。やがて事務所との契約を更新せずに単身韓国へ。既に日常会話が交わせる程度の韓国語と英語は学んでおいた。
と、多国籍アイドルグループを発足させるべく行われたオーディションに見事合格。以降は『箱庭娘』に在籍する唯一の日本人として、松平桜こと愛称「キジャン」は異例の人気を誇った。25歳でのアイドルデビューも珍しかった。
ところで、キジャンとは機張。
韓国・釜山の東に位置する町の名である。
桜は身長165cm。7人グループのメンバー内では最も小柄であった。
が、かの有名な歌劇団の男役ですら羨む凛々しい顔立ちをしており、子役時代から水泳で鍛えている肩回りは大きく丈夫。美しく割れた腹筋、がっしりとした太腿や脹脛……箱庭娘で活躍していた時分には、自身よりも背の高いメンバーを軽々とお姫様抱っこするパフォーマンスをふんだんに盛り込まれもした。
また、男性的に肩の張りだした白ジャケット、腿までスリットが入っているとはいえフルレングスの黒パンツに赤いカマ―バンド、そしてストレートチップの内羽根式ドレスシューズ……を着用してステージに上がる機会が多かった。
時折単独で披露するマイケル=ジャクソンをオマージュしたジャケットダンスも魅力の1つで一時期はメンズ・ビジネスのファッションモデルを務めもした。
そのせいか「FTMの癖に何故アイドルをしている?」との性差別発言は最後までついて回ったが、穿つように力強く、しかし底なしに澄んだ桜の瞳は韓国内外の若い女性から「爆イケ」「見つめられるだけで妊娠しそう」と絶大な支持を受けた。
同じ業界で活躍する韓国の男性グループらが「憧れのアイドル」を尋ねられれば「身長以外では何一つ勝てない。チート過ぎる」と真っ先に桜の名前を挙げもした。
こうして、現代の神功皇后とまで謳われた桜。
神功皇后の異名のひとつに気長足姫命がある。これをハングル読みすると「キジャン・ジョク・ヒ」———即ち、キジャンの姫となる。…
フードコートに独り、桜はそれを調べていた。
機張の伝説によれば「機張の国の亡ぶとき、姫は東方海上の神ノ国へ逃れる」とあった。その時期は定かでない。神功皇后による新羅征討……日本でいうところの三韓征伐を201年(日本書紀)とするか、あるいは4世紀後半(古事記)とするかの一助にもならなかった。
と、いつまでもスマホを見つめて俯いている桜。
鹿皮のデッキシューズをぶらつかせながら脚を組んでいる。
ブラをしていないのか、随分地厚な生成色のTシャツをオーバーサイズに、それと共布のイージーパンツを幾重にも弛ませて穿き、それを真っ黒なオーバーコート(日本でいうベンチコート)で覆っている。
このため肌露出は少ない。しかし、そこかしこに覗く肌———首や手首や足首は27歳と思えないほど肌理細かい。まるで10代のように内側から輝いているように見えた。
「おい」
桜の傍にあるトロリーバッグの上に腰掛けるなり、桜の被っていたキャップのツバを叩く絵里。
キャップが落ちるも、未だ顔を上げずにいる桜。
ネオソバージュの赤髪が露になる。
それを掴んで引き上げる絵里。桜を覗き込み、冗談っぽく言った。
「迎えに来てやったんだから怒んなよ」
しかし、髪を掴む手に遠慮はない。
桜を見つめる絵里の瞳は据わっていた。
「しばらく住ませてやんだしさァ」
「…放せ」
ようやく目を上げる桜。下三白眼が強調される。
ところで、絵里は手を放さない。
もう片方の手で自身の長い黒髪ストレートをかき上げながら、引き続き桜を見据えてこう言った。
「てか、顔。全然いじくられなかったじゃん」
言い終えるなり、真っ赤な唇に潤んだ舌をグルリ這わせる。
それを眺めて呆れる桜。
「…結構やったんだけど」
と、拡大治療を施した下瞼へと瞳を落とす。
絵里の胸に自然目がいってしまった。
イカ胸をしたニットソーのせいで目立たない。が、絵里は左胸よりも右胸のほうが遥かに大きい。幼い頃から、右の乳首が異様に大きかった。下手をすれば男の平素の性器よりも……それを知っている桜には、胸もとを盛り上げている奇妙な形が何なのか見ずとも分かった。
「ウチも」
片手で胸のボタンを外し始める絵里。
辺りをまるで気にせず、胸の間をはだけて見せる。
と、ブラックとグレーのみで入れ墨が彫り込まれていることに気付いた桜。
それは右胸の膨らみに沿って凭れるイブの姿。ミケランジェロの描く旧約聖書のワンシーン———知恵の木に巻き付く蛇とイブとが手を結んだ瞬間だった。
見覚えのない墨を見つめ、ところが桜は「コイツのせいで私も下着が嫌いになった」のを思い出した。確かに絵里に合うブラはオーダーしない限りこの世に存在しない。が、この調子では……まるで何にも変わっていない。凡そパンツも穿いていないだろう。
そんな桜の視線を追って「懐かしい?」と絵里。ボタンを留める。「てか、久しぶりに自分でボタン留めた」
「…どういう意味?」
「今さァ、武っていうオカマと一緒に住んでて、そいつに全部やらせてんの」
「…ねぇ。その服ルイ・ボスティーニ? 何年か前のショーで見た」
それを箱庭娘のもう1人の外国人———台湾出身メンバーのワンと共に雑誌で眺めたのを思い出す桜。
グループはデビューして1年で解散……いや、消滅した。
それから1年間に及ぶ訴訟騒動の後、ワンは昨今懸念される台湾有事のため韓国に留まり、単独でアイドル活動を続けるものだと思っていた。だが、まさか帰国するなりイチから服飾の勉強をするつもりでいることを聞き、桜は羨ましく思った。
———「家族の傍で好きなことして死ねるんだったら……ま、それもいいかなって。もう韓国はいいや。思い残したことも無いし」
「…うん」
「キジャンは韓国残るなら気をつけてね。今、韓国人って誘拐されやすいって言うからさ。親が金持ち多いじゃん? 子煩悩ですぐに身代金払うから。でも殺されてるから二度と会えないって」
「…そうなんだ」
「私たちは韓国人じゃないけど、それなりに顔売れてるからさ、そんなのに掴まったら、どうなっちゃうんだろうね」
「…うん」———
「つぅか、ネコだった癖に糞生意気な目してんな」
と、そんな感傷すら遮る絵里。
ところで未だ髪を掴まれ、顔を引き上げられている桜。
その手を放す気配さえ皆無だった。
目を上げて言う。
「…お前といるより怖い目に遭ったから。それより、お前誰? 顔変わり過ぎなんだけど」
眉墨に加え、睫毛植毛。
目、鼻、口、額、顎、頬……に至るまで美容整形を施した絵里の顔には目つき以外の面影がなかった。
それを細めて言う。
「で、タチのキジョンに生まれ変わりましたって?」
「…キジャンなんだけど」
「あは」桜の髪を捩じり上げる絵里。「何が違げぇんだよ」と徐にキスする。長い舌を桜の口腔内へと押し込みながら、絵里は目を伏せず言う。
「おはえり」
そこで立ち上がる桜。
絵里を抱き上げ、そのままテーブルの上に押し倒す。
大きな音がフードコート内に鳴り響いた。と、同時に髪を掴んでいる絵里の手に力が入る。しかし、背中から打ちつけられるも未だ微笑んでいる絵里同様、桜も顔を歪めない。絵里の据わった瞳を見つめ、今度は自分から舌を突き出して絡める。
と、ようやく髪から手が離れた。
…そこらを通りかかった客に恐る恐る声を掛けられるまで、ふたりは唇を重ねていた。貪りあっていた舌が解ける。糸を引く唾液と真紅の口紅に塗まみれた口元を手で拭いながら、涼しい顔で身を起こす桜。
「すみません。何でもないです。久しぶりに会えたので、つい嬉しくて燥いでしまいました」
「チッ」仰向けの絵里は小声で悪態をつく。「いいとこだったのに」
と、ジョッパーズ風リブパンツの中に手を差し込んで己を弄っていたことに気付いた桜。思わず吹き出す。そして言った。
「ただいま」
ところで桜は、絵里の他にももう一人、かつての同級生がSAにいることをまだ知らない。
…韓国芸能は内情を他言する者を許さない。
箱庭娘のメンバーが正式に決定するなり、まず外部との接触を断たれた。以降しばらくは宿舎で缶詰めにされ、そうしてすべての者の美容整形を済ませる。
腫れた顔を互いに突き合わせながら共同生活を送ることとなったメンバーの1人が所作の勉強や、歌やダンスの練習をサボれば共同責任。全員が補講や追加筋トレなどの罰則を受けた。
箱庭娘に所属したメンバーは最も若い者でデビュー時16歳。
桜とは9つ歳が離れていた。
大韓民国籍のメンバー5人は宿舎に身を寄せた時点で10代半ばの者が多く、台湾出身のワンであれ18歳……と、桜はこれらが零す愚痴や泣き言を聞き、時に「オバサン」や「音痴」と罵しられるも、
「私はもうやるしかないから」
一向気にせず、誰よりも勉強し、誰よりも練習に打ち込み、それをおくびにも出さず皆を励まし、よく世話を焼き、やがて頼られた。
メンバー内の諍いは、女性美を隣同士で競うために発生することが多い。だが「もう20歳を過ぎたオバサン」の桜はここから真っ先に外されて考えられたため、それも事務所の思惑通りであった。
しかし、例えリーダーの桜であっても個人のスマホは取り上げられた。
外部に日々の己を発信する術はない。それでも韓国内に生家を持つメンバーが時折日帰りで家族に会いに行き、スマホを隠し持って宿舎へ戻ってくることは間々あった。
だが、宿舎を出入りするたびに金属探知機までを用いた入念な持ち物検査があるため、果たしてどこに隠して持ち込んでくるのか……桜にはそれが謎だった。
こうして、芸能事務所の人間が箱庭娘メンバー個々人の名を騙ってSNSを使用し、出演する番組やイベントの告知、新曲の案内などを行う。メンバーに任せていても碌なことにならないのは日本の芸能界も変わらない。桜もよく知るところであった。宿舎内でのYouTube撮影や動画撮影はそうした意味でも編集が利くため都合がいい。
また、事務所の人間数名が入れかわり立ちかわり宿舎で起き伏しし、まだ若いメンバーの素行に目を光らせた。
これら若い人材に掛けた初期投資は莫大。
恐れていたのは結託による脱走、あるいは自死。
殊に自死は連鎖する。メンバーを1週間毎に入れ替えて相部屋にしたのはストレスを与えるため。必要以上に気を許さないようにするため。打ちとける隙を与えないためだった。争ってくれたほうが何かと事務所に都合が好い。
談話室にあるPCの使用は時間で制限される。閲覧は自由であったが、電子掲示板やSNS関連への投稿はできない。申請すれば共同スマホを使用してのライン、ワッツアップ、及びEメール……などの送受信は可能。しかし、いくら家族へしか連絡ができないとはいえ履歴の逐一を辿られ、通話はその都度傍受される。
「オッパ~」
だのと嘘をつき、交際している男との連絡を断とうとしないメンバーもあった。が、それのせいで「10㌔も余計に走らされるのはご免」だの「談話室の硬い床で全員一緒になって眠るのもご免」だの「皆同じで我慢してるんだよ」と、やがて誰もが恋をするさえ諦めた。
こうして再び美を競い、持て余すばかりの若さに任せてまた揉めた。
そんな缶詰生活が3年続いた桜。
韓国到着時23歳。25歳でアイドルデビューするなり一目置かれて順風満帆。目まぐるしいほど多忙な日々に襲われた。しかし、1年間で消滅。26歳からは訴訟のために韓国を離れることが出来ず―――と、それがまるで昨日のことに思えた。いや、遠くに置き忘れてきた出来事のようにも思える。
だが、桜はそのどこを切り取って語る気にもなれなかった。たとい絵里であれ。しかし、まず訊かれないだろう。絵里にはそんな苦労話やサクセスストーリーなどどこ吹く風。些細な関心すら示さないだろう。
「———とっくに足柄着いてるよ。お前こそ何処いんだよ?」
「公園に出るトンネル……って、それ下りじゃん。チッ。すぐ行くからそこで待ってろ」
「煩せぇな。転ぶだけだから無理して歩かなくていいよ」
などと、スマホを耳に押し当てながら歩く絵里。
もう片方の手では桜の袖を放さない。
そうしてSAから高速道路ではなく一般道のほうへと出ていく。
足柄SAは一般道からも施設のみ利用可能。車が高速道路へ侵入できないだけで人間は自由に行き来できる。が、そうして一般道に出たところで……夜は真っ暗。雑木林が広がるばかり。そこらを歩いている人間などいない。闇に覆われるばかりの道へ連れ出され、桜はむしろ絵里の手に頼るしかなくなった。
「くそ。あっちまで結構あんぞ」通話を切るなり苛々と絵里。「桜、そのコロコロ持つよ」
「いい。何も入ってないし」
「じゃ、ウチがそれに座るから押して」
「今の武って人?」絵里は勿論のこと、桜も桜でマイペース。
「違う。穂乃果」
「…誰だっけ」
「小学で、上の奴らに図書室呼び出されてマワされた奴」
「…ああ、授業中にカッターで手首切った子か。教室血塗れにして、それ見て吐いちゃう子とかいて地獄だったんだけど」ところで気になった。「絵里、今何してんの?」
「アウトレットでバイト。ペイスリーばっかの店」
「…だから、全身ルイ・ボステーニなんだ」
「そ。着て働かなきゃいけないけど、社販きれば古いシーズンのは安く買えっから」
どうせ男に貢がせているんだろう……と思っていた桜。
まさか小学の頃から「イカレてる」と乱暴者で恐れられていた絵里が———気に入らない女の顔は蹴り上げ、髪を燃やし、男の頭ですらバットでかち割る〝あの絵里〟が真面目に働いているとは思わなかった。
「接客とか出来んの?」
「誰々さんの好みに合うと思って~とか、このサイズでは~とか、体型が~とかやってるよ。まァ、基本そこらの社員に丸投げだけど」
「似合わねぇ」綻ぶ桜。
「ウチもそう思う」目を細めて桜を覗き込む絵里。「ぶっ殺すぞって言ってるほうが性に合ってるもんな」
これを聞き、中学1年の終わりに絵里の母親が起こした殺人事件を思い出した桜。
絵里が学校から家に帰ると、絵里の祖母が玄関のドアノブに首を括っていた。延長コードの食い込んだ首には爪痕が残り、血も滲んでいた。
と、靴のまま家に上がる絵里。
そこらで蹲り、震えている母親を見つけるなり、靴の先で母親の顔を蹴りつける。
鼻血とともに涙が噴き出すも構わず、また大きく振りかぶって力任せに母親の顔を蹴り上げる。何本も前歯が砕けた。やがて包丁を取りに台所へ向かう。
その隙に「殺される」裸足で交番に逃げ込んだ絵里の母親は逮捕。以降は離婚していた父親に引き取られ、それが用意したアパートに独りで暮らすこととなった絵里。毎月振り込まれる金で学業も漫ろに遊びほうけた。
ところで桜は中学時分、柔道部で後の主将となる同級の男と3年間交際していた。しかし、13歳で始めた芸能活動のせいもあり、向こうが部活動に打ち込んでいたせいもあり、学校では真面に顔を合わせる機会がなかった。
このため、逢瀬は専ら桜の生家。
表向きは「勉強を教える」であったが、スポーツ推薦進学を狙う脳筋に、果たして他人へ教えられるほどの学力など持ち合わせていないことは明白。しかし、礼儀(挨拶返事)を欠かさないこの男は桜の母親に気に入られ「避妊さえすれば」と目を瞑った。
しかし、経験は絵里とのほうが早かった。
お陰で「初めて」だと言っても信じてもらえず、10歳を過ぎた辺りから絵里に抱かれていたことを白状した。己の身に起こる様々に戸惑うばかりであった桜に対し、絵里は自身の唇に舌を這わせていたとも。
それを聞くなり、男は胸を撫で下ろした。
そんな様子を眺めて、桜は冷めた。
以降は交際している最中であっても絵里を優先するようになる。単純に事件以降の様子が心配だったせいもある。
が、既に素行の悪い連中の溜まり場となった絵里のアパートに出入りする機会が増えるたびに悪い遊びを憶えた。そうして彼氏に隠し事が増えた。その都度、桜は無口になった。中学を卒業するなり、この男に別れ話を切り出した。そこで泣きつかれ「もっと早く別れとけば好かった」つくづく思った。…
東名高速道の上下線を跨ぐ道の真ん中を歩き、穂乃果の待つ場所へ赴きながら桜が訊いた。
「絵里、今付き合ってる人いる?」
優位に立つと舌を覗かし、欲情すると髪を掴んでくる癖が変わっていないのなら……恋をしているときには元来のお人好しな性格が覗くのも知っていた。
「いる。同じ職場の莉愛葉っての」
「どんな子? 紹介して」
「嫌だ」
「なんで?」
「横取りされそうだから」
それを聞き、むしろ桜が嫉妬した。
「…そんな好きなんだ」
「ぁは。大好き」
と、M65のポケットから煙草に取り付ける金属製の黒いパイプのみを取り出す絵里。口に咥え、ネタが零れないようにしていたラップを剥がす。そこに近付けたライターの火を吸い込む。
「…何やってんだよ」と桜。
「歩くの面倒くせぇから現実逃避」
「まだジャンキー治ってないんだ」呆れる桜。「他人が転ぶの心配するより、とっくにシンナーで縮みきった自分の脳味噌心配したら?」
「ナチュは平気。草より、パンパラグとか煙草のほうが余裕で体に悪りぃから。桜もやる?」
「いい」
「多分ブッダだと思うけど……やっぱミントのほうが好いな」
「だったら煙草もやめればいいのに」
「嫌だ。てか、穂香憶えてる?」
パイプをしまい今度は煙草に火を点ける。
「…さっき知ってるって言った」
「そうだっけ? てか、穂乃果もよくやるぜ。家畜泥棒してた潜りのベトナム人の次は飯場のお抱えだもんな?」
桜に顔を向ける絵里。
オレンジ色の灯がそれを隈なく照らした。俄かに充血した目、上気した頬、饒舌になった舌……に気付くなり桜はうんざりした。
「…そこまでは知らないって」
しかし、相変わらず据わらせた瞳が懐かしかった。
が、桜は道に目を向ける。「リアハ」という女に嫉妬していた。
「でも、いくら飯場の汚ねぇオヤジつっても、よく生でしてくれる相手見つけたよな。体中に変なブツブツできてんのに」
「…病院に行かせたら?」
「あれ? 言ってなかったっけ。アイツ梅毒以前にポジってんだよ。でも薬続ける金なくてさ。最近物忘れ酷でぇし、急にコケたりするから、もう諦めたの。で、ようやく妊娠したからエイズで死ぬより先に自分で死ねるって。…あ。桜さァ、穂乃果が死んだらウチで本場のカレー喰わせてやるけど、辛いの平気?」
「平気」韓国の食べ物で慣れた。「…てか、死ぬって。子どもどうすんの?」
「インド人がよくくれんだよ」
「…さっきから何言ってるか全然分かんないんだけど、これから何する気?」
「本場のチャパティも喰わせてやるから」
後藤莉愛葉と一ノ瀬穂乃果は歳が離れている。
つまり、穂香と同じ千葉県出身であり、小中の同級生であった絵里と桜とも同じだけ歳が離れている。
…18歳で千葉を離れた絵里は(更生施設を経て)しばらく転々とした後、赤羽へ辿り着いた。やがて静岡・御殿場にある中古のリゾートマンションの一室を見つけ300万円程度で購入。そこに暮らして数年経つ。
マンションの隣には乗馬クラブがあり、厩務員として住み込みで働く出稼ぎインド人ら———クマン=シンとマハビ=シンとは仲が良い。ともに「シン」とあるが血の繋がりはない。信仰するインドの神の名が同じというだけである。
御殿場に到着するも暇を持て余していた絵里は、散歩ついでにクラブで馬の顔を眺めるようになり、やがてインド人らに付き従って小さな放牧地のボロを拾って歩くようになり、フォークを使って寝藁を返すことも覚え、時には馬の背にも跨らせて貰い……と、早速乗馬に訪れる客にもクラブのオーナーにも可愛がられた。
殊にその下着嫌い———胸の形や乳首の形をはっきりと浮かび上がらせた軽装に長靴姿は歓迎された。
と、半年ほど前。絵里は御殿場で武に出会い、穂乃果に出くわした。
以降の武は絵里の家に居候。一方の穂乃果は事あるごとに絵里に付き纏うようになった。
穂乃果は中学を卒業後、ネットで知り合った男のもとを渡り歩いて数年、気付けば風俗嬢として生計を立てるようになった。やがて千葉から御殿場の隣町である沼津へ流れ着く。
しかし、男性客へのメンヘラ営業やストーカー行為は度が過ぎ、そうして嫌われ蔑まれ……とイザコザが絶えず、じき沼津からも追い出された。
———「あれ? 穂乃果じゃん。何やってんの」
2023年秋。穂乃果は当てなく御殿場を彷徨い、アウトレットに訪れる客(後腐れのなさそうな男)を探してモールで首を巡らしていると、中学卒業以来である絵里に再会した。が、美容整形のせいですぐに気付かなかった。その際、絵里と交際し始めたばかりの莉愛葉に会っている。
そこで金と寝る場所欲しさから……勝手に撮った莉愛葉の顔写真を使い、御殿場で男漁りをするようになる。
『わたしは急に行けなくなったけど、お友だちのカワイイ子が代わりに会いたいって』
ある日、穂乃果はやたらと金払いのいい、身形も結構な男に当たった。いざホテルへ向かうと部屋の中では絵里と莉愛葉が待ち構えていた。男は絵里に入れ込んだ乗馬クラブの通い客だった。
まず、嘘をついて男と出会っていたことを謝罪する動画を撮影。それを穂乃果の使用していたSNSアカウントに固定表示。加えて金銭的制裁……しようにも金が無い。そこで、
「一回グーで思いっきり人の顔殴ってみたかったんだよね」
と、この一件以来、莉愛葉からの蔑視を受けるだけでなく、面と向かって邪険にされるようになった穂乃果。余計な真似さえしなければ莉愛葉がここまで嫌うことはなかっただろうに、自分から他人に干渉したがらない女を怒らせるから、徹底的に距離を取られるのである。
「…結構あるね」足取りは軽やかだが、トロリーバッグを引いて坂の多い夜道を歩くことに倦んだ桜。
「もう面倒くせ。やっぱ帰ろうぜ」と絵里。「てか、ここ何所? なんでこんなことしてんだっけ」
息を切らしたせいで余計に大麻が回ったのか、絵里の記憶が途切れ途切れだった。
「下りのSAで穂乃果に会うからって高速跨いだところ」
「あ、そっか。穂乃果が死ぬから見に行くんだった」
「は? 聞いてないんだけど」
「てか、あれ穂乃果じゃね? …ほら。そこの駐車場でぶっ倒れてんの」
「ほんとだ。誰かいる」
東名足柄SA(下り)へ向かう途中にある従業員用の駐車場に駐まっている車は疎らだった。その辺りの道はまだ新しく綺麗で広い。大型車が通るでもない道ならば、ろくに傷みようもない。そもそも従業員しか使わないような道である。お陰で、そこに大の字になって倒れている女の姿に気付く者も無かったのだろう。