第4話 絵里と莉愛葉、バスの車内で再び悠人に出くわすも構わずイチャイチャする……1/13(金)19:30頃
アウトレットモールの外れ。
そこに〝お直し屋さん〟へと向かう細い通路。
直し屋がある他には貸出ロッカーとトイレがあるのみ。
その隣、直し屋の手前にはラグジュアリーブランド『ルイ・ボスティーニ』が角店となっている。だが、硝子戸には「CLOSED」の札が掛かり、店内は既に暗く、ディスプレイの照明だけが眩しい。
と、通路の突き当り。「従業員以外立ち入り禁止」のゲートを開け……ゴミ袋を持った莉愛葉と、入金袋を持った絵里がモールへ姿を現す。
冬季は19時で閉館するモール内には警備員が巡回している他、客の姿は見当たらない。しかし、閉館時間を過ぎてまだ5分と経たない。そこらに連なるどの店もレジ締め・畳み・清掃と忙しない。
「てか、店長……また飲み終わった水捨ててなかったんだけど」と莉愛葉。
「ほっときゃいいじゃん。それかキーボードの上に置いといたら? そしたら自分で片すっしょ」と絵里。
「それいいかも。でも分かんねぇなァ。すぐ後ろにゴミ箱あんのに」まだ気が済まない莉愛葉。
「まァ、いくらパソコン弄ってばっかで接客忘れたつっても、インバの声掛け〝エックス・キューズミ―〟だから。そんなお粗末な脳味噌で水のことなんか憶えてられる訳ねぇじゃん」絵里にはどうでもよかった。
「あはは。あの英語ヤバ。今日もめっちゃ〝NO〟って言われてんのに〝3個OK?〟とか言ってニコニコしながらタグ切ってっしさァ」
「日下部って40過ぎたばっかだっけ? 武と同じくらいなのにボケちゃってね。ま、ヤツの女房も相当やべぇから猿同士お似合いでしょ」
「あ~…こないだアイツ店来てさ。挨拶もしねぇでブラブラしてっから、あたし分かんなくて接客しちゃった」また苛々する。
「じゃ、今度来たら〝3個OK?〟って勝手に売れば」心底どうでもよかった。
「ふっ。てか、店で結婚祝いやってんのに、まだ〝ありがとう〟もお返しもねぇって普通にカスなんだけど」
「まァ、あの女、周りに嫌われ過ぎてcommaって店の佐藤とかいう嘘くせぇ奴と不倫するしか能がねぇから」
「え? だって、あそこの店長、ウチの店長と仲いいじゃん」
「だからじゃない? おべっか真に受けて勘違いしてんのか知らねぇけど。てか、手が寒みぃ」
日下部やら、その妻やら、不倫相手やら……の話題にいよいよ倦んだ絵里。入金袋を小脇に抱えるなり莉愛葉の腰に手を回し、M65のポケットに手を突っ込む。
「歩きづれぇよ。自分のでやれって」とは言ったものの拒みはしない。
「嫌なの?」悪戯な顔で覗き込む。
「餓鬼かよ…」呆れるも綻ぶ。
「違う。27歳蛮族、絵里」すかさずロマサガネタ。
「はぁ?」絵里が特別なだけで1992年発売のSFCソフトのことなど知る由もない。
「23歳ネコ、莉愛葉」ついでにおちょくる。
「うざ。離れろ」とは言ったものの突き放さない。
と、他愛ない会話を交わしながら縺れて歩く絵里と莉愛葉。
その背にも揃いの白リュック……ゴブラン織りで全面に同色のペイズリーがあしらわれており、ショルダーストラップの馬革に至るまでスパンコールでペイズリー柄が象られていた。
入金室の前。向かいにある詰め所の窓口から「お疲れ様です」小声で挨拶してくる常駐警備員には目もくれず、身を寄せ合ったまま通り過ぎる絵里と莉愛葉。
いくら館内の従業員用通路が狭かろうと横に並んで憚らない。
だが、ふたりがバスの乗降所へ着く頃になって、ようやく他の店舗の従業員がポツポツと店の外へ現れるなら、誰に擦れ違うでもない細い通路で遠慮する要もない。
つまり『ルイ・ボスティーニ』はそれだけの高級品を扱う。
常に掃除・陳列・在庫管理が行き届き、指紋ひとつないガラス什器を贅沢に用いて飾られるバッグ、大きく畳まれたニットに至るまで白い手袋を着用して触る。
その日は購買6客。11点。売上272万。
顧客の来店が多かった割に「2点以上の購入で更に10%オフ」セールのせいで振るわなかった。重衣料とショールのまとめ買いが単価を下げた。とはいえ、店内で最も安い商品———ペイズリー柄のシルク・ハイソックスであれ、アウトレット価格(定価の4割引き)から更に10%オフでも1万する。
…イタリアン・アパレルのSPA(製造小売業態)は珍しくない。
しかし、横ばい状態から抽んでるにはL●MH、リシュ●ングループ、グッ●グループ、プ●ダグループなど巨大資本企業の傘下に入り、ブランドコングロマリット戦略をとることを強いられる。金がある所に身を預けることでラグジュアリー市場に食い込み、生き延びるか。あるいは、それらと戦って無残に散るか。
だが、ルイ・ボスティーニはテキスタイル会社として創業して以来「身売りはしない」と一貫した家族経営を60年間続けている、所謂ヘビー級の独立系メゾンである。※独立系メゾン:エ●メス、シャ●ル、フェ●ガモ、ブ●ガリなど。
1980年代に創業者のルイ氏自らが手掛けるウィメンズ・コレクションをミラノで発表。じき、長男のエン氏が手掛けるメンズ・コレクションを発表。そして元来は医療用に製造していた枕やシーツ、白衣をベースにしたバスローブ、病院着を利用したセパレート・ウェア……に過剰なまでの装飾を施してラグジュアリー・ライフ・スタイル分野をも席巻した。
「病床からは逃れられない。病の床に至っても人は人と比べることから逃れられない」
とはルイ氏の言葉。
しかし、ブランド戦略よりも自国イタリアへの貢献を優先し、企業価値を高めることよりも水質保全を実践してきた。その矜持はイタリアに生まれ、イタリアで育った人間の愛国精神そのものである。
「譲れぬものを抱いて眠れ」
例えばL●MH、リシュ●ングループ、グッ●グループ、プ●ダグループの傘下ブランドは主にニューヨークへ進出する。そこで名を馳せ、成果を出せるかが課題となる。
そうした〝ビジネスブランド〟に対し、自国文化に絶大な誇りを抱いているイタリア人は好い顔をしない。服にはやたら三色旗を刺繍したがり、裏を眺めた際には「MADE IN ITALY」が真っ先に目へ飛び込んでくるようにしていることからも明らか。
だから、イタリアへ観光に訪れる客には自国を捨てたブランドを勧めない。自国が誇る職人気質なブランドで金を落として貰おうと案内する。
「この辺にT●D’sあるよ。素晴らしいブランドだ。コロッセオの修繕費に3300万ドルを負担してくれた。東日本大震災のときには君らの国にも支援したのを憶えているだろ? 折角だから寄ってみるといい。それとルイ・ボスティーニもお勧めだね。あそこは———」
自国へ貢献することこそがイタリア人の義務。
それはこの世で最も美しい国に生まれた人間の使命。
そして終ぞ朽ちない名誉である。
と、こんな具合にルイ・ボスティーニも頑なだった。
ルイ氏はやがて米に目をつけ、バイオマス事業への投資を行う。
もみ殻や穂軸を利用したルイ・ボスティーニ社独自の天然合成繊維『サンライズ』……それは当時、散々に叩かれた日本製のエコ素材であったが、現在となってはサステナブルの先駆け。今は亡き創業者ルイ氏の功績を讃えるビジネスマンも少なくない。
また、ルイ氏の跡を継いだエン氏は何よりも「柄を抑える」ことに尽力した。
「必ずペイズリーを使え。この柄だけはどこにも譲るな」
その先見の明。
容易ではない道のりだったが、己の信条を貫き続ける一族60年の歴史は伊達でない。お陰で「ペイズリーといえばルイ・ボスティーニ」と謳われるまでに至った。……
アウトレットモール施設のすぐ脇には東名高速道路が走る。
そこに立ち並ぶオレンジ色の照明が夜空を赤らめ、富士の山影を一層奥へと押しやっていた。モール内にあるバス・ターミナルから眺める景色がそれである。
御殿場駅前と規模はそれほど変わらない。
祝祭日には新宿駅直通の高速バスも停まる。市内のそこここにある屋外駐車場から無料送迎シャトルバスも頻りに往き来する。
が、そんな賑わいも陽が暮れるまで。
閉館する時分には御殿場インター経由で御殿場駅へと向かうバス数台が残っているのみ。冬場の平日は特に寂しい。
と、バスの発車間近。
運転席のすぐ後ろの縦席に腰掛けていた悠人の耳に聞き覚えのある声、そして匂い。バスの運転手も俄かに色めき立つ。
「乗りづれぇって」と莉愛葉。
絵里にしがみつかれたまま乗車する。
「うわ、座れねぇじゃん」車内を見渡して絵里。続けて訊いた。「武呼ぶ?」
「寒みぃから待つの嫌だ」
「はッ。てか莉愛葉、車あんのに」
「だって、あのプジョー乗りづれぇんだもん」
と、途端に華やいだ車内前方。難なく吊革に手を伸ばす長身の莉愛葉。
その肩に頭をもたせ「ああ、207って案外狭いし椅子低いもんね」スマホを眺め始める絵里。画面の先にはバッグを抱えて俯いている悠人の姿があった。
インターまで5分。駅まで10分あれば……の車内で、わざわざ他人と肩を並べたがる者はいない。だが、優先席に人はなかった。悠人の他に縦席を利用する者もない。
長い前髪の中でキョロキョロ落ち着かない悠人の目、ソワソワしている赤い耳たぶ、ニキビでブツブツの頬———を眺めながら絵里が言う。
「てか、なんで優先座んねぇの?」
縦席は確かに莉愛葉の長い肢に合わない。
スリッポンを履いて177cmとなった絵里の肢にも。
「あ~…そこさ」と莉愛葉。声を潜める。「結構やべぇのしか座んないから、なんか汚ねぇ気がしちゃって。見たくもねぇ」
と、吊革を掴んでいる手には接客時に使用するコットン製の白手袋。
「あは。出た」神経質にもほどがある。
「嘘。ほんとはバッグおろすのダルいだけ」
絵里の前とはいえ流石に口が滑ったと思い、取り繕う。
「ああ、コレね。このまま座ると脇にパンコ喰い込むんだよね」
不自然に強調された言葉に釣られ、恐る恐る目を上げる悠人。
結露したバスの窓が高速道路の灯を受けてオレンジ色に滲むのをボンヤリ眺めていた莉愛葉……と、ふと目が合う。
しかし無表情にまっすぐ見据えられ、悠人はすぐさま目を逸らした。
「…スパンコールのことか」窓外へ目を戻しながら莉愛葉。
「違う。すっぱつ進行」
「きも」
そこでバスが発車した。
偶然の再会に胸を弾ませたのも束の間、莉愛葉の直視と絵里の「パンコ」につくづく戸惑い、悠人はまったく落ち着かなかった。ただでさえ自分よりも遥かに背の高い人間ふたりに傍へ立たれるのは窮屈だろう。途端に胸が苦しくなった。足を揺すぶりたい。が、狭い。目を閉じて別のことを考え、何とかやり過ごすしかない。
そこで悠人は、こんなことを思い出した。
あるときSNSで「一緒に買い物しませんか」と募ったところ、まず現れた同年(自称)の女は母親なのか……髪のパサつく幸の薄そうな中年女を連れてきた。
縮毛矯正をした襟足のないおかっぱ頭が、どうにも病的———ヒステリーであることに気付かぬまま年を重ね、もう引くに引けないところまで来てしまったのを自ら吹聴しているとしか思えないオバサン。
それが実に不満げな面持ちで、辺りを周遊している客の悉くを睨みつけ、小さな声でモゴモゴ罵声を浴びせていた。それが、悠人の視線に気付くなり咄嗟に作り笑いを浮かべようとする不気味さったらなかった。
「気にしないで。毎朝裸足で近所の公園を散歩してるから靴が苦手なのよ」
そんなのに延々と宗教を勧誘されたにも関わらず、帰り際には同年女に「私〝苺だけど〟って書いておきましたよね? 早く払ってください。大声出しますよ?」と詰め寄られ、足代の他に15,000円支払わされた。
悠人は〝イチゴ鼻〟のことだろうと勘違いしていた。
だからマスクで顔を隠しているのだろう、と。
次に現れた小太りの男子大学生(自称)には、
「呉越同舟って意味知ってる?」
「石に漱ぎ流れに枕すって意味知ってる?」
「金を掴む者は人を見ずって意味知ってる?」
と事あるごとに耳打ちされた。
その訳の分からない質問攻めから逃げ出そうと服屋の試着室に入れば…
「ね。悠人君。その服、記念に僕が買ってあげるね」
…と試着している姿を何度も覗かれ、その後「衣鉢を伝うって意味分かる? 僕がお返しの仕方教えてあげるね」トイレに連れ込まれそうになり、悠人は叫び声を上げて逃げ出している。その際に小太りが吐いた台詞は今でも耳に残っていた。
「フン。雑魚か。まぁこんなものだろう」
これら碌でもない思い出のお陰で、悠人は胸が落ち着いた……どころかショボくれた。溜息をつく。泣きそうだった。そんな気分を慰めるかのように、バスに揺られた莉愛葉の香水がふわり鼻へと漂ってくる。
(いい匂いだな…)
そう思ううち、何だか心が絆されてきた。
もっと嗅いでいたい。この高嶺の花過ぎる人の匂いを……と、ウットリときめく。
(やっぱり白いビッチより、俺はこっちの黒い人だな。ちょっと怖いけど。でも白ビッチは普通に100人斬りとかしててガバガバそうだし)
莉愛葉に何を期待してのことか、無意味に高鳴る胸と股間を鎮めるようにバッグパックを押し当てる。ポリバケツよろしく膨らんだ登山用のそれを両腕できつく抱え、その腕に顔を埋め、しかし莉愛葉の匂いを必死に吸い込み……寝たふりを決め込んでいる悠人。
そんな様子をスマホ越しに眺め、絵里は舌を覗かせた。
ペロリ唇を舐めてから言う。
「てか我慢したって、どうせ腹減ったら何か喰うんだからさァ、太るの気にしないでスタ●でキャラマ頼めばよかった」
「ご飯どうする?」
「ああ、今日ちょっと…」スマホで誰かとやり取りしていた。
「ヌキ?」
一応は横目で後方の座席に誰が居るかは確認したが、悠人のことなど眼中にない莉愛葉、憚らずに訊いた。
「違う。それ昨日。てか、もう田口さんだけだし」
「あ~…最近見ないけど元気?」
「まァ、もう来られたらマズイから。ウチが買ってんのバレる」
「バレても知らねぇから。あたしのせいにすんなよ」
ルイ・ボスティーニでは従業員が社員割引で購入できる服の総額が毎月定められている。
「そのうちやめっから」まるで悪びれる様子のない絵里。
コロナ禍以降はラフやリラックスな服を経てストリートファッションに移行し……と、女が男物の服をオーバーサイズに着ようと購入したところで何ら不思議はない。
「別にいいけど。だから羽振りいいのか」
「どうだろ。武がヨレたときは一緒に馬の世話してっからさァ、インド人が飯作ってくれっし、アイツの代わりにそっちの客相手にしてばっかだからじゃない?」
「つっても何すんだよ」
「飯付き合ったり、ゴルフ付き合ったり。金にはなんないけど全然使わねぇもん」
「ああ、美味いもんばっか喰ってっから急に太るの気にし始めたんだ」
「そ。でも最近ミントにハマちゃって」
「何それ? アイス?」
「サルビア」
「…分かんないけど、ケミじゃねぇよな?」
「ううん。ナチュ」
「ああ……なら、まだ」
「今度ね」
「……」
耳を欹てていた悠人。
コンビニの新作なのか、凡そ〝ナチュラルチーズのかかったミントの氷菓〟だろうと疑わない。今度買ってみよう。ところで、色黒長身美女の名は「リアハ」と知った。そして引き続き、美人過ぎる人は意外にモテない(男性経験が少ない)って聞くから……などと考えた。
「てか、タグチ式。莉愛葉もやれば?」
「いい。でも幾ら貰ってんの?」
「差額全部」
「は?」驚く莉愛葉。「だって、ウチら5%じゃん」
「うん」と絵里。こともなげに続ける。「元が50だとして6掛けで30。シーズン古いのしかだから25,000……で、昨日は27ぐらい」
「すっげ。だって、あの人スーツとかばっかじゃん」
「つってもね。領収書作んなきゃいけねぇし。コレもあっから」
と絵里。スマホで自身の右胸を促す。
M65を羽織るとそこまで目立たないが、左よりも大きな絵里の右胸を肩越しに眺め、そういや、カメラ気にしながら自前の領収書に店の判子押してんなぁ……と莉愛葉は思った。
レジに備わる連番の手書き領収書に手をつけない辺り、余程慣れているのだろう。田口というのも絵里が店へと連れて来た。以前はどこの店舗の顧客であったか、何の仕事をしている人間なのかも分からない。
なるほど、悪い噂はまだ聞かないが他の店では続かないはずである。
ラグジュアリブランド店で働く者は「私の顧客」だの「売上を盗った」だのと男も女も口喧しい。個人の売上(業績)を気にすることは結構だが、それまでの担当者から絵里に鞍替えしたのが客の意志であれ、恨み言は尽きない。
「あ~…それさ、NFっての?」と莉愛葉。「あたし見たことないんだけど痛くないの?」
「してるとこ動画撮ろっか?」
「見たくねぇよ。痛くないのか訊いてんの」
「もう全然。それより後の掃除のが大変。でも、きちんとやんないと腫れたり中が痒くなっから」
「へぇ」
派遣会社から派遣されてきたスタッフには最大で95%オフになるルイ・ボスティーニの社員割引は適用されない。
ただでさえ、絵里は半年くらい前に派遣されてきたばかりだった。
週1~2でしか働かないのも他の店舗が勤まらない理由の一つである。
それでも週末以外はアポを取り付けた顧客か、インバウンドしか来店しないルイ・ボスティーニにとっては好都合の人材(金にがめつくない、生活に余裕ある有閑な人間)だった。
それは絵里にとっても。年間給与収入が103万円を超えないようにしている。103万を過ぎれば所得税、住民税が課税される。このため、絵里が払っているのは国民健康保険料のみ。年金は全額免除の申請をするばかり。
絵里の時給1,500円。
1日7.5時間勤務で11,250円。
月に7~8日出勤し、均して84,375円……約85,000円。
こうして年に102万程度になるよう調整する。
しかし、アウトレット店とはいえ顧客商売。
店頭で顔と名前を憶えて貰わない限り始まらない。
派遣スタッフは個人の売上成績で年俸が変動することもなければ、月毎のノルマ達成如何でインセンティブが支給されることもない。
このため「モチベーションが上がらない」と、どこの店でも正社員で務まらない訳アリ曲アリの厄介者であるのに能書きばかりを垂れる者か、あるいは「立ってるだけでいいザルな仕事」と無責任な者か……が派遣スタッフには多い。
だが、店は1時間2,200円を派遣会社へ支払っている。
拘束7.5時間で16,500円。
売れない販売員をいつまでも居座らせておくほど甘くない。
その点、絵里は強かだった。
まず、顔とスタイルが好い。
下着をつけないため平素は莉愛葉に着せこまれ、入れ墨を露にすることはない。だが莉愛葉は「これ着てみて。店で着れそうなら、あたしも買うから」しょっちゅう試着させてくる。
お陰でルイ・ボスティーニで働く誰もが絵里の腕や背や肢を眺めたことがある。ただでさえ目が据わっており、いつでも余裕ぶった顔つきの「全身真っ黒」で「歩くルネッサンス美術」な女をいじめたがるほど身の程知らずな……いや、気合の入った従業員など服屋にいない。
こうして誰に遠慮するでもない堂々とした立ち居振る舞いには華がある。
莉愛葉に勝るとも劣らないジャパニーズ・クールビューティ。
外国客からの反応は頗る良い。
そして英語が話せるのも大きい。
気付けば「screw you」などのスラングを織り交ぜて談笑している。
インバウンドの相手を任せられる(取りこぼしがない)のは強い。
しかし、服に疎い。
シフト制では常に莉愛葉と出勤日が同じという訳にいかない。いつでも莉愛葉が傍におり、目を掛けてくれ、知識を授けてくれる訳ではない。頼りっぱなしとはいかない。
だが絵里は、これを愛嬌で補う。
自ら客に声を掛けておきながら、すぐに手持無沙汰な社員に擦り寄り「あは。全然分かんない」助けを求め、そこでヘルプの立ち位置へと一歩引き下がり……客と一緒になって頷く。そして必ず社員の顧客や売上へと誘導して顔を立てる。
———「おおすげぇ。一客で100万超えた。流石ァ」
こんな具合に男性社員には笑顔と冗談を、女性社員には本音と差し入れを欠かさない。自身が店頭で着る服だけなら誰かにねだれば5%で手に入る。
ところが男は「自分がその女に何を与えたか」を忘れない。
特に「幾らの物を与えた」かを。
また、何でもベラベラと口外したがる癖に「絶対言わないから」と秘密の共有を強いてくる年増女も話題を探して日々目敏い。
どちらに裏引きの片棒を担がせるわけにもいかなかった。
(さ~て、どうすっかなァ…)
そこで目をつけたのが莉愛葉であった。
それは時代の賜物———他人に干渉することを極端に避け、諍いや面倒事を禁忌とするZ世代。その口の堅さは貴重だった。
莉愛葉は決して物怖じしない。
他人を直視して憚らないのは美人の特権でもあるが、それにしてもどしりと構え過ぎているように思える。時勢がそう育んだのか、若さや無知ゆえに危機感が薄いだけなのか、あるいは剣道をしていたからか……いくらか鈍重な気さえした。
店の中でも「仕事は一生懸命だし、チーフなんか任されるようになって大変だろうけど、あんまり自分を出さない子だからね。何考えてるか分からないところもあるけど、まァまだ若いから」無感情に捉えられている。
絵里はその実、莉愛葉の気苦労が絶えないことを知っていた。
美人はやたら苦労する。
何もしていないのに粗を探され、あることないこと言われやすい。
上から出れば鼻につく。下手に出ても「アンタみたいな恵まれてる人に、私みたいなブスの気持ちなんてどうせ分かるわけない」と逆上されるか、それとも「さては裏があるんじゃ…」と余計卑屈に身構えられるか。
だったら端から関わらない。それに越したことはない。
そもそも莉愛葉は他人にまるで興味がなかった。
しかし「良くも悪くも目立ってはいけない世代」であるにも関わらず、人も羨む美貌に加え、人目に付きやすい長身。そんな容姿も相俟ってどんなときでも気を張り続けねばならない。口の堅さや無感情とは、そこから生じる抜かりなさ。周囲から己の身を守っているに過ぎない。
ところが、神経質。
こればかりが慎重な莉愛葉の自我から突出していた。
過剰にも思える不潔の排斥。店にある物は商品に限らず……レジに備わるボールペンに触れるですら白手袋をはめる。
忘れもしない。絵里が働き始めたばかりの頃。
「ごめん。名前なんだっけ?」
「後藤です」
「違う。下の名前」
「…莉愛葉」
「すげぇ真面目だね。お客さん以外に自分から話しかけてんの見たことねぇもん」
「いえ」
「彼氏いる? 美人だから強い男好きそう」
「いえ。木村さんはいますか?」
「いない。レズだから」
「……」
「あ。今、汚ねぇって思った?」
「いえ。なんでですか?」
「目ぇ逸らしたから」
「……」
心を攫えば、どこかにそれがあったかもしれない。
莉愛葉の通った女子高にもレズは少なくなかった。
が、大抵は男に弄ばれたがゆえの偽装。そうして世の男に復讐しているつもりか、妙に恋愛を悟った顔をしたがる〝ファッションレズ〟が多かった。
この偽りを莉愛葉は常々「ダッサ」と思った。
男に直接仕返しするでもなく、手近で初で〝自分よりもランクが下〟の女に狙いを定め……更に女を下げていく。よくある欺瞞。よくある倒錯。よくある転嫁。そんな不毛な自己肯定の方法も、そうした真意に目を瞑る腐った性根も、莉愛葉はつくづく不潔に思った。
が、絵里に感じた不快は違った。
それは嫌悪でなくて恐怖であった。
莉愛葉は初めて人の目を見て「怖い」と思った。初めて同姓に畏怖した瞬間。据わった瞳に吸い込まれそうだった。まるで底なしの穴。暗くて重くて苦い淵……に言い知れない悪寒を感じて目を逸らした。
「あは」と絵里。目を細める。「怒った?」
「いえ」
「てか、後でちょっと手ぇ借りていい? 莉愛葉がウチに似合う服選んでよ。何着て働けばいいか分かんねぇから」
「…あたし詳しくないですよ」図々しいと思った。
「でも一番お洒落なんじゃない? アクセも可愛いし。つぅかリアハって。名前まで可愛いのかよ」
「そんなことないです」馴れ馴れしいと思った。
言わずもがな、自身では好きになれないキラキラネームであった。
だが褒められて……いや、正確には「頼られて」かもしれない。身銭を切らない助言だけでいいのなら「選ぶ」即ち「教える」や「授ける」というのも満更悪い気はしない。
やがて莉愛葉の選んだ服を試着し始めた絵里。
下着嫌いなのは結構だが、一糸纏わぬ姿をまるで見せつけるかのようにして隠さない。羞恥の欠片も見当たらなかった。それに莉愛葉は辟易した。入れ墨にも、左右で大きさの違う胸(特に奇妙な形をした右の乳首)にも、見事にくびれた腰にも、陰毛のない恥部にも、ほんのり香る湿った女の匂いにも。
「あのさァ、前にどっかの店の子がキチガイに襲われそうになったの憶えてる?」試着室のカーテンを開け放つ絵里。
「……さっきのも駄目でしたか?」絵里の裸から顔を背けて訊いた。
「ちょっときつかった。脱ぎっぱなしでごめんね」
試着し終えた服を渡す。
その際、絵里は(手袋をはめている)莉愛葉の指を触った。
「あれできついなら、こっちのほうが働きやすいかもしれませんね」
かなりゆったりした服を渡したはずだが、胸のせいか……と次の服を渡す。
「あれ、莉愛葉でしょ?」いちいち指を触って受け取る。
「…なんでですか?」そんな指先を眺めながら、もう片方の手でカーテンを閉める。
「あは」カーテンの端から顔だけを覗かし、唇に舌を這わせる。「そんな気がした」
「…あの」
「何?」
「どうして触ってくるんですか?」
「早く仲良くなりたいから」
「……」
「ウチもそれなりに綺麗にはしてるつもりだし。ダサいのは自分じゃどうにもなんねぇけど」
「…あたし、レズじゃないですよ?」
「別に襲ったりはしねぇけど。でも、もう店の仲間なんだからさァ、そんな壁作られてたら悲しいじゃん。てか、背中のホック留めてくんね? それこそ、そんなどこ触ったか分かんねぇような手袋でウチの背中に触んなよ?」
潔癖。
それは莉愛葉に宿る弱さの顕れに他ならない。
口が堅いのも確認した。
(潔癖って外からは受付けないだけで、中に入っちまえば案外ちょれぇんだよな)
ならば手懐けてしまえば、これほど信頼に足る———と、まさに逸材。
絵里の人選に狂いはなかった。…
バスの車内。
スマホを尻ポケットにしまうなり莉愛葉の腰に手を回す絵里。
目を瞑り、吊革を掴む莉愛葉の腕の麓……脇に鼻を埋める。
(自分からはじゃれてくる癖に)
その日も「これ着てみて」と莉愛葉に渡された服を受け取る際には指先に触れるようにした。その都度、手袋をしているにも関わらず指を眺めていたのを思い出す。
「何?」怪訝そうな顔で莉愛葉。
「ん……好き」
「はッ。やめって」とは言うものの拒みはしない。
腋窩に立ち昇るジ●ンシーの香。
それが鼻を擽る。
更にその奥……幽かにワキガにも似た汗の匂いがあるのを嗅ぎあてた絵里。
と、瞼の裏にふと褐色の鼠径部が浮かんだ。
そして毛深くも美しい莉愛葉の———
「ぁは…」
つづく