5.18 otogroove 遊記
*こんにちは、凡文(FFFanwen)です。
この文章は私がくどい個人的な見解を述べただけであり、多くの厳しい日本語表現、柔らかくない視点、または誤った基礎知識が含まれているかもしれません。不十分な点があればご容赦ください。*
序言:
五月の終わりの雨はそれほど強くはないが、窓ガラスを厚い水蒸気の層で覆っている。これは温度の作品であり、今が季節の変わり目で、仲夏の到来を知らせている。
人間として私も季節と共に休息し、自己を切り替え、五月の出来事を五月に留めるべきだ。例えば、日常の細々とした事柄や家賃、水道光熱費を一緒に清算することには一種の爽快感がある。精神的にも同様で、今月の出来事を頭の中で振り返るのが好きだが、何度も繰り返しても満足する結果にはならない。そうして、5月18日の『otogroove』のことをようやく思い出した。今月体験したが忘れていたこのイベントだ。
確かに、半月が過ぎた今、そのイベントについても五月の水蒸気越しに窓の外を見るようにぼんやりとしか覚えていない。ただ、その輪郭だけは思い出すことができる。どれだけ忘れてしまっても、このイベントが私に多大な影響を与えたことは確かだ。そうでなければ、このイベントが終わってから一週間も心ここにあらずで、夢中になって茶飯も考えず、時間を無駄に過ごした理由が説明できない。そうして一週間を無駄に過ごしてしまった。私の思考を現実に引き戻したのは、悟った後の心の広がりではなく、締め切りに追われた学業だった。ああ、私はまだ大学院生だったのか。なぜ私は大学院生なのだろう。
そうして課題を片付け、さらに一週間が過ぎ、ようやく今の自分に戻った。机の前に座り、窓の外の水蒸気は依然として変わらない。そして、イベントの記憶が水蒸気越しの風景のように私の心を刺し続け、今もなお終わることがない。このぼんやりとした感じが嫌なので、文字にして何かを書き始めるべきだと思う。いくらかの水蒸気を拭い去り、少なくともこれらの強烈でありながらも曖昧な記憶を呼び覚まし、それらを整理して封じ込めてしまおう。そうすれば、もうこれらの記憶に悩まされることもないだろう。
本文:
一番はじめに、この文章の適切な文体を確立しようと考えていたが、記憶を探るうちにそれを放棄してしまった。当初は「総括」と名付けようと思ったが、中に価値のある分析を入れることができるとは感じなかった。また、「感想」と呼ぶことも考えたが、文章の中には必ずしも私の一人称の見解ばかりが含まれているわけではない。おそらく「遊記」と定めるのが最も適切であろう。「遊びの記録」として定義することで、かなり気が楽になった。遊びである以上、最も重要なのは未知の事物に対する好奇心だ。私にとって、今回の活動には確かに多くの未知があった。未知の場所、未知の形式、未知の作品、既知の作者。しかし、私はわずかな探索能力でニコニコ動画で活躍するいくつかの作者を知るに過ぎなかった。オフラインでの出会いの場面になると、この既知はますます非現実感を深め、逆に未知の感覚を強めてしまった。遊びには軽い好奇心が必要だが、今回はむしろ慎重さと窮屈さでいっぱいだった。ほとんどの時間、何を話すべきか、誰に話しかけるべきか分からず、話す機会があっても、日本語の文法が頭の中で混乱し、簡単な挨拶語しか返すことができなかった。今思えば、最も後悔しているのは、会場に向かう途中で猫背さんと話す機会があったことだ。その時、「猫背さんのピンポン素材の作品は私に大きな影響を与え、『閃蝶』という作品を制作する大きな動機となりました。特に2018年の音MDMの合作作品『部活動活動記録』は私にとって、日本語のセリフ合わせに挑戦するきっかけとなりました」とはっきり伝えるべきだった。
しかし、その時はそのレベルのことは全く考えず、結局言いそびれてしまった。こうしたことが何度も繰り返され、大部分の人と話す機会を逃し、純粋な観客として過ごすことを余儀なくされた。
でもそれは悪いことではない、私は元々観客としてここに来たのだということを思い出した。私の目的は、このようなライブ環境で音MADがどのように感じられるのかを見てみることだったのだ。
これまでに、Nerdtronics2などの関連イベントについて少しは知る機会があり、遅れてイベント終了後に出された単品をいくつか見たことがある。しかし、遠く離れた距離の動画サイトで見る結果と、現場で放送された生の内容が示す質感は異なると確信している。ただ、その差がどれほど大きいのかを理解する自信はなかったので、今回の機会を利用してそれを探ることにした。
そして、直接的な体験の結果から言えば、確かに全く異なり、私が想像していた以上の大きな差異があった。簡単に例えるなら、私は過去に動画サイトにアップロードされた音MAD作品を視聴する方法は、ほとんど「読書」に近いと言える。特定な環境ではなく、自分の網膜の一部をディスプレイのプレイヤーに割り当て、ヘッドフォンの音量を適切に調整し、視聴しながら作品の細部やコメントをスキャンして分析する。気になるシーンがあれば、いつでもプログレスバーを調整して反復して味わうことができる。こうした視聴方法は観客に自主性を提供すると同時に、作品と観客の間に一定の安全距離をもたらす。観客は客体を観察するような権利を持ち、作品の各所に出入りし、気に入らなければすぐに抜け出すことができる。私はこのような観る方法に慣れており、それが他のメディアにまで蔓延し、映画でさえもそうである。よく考えてみると、私は長い間映画館に行っていない。その代わりに、オンラインで映画を観るためにサイトの会員を利用することが多い。これにより視聴の楽しみが減少するが、私は情報をよりよくコントロールできる。
一方、otogrooveの現場は全く対照的だった。現場に通じる階段を降りると、それほど広くない真っ暗な空間はすぐに人でいっぱいになった。前方の対称的なスクリーンを除いて、両側の壁にも映像が投影されていた。これらの映像は人々の動きでほとんどすぐに隠れてしまうが、それでも現場に良い雰囲気をもたらしていた。むしろ、正面の映像を含めて、人々に明確に見せるために設置されているわけではない。この包まれたような雰囲気が重要であり、今再生されている内容の質感を朦朧とした状態で知ることができる。この点は音声面でより顕著に表れている。
ライブの機器は低周波の音をほぼ誇張するほど増幅し、音声のサイド部も非常に明確に引き伸ばしていた。しかし、その代償として、音声の元々の細部をほとんど聞き取ることができず、主な要素や曖昧なリズムだけを感じ取ることができる。このような曖昧な環境では、観客は自分で映像をコントロールする権利を行使することができず、他の観客と同じ公共の時間をほぼ完全に共有することになる。これは落ち着いて「読む」ことが難しく、冷静な安全距離を取ることもできない。まるで誰かに手を引かれて、この危険な状況に投げ込まれるようなものだ。しかし、これが抵抗感を生むわけではなく、むしろ危険に直面して私はかすかな興奮と新鮮さを感じていた。
さらに、新鮮なのは私の体験だけでなく、作品の面貌もそうだった。今回のイベントでは新作の初公開もあったが、古い作品も新しい環境で歪んでディストーションされ、新しい体験を生み出していた。しかし、新古問わず、大部分の作品には現場に適した共通の気質があると感じた。これは私が長い時間で抱いていた疑問に答えるものでもあった。それは、確かに一部の作品はこうした現場のために生まれたものであり、オンラインサイトで観るといつも何かが不足しているように感じるということだ。もし私が説明するならば、現場の作品は全体性と変化の豊かさに重きを置いていると言えるだろう。
想像してみてください。このような情報が瞬時に消え去る環境では、観客が作品の細部を把握することは不可能だろう。そのため、観客に全体的な印象を残す効果が当然ながら有用となる。そして、それが作品に具体的に現れると、精密な機械のように構築された作品は大規模に普及しにくくなる。細部を削減し、一つの画面が主導権を握り、そこに一層か二層の全体的な効果(全画面の文字、色調の全体的な変化をする調整レイヤー、規則的なモーション背景、他作品の既存のPVなど)を重ねて、二、三層の画面で簡易な階層感を作り出す作品がほとんどより好まれる。あるいは、新しい効果を作るよりも、既存の効果の組み合わせが多く用いられる。しかし、ある意味で、音MADは「素材の芸術」であり、このような手法がより正確だと言えるかもしれない。
一方で、単一画面の簡潔さを追求する反面で、時間の変化において大胆な展開を見せる作品も多い。何といってもこのような環境では、突発的な展開によって生まれる面白さを感じるのは、やはり楽しいだ。低速合作のように濃厚な雰囲気を作り出すために意図的にデザインされたものを除き、同じ感じのシーンに長く留まると期待感が過度に引き延ばされて気まずくなってしまう。一定の時間で異なる質感を表現する画面に変わり、異なる変化を見せる方がより面白いかもしれない。このように、単一画面の簡潔さが引き起こす情報量の不足は、時間の変化の豊かさで補われる。
この質感を極端に推し進めると、既存の音MADビデオをコラージュし、組み合わせの変化で面白さを追求する音MAD-MIXが、まさにこの創作理念の最も極端な表れだ。音楽のMIXよりも映像の面白さが一層加わり、音MADのもう一つの可能性を提供している。これは、多くの作者が早くから理解していた理論だが、私が気づいたのは最近のことだ。そして、この理論に気づいたとき、自分の作品がテーマとずれていることにすぐに気づき、後悔した。制作の簡易さが最大の欠点ではなく、この理念との偏りが致命的な原因となり、この作品が「読む」必要のある作品になってしまった。制作中、私はほとんど考えることなく、セリフ合わせの方法を本能的に使用した。そして、その上に完全に叙述の方式で作品を主導し、リズム感が減少し、情報量が増加した。また、作品全体を通して一貫した叙述の質感を保ち、面白い変化をほとんど制作しなかった。今考えると、この作品の感情はあまりにも冷静ではなかっただろうか?観客が作品を感じながら、私の作品のあまり面白くない細部の情報を読み取るために努力する必要があるのは、本当に申し訳ないことだった。総じて、これは重要な教訓となり、次に活かせる!(烈死亡)
また、私が純粋な観客であると言うのはやや自己誇張だ。当時、私は観客であるだけでなく、連絡員の役割も果たしていたかもしれない。ライブの当日の朝、Snaurさんが日本でこのような活動があることをbilibiliで告知するよう提案してくれた。彼の提案のおかげで、私が参加していた音MAD鯖では、その日の午後にこの活動についての議論が活発に行われた。そのため、彼らのメッセージを無視できず、現場の作品を鑑賞しながら、絶えずメッセージを打ち返し、現場の状況に応じて反応していた。それ以外、彼らの冗談に返信することもあった。例えば、「現場で中国語で叫べ」ようにでたらめな要求など。当然、冗談ので私断った。その他にも、サバの皆さんは喜びと驚きを感じることが多いと思う。たとえば、イベントの間に流れる作品の中には、Bilibiliからのものも多く含まれている。ほとんどのbilibiliの作品が流れるたびに、私たちは作者本人をメンションして知らせる。もし間違っていなければ、その中には『はる校』の作者V4refT5fと『関数』の作者badgunも含まれていた。ただし、彼らは現在高三で、受験勉強中であったため、その気持ちが当時で伝わったかどうかも不明だ。『関数』の作者もおそらく関数の知識を復習していたのだろう。(笑)
さらに、各音MAD-mixも大きな反響を呼んだ。その中で最も意外で期待されたのはFrog96の作品だっただろう。bilibiliの皆が知るFrog96は主に曲作者の身分である。彼が音MADと深く関わっていることを知っていても、音MADの活動に直接作品を持ち込むとは予想外だった。しかし、私個人として最も印象に残ったのは芋タルトさんの音MAD-mixだった。『音MAD』は私が音MDM天の中で最も惜しいと感じる作品であった。この音MAD-mixはまるで『音MAD』の情熱的な続編を書き、素晴らしいエンディングをつけるようだった。特に最後のPicnic日野茜。原作と比較すると、この音MAD- mixには新しい内容が追加され、驚きと誠意に満ちていた。
今回の目玉である三つの新作合作は、低速、高速、中速の順に放送され、蓄積え、爆発、収束の感じがあった。低速合作は国内のラップ調愛好者に好まれたようだ。特に印象に残ったのはszrndiさんの作品で、撮影された画面が非常にきれいだった。また、最後にkarashiさんが制作した『steins;gate0』の作品も印象的だ。これは私が高三の時期に毎週ずっと見続けていたアニメで、その退屈な時期を彩る貴重なリラックスの記憶となっている。この年齢で再び見ると、真由理が歌う星の奏でる歌のシーンに感動し、その時期を思い出した。特に最後に背景音楽を消してから再び音楽が戻る処理は、私の感動の臨界点に達し、深く心に触れた。(当時、私は大学入学試験の勉強をしながら、アニメ版『steins;gate0』が多くのストーリーラインをどうやってまとめるのか心配していたのを覚えている。)
次の高速合作は60分以上の長さで、見る前から圧倒された。見終わった後は、完全に消化不良の状態で言葉が出なかった。印象に残ったのは中間の奇妙な淫夢の段落と、隣のmograスタッフの複雑な視線だった。そして、最後のこの宣言も心に残った。
これにより、音MADに本当の主体性が注入されたように感じた。多くの文化領域の繁栄は、関係者が自分たちが何をしているのかを急に理解することから始まる。この自発的な自己認識が未来の方向を指し示すのだろう。それを考えると、鳥肌が立たずにはいられない。次の中速合作のタイトルがこの豪気を受け継いでいるようだ。しかしその前に、この合作をまとめ上げ、『全殺全救宣言』を発表し、ほとんどの投稿を高速合作に加入されたban長さんに敬意を表さなければならない。
『mainstream』、それは一貫してサブカルチャーを自称してきた音MADにとって、まさに革新的なスローガンだ。イベントの最後の大トリだったせいか、私もサバの皆もこの合作に対して一番強い反応を示し、深く印象に残った。その中で、『超正当派』の作品が大きく貢献していたと思う。合作放送前からずっと疑問に思っていた。参加者が十数人で、それぞれの有効な内容が最大でも2分なら、45分の長さには到底届かないだろうと。怪しい静けさ、そのなかに必ず怒濤が潜んでいるが、まさかその怒濤が最後の15分の超長編作品とは思わなかった。しかも、その前の各段の単品もほぼこの大スクリーンで見せられる最高の状態だった。特に代表的なのは、一時さんの作品だった。シンプルでありながら、斜めの画面と対称的なスクリーンの組み合わせが独特な趣を醸し出していた。そして、この対称スクリーンを利用して東京駅全景を作り出す技法,実に見事で感心した。
とはいえ、このエンディングが完璧だったとは言い切れない。オンラインの観客には実感がなかったかもしれないが、実はMOGRAの会場では、最後の『超正当派』の段落『再演:メインストリーム』の放送中に音声が途切れる突発事故があった。その瞬間、たぶん全員が意図的な演出だと思ったに違いない。しかし、しばらく待っても復旧しないと分かると、皆が応援し始め、「頑張れ」と大声で叫んだ。雰囲気は沈むどころか、ますます熱気を帯び、災難ではなく特別な思い出となった。「欠陥は特色になり得る」、これは私が最近の創作活動で感じた小さな信条だ。完璧すぎる思い出は逆に脳裏からすり抜けやすい。人生には、完璧ではない小さな事故が必要だ。名作『紅楼夢』が結末を失ったことで神秘的に見え、多くの研究者を魅了しているように、私もこの第一会場で聞けなかった部分のおかげで、オンラインで全編の合作を再び楽しむことができた。
さて、今回のイベントの記憶をほぼ整理し終え、これ以上言うこともない。でも最後に、私自身が最も感動した点を話したい。
『再演:メインストリーム』の最後では、中速合作に参加した全員の使用曲がミックスされていた。それだけでなく、落選した作品の使用曲も一緒に取り入れられていたようだ。
これは本当に思いがけない心遣いだ。落選した作者も含め、前の段落の作者たちが自分の作品が最後の段落で取り上げられるのを見たら、きっとプレゼントをもらったような喜びを感じるだろう。少なくとも中途半端な参加者だった私も、自分の作品が取り上げられた時にはそう感じた。
私がこの作品を作った理由の一つは、ダミアン・チャゼル監督の映画『バビロン』が好きだからだ。この映画の評価は賛否両論かもしれないが、その濃厚な質感と爽快な雰囲気が好きだ。それで、この映画のOSTの一曲を使って作品を完成させた。映画好きの友人が多くないため、好きな映画を他の人に勧めるのは難しい。だから、この映画は私の個人的な好みにとどまっていた。この作品を作る機会に少しだけその興味を表現できた。だから、この映画の映像が遠路はるばるotogrooveの会場に登場した時の驚きは想像に難くない。
平面グラフィックの後ろで重ねられたのは、『バビロン』のエンディングでのモンタージュ断片だった。『動く馬』『ラ・シオタ駅への列車の到着』『月世界旅行』『イントレランス』などの作品が次々と流れ、映画というメディアの百年にわたる発展史を表していた。ダミアン監督がこのシーンをエンディングに使い、映画への愛情を直率に表現しており、その感情はほとんど荒々しいと感じられるほどに直接的だった。このシーンも映画の表現の中で最も重要な部分となっている。そのため、このシーンが合作に取り入れられた時、『超正当派』のお二人がこの映画を理解していることが感じられた。創作者として、自分の個人的な趣味がこんな思いがけない場所で理解され尊重されたことに心から感謝している。
『バビロン』の主人公マニーは、このシーンを見た後、涙ぐみながら黙っていた。私も会場で同じような気持ちになった。映画がメディアとして、野蛮時代から今までどれほどの発展を遂げてきたか。そして、今私が見ている音MADも同じような発展を遂げているのかもしれない。今日の音MADがここまで来るのに、どれほどの過程を経たのか想像もつかない。しかし、今日の音MADにとって、『メインストリーム』という言葉ももはや実感できる目標だったかもしれない。
少し自惚れたかな?かもしれない。それはどうでもいい。私は突然この活動の最後のことを思い出した。私は会場の一番後ろ、バーカウンターの近くに立っていた。皆がスクリーンを見てリズムに合わせて合作に夢中になっていた時、私はバーカウンターのスタッフさんもその雰囲気に感染され、笑顔で歓声を上げていたことを見た。このスタッフさんが音MADについてどれだけ知っているのかは分からないが、少なくともその場面では、音MADが他の人々に強い影響を与えていることが感じられた。
最後の『ウルトラトレーラー』のメロディーに続いて、nerdtronics3の発表が出て、会場の雰囲気は最高潮に達した。これは本当に「超予告」と呼べるものである。ライトがついて、会場を出てホテルに戻るまで、思考を整理することができなかった。
ただ一つ、このような評価を残すことしかできなかった。
結語:
以上が私の小さな記録だ。散漫で断片的な内容もあるが、ご容赦いただきたい。このイベントを消化するのにしばらく時間がかかるだろうし、将来思い出した時にはまた味わうだろう。しかし、今この瞬間、この文章を表現できたことに満足している。とにかく、また次回会おう。
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