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部屋の電気を点ける(前編)

※閲覧注意。R18作品。この物語はフィクションです。

『部屋の電気を点ける』



 SNSに精を出している。
 自分からエッセイやブログ(略してエッセロと呼んでいる)の発信はしない。他人ひとの投稿にコメントするだけ。その際は必ず前置きから書くようにしている。お陰で、これまで言いたい放題だった。

「うつ病を、克服するために、否定的な、コメントを、してしまう、ことも、ありますが、ご容赦ください。……あなたの、ブログを、読みました。フォロワーが、伸びないことを、気に、病まれて、いるようですが、その、攻撃的で、高圧的な、言葉の、数々が、フォロワーの、伸びない、最大の、要因だと、思います。しなを作れ、とは、言いませんが、もう少し、柔らかい、言葉遣いを、心掛けて、みては、いかがでしょうか?」

 けれど、本日ついにやり返された。

「すごいね自己中。要は、こっちから言い返しちゃ駄目ってことでしょ? そんなことして人を不快にさせるくらいなら、ゴミでも拾って歩けばいいのに。そのほうが健全な人間関係だって築けるし、うつ病の快癒かいゆにも繋がると思います。
 私と、違い、世の、皆様は、お優しい、ので、きっと、キチンと、構って、くれます。…て、句読点多すぎ。あなたは読みやすいつもりかも分かりませんけど、それ、読みやすさの問題じゃなくて、あなたの頭脳の問題ですから(新聞読んだことありますか?)。
 病気が句読点にどう関係しているのかは知りませんが、今後は世のため人のために頑張ってください。ちなみに、このコメントに対する返信も含め、あなたのコメントなど金輪際不要です」

 これで一気に興醒きょうざめした。
 ブロックされるだけならまだしも公開処刑されるとは。
 お前みたいな承認欲求女(多分、女に違いない)はやり返したらいけない。
「貴重なご意見ありがとうございました」とか、
「そうですよね……気を付けます」
 などと言って効いてる振りをすればいい。
 そうして〝実際は気の弱い女〟を演出する機会をわざわざこさえてやったのに! これこそ真のゴミ拾い! それすら気付けないほど馬鹿だった!

 結局、SNSなんてこんなのばかりだ。
 世も末。末代まつだい。まるで救いようがない。何が個人の尊重だ。何が多様性だ(誰にもそんなこと言われていないが)。不細工な女がいい気になって、ただ口喧くちやかましくなっただけ!

 だけど、箸にも棒にも掛からないような人間が、たとい———漢字で書くなら仮令。「かりに」という意味。「けりょう」とも読む———正論を振りかざしたところで無意味、無意味、無意味、無駄、無駄、無駄のあっかんべぇだ馬鹿野郎。そもそも持っていない・・・・・・人間が人気者になれるわけがないんだ。

 僕と違ってな!
 僕は身長185cm、体重80㎏程度でジャケットサイズは52、股下88cmで体のほぼ半分は肢、足のサイズは29cmの勝ち組だ。いいぞ。持ってる持ってる! 誰もがこの胸囲108cmの胸板の前に平伏ひれふすがいい! あれのサイズだって男優並!

 そう、大きな男はおのずと語らない。
 だからといって、僕が人気者だとは言っていないが!
 SA★SU★GA! なんて謙虚なんだ!
 それでも、お前が勝手に「どうしたらいいかな」と悩んでいたからかれと思って打開策を講じてやったのに……まさかここまで頭が悪いとは! いとあはれかな、お気の毒!

 そのうえ心の病(真っ赤な嘘だが)ですら平然と虚仮こけにする人でなし。
 だから、お前は嫌われるんだ。
 だから、お前はリアルじゃ誰にも相手にされないんだ。

 すぐに受ける馬鹿だから! 
 ちょっと意見しただけでムキになり、クドクド言い返してくるばかりか、自分が正しいと疑わない。傲慢で差別的で、まるで他人に優しくない。

 だのに、何で生きてるんだろう?
 優しくなければ、生きる価値などまるで無いのに!

 そうだ、お前は自分を褒めてくれる人間にしか(いや、社交辞令やお愛想にしか)耳を貸すことのできない臆病者! チヤホヤされれば、どうせすぐに股を開く孤独でつまらない女の癖に! 心は狭いが、あっちはガバガバ! ひだはビロビロ真っ黒け! それにもゆめゆめ気付けないとは……いとあはれかな、おいたわしや!

 だから、SNSでマスにすがるしかないんだ。
 抽象的な数字に縋るしかないんだ。
 …正直に言ってみやがれ。
 寂しいんだろ? 孤独がみて辛いんだろう?
 ただ構ってほしいだけなのに「誰かの役に立つ情報を提供したい」とか何とか言って善人ぶって……だけど本当は、人のせいにしなければ心が保てないだけ!

 実にユルマン女の考えそうなことだ。
 何がフォロワー数だ。それが一体何になる?
 それが一体どんなステータスになるっていうんだ、くだらない。

 その点、筋肉は裏切らない!
 毎日の懸垂(10回×6セット)で鍛え上げた、このぶ厚い胸の筋肉は数字と直結している! その数なんと108cm。ひええ! 我ながらとんでもない巨乳! おったまげ!
 これほど具体的な数字が他にあろうか? いや、ない(倒置法)。
 まさに脅威。いや、驚異(当然、胸囲とかけている)。
 これこそが絶対の数字。
 これこそが数字本来の在り方。
 脳筋万歳! 屁理屈をこねることしか脳が無いより筋肉が詰まっているほうが当然いいに決まってる! それが、このガバガバ馬鹿女のお陰で証明されたのだ!

 だが、まだまだ怒りは収まらない。
 それこそ求められてもいないコメントをしてるのはどっちだ!
 フォロワー数なんか気にするより、お前がゴミを拾って歩きやがれ!

 …ふざけやがって。
 ああ、腹立たしい。畜生、釣られた。
 しかも公然おおやけの場でけなされた。
 誰が見てるかも分からない場で、うんとこさ!

 いくら匿名アカウントとはいえ僕の一部が瑕物きずものにされた。自分のことしか考えられない糞雑魚ナメクジ女ごときに。や♀糞やっぱりメスは糞反吐へどが出る。
 こんな金の亡者(に違いない)にめられるとは情けない。
 こんなド底辺の下等生物にけがされるとは油断した。

 だが、もういい。
 弱き心をもって調子に乗った女の鼻っ柱をくじく……は辞めにして、これからはレザーグッズを自慢してはばからない女に「時代錯誤のお洒落」だの「命をなんだと思ってる」だのと粘着して世直しすることにしよう。

「これだけ日進月歩で合皮が進化してる現代に、生皮剥いで喜ぶなんて残酷過ぎます。人柄を疑う。お金というものは生きるために使うのであって、動物を無意味に(食べもしないのに)殺して皮を剝ぎ、それを他人に見せびらかすために使うものではありません」
 とでも言ってやる。

 あるいは…
「こんにちは!🖐️😊
 なんと👀!!とても素晴らしい一品💒👰‍♀️に脱帽💦💦
 そんな名品でしたら賞賛が尽きないと思いますよ〜!😘👍
 そんなことより、あなただからこそ! よくお似合いです!😊👌
 もっとゴージャスなファーとかを着ている姿も見たいです?ナンテ‼️😳
 想像しただけで眩しい!🙀 グラサン、グラサン…ナンテ‼️😳
 引き続き、皮革製品のレビューを楽しみにして待機します🤝🎞️📝」

 …とでも煽って破産させてやるわ。
 ふん。ご自慢の革製品を見るたびに僕の言葉を思い出せ。
 二度と素直に喜べなくしてやる。

 虎の威を借る狐どもが。他人ひと(デザイナーなど)が苦労して獲た成果を……いや、その商品や技術や企業努力でなく、そこにぶら下がっている「値段」と「名前」しか見れない癖に!
 実際はカード2回払いで無理して買った癖に!
 どうせ貧乏な癖に!
 生活に釣り合ってない癖に!
 なのに、いい気になって見せびらかすからだ。
 ざまぁ! 恥を知れ! 身の丈を知れ! 

 それに何よりお洒落とは確かな基礎の上に成り立つものだ。
 まず身長。そして筋肉! これ絶対!
 こればっかりは揺るがない(片方ずつピクピク持ち上げられるがな)。

 そう、筋肉筋肉筋肉!
 綴りはこうだ。「竹・月・力」に「人・人・鉄棒」併せて筋肉!

 おっと、うっかり忘れてた。
 僕は顔も好いんだった!
 こりゃ、たまげた!
 着飾る必要なんてないんだもんな!
 なんて恵まれてるんだろう。
 だからといって、モテるとは言っていないが(謙虚なところも素敵だと自負しておるわ。もし僕が女に生まれていたら……間違いない。当然自分を選ぶだらう。この羅生門のような胸板を! 下人の行方はたれ・・も知らない!)。 


 閑話休題。それぐらい女は嫌いだ。
 SNSは性根の腐った女の巣窟そうくつ、黙っていれば無価値の女。それが一生懸命自語りしたところで、結局誰にも相手にされないブス(ブス)か、事あるごとに「感謝」だの「生きてるだけで幸せ」だのとのたまうばかりの憐れなババアしかいない。

 ざまぁみさらせ!
 というか、たとい若くて綺麗だろうと、ただでさえセックスできない女なんかに興味はない。存在価値が無いからだ。女は穴。
 だが、金を払ってヤるだけの女なんか……それこそ僕には何で生きてるのか分からないゴミだ。虫だ。さっさと死滅すればいい。だからといって男がいいとは思わないが……ふふ。我ながら面倒臭い。

(僕にはタマちゃんだけだから、まァ仕方ないね)
 やっぱりここに着地する。
 と、そう考えた途端に催してきた。

 そうだ。僕にはタマちゃんがいる。
 タマちゃんだったら、僕にどれだけ言い返してこようとも、生肉ドレスを着ていようとも構わない。だって、二人きりで一緒にいたなら、どうせずっと裸で過ごしているだろうし(我ながらエロい体してると思うんだ僕は)、もしも要らないことを言う口だったら僕がキスして塞いであげる。
「ああ、喋らないで。でも、見て。黙ってこっち見て」
 って舌を摘まんであげる。

 そんなことを考え出したら、もう我慢できるはずもない。
 だが、丁度いい。僕はすさんだ気分(水攻めにあった清水宗治な気持ち)を変えるために一発抜くことにした。さっさと全裸になりソファにもたれ込む。本日何度目か分からない。が、タマちゃんがそうさせるんだから……いや、まさかそれを望んでいる? なら、仕方ないね。

「ああ……すごく気持ちいいよ」
 これが毎日の日課。
 ところで、部屋の電気は元よりどこも点けていない。
 真っ暗だ。カーテンも閉め切っている。
 それでも服を脱いだついで、イライラさせてくれるばかりのスマホ(FACK)を放り出して目を瞑った。深い闇は落ち着く。見たいものしか瞼の裏に描かなくて済むから。

 そうした意味でSNSは都合良かった。
 ガバガバ糞カス馬鹿ウンコ女の、どんな投稿に腹を立てても顔が分からない。だったら「整形してやる」と、骨が粉々になるまで顔面をぶん殴ってやりたいとも思わない。行き場ない怒りは、こうしてまたタマちゃんに耽ることで処理すればいいだけ。

 それから僕は手にしているモノに唾を足らして湿らせた。
「あっ。タマちゃん。それ、いやらしい」
 すると「もっと。もっと」と懇願した。
 …この馬鹿。現金すぎるぞ、お前さんは。頭の癖に頭が無いのか。まさか、ココも筋肉でできてるんじゃ……ふふ。

 まァ、コイツも半ば筋肉みたいものだろう。
 自慰も筋トレも同じようなもんだ(アイアムエビデンス)。
 お陰でどんなに嫌なことがあっても、あっという間に忘れてしまえるのだから。明確に据えたゴールに向けて一意専心、一心不乱にふけることができるのだから……
 おっと、うっかり!
 タマちゃんにかまけて油断したせいで学が覗いてしまったぁ!
 畜生、隠しきれないか! またしても先走り!
 せめて頭脳ぐらいは世間並に揃えておかないと生きづらいぞ! てへ!

 そうして自分の乳首……ではなく胸に手を押し付けておっ始めた。
 舌を突き出して、
「ああほら。もっと。タマちゃんも、もっといっぱい舌出して。うん。いっぱいチュしたら、タマちゃんの舌を両手で摘まんであげるね。でも、目は瞑らないで。こっち見て。ああそう、可愛いよ。もっと。舌出したままこっち見て」
 と、独りでブツブツ言いながら。
 辛抱堪らず、虚空をベロベロやりながら。

 これでも、初めは「そんな自分って少しヤバイかも」と思った。
 だけど、別に誰が見ている訳でもないし、誰に見せるでもないんだから、いっそのこと思う存分、好きなようにやることにした。そうして…
●自分が何に興奮するのか?
●何を一番求めているのか?
 …を思い知ったほうが、今後タマちゃんとねんごろになったときのためにも、折り合いがつけやすくて良いだろうと考えるようになった。
 だって、たったそれだけの慾望さえ受け入れてくれれば、あとのことは何でも許してあげるんだから!

「ああほら。出る出る。出すよ出すよ。見てて見てて。ヤバくなったら抜くからね、最後はその手でして。ね。その大きなお手手でしてね」

 いつも、こう。
 今はまだ僕の一人芝居。
 だから、絶頂の瞬間にはタマちゃんが脳裡のうりからいなくなる。瞼の裏から跡形もなく消し飛んでしまう。まるで陽炎かげろう! 夏の逃げ水! だって、まだ直接この目で見たことがないから!

 だから、追い求めているのかもしれない。

 目を開けなくても分かる。
 部屋の灯をつけなくても分かる。
 ソファに深くもたれた僕が(舌を突き出していたせいで)ボタボタとよだれの垂れた自分の胸……そこに押しつけている左手の甲にまで、思いの丈をぶちまけた。それだけ。

 ここには独り。僕の他には誰もいない。
 瞼の裏に浮かべたタマちゃんが、さっきまでどんな顔をしていたかも思い出せない。
 ああ、タマちゃん。どこにも行かないでほしい。
 でも、胸に触れている手の温かさだけは確かだ。
 譲らない。これだけは……この温もりだけは僕とタマちゃんのものだから。

 目を開けなくても分かる。
 僕は心底愛してる。タマちゃんを。タマちゃんだけを。
 それに信じてる。タマちゃんを憑依させたこの左手が、僕の愛を隅々すみずみ受け止めてくれるように、いつかタマちゃんが僕のすべてを受け入れてくれる、と。

 だから、まだ目は開けない。
 この夢からは醒めたくない。

 でも知っている。理想は理想、夢は夢。
 実際は無理だろう。それにもうに気付いている。
 だけど、すこぶる暗い夢であろうと、諦められないのだから仕方ない。現実に妥協したまま死んだ心で生きるより、僕は僕として闇に生きる。

 ところで、本当はタマちゃんにも糞女な一面があるかもしれない。メンヘラ野郎な一面があるかもしれない。何も知らないからこそ、こうも一方的に愛することができるのかもしれない。

 それに、この部屋の中でなら(僕の頭の中でなら)僕の好きにしたところで嫌われる心配もないし、いつだって僕の言いなりだし。
 じゃあ、僕は単純にタマちゃんを服従させたいだけかもしれない。
 …けど、そんなものだろう。
 愛の正体なんて砂金そのもの。
 慾の泥をさらわなければ見つからない。

 というか、世でうたわれる「愛」のくだらなさよ!
 愛とは同調シンパシーだ。
 だから、セックスの相性が重要なのだ。昔のお見合いは、顔を合わせた後すぐにホテルへ行って体の相性を確かめたんだぞ(聞いた話)。

 けれど、SNSに生息している馬鹿女———頭が悪くて自己中でブス、短所ばかりで長所は皆無、感度もシマリも鳴き声も良くない、口だけ達者、そうして自分の権利ばかりを主張してやかましい女(早く死ねばいい)は、どれもが甘受寛容エンパシーを愛だと勘違いしてる。

 誰が、そんな女を大事にしたがるんだ!
 気付け! お前にそんな魅力がないから誰もお前を大事にしない!
 お前にそんな価値など無いんだ。

 ……そこまで貶すと流石さすがに気が済んだ。
 次に僕は胸に当てていた左手を、タマちゃんのものだと思ってこう言った。目を開けずに。
「すっごく良かったよ……ね、体についたやつ、全部手ですくって」

 タマちゃんの指が僕を這う。
 ああ、僕の欲望の形は木に似てる。
 水彩で描くも、生まれ伸びては拭き取られ、死を待つだけの真っ白な樹。
 要は、まるで意味などない。
 …それに気付くと、ちょっぴり哀しくなるけれど。

(どんなに愛があっても、タマちゃんは僕の子を妊娠できない。僕もそんなこと求めてないし。しばらくは互いの身体に溺れるだけで満足できるかもしれない。だけど、タマちゃんが歳をとったら? 体の関係しかないのにセックスすらできなくなったら関係はどうなる?)

 そう考えると心底哀しくなった。
 どうあれ「子はかすがい」だろう。タマちゃんと今後、永遠をつむいでいくのなら、あるいは子という小道具だって必要になる日が来るかもしれない。
 つまりは僕たち二人に未来がない。
 僕が「ヤるだけ」の関係を忌避きひしているのは、そういうことだ。死ぬまで、お互いの体を繋ぎとめておきたいのだ。

 それを、行き場なく飛び散った精液が予見していった。
 知りたくない……と、僕はその辺に用意しておいた雑巾で体を拭った。

 それから唾液で白く泡立っているはずの右手の掌や、指と指の間を丁寧に拭って立ち上がった。いつになっても、この瞬間ばかりが億劫だ。意外と下半身に力が入っているせいだろう、大体少しかかとと膝が痛む。老いの兆しかも分からない(肉体の苦痛にかまけて現実逃避)。

 ところで、僕はまだ目を開けない。
 これが普通かどうかなんて最早どうでもいい。
 虚しい。せめて、夢中になって幸せを貪っていたときの余韻から醒めたくないから、終わった後でも部屋の電気は点けない(現実に絶望しなくていいように)。

 そうして慎重に歩を進め、風呂に入って洗い流す。
 まァ、目を開けたところで、どうせ真っ暗だから何も見えないんだけど。浴室の電気を最後にいつ点けたのか……それさえ憶えていない。

 さて、タイル張りの浴槽よくそう
 タイル張りにする理由は水はけの好さから……だと思う。知らんけど。
 しかし、必ず排水溝に流れきらない水があるのか、常時じょうじ換気扇かんきせんを回していようと浴槽の角はいつでも少しうらみがましくかびっぽい。そんな様子がありありと脳裏に浮かんだ。

 ゲンナリする。
 目を瞑っていても分かる。
 水垢みずあかなのかなんなのか……タイルの皮膚病かも分からない黒の斑点はんてんも、年季ねんきと一緒にヒビが入って湿ったままの目地も、僕はなんにも見たくない(現実の辛さを別の代物にスライドさせる)。

 だって、いくらタワシでこすったところで落ちやしないから。
 そんなのはたから見れば汚いだけだ。
 だけど、どうにも綺麗にならない。
 この部屋を借りたときからそうだった。
 だから、掃除をしている努力だけは、せめてタマちゃんにんで欲しいとつくづく願う(色々と考えることが面倒になった)。

 とりあえず、ぬるぬるした雑巾を丁寧にすすいだ。
 それから雑巾の匂いを嗅ぐのも忘れない。
 僕はまだ目を開けないし……というか、もうしばらくは開ける気もないから見えないし、それに何より目を開けたところでどうせ真っ暗。

 ところで、どんなにゴシゴシ濯いでも、何だか妙な匂いが残る。
 あんまり裕福じゃない家で飼われてる薄汚れた小型犬のような、あるいは、それこそ松茸まつたけやシイタケのようなキノコ臭が残って取れやしない。あるいは、幽かにぼっとん便所。あの腐ったナスのような汚物の匂いに近いかもしれない。

 それが決して嫌じゃないのは多分僕だけなんだろうけど、でも、この雑巾を煮込めばいい出汁だしが取れると思う。ああ、それこそまさに、汚水とかけてお吸い物。振舞ってやりたいもんだ。きっと、毎日SNSの更新しているような糞女は何も気付かず「美味しい」なんて啜るだろう。

 と、僕は独りで笑った。
 気分一新、そこでようやく風呂から上がった。
 風呂といっても、昨日の夕方寝る前に頭を洗って歯を磨いているから、目を醒ますために(とはいえ瞑っているけど)シャワーを浴びるのみ。

 それと「お前抜いてきただろ?」とか言われないように。
 自分の匂いは自分で分からないし、こんな〝暗黒剣の使い手〟だから、どこに何がくっついているのか分からないし。まァ、目を開けて部屋の電気を点ければいいだけなんだけど……てか、ふふ。暗黒剣って。

 それにしても、指についた唾液の匂いは洗ったところでなかなか落ちやしない。爪の間から匂うのか。指の皺に入り込むから匂うのか。まァ、手なんかが少しつばくさかったところで誰にも分からないし、別にどうでもいいんだけど。
 いや、嘘だ。
 いつでも指の匂いを気にしてれば「女ができたのか?」とか「お盛んだな」って勘違いする人がいるかもしれない。一応はイケメンマッチョとかAV男優みたいと言われるから、それを誉め言葉として受け取るのも満更でない。
 それに……本心では結構癖になる匂いだから、それを嗅ぐのもやぶさかでない。というより、タマちゃんと同じ匂いというか、共同作業で獲たものだから心地いい。これぞ崇高なシンパシー。


 さて、ようやく僕は目を開けた。
 憎たらしいスマホを手に取る。
 よし。ただいま3時36分。
 40分にはアラームが鳴るけど、今日もキチンと出勤前に済ませることができた。ところで、この時刻が早朝なのか真夜中なのか……未だにどっちか分からない。それと、石鹸を泡立ててゴシゴシ洗ったはずなのに顎髭あごひげから少し加齢臭がする理由も。そこから幽かに唾液の匂いがするのはご愛嬌。

  と、3時45分までに家を出るため、玄関にある長ズボンを穿いた。
 まァ、僕はイケメンマッチョなうえにお洒落さんだから、外ではパンツって言うんだけどね。
 で、家の電気はどこもかしこも点けていないままだけど、それでも、どこに何があるかはすべて把握しているし、闇に慣れれば別に大したことじゃないし、そんな独り遊びも日々を楽しむためのライフハックと思えれば幸せだろう。高くなった電気代の節約にもなるし。

 で、匂いが気になるから毎回ズボンを洗濯したいけど……でも風呂上がりにしか履かないし、それも新聞配達の1時間半程度のみ着用する長ズボンは、この……古着屋で買ったブランド物のジョガーパンツ(裾にゴムを入れて絞ってあるパンツのこと)しか持ってないから乾かなかったら嫌だし。それこそ生乾きの匂いは大嫌いだ。

 だから、もう10月になるというのに、まだまだ暑くて尻や膝の裏に汗をかくけど洗えなくても仕方ない。それよりも(きちんと石鹸で洗ったはずなのに)蒸れた陰毛から立ち昇る唾液の匂いが、ズボンに移るんじゃないか…って、そのほうが気になる。
 でもまぁ、タマちゃんと〝そういうことをしてきた〟証みたいなものだから、それもそれで個人的にはやぶさかでない。

 ところで、このズボン。
 膝までたくし上げて穿くから、あんまり長ズボンの意味はない。
 ホントはそんなダサいことしたくないんだけど。
 でも、昔からそう。派遣で力仕事をしていたときは屈むたんびに、服がいちいち膝に引っ掛かるのがどうも苦手で……それが続くとイライラしてきて他人に優しくする余裕がなくなるし、お陰で先輩をぶちのめしたこともあって。
 それは向こうの自業自得だから因果応報どうでもいいし(膝なんかいいから仕事を気にしろって突っかかって来た)、僕も逮捕されて殴った分の罪はキッチリ償っているから(歯を何本も砕いた後、その隙間から舌を引っこ抜こうとした罪はどうなったか知らない)、もう恨みっこなしなんだけれど……あんまり膝が突っ張ると、すぐに腰が痛くなる。

(タマちゃんのための足腰なのに、もう、つまらないことで傷めちゃ駄目だよね)

  だから本当はショーツ(ハーフパンツのこと)がいいけど、配達用のカブで転んで怪我でもしたら……会社の人に後々あとあと何を言われるか分からない。ただでさえサンダルやショーツでバイクに乗ってる人はいないし、そこは黙ってならっていたほうが身のためだろう。揉めてぶちのめすのはいつでもできるし、そろそろ僕もいい歳だし、何よりタマちゃんを悲しませたくないから。

 というか、一応は長ズボンを穿いてるから文句は言われないはず。
 転んだとしても自己責任だから、ほっとくしかないはず。
 だって「服装は自由」って聞いてるし。
 でも、怪我をするのが怖いから僕は全くスピードを出さない。配達から帰ってくる時間が人より少し遅いだけでお客さんからのクレームは出てないし……そんなことより、転んで怪我して会社の人に迷惑をかけることの方が嫌だから。いや、それこそ膝なんか傷めてみろ。タマちゃんと、チョメチョメできなくなるのが一番嫌だ。

  3:45を1分過ぎた。
 玄関に用意しておいたTシャツを着て、帽子をかぶって、その上にヘルメットを被って、両方の親指に指サックをはめて……部屋を出る。
 帽子をかぶるのは僕が汗かきだから。
 新聞の間にチラシを組んでいるときに、額から汗が垂れて、新聞を濡らしたら「またかよ」と怒られる。
 あの呆れたような、見下したような顔には……事業所責任者といえど殺意を抱く。そんなこと言われても、勝手に出てくるものは仕方ないだろとブチギレそうになるけど、これ以上なりふり構わず大暴れして社会に居場所がなくなるのもいい加減生きづらいし。それはいつでもできるし。

 てか、そのままヘルメットを被れば蒸れて親父臭くなる(加齢臭)のが嫌だし、まだ禿げるのも嫌だし、それに何より……僕の頭は鉢が張っているから「フリーサイズ ~58cm」とあるのにきつい。
 おかしい。57cmの帽子でも被れるはずなのに。
 だから、ヘルメットを後前うしろまえにして被るんだけど、それでも長時間はきつい。頭痛がしてきてイライラする。誰でもいいから怒り任せにぶん殴りたくなる。

 それを緩和するために帽子をかぶって浮かせてる。
 だから、転んだらヘルメットの用は成さない。そのせいもあって誰よりも転ばないよう注意している。頭を打って馬鹿になったら……それこそ恐い。それに怪我でもして「ほれ見たことか」みたいな目でもされたら、多分絶対誰であろうと許しはしないと思うから。

 さて。
 僕の住まいの外れにある駐輪場には、僕の顔を見るたびに「俺の場所にバイク停めんな」って因縁をつけてくる、どこかの部屋に独りで住んでるヤバいオヤジの自転車がある。何だかやたらと蛍光テープを貼ったり、鍵を何重にもかけたり……と、少し頭のおかしなオヤジの自転車。どうしたら、そんな人間ができ上るのか分からない。

 でも、このアパートに住む人みんなの駐輪場なのに、会社から預かってるカブを勝手に最奥へ移動したり、あるいは……今朝か今夜か分からないけど今日みたいに「迷惑だ」とマジックで書いた紙をシートにガムテープで貼りつけてきた上、思いっきりぶっ倒されていたりする。

 まァ、こんな雑魚の息の根はいつであろうと片手で止められるから、そんなことはどうでもいいんだけど、やっぱり今朝なのか今夜なのか……正しい表現が気になる。

 でも、ここには監視カメラが無いから誰がやったか分からない。
 いや、分かっているけど証拠がない。
 それに何より……関わりたくない。どう見たって僕より弱そうなのに、なんでそんな身の程知らずなことができるのか謎だ。いい歳こいて、いい気になって絡んでくるから殺したくなる。
(なんでこんなことできるんですか?)
 って尋ねてみたいけど、でもきっと話にならないとい思う。
 さっさと撲殺してあげたほうが、きっと後生だと思うけど……それもそれで面白くないし、住む場所だって働いていないと貸してくれない所が多いから、せめて引っ越し先が見つかってから殺してやろうと……そう考えて今日まで経つ。

 とりあえず、爪の間に青くなった釘を打ち込んでやる。
 これは銅が酸化することによって生じるさび緑青ろくしょうと違って、人工顔料が劣化してできた砒素ひそ由来の強い毒だから、体内に入ればすぐに吐き気を催す。眩暈がしてきて……まともに立ってすらいられなくなる。

(そこからどうするかなァ……なんか、うまいこと自殺に見せかけたいんだけど)

 でも、それで捕まる人生なんて嫌だ。
 この人生はタマちゃんに捧げると決めている。
 だから、僕はバイクを起こしながら気分を変えようと小さな声で好きな歌を口ずさむ。

 大好きなバンドの歌。
【たまゆら】っていう……V系になるのかな。
 中性的な顔をした男性ボーカルというか、もうほぼオン眉ロブの女子みたいな顔をしたボーカルのタマちゃんを僕は心底愛してる。

 こうして歌を口ずさみ、タマちゃんを大事に想うたび、僕は指の匂いを嗅ぎたくなる。
 いや、既に嗅いでいた。
 歌を口ずさみながら、くんかくんか。すーはーすーはー。
(ああ、さっきしたばっかなのに……タマちゃん、またしたいの? うん。僕も)
 そうして我慢に我慢を重ね、ストレスを貯め込んでまで大人しくしているのも、毎日の「タマちゃニー」のため。このストレスの全部が全部を、瞼の裏のタマちゃんに勢いよくぶちまけてやるため。

 そう、僕は我慢するほど幸せになれる。

つづく

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以下、未使用文

● そんな雑魚が「誰かの役に立つ投稿をしたい」だなんて、おこがましい!

 よろしい、最後に一つだけ教えてしんぜよう。
 現代のSNSでは誰もがおっかなびっくりなのである。
 そこでは素性も知らない人間の存在……これすなわち虚像。これ即ち「実際にはありもしない大衆・・という幻」に誰もがとらわれている。しかし誰もが、その幻に怯え———おっと、馬鹿でも分かるように言ってやらなくちゃ。

 要するにだ。
 今後何があろうともお前なんかに、ほんの僅かな興味すら抱くことのない連中に対して、必死に認めてもらおうと騒いでいるだけだ。でも、やり方が分からない。だから、まずは嫌われないようにビクビクするのだ。まるで雲を掴むようなものだと知らずに……って何が言いたいんだけ。

 とりあえず、徒労だ!
 THE・大衆の一人の分際で「大衆」なんて言葉を使うな(多分、よく使っているはず。間違いない)。そんな勘違い女如きが何を必死に語り掛けようと無駄、無駄、無駄。誰もお前なんか気に掛けない! お前の言葉なんか誰の心にも響かない!

 そんな具合に自意識過剰で自分のことしか興味のない……から、誰にも相手にされない、どうしようもない負け組ばかりがSNSという場所に群がる。叶いもしない夢を追ってな! そこで亡者になるだけだとも知らずに!

 さて、そんな場所に蔓延っている言葉なんて全部上っ面!
 綺麗事ばかり! 中身など皆無!
「日々感謝」だの「生きてるだけで偉い」だの……ああ、気持ち悪い!
 だが、まさか、そんな心ない言葉のほうが居心地良いとは、なんて虚しい人間なんだ! それでもSNSでマスに縋るしか能がないとはプークスクス(嘲笑)。所謂いわゆる「終わってる」というやつ!

 でも、お前が追い求めている「フォロワー」の正体は……お前と同じ頭空っぽのクズどもだがな!
 フォロワー数なんて実際の生活には何の関係もない。何の影響もない。何の足しにもならない。バズったところで何の意味もない。実際活は何一つ変わらない。いつまでも孤独、孤独、孤独。ああ、なんてつまらない人生!